日常 上
そのころ、組合のオフィスでナヨシが電話をとった。都庁のミトラだ。タカノリが優秀なのもあっていつもサボっているように見えるが、なんだかんだ働くやつだ。
「やったんだって?」
開口一番、それか。とはいえナヨシにもトモエからの報告があっただけだ。詳しいことはまだ入ってきていない。コーヒーを端に寄せてうなずく。
「はい」
「食人鬼を一体、駆除した。そうだな?」
「そのとおりです。例の妖精が見つけたと聞きました」
今回も死者を出さずにすんだ。ミトラはナヨシたち以上に責められる立場である。上からも市民からもだ。
「これでおさまる……はずがないな」
「少なくとも吸血鬼が一体は残っています。今回のも東京駅のと同一個体か不明」
「……違う個体らしいと」
「ツノが違った。死体がないから確認できませんが」
つまり食人鬼が複数いたことになる。どちらも例の吸血鬼の眷属か。
「そうか。……人間も捕まってないしな」
人々の不安が増すなか、かまいたちや吸血蟲のような吸血種も多く見られるようになった。窃盗強盗など人間の事件もいくつか起こっている。例えば先日の殺人だ。捜査の結果、犯人の身元は特定されたが、いまだ確保に至っていない。被害者との接点はなく、通り魔だと思われる。
それからミトラが思いだしたようにつけ加えた。
「そうだ、猟友会にひとり頼んだ。名手だそうだ。明日にでも来ると思う」
「銃か。わかった」
警察からも銃使用の許可がおりた。地面に消える食人鬼相手では、銃を使っても解決は難しいだろうが、単純に人手が増えるのはよいことだ。
「まあいい、記者会見はこっちがするさ。責められるのはまかせとけ」
「それは助かります」
ともかく、食人鬼は不死の化け物ではない。倒そうと思えば倒せる害獣にすぎない。
シガンとコウはまだ眠っている時間だった。
アオは玄関の前で前後左右に足を踏み、ぐるぐるとその場でまわった。吸血鬼や妖精は迷路が苦手だ。人間の後をついて来ても、簡易な迷路を作るだけで家に入れなくなるという。本当かどうかは知らないが作法としてある。
それからポケットからこよりを二つ出し、よりをといた。これもまじないだ。ひととおり儀式がすんでから玄関を開ける。その後ろからユエンは普通に入ってきた。
靴を脱いで、アオはこの妖精をよく知らないことに気づいた。彼女に帰る場所はあるのだろうか。特に詮索する気はなかったが、思いがけず疑問が口からもれた。
「ユエンさんはどっから来たの?」
「どこ、か。今は北海道の港町、坂近くに身を置いている」
「へえ、そこの神さんなんだ」
「いや? 私が神だったのは、ずっと遠いところだ」
そう言ってユエンは懐かしげに目を細める。アオは遠いという言葉にひっかかった。そこが故郷と呼べる場所なのだとしたら、寂しくはないのだろうか。それとも神や妖精というのはそんな感情をもたないのだろうか。
「……帰りたいとか思わんの?」
「我々のいられる隙間はまだある。困っていないよ」
「そっか……」
ユエンは自分は神だと言ってはばからない。そして実際、神であろうとしているように見える。吸血鬼や妖精は人間と話ができるのにわかりあえないという。そうなのかもしれないし、そうではないのかもしれない。確かめられるほど、アオは彼女のことを知らない。
「人間は変わるが、我々はそう変わらないものだ」
ユエンは少しだけ眉をさげた。それからすぐにいつもの人懐っこい表情になる。
「アオの帰りたいところはどこだ?」
「……別にないなあ。いつだってそこで生きるしかないだろ」
「ほう? そういうものか?」
ユエンの目が素直に疑問を形作る。ぴくりと一瞬、アオの手が止まった。しかし平然を装ったまま、とらえどころのない調子で話をそらす。
「お、サトイモさんみっけ」
キッチンの鍋を開けるとサトイモの煮物があった。アオは煮物をすると焦がすのでこれは嬉しい。シガンが作ったのだろう。そろそろ痛みも引いてきたと聞いている。
その後ろで、ユエンが納得できないように首をかしげた。
そんな会話など、コウが起きてくるころにはなかったことになっていた。
朝のニュースでは食人鬼一体を駆除したと報道されている。アオは煮物をテーブルに出しながらそちらを気にしていた。今のところ新しい情報はない。
「で、どうだったんだ」
「んー? ただの食人鬼だよ、食人鬼」
地面に潜ろうとするあたり普通の食人鬼ではないのだが、まあそれでいいだろう。
「なんだ」
「なんだって言われてもなあ……」
深く聞いてほしかったわけではないが、実際にケガした人がいて「なんだ」もなにもない。食人鬼だって元は吸血鬼に殺された人間だ。
「吸血鬼はもっと強いのか?」
「まあ、そりゃ……やっかいなもんだな」
「ふーん……」
シガンは不満げだったが、思いのほかあっさりと引きさがった。そのほうがいい。人は人、吸血鬼は吸血鬼だ。
