子供 上
ユエンが動いたのは吸血鬼との遭遇から三日後だった。
渋谷駅の南口近く、未明の暗がりのなか。今回は「鏃」を打ちこんである。吸血鬼の動向を探っていたが、動く気配がないためユエンから迎えにいくことにした。通路から手すりを乗り越え、ビルの間の川へとおりた。水はそう多くない。ここから北の上流は奥まで暗渠になっている。
「出てこい」
暗渠の川縁を歩きながらユエンが声をかけた。音が壁に当たってわあんと響く。なかは外の夜よりはるかに暗かった。いるはずの何者かは答えない。ねぐらにしていたコウモリが慌てたように逃げていく。あとは静かに流れる水の音が聞こえるだけだ。
「ここか」
光の届かないところ、人であれば鼻先も見えない闇のなかにそいつはいた。金の毛も青い目も黒に沈んでいるが、ユエンははっきりとそれをとらえた。それも気づいてむくりと起きあがった。その吸血鬼はユエンを見ておびえるように身をすくめた。
吸血鬼は流水を嫌うと人間は考えている。とはいえ水に入っても死ぬわけではない。流れに逆らえないというだけだ。ともかくこの吸血鬼は川には入らず川縁にいる。ユエンは両手で狐の窓を作るとそれをのぞきこんでつぶやいた。
「やはり赤子か。……人間には見つからないわけだ」
赤子ならしかたがないとひとりうなずいた。その瞬間、弾かれたように吸血鬼が駆ける。迫る爪を退けたのは右手。ユエンの手がひらめき、影が爪を打ち落とす。真っ暗闇のなか、さらに横からきた爪をすばやく円を描くように薙ぎはらった。高い音が鳴って、吸血鬼は着地と同時にまた飛びかかる。
青い目に虹色が走る。ユエンは人差し指と小指を残して右手の指を握り、目潰しをするように吸血鬼の顔面へと突きだした。ギャウと鳴いて獣が目を閉じる。片腕で顔を押さえ、反対の手でがむしゃらに爪を振りまわす。
ユエンは繰りかえされる斬撃をすべてかわし、軽くはらい落とした。さらに影で突きあげれば、吸血鬼が慌てて跳びのいた。
「おびえて噛みつくなら、よけいに叩かれる」
吸血鬼は一歩、また一歩さがると、やっと思いだしたように駆けだした。今度はユエンに背を向けて、暗渠の奥に潜りこむ。
しかし光のない暗がりは続いている。暗闇は死の領域でありユエンの領分だった。獣は全方向から常に見られているように感じた。逃げ場はなく、行き先もない。足がもつれて川縁を踏みはずす。バシャンと音をたてて胸から水に落ちた。
「ああ、濡れたか」
ユエンは構わず水に入ると吸血鬼に近寄りしゃがみこんだ。それは尻もちをついて後ずさるがそれ以上動けない。ユエンが手を伸ばし、首の後ろを指でつつく。そこには鈍い灰色に光る鏃が突き刺さっていた。先日投じたユエンの分身だ。鏃からは黒い糸のようなものが出ており、吸血鬼の体にからみ、食いついている。吸血鬼は獣じみたうなり声をあげた。
「私の髪を打ちこんだ。人に危害を加えれば締めあげる」
それから、そっと獣の口に人差し指を当てた。
「ほら、忘れないで息をすることだ」
「おまえはなんだ!」
吸血鬼が子供の声で叫んだ。ユエンは少しだけ目を見開き、そしてすがめる。
「私はユエン、人が呼ぶからそういうものだ。では、おまえはなんだ?」
獣はまたグルルルと威嚇した。毛を逆立て耳をふせ、とがった目を向ける。ユエンはまったく気にせず、獣の顔をのぞきこんだ。虹の色はなく、青がユエンを見かえしている。その色はどこか不安そうに揺れていた。
「自分が何者かもわからんか、どれ」
ユエンがそれの額に指を当て、あるべき姿を探る。そのとたん金の獣は小さな人の形になった。薄い水色のパジャマを着ている。子供は口を大きく開いて獣のようにほえた。噛みつかんばかりに歯を鳴らすが、ユエンはあっさりとそれを除けて言う。
