待ちぼうけ
湯村の家庭は両親が共働きで、手間がかかる動物は飼わない主義だった。湯村は犬が好きで、散歩中や近所の庭で見かけるたび、いつか飼える日を夢みた。
早朝のコンビニで、小分けパックのキャットフードを(はじめて)手に取った湯村は、コロッケパンとフルーツ牛乳、それからミントキャンディをカゴにいれると、レジで精算した。自転車に乗ってバス停へ到着すると、待合室のベンチを寝床にしている黒い毛の猫に、「おいで」と声をかけた。
「毒なんてはいってないよ」
食欲がないのか、鼻さきへ小粒のフードをちらつかせても、ぴくりとも動かない。猫にとって湯村は、知らない人間というわけでもない。その猫は、大学へ向かう朝のバス停で、かならずベンチで丸くなっている。
「ほら、食べないのか?」
せっかく買ってきたが、無理やり食べさせるのも気が引ける。どうあっても動きたくないらしい猫は、湯村の存在など知らん顔だ。しかたなく、パッケージをあけた分のキャットフードはベンチの下にまとめ、時刻表どおりに運行するスクールバスへ乗りこんだ。ガラ空きの席にすわる。
次は◯◯大学総合体育館まえ~
次は◯◯大学総合体育館まえ~
プシューッ、ガタンッ
ピロリンッ、ブロローッ
バスをおりた湯村はトートバッグの内ポケットへ定期カードをしまうと、警備員室の建物を通過して、正面玄関へと向かう。スニーカーの紐がゆるんでいたので、立ちどまってしゃがみこんだ。木立ちの葉むらが、ざわざわと風にゆれる音が聞こえる。アスファルトのうえに置いたコンビニのレジ袋も、ざわざわと、似たような音をたてた。
「フルーツ牛乳が好きなのか」
突然の声は、背後ではなく真横から聞こえた。湯村はしゃがんだまま顔を向けると、筒型ホルダーの図面ケースを肩がけにして、木の幹に寄りかかる男がいた。建築科の鷹尾である。直感で脳が判定した。
「あ、あなたこそ、優秀なんですね」
湯村は冷静に声を発したが、靴紐を結ぶ指が小刻みに慄えた。人ちがいだった場合、意味不明な発言である。だが、男には通じた。自嘲ぎみに笑うと、
「なにが」と訊く。
「三年前のセンター試験です」
「そんな噂話を信じるのか」
「事実ではないと……?」
湯村は、つまらない話題を持ちだして後悔した。目のまえにいる学生は、まちがいなく鷹尾本人である。おそらくキレ者だ。
「まずはそっちから名乗りなよ。自己紹介は、下から上にというのが基本だろう」
鷹尾の口ぶりは意外にのびやかな調子で、第一印象も悪くなかった。むやみに心拍数が上昇する湯村は、めまいさえ感じる状況に困惑した。
「名前がないのか」
「え……」
「だから、名前」
「湯村です」
「湯村は苗字だな。名前は?」
「と、透と云います」
うながされて名乗ったが、鷹尾は木立ちのかげを抜けだして歩きだす。
「待ってください。あなたの自己紹介が、まだ終わっていない!」
湯村にしてはめずらしく、声高になった。二、三メートルさきで立ちどまった相手は、ゆっくりふり向いた。少し驚いたような顔をして、湯村を見据えた。
「当ててみて」と云う。
「……よ、四年生の鷹尾さん」
「正解」
鷹尾は、くすッと笑い、大学の校舎を見あげた。きれいな横顔だった。思わず見とれた湯村はハッとして、「名前も教えてください」と、あわててたずねた。鷹尾は木立ちのなかの鳥の声に耳をすませ、「春馬」と、こたえた。
「鷹尾春馬さん」
湯村が声にだして呼ぶと、かすかに目を細め、踵をかえす。互いに名乗った以上、もう見ず知らずの間柄ではない。次に逢うときは「鷹尾さん」と呼べる。湯村は、遠ざかる背なかを見つめ、そう思った。
それから、誰もいない教室へ足を運び、定位置の席につくと、ため息が洩れた。朝一番にスクールバスへ乗りこむ湯村だが、二度も鷹尾に出喰わすとは、ふしぎな体験である。
「あのひと、こんなに早くきて、なにしているんだ?」
湯村の場合、通学時の混雑をきらって早起きするのが日課だが、鷹尾のほうの理由が気になった。……なんとなく誰かを待っているようでもあり、その相手に興味をそそられた。
翌朝、木立ちのかげに鷹尾の姿はなかった。そこにいた痕跡をさがしてしまう湯村は、じぶんの嗜好を意識して青ざめた。
「……ぼくは、また失敗したのか」
葉むらのざわつきが、耳もとで鳴る。ふつうがふつうでなくなったとき、湯村の悩みは深刻だ。今すぐ立ち去らなければ、あともどりできないだろう。一刻も早く、逃げるべきだった。置かれた状況を頭で理解しても、手足が動かなくなる。じぶんの躰なのに、気持ちと連動しないのだ。
「……だ、誰か……」
うまく息ができず、呼吸が苦しい。助けを求める声を聞き取る人影は、どこにも見あたらない。いっそ、このまま永遠の眠りにつけたらと、ばかなことを考えた。
「おちついて深呼吸しろ」
すっと男の腕がのびてきて、湯村の胸のあたりへ手のひらを置くと、軽く圧迫した。鷹尾だ。舌がよくまわらず、名前を呼ぼうとした湯村はのどが詰まった。
「ほらよ。こんなときにでも、好物がのみたくなるのか?」
そう云って、頰へ冷たいフルーツ牛乳の紙パックをあてがわれた途端、思いだしたかのように深く息を吸った湯村は、鷹尾を殴り飛ばしたい気分になった。
「どうして、こんなこと……」
「だって、これが好きなんだろう」
「……ぼくが……好きなのは……」
大学の構内には、自動販売機が設置されている。紙パックのフルーツ牛乳が入手できる場所は、渡り廊下のさきにある一台きりで、どうやら鷹尾は、さがしまわったようだ。……ぼくが好きなのは、あなたです。という告白は、する予定などない。気になる相手は、ほかにいる。だが、オープンキャンパスで遭遇した人物は、いまだにあらわれない。大学生になって二週間が経過した湯村は、まぼろしを見たのではないかと思い、まぶたをとじた。
かたわらの鷹尾は、湯村の肩を引き寄せると、唇を被せた。
✦つづく