さて、食後になるとコウはまた絵を描きはじめた。大きな丸、小さな丸、四角、三角とさまざまだ。それは赤だったり、黄色だったりして、いくつも重なっている。アオがのぞきこんで、にこにこと声をかけた。
「おー、いっぱいだ。上手になったなあ」
「じょうず? うん、じょうず」
コウはとても嬉しそうだ。もっと描こうと色鉛筆をとって、ぐいっと線を引いたとたんなにかが飛んだ。見れば芯が折れてなくなってしまっている。
「シガンさん、なんか削るのない?」
「あるぞ」
シガンが出してきたのは小さな折りたたみナイフだった。
「……削り機とかないの?」
「そっちのがいい」
「ふーん……。コウくん、見てな」
チラシを敷いて色鉛筆を削る。力を入れず少しずつ優しく削ってやる。シャッシャッとリズムよく刃を動かし、芯を短く作りだした。木クズがくるりくるりと丸まって落ちていく。興味をもったのかコウがナイフの近くに手を出してきた。
「シャシャシャのシャーってな。触んないで、痛いよー」
「いたい?」
「そう、痛いの。怖いよ。だから、おっちゃんがやったるからなー」
「いたいの……?」
コウは一度手をひっこめた。けれどもアオが色鉛筆を箱に並べている間、どうしても気になって置いてあったナイフをつかんだ。きらきらして先がとがっている。そうっと先端に触ってみた。
「あー!」
見ていたシガンが叫んだ。コウを止めようとしたのだが、逆効果だった。驚いたコウの手がすべり、指に刃が当たる。「嫌だ」と反射的に思ってコウはナイフを落とした。悲鳴は声にならなかったが、ひどく泣きそうな表情になっている。
「ごめん、しまっときゃよかったな。痛かっただろ?」
アオはコウの手をとる。血は出ていないし傷もないが、顔が「痛い」と言っていた。
「……いたい」
「痛いか、そうだな。それは『痛い』ことだ」
そのむこうでユエンは他人事のようにくすくすと笑った。まるで「それはよかった」と言っているみたいに。
「そんな……痛いのは嫌だろ。刃物は気ぃつけてな」
「……うん」
痛いと瞬間的に思ったことと「痛い」という言葉、そして怖いから嫌だという気持ちがつながった。今までぼんやりとしていた感覚が、はっきりとした形をもった。
「痛いの痛いの飛んでけー。飛んでった! ……ほら、もう大丈夫」
アオがコウの手をなでなでしたあと、窓のほうに飛ばした。痛いという感覚は消えている。嫌だったのに、痛いとわかったことが不思議と気持ちよかった。
「うん」
「刃物渡すときは、しまってから。相手が痛くないように」
アオは刃をしまうところを見せてシガンに返した。そして色鉛筆をコウに渡す。
「ほい。じゃ、たくさん描こっか」
色鉛筆を握って動かすとまたきれいな色が生まれた。それはとても鮮やかだった。
アオが寝た後も、コウは絵を描いている。いろいろ考えていたが、思いついたように黒い丸に三角の耳をつけた。ぐりぐりと目を入れれば犬のようになる。
「できた!」
「おお、できたな」
トイレと風呂の掃除を終えたシガンが顔を出した。まだひきつれるような感じは残っているが、このくらいならできるだけ動いたほうがいい。いいかげん、アオにだけ買い物に行かせるわけにもいかない。
「うん。ゲン、できたの」
それからゲンの横に人の顔を描いた。顔と言っても円のなかに三つの点があるようなものだが、なかなか「らしく」みえるのは面白い。四本突き刺さっている長い線は手足だろう。じつにアクロバティックな動きをしている。
「あか、とあお……」
赤。そして青。それから黄色、ピンク、緑。色とりどりの線をスケッチブックに広げていく。コウはすっかり集中していた。彼だけの世界に入りこんでいる。
「……いいなあ、子供は好きにできて」
ぽつりとシガンがぼやいた。絵には意図が必要だ。それがラクガキと絵の違いだから。絵とは嘘をつくことだと誰かが言った。シガンの右の小指はちょっと曲がっていたが、これをそのまま描くと「人間の手はそうなっていない」という。
シガンは嘘をついてつき続けて、なにが嘘で本当なのかわからなくなった。嘘をつく意味がわからなくなった。描きたいものなんてどこにもなくて、そんな自分に嫌気がさす。なのに見ないふりしてごまかし続けてここまできてしまった。
吸血鬼と出会って、これこそ嘘偽りなくすごいものだと思った。こざかしい意図なんか吹っ飛んでしまうくらいすごいものだと。だから描こうとした。そうしないといられなかった。描かなければ、なにかが切れてしまう気がした。
そのシガンの後ろから、ようやく起きてきたアオが顔を出す。「おお、これ、ゲンちゃんか? よくできたなあ。似てる似てる」と褒めてからシガンに声をかける。
「シガンさん、買い物行ってくるよ」
「ああ、ぼくも行くよ。コウくん、行くか? ずっと家ん中というのもなんだし」