「そうほえるな。まずは名が必要だ。……うるさいから吼でいい。コウ」
コウと呼ばれた子供は目を見開き、またうなった。ユエンはその小さな手をつかむとぐいと無造作に引き起こす。そしてふらつきながらも立ちあがったコウに背中を向けた。ついてくるのを疑わないように、外に向かって歩きだす。
「行くぞ、コウ」
夜明けが近かった。
「やあ、おはよう」
日が昇ってすぐ呼び鈴が鳴り、シガンが玄関の扉を開けると見知らぬ女がいた。黒い髪の少女。不審に思って扉を閉めようとしたが、彼女は足で止めた。勧誘か。
「じつに不用心だ。アオに吸血鬼対策を聞かなかったか? 二回呼びかけられる前に返事をしてはいけない。いいね?」
「ユエンさん? なにしてるんです?」
なんだこの女はと思った矢先に、外から声がかかった。アオだ。ちょうど夜間の見回りから戻ったところらしい。この女はアオの知りあいか。また面倒なことを持ってきてと苦い顔を作る。ユエンのほうは気にする様子もない。
しかし、影から子供が出てきてシガンの表情が歪んだ。その子は腰まである髪もボサボサで、濡れたパジャマのままで、そのうえ裸足だった。横からアオも奇妙そうに見て、ユエンに聞く。
「ユエンさん、この子……」
知っている子かと聞こうとしたとき、ユエンの夜のような目が揺れた。
「そこの橋の下で拾った。コウという。まだ赤子でな、人のやりかたを知らん。教えてやってくれ」
「それは……」
「いいだろう?」
黒い目に金と赤が混じりあい、怪しく惑わした。あいまいな違和感が暗い影に沈んで見えなくなる。
「……まあいい、さっさと入れ」
「あーもう、風呂入れんと」
コウと呼ばれた子供を見てアオが言った。パジャマが濡れて張りついている。金色の髪にすねたような青い目のその子は、一見、女の子のように見えた。けれどもすぐにそうではないことに気づいた。骨が出るほどに痩せているが女の子ではない。
「コウくん、おっちゃんと風呂入る?」
その子はずっと無表情だったが、口を曲げて疑うようににらんできた。背を丸め、間合いを測り、飛びかかろうとしたところでがくんと首がひきつった。何度か空噛みを繰りかえしながら座りこむ。
「どうした、どっか痛いの? 風邪ひくからきれいにしよ?」
隣にしゃがんでアオが風呂に誘う。しかしなにを言っても動かないので、アオはよいしょとコウを抱えて風呂場に行った。コウは固い表情のなかに嫌悪とも怒りともとれる表情をしていたが、抵抗することなく黙って連れていかれた。
そのうち水音が聞こえてくる。「水かけるよー」「そら、あと十秒」。アオがひとりでしゃべっている声も聞こえる。その間にシガンはコウに着せるシャツを探していた。ユエンがひとりテーブルに頬杖をついているのを見て、むっとした顔で声をかける。
「なんでおまえが座ってるんだよ」
「風呂のことはわからない。私は神だからな」
「はー? 神ぃー?」
そのころ、脱衣所では風呂からあがったばかりのコウがぶるりと身を震わせた。ケガがなくてよかったとアオがバスタオルでコウの体を拭いていく。コウはされるがままになっている。きゅっと口を引き結んで、耐えるようにアオをにらんだ。
「どうした? 痛かった?」
痛いのかどうかもわからない顔をしたコウが、わずかに顔をしかめた。濡れた髪をすいてるとき、からまったのを引っ張ってしまったのかもしれない。「ごめんなー」。それからアオはコウにTシャツを着せる。丈の長いシャツなのでこれ一枚で十分だ。早いうち服を用意せんとなあなどと考えながら裾を直した。
「これで終わり! ぴっかぴか。よくガマンしたなー」
「なるほど、人間らしくなる」
キッチンに戻ってきたコウを見て、ユエンが満足そうに笑った。




