114 枢機卿ジュリアン・チェザー
ミドリと遣り取りを楽しんでいるうちにヌーリスの街に到着する。
街全体が騒然としている。庶民にはどうでも良いことだが貴族に仕えていた使用人や地方政府の役人は大地震さながらの状況だろう。まあ、勤め人の宿命だな。それでも、まだ此方の世界はマシだ。時々こうやって失脚する貴族を目の当たりにしているので終身雇用などありえないことを遺伝子レベルで知っている。元の世界でも、現実には終身雇用が成立していた期間なんて殆どないのに何故あんな幻を大方の人間が信じていたのだろう。倒産せずとも企業合併などがあれば、簡単に足元から崩されてしまうのに。
「おい、あんた、急ぎのところすまんが、聖ハスモーン教の主張所はどこらに有る?」
「あん!!いま忙し…なんだ、貴族か。聖ハスモーン教なら中央通りを行って最初に出てくる大きな道の交差点を右に曲がって行けばいい。十字の変なマークが目印だ。」
世話になったと銀貨を握らせて宥める。銀貨が効いたのか、聖ハスモーン教の主張所に先日ガサ入れが有ったことまで教えてくれる。そのため、主張所の幹部は王都に弁明にでていて留守らしい。
「…幹部は留守か。」
「出直しますか?ご主人様。」
「いや、留守のほうが末端信者の実態が良く解るのでちょうど良い、行くぞ。」
…
…
「此処かなー、主さま~~」
確かに、入り口の扉の上に十字のシンボルマークが取り付けてある。
「誰かー、居るかなー。おーい。」
「…はーい、なにか御用でしょうか。」
「俺はいろいろな宗教について研究しているのだが、近々此処が取り壊されると聞いてな。今のうちにと思って話を聞かせてもらいに来た。」
「と、取り壊しなんて、いったい誰がそんな事を。いまここの司祭様は王都に陳情に行かれていますが、此処は閉鎖する気はありませんよ。」
「そうなのか?なにせ聖ハスモーン教については情報が少なくてな。聞いた話だ、間違っているのかもしれない。あんたで良いから知っていること、何でもいい、話してくれないか?」
「それなら…」
…この末端信者はもともとエフタール王国の国民で苦しい生活だったのだが、此処の司祭の云う神の教えに惹かれて信者に成ったらしい。今でも楽な生活ではないが何が有っても最後には救われると信じているそうだ。ただ教団組織はゴタゴタしていると云う。肩入れしてきたオリーミ公が失脚してしまった事と、オリーミ公に貸し出していた教団資金が焦げ付いてしまった上、エフタール王国での浄財集めに違法行為の疑いがかかり、集金も滞っている。いままでオリーミ公に接近する事で教勢を伸ばしてきたグレゴリウス・プレーナ司教も更迭されて交代も来ておらず、暫定的に部下だったガブリー・アモール司祭がエフタール王国での信者のまとめ役になっている。だがアモール司祭は言葉が薄っぺらくて信者に人気がない。自分も嫌いだと云う。また、エフタール王国への布教が滞ることに成った結果、グレゴリウス・プレーナ司教の後ろ盾だった本国の枢機卿も平の司教に降格され、代わってジュリアン・チェザー枢機卿が最高指導者についた。
「…ほう、最高指導者が交代したのか。で、そのジュリアン・チェザー枢機卿はどのような人か知っているか?」
「直接お会いしたことなどございませんが、結構先頭に立たれて指導される口先だけではない方と聞いています。今までは唯一神帝国南西方面への布教と教化を主にされていたようです。布教のためには武力に訴える事も辞さない方で、実際、過去2回軍を編成されて、自らその軍を『十路軍』と命名され、戦って居られます。決定的な勝利ではなかったようですが、その後の講和会議ではそれなりの成果も得られたようです。」
「…つまり、負けた?」
「いえ、負けては居ない、ただ勝ちきれなかったのだが、外交戦で勝利を得ている。これは戦争全体として勝ったも同然だ……と…。」
「それを、あんたは信じている?」
「…私などでは。わかりません。ですが、今度は戦の専門家も配下に加えられ、中心になる兵士を2000人編成してその専門家に預けられるとの事ですので、大丈夫と思います。」
「その専門家って、もしかして…」
「はい、歴戦のムロータ将軍です。オリーミ公爵の元では将軍が進言されても半分も受け入れてもらえず力が出せなかったと聞いています。しかし、チェザー枢機卿は現場の指揮には口出ししない、一度軍を動かした以上は解散するまで完全に軍の指揮権をムロータ将軍に保証する…そういうムロータ将軍の提案した条件を認めたと聞きました。」
『将、外にあっては、君命も奉ぜざる所あり…』ってか。やばいな。孫子を知っている奴がムロータ将軍の配下に確実に加わったな。それに核となる精兵を整備すると云うのも恐らくその謎の軍師の差し金だろう。曹操の青州兵の故事も知っているに違いない。黄巾賊が聖ハスモーン教徒に代わっただけで意味は同じだな。
「…あの?」
「…う、うん。いや色々参考になった。有難う。だが戦争に成っても無闇に加わるなよ。戦争は綺麗事じゃないからな。」
「それは大丈夫です。死後の天国は約束されていますので、なにも心配ありません。」
…
…
「結構色々有ったな。急な話だが、今からケルート人に会いに行く。心配事が出来た。」
「主さま~~。ならヘルマンド川へ行くねーー」
「ああ、頼む。」
「旦那さま? その、ムロータ将軍の麾下に加わった方は危険なのですか?孫子とは?」
「孫子は元の世界の古代の天才です。軍事の天才と認識されることが多いですが、政治、経済、軍事、それら全体を統括した『孫子十三篇』という書物が現存していて教科書にしたいぐらいの名著です。その幾つかの中身をすでに実行してきている。ムロータ将軍が新しく採用した人物は極めて危険な奴です。」
そうだ、こいつは危険だ。チェザーとか云う、たぶん狂信的なヤバい枢機卿の係累にわざわざ潜り込んでムロータ将軍を傀儡にして思う存分戦争する気だ。狂人に核ミサイルのボタン渡すようなものだ。早め早めに手を打たないと、後手に回ると手に負えなくなるぞ。