後編
処方された薬は残り二か月分ほど。この星に来てからは随分と楽に体が動いているような気がするが、薬のおかげなのか、重力の違いなのかわからない。それとも毎日の探索で体力がついてるのかもしれない。もしかして、と希望がよぎるけれどもそんなものにすがるわけにもいかない。通信装置は毎日ただ単調な信号音を吐き出すばかり。最悪の事態を常に想定していることが必要だ。
チヒロの父親は大財閥の三代目だったけれど、身代を持ち崩すどころか事業を拡大し続けていた。チヒロや妻の前ではほがらかで冗談の好きな明るい男だったが、使用人や部下の前では頬を緩めることすらなかった。勝者の影には必ず敗者がいるもの。富の前ではモラルもかすむし、生存競争には裏切りはつきもの。
「ああでなくては連戦連勝はできないさ」
屋敷のエンジニアは、毎日の整備をいつもの手順どおりに手際よくこなしながらそう言った。
この男が屋敷にきたのは私が十二歳の頃だったと思う。当時三十を少し越えたくらいのはずだったが、青白く眉間に深く刻まれた皺がもっと年嵩に見せていた。
筋張った大きな手を軽やかにタッチパネルの上で踊らせ、計器に時折目を走らせる程度で数値を安定させていく。作業に没頭して食事の時間を忘れてしまいがちな彼を呼びにいくのは私の仕事だった。急な呼び出しや気まぐれな命令にも感情を顔に出すこともなく、使用人たちの間の潤滑油である愚痴に同調することもなかった彼だったが、ごくまれに私の前でだけつぶやく主人への評価はほんのわずかだけ苦々しさをにじませていた。
私が進路を機械工学方面へ定めたのは彼の影響もある。高度な専門技能を身につけることは、絶対に奪われることのない財産を得ることだとの彼の言葉が気に入ったからだ。
実際、彼はその腕を破格の条件で買われて屋敷にきていた。母は私に、女性らしく、他人に愛されるように、気に入られるように、そうやって居場所をつくるものだと教えてくれたけれども、それよりはずっと納得のいく生き方に思えたし、今でもそう思う。
彼は私の質問に言葉少なくはあっても的確な答えをくれていた。おかげでチヒロのような家庭教師もつけずに、常に三学年は上のテキストを解くことができるようになったし、学費免除の奨学生にもなれた。チヒロたちが通うような私立の高校や大学にいけたのもそのためだ。彼には感謝している。
だから、彼がこの旅行の前夜に誰かと電話で何か口論していたことも、私に行くなと言ったことも、理由は聞かなかったし誰にも言わなかった。彼が自分の家族を失う原因となった人間の下で働いていることを誰にも言わなかったのと同じように。
「でも、一応この旅行は私を慰める会って名目らしいのよ?」
「慰める? 何を?」
「さぁ。私が失恋したということになってるらしいんだけど」
彼は片頬を歪めて、かろうじて笑っていると思える表情をつくってみせた。
「あの天真爛漫で正論好きのぼっちゃんと恋愛してたのか?」
「一応おつきあいの形はとってたのよ。私を幸せにできるのは自分だけだと自信満々でいてくれてたし」
ふむ、と彼は首をかしげ、私の次の言葉を促した。
「彼のいう幸せとやらを教えてもらおうと思ったのだけど、不思議ね? 何度聞いても彼が何を言ってるのかわからなかったわ」
「……慰められる必要があるように思えないんだが」
「私もそう思う」
「それなら行く必要もないだろう。明日の朝に体調崩したとでも言えばいい」
「……そうね。そうすることにする」
オイルの染み付いた作業服の肩がわずかに緩んだのがわかったのに、私は次の日船に乗り込んだ。
彼はこれ以上白くなるものなのかと思うくらいに真っ白な顔色で見送ってくれた。
私は今まで誰かに心底すまないと思ったことはないけれども、彼にだけは申し訳ないことをしたと思う。
「私達はハルがいないと生きていけないけど、ハルは私達がいなくても生きていけそう」
日課の探索から戻ると、これまた日課どおりにミチとチヒロがミーティングルームで話しているのが廊下にまで聞こえてきてた。
いなくても、って何か役に立つことがあるかのような言い草。むしろ、あなたがいないほうが生きやすいのだけど。
チヒロが弱々しい声でミチをたしなめている。さすがに魚続きの毎日で危機感も芽生えてきているようだ。非常食の在庫はまだあるが彼女たちには言っていない。自給自足ができるうちは非常食に手をつけるべきじゃないということは、彼女らには言っても理解できないだろう。
