気にしたら負け
電車に乗ってやってきた場所は、まるで知らない地域につき、湯村は鷹尾のうしろを歩きながら、周囲へ視線を泳がせた。見たことのない家並みがつづく舗道は、暑さのせいでのどが灼けるようだった。鷹尾は、ときおり背後を気にして、肩ごしに目をあわせてくる。
雨あがりの気温は蒸し暑く、額に汗が浮かぶ湯村は、ポシェットからハンカチを取りだし、長い前髪の下を拭うと、「ふう」と息を吐いた。
「その前髪、ピンで留めるか切ったらどうだ」
まえを歩く鷹尾も体感温度は同じはずなのに、涼しい顔をしている。横断歩道の信号が赤になると、湯村は鷹尾のとなりにならんで立ちどまった。
「……前髪は、あまり切りたくなくて」
「じゃまそうに見えるけどな」
「鷹尾さんみたいに、誰もがじぶんの容貌に自信があるわけじゃないんです」
「なんの自信だよ」
苦笑する鷹尾は、いつも肩がけにしている図面ケースを持ち歩いておらず、薄もののジャケットをはおった背なかは、意外にも細く見えた。スレンダーな躰つきに見とれていると、信号の色が青に変わり、「行くぞ」と歩を進めた。目的地が不明なため、湯村は慣れない土地に不安を感じたが、「なにかのむか」といって近くの喫茶店へはいる鷹尾の足取りは、この町に詳しいようすだった。
窓ぎわの席に案内され、テーブルをはさんですわるふたりは、それぞれのみものを注文した。しばらく湯村がメニューをながめていると、「なんでもたのめよ。ここはおれがはらうからさ」と鷹尾が気前のよい声でいった。遅刻した詫びだとつけたすので、「それじゃ、遠慮なく」と返し、紅茶味のシフォンケーキを追加した。時刻は午後三時をまわっており、ちょうど間食したい気分だった。甘いものは、緊張をやわらげる効果もある。
「お待ちどおさまでした。アイスコーヒーと、レモネード、こちらが紅茶のシフォンケーキになります」
若い女性従業員が、白いエプロン姿で料理を運んでくると、鷹尾のととのった顔だちをちらちらながめ、軽く頭をさげて、厨房へもどっていく。湯村のほうは、ほとんど見ていない。鷹尾はミルクやシュガーポットをよけ、なにもくわえないアイスコーヒーをのんだ。
よく冷えたレモネードでひと息つく湯村は、シフォンケーキをフォークで切った。頬杖してながめる鷹尾は、「おれにも、ひと口くれ」という。一瞬、変な顔になる湯村をよそに、鷹尾は腕をのばしてくる。湯村の用いたフォークを手に取り、ケーキをひと口サイズに切り分けた。絹織物と呼ばれるケーキは、基本的にバターをつかわず、泡立てた卵白とサラダ油がベースにつき、焼きあげた生地はやわらかく、ふわふわとした口当たりの軽い食感のスポンジケーキである。七分立ての生クリームが添えてあるため、ケーキにぬって食べる。
「洒落た味だな」
「……はい。ぼくの父は甘いものが苦手なのですが、シフォンケーキだけは、おいしいと云って食べていた時期があって。そのときのぼくはまだ子どもで、紅茶味のケーキより、フルーツたっぷりのプリンアラモードや、チョコレート味のケーキのほうが、ずっとおいしいと思っていました」
「ふうん。紅茶のよさがわかるのか? 湯村は今でもお子さまだろう」
「あなたよりは歳下ですが、子どもではありません(このフォークをつかったら、鷹尾さんと間接キスになってしまう……)」
皿には、まだ半分以上残っている。食べかけのシフォンケーキを見つめる湯村は、フォークを持つ指が(ほんの少し)ふるえた。不自然な間が生じたが、鷹尾は背もたれに寄りかかり、時間を持て余している。
春、めでたく新入生の一員となった湯村は、腹ごしらえに立ち寄った食堂で水島と出逢った日のことを思いだした。水島は、湯村の食べかけのサンドイッチをほおばってみせた。鷹尾といい、初対面の相手が口にしたものを平気な顔で食べるのは、同性にたいして、間接キスといった概念が欠如しているからだろうか。しかし、湯村の場合は少し異なり、家族の食べこぼしでも口にするのは抵抗があった。
とはいえ、鷹尾とは間接キス以上のことをしている湯村は、今さら躊躇するのも滑稽だと思い、気を取りなおしてシフォンケーキを間食した。「ごちそうさまでした」とフォークを置くと、窓の外をながめていた鷹尾は湯村のほうを向いて、笑みを浮かべた。涼やかな目で見つめられると、いっそう心が騒いでしまう。湯村は、意識して感情を鎮める必要があった。会計をすませて喫茶店をあとにすると、閑静なたたずまいの住宅地へとみちびかれた。
鷹尾は、このあたりに住んでいるのかと思いつつ、表札を発見するたび苗字を確認して歩く湯村は、日傘をさした着物姿の婦人とすれちがった。雨にぬれたアスファルトは、照り返しがきつい。洋服とちがい上着を脱いで暑さを調整できない着物だが、視覚的な清涼感のある刺繍や、通気性のある絽や紗といった織物は、盛夏を中心に着るものとされている。
正確な現在地を把握できない湯村は、いつのまにか引き返していたことに気づくのが遅れた。駅の屋根が見えてくると、周辺の家をながめていた湯村に、鷹尾がたずねた。
「さがしものは、見つかったか」
「え?」
「金魚のフンじゃあるまいし、黙っておれのあとをついてきて、なにが愉しいんだよ」
「ぼ、ぼくだって、好きであなたのうしろを歩いてるわけじゃありません。そもそも、きょうは鷹尾さんが……」
湯村は、ことばの途中で口ごもった。鷹尾との外出には、なにか意味があるはずだ。当初の予定を変更してまで、この土地を訪ねた理由を考えていると、視線のさきに見知った姿の少年がたたずんでいた。
「また、あの子だ」
水色のレインコートに黄色の長靴を履いた男の子は、湯村と目があうと、「透おにいちゃん!」と笑顔で手をふった。
✦つづく