大体、魚続きといっても今では何種類か安全を確認して調理方法も変えているにも関わらず、ミチは不満を隠さない。私が彼女にもエサを与えなければならない理由など何もないのに。それでも空腹を感じさせる生活はさせてないつもりだが、ユウリにしろどうやら危機感というものは多少頭の回転をよくさせる効果があるようだ。
「ねえ私知ってるんだ。あなたのパパって結構、敵をつくるお仕事の仕方してるって」
ミチはほんのわずかな棘を含ませた言葉を淡々と吐き続けていた。私に不満を直接ぶつけるのは得策ではないと気づいているからなのか、これまで自分が散々まとわりついてきたチヒロをはけ口にしようとしてるようだった。
でもまあ、見当はずれではない。私達は、確かにチヒロの父親のせいでこの星に不時着する羽目になったのだから。勿論私はエンジニアの計画は知らなかった。どんな計画なのか。もし私が乗っていなければ、宇宙船は今でも宇宙を漂流してただろう。なので、正確には不時着したのは私のせいともいえるが。
「ハル、ハルならユウリの部屋のドア開けられるでしょう? お願い、ユウリ、返事も全然してくれないの」
ユウリが部屋に閉じこもってから二週間ほどたったころだった。森で何か獣を捕まえる方法はないか、罠をつくるための材料に適してるものはないか資料を集めているところにチヒロがやってきた。
通電してはいなくても電子ロックは機能している。船全体の動力を復活させればコントロールできないこともないが、無駄な消費は抑えたい。そもそも電子ロックもマスター用のコードがわかればなんということはないのだ。マスターであるはずのチヒロの頭には全く思い浮かばないようだが。
個室のドアひとつなど別に壊れたところで航行に支障はないわけだから、電動ドリルやら工具を適当に持ち出して解放させた。
吐き気を誘う甘ったるい匂いが一気にあふれでてくる。部屋中にまき散らされた非常食のなれの果てが発しているものとは、また別なものであることはすぐにわかった。
「ひどい……勝手に独り占めしたくせに……」
戸口で立ちすくんだまま嫌悪の表情をみせたのはミチ。
ユウリに呼びかけながらそろそろと部屋に入ろうとしたチヒロをひきとめた。
細く開いたバスルームのドアから水音が聞こえる。ユウリは変わり果てた姿でそこにいた。ちょろちょろと水を注ぎ続けられているバスタブの中に沈んでいたせいでぶよぶよに膨らんでいて、やっぱり最後までダイエットはできなかったのねと思った。
ミチもチヒロも、この星にたどりついたときと同じように叫び続けていた。甲高い二人の悲鳴は耳鳴りを呼び、少なからず私を苛立たせる。チヒロはトイレに駆け込んでいった。なんとか間に合ったようだ。
「なんでもっと早くドアをあけなかったの。できたでしょう。ハルならできたでしょう!」
髪を振り乱し血走った目のミチは、パニックを私への攻撃に切り替えることにしたらしい。
ああ、やっぱり邪魔ね。この人。
私から工具を奪い取り、できもしないくせに船を動かそうとしたミチも死んだ。
一応ユウリの死体を確認すると、どうやら浴槽のふちに後頭部をぶつけて沈んだらしい。
ミチは工具が心臓を突いていた。面倒だが、これらをなんとかしないと臭いはどんどんひどくなるだろう。
へたりこんで叫び続けているチヒロに、処分方法を告げるほど私も冷酷ではない。
ユウリをシャワーカーテンでくるんで持ち上げたが、中で腐敗してゆるんだ肉がずれる感触にはさすがに鳥肌がたった。移動は台車を使ったけれど上げ下ろしは一苦労で、この人たちは生きてても死んでても無駄な手間をかけさせる。ユウリはともかくミチは何か役に立つかもしれないし、それまでは倉庫にでもおいておけばいい。
けどまあ、結局何の役にも立たなかったので海に捨てた。魚を呼ぶ餌くらいにはなってもらわなくては。チヒロには森に埋めてきたと説明した。
母は死期が近づくにつれて私をそばから離したがらなくなった。
薬のせいなのかそれともそういった症状なのか、私を娘だと分からないこともあったにも関わらず、トイレに立つだけでも、行かないでと手首をきつく握り締めた。
実は自分はチヒロの祖父の隠し子なのだとか、なのに認めてはもらえなかったのだとか、そんなたわごとも繰り返しながら。
私達の部屋にある食器棚の後ろには働かなくても暮らしていける分の蓄えがあるから、そこからチヒロの母が気に入っている洋菓子店のクッキーを買って来いとかも言っていた。勿論そんなものはあるはずもない。母はそんな夢うつつの中で逝った。母は一体誰にそばにいて欲しかったのか、結局わからないまま。
「ハル、私がハルのお母さんになってあげるから」
葬儀の日、私の手を握り締めてそう言ったチヒロ。まあ、と娘の姿に目を潤ませる母親の姿がその向こうにあった。目の焦点がいつも私を素通りして結ばれていた母に疲れきっていたなんて、とてもいえる筈もない。おそらく私の後見になってくれたのもチヒロが私を気に入っていたからだろう。
随分と昔のことを夢に見た朝、海がなくなっていた。
潮の満ち干きがこんなにも海を遠ざけてしまうなんて思いもしなかった。この星は月が二つあるせいだろうか。ユウリとミチが横たわっているのではないかと思ったが、一晩で引いてしまった潮は彼女たちも連れ去ってくれていた。魚はもう手に入れられない。
私達が不時着してから二ヶ月。ということは最低でも二ヶ月は海が戻ってこないということだ。何度か森に罠を仕掛けてはいたが全て失敗していた。でも大丈夫。いくつかかかった形跡があることもあった。もう少し工夫して、数を増やせば次はつかまえられるはず。
二日後に捕まえることができた獲物は、短い手足にずんぐりとした胴体と大きな牙をもっていたが、生憎食べられる肉はあまりついていなかった。それでも私達二人の食料としては二日はもったし、次の獲物がすぐとれれば残りの肉は干し肉や塩漬けにして保存する余裕もあった。塩は海水から精製して少しずつ蓄えていたのが功を奏した。
チヒロにも少しずつ肉の扱い方や森のことを教え始めることにした。
本当は食べられる植物が見つかってからにするはずだったのだけど。
その頃には非常食の残りがあること、あまりにも栄養が偏りすぎてはいけないからと、だから週に一度一種類だけにしようと話した。
森にも何度かチヒロを連れ出して、岩場の歩き方や、目印の紐の意味を教えた。初日は少し熱を出してしまったので、少しずつ、週に一度くらいから。一人で森に入るときは動ける範囲を広げながら食べられる植物を探したけど、多少毒性が低い程度のものしか見つけられなかった。
「今ね、すごくきれいな鳥が飛んで行ったのよ」
真っ赤な顔をして、息を切らしながらへたりこんだチヒロが鬱蒼と分厚い葉で覆い尽くされた暗がりを指差す。チヒロが見つけたのはそれくらいで、私は結局その鳥は最後まで見ることができなかった。
薬はとっくに切れていた。
進行と症状を抑えるための薬だったからすぐにどうこうなるというわけではないけど、でも、体が重く感じる時間は増えてきているように感じている。時折腰や背中が刺すように痛む。
体が重いのはただの疲れだろうか。
痛みは症状なのだろうか。
私も母のようになるのだろうか。
そのときはすこしぼんやりはしてたと思う。チヒロを船において新たな植物がないか探索していると、肘に激痛が走り思わずうずくまった。大丈夫、いつもの痛みとは違う。パニックを起こしかけている自分を抑えつけて袖をまくる。森にはいるときは、なるべく長袖を着るようにしていたのに虫に刺されたのだろう。小さく血がにじんだ噛み跡の周りが赤く腫れあがりかけていた。
「ハルはすごいね。本当になんでもできて」
書庫でデータを整理していると、チヒロは座った足をぶらつかせながら唐突にそう言った。チヒロはコンピューターもあまり得意ではない。得意な科目が何かといわれると少し困ってしまうが。
「だって、ハルがいなきゃ私なんて生きてけなかったもん。こんなとこで」
チヒロは少し口をとがらせて拗ねた顔をしている。チヒロも最近は随分と積極的に手伝おうとしていた。未だにひき肉をこねるために手を突っ込む時には、ぎゅうっと目をつぶって苦い薬を飲み込んだような顔をしているけども。その顔を思い出して笑ってしまった。
「そうねぇ。確かに私がいないとあっというまに餓死確定ね」
そう、チヒロは頑張ってはいたけども、まだ何もできるようにはなっていない。今朝から熱っぽいけれど寝込むわけにはいかない。まだしなくちゃいけないことは山ほどある。
「ハル、なんだか顔色悪くない?」
「そう? モニターの光が反射してるだけでしょ」
「そう、かなぁ」
間に合うだろうか。救援は間に合ってくれるだろうか。間に合わなかったら?
もしエンジニアの助言を聞き入れて船に乗っていなければ、ミチもユウリもチヒロもとっくに漂流する宇宙船の中で餓死していただろう。ミチの最後の暴れ具合から考えたら、殺されていたかもしれない。どっちがマシだっただろうか。
「……もし、さ、もし、私が先に死んだらね、私の肉、食べていいよ?」
「やだっなんてことゆうのっ」
「だって、私がいなきゃ罠も仕掛けられないじゃない。食べ物、とれないよ?」
「だからってそんなことできるわけないでしょう。だってハルは友達なんだよ?」
そう、チヒロは思ったとおりの反応をしめした。馬鹿な子。何もできないくせに。一人でなんて何もできないくせに。あの高慢な連中に私を紹介したときの言葉と同じことをいう。こんなときなのに。
「言うと思った。そういうとこ好きよ」
「もう、ふざけてるし! いやな冗談言わないでよ」
「……でもね、そういう時はね、食べてもいいんだって。そうやって生き残った人の話読んだことあるもん」
「やめてってば! ぞっとする! だってそれならハルは私が先に死んだら私を食べるの?」
「食べるよ? それしか生きる方法がないならね」
大昔の実話。生き残るために仲間の死体の肉を食べた人達。生き残った彼らがその後どうなったのかはわからない。彼らが戻った世界はそれまでと同じに変わらない世界だっただろうか。私なら、多分何も変わらず過ごすことができる気がする。だけどチヒロはどうだろうか。完全に空想の話とも感じられないようなこの状況とはいえ、仮定の話に目を潤ませているチヒロの世界はどうなるだろうか。
チヒロに食べられた肉を通じて彼女の世界を見ることができはしないものだろうかと、ほんの一瞬よぎった考えは、あまりに馬鹿馬鹿しくて笑わずにはいられなくて、甘美ささえ感じてしまった。
私は特に不幸だと思ったこともない。勉強と屋敷の手伝いでめまぐるしくはあったが、どちらも私が自分からすると決めたことだ。十分な食事と清潔なシーツ、身寄りのない子供にしてはそうそうないほどの恵まれた環境で育っている。けれども広大な屋敷にいながらも、いつもいつも息苦しかった。
一時期ミニチュアハウスに凝っていたチヒロに父親が持ち帰ったものは、屋敷がそのまま縮小されていて、取り寄せた一点物の家具まで精密に造り上げられていた。そのハウスをやはり屋敷の庭を模した箱庭に納め、ミニチュアハウスのためだけの部屋が仕上がった。その部屋で遊ぶチヒロにお茶とお菓子を持っていったとき、ああ、だから息苦しいんだと何故か納得した。
そして楽しげにその箱庭で遊ぶチヒロ、この子の目に映る世界はどれほど綺麗なのだろう、そう思った。
息苦しさと寒気と頭痛にうっすらと呼び戻されるたび、チヒロが真っ赤な目で覗き込んでいた。
「ハル、ハル、寒い? 何か食べたいものはない? お水、お水飲んで?」
起き上がれなくなる前に、採血検査をしたんだった。データベースにかけてもなかなか答えがはじきだされなかった病原菌は、顕微鏡の中ですらどんどん増殖していった。空気感染や飛まつ感染はしなさそうなことを確認できたまでは覚えている。
私が震えているからだろう、チヒロは船にある毛布を全部もってきたかのように私をくるみあげていた。息苦しいのはこのせいじゃないのかとも思った。チヒロが指の関節まで白くなるほどに掴んでいるのは多分私の手。
「ハル、スープなら飲める? ハル、何か食べて」
チヒロは何種類もの非常食の封を切り、スプーンを差し出した。在庫がどれくらいかちゃんと教えたのに。ちゃんと週に一度だけ、一種類だけだと教えたのに。馬鹿なんだから。
「チヒロ、罠とか、わからなくなったら、作り方、記録しておいたから」
かろうじて伝えることができたのはその程度だったと思う。
途切れ途切れに意識が戻るたびに、必ずチヒロがいて泣いていた。
伝えたいことはもっとあった気がするのに、言葉には出せなかった。
声がでないことは、私が母のようにたわごとを言わずにすんでいるということで。
ほんとはもっとちゃんとチヒロに教えなくてはいけないことがあったのに。
それよりも母のようにならずにすみそうなことに安堵している私がいて。
病院でなんて死にたくなかった。
宇宙船が爆発しようと漂流しようと、あなたが見ている世界の中にいたかった。
止めることもできたけど。
あなたが一人でこんなところに残らないでいられるはずだったけど。
チヒロ、あなたの世界の中に私は住んでいたかったの。