表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
孔雀たちの箱庭  作者: 豆田 麦


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/2

前編

 こんなはずじゃなかった。

 これは夢に決まってる。


 そんなことばかり何日も叫び続けた。

 本当は何日もかどうかはわからない。一晩だけだったのかもしれないけれど、その星は一日が二十四時間ではなかったから目安になるものがない。ただ、どちらにしろそのときの私たちに夜が来たのかどうかを認識する冷静さはなかったと思う。


 通信設備は無事なようだった。多分。大体において警告色である赤い色は通信パネルのあたりには見当たらない。

 私たちは目的の星への航路から少しはずれた開発調整星域にある惑星に不時着していた。航路からはずれていることに気がついて、自動操縦から手動へ切り替えようとしたがなかなか思うような反応が得られなかった。激しい振動と計器類の点滅に悲鳴と警告音の不協和音ばかり。


 一日三十七時間、多少濃厚ではあるが私たちが息をつける程度の酸素と二酸化炭素を含んだ空気、生い茂る葉には常にしずくがついているほどの湿度と日に一度のスコール。薄碧に広がる海ははるか彼方で空と溶け合っている。人間は私たちしかいない。同じ大学に通うミチとユウリ、そしてこの船の持ち主であるチヒロ。


 私が同じゼミの男性との約二ヶ月の付き合いを終えたとき、チヒロは「気分転換しましょうよ」と父親の持ち物である小さな惑星への旅行に誘ってきた。ミチとユウリは高校こそ私と同じだったけど大学ではチヒロと同じく文系で、付き合いといえばちょくちょくチヒロの屋敷へ遊びにきたときにお茶をする程度だ。

 勿論、屋敷の広い庭にある計算されつくした木漏れ日が心地よくあたるガーデンテーブルにつくのは三人で、一緒にお茶を飲んでたわけではない。私は大学に通いながらチヒロの屋敷でメイドをしている。チヒロは自分の友人たちとの場に私を呼ぶのが好きだ。「友達なのよ」とそういって、私のいれた紅茶を飲む。


 父の顔は知らない。母はずっとチヒロの屋敷で住み込みのメイドをしていた。

 十歳のときに母が亡くなってからは、チヒロの両親が身寄りのない私を後見してくれている。莫大な富を持つものが貧するものに分け与えることは、社会的な義務なんだそうだ。個人で惑星を別荘代わりに所有するほどの資産家の自宅には、住み込みで働く人間が二十人をくだらなかった。お抱えのシェフ、お抱えの家庭教師、お抱えの庭師、お抱えのエンジニア。気まぐれな主人家族がいつでも飛び立てるように宇宙船は常に手入れされていた。運転手は必要がない。目的地をセットするだけで、定員二十四名の小型宇宙船は宙へ飛び立ち、四度のワープを経て、わずか十数時間で別荘のある星へ着陸する、はずだった。

 何度も何度も、チヒロやその両親が思い立ったときに繰り返されてきた星間旅行。たった三人のために切り拓かれ、小さな遊園地すら備え、いつくるかわからない主人たちを待つ従者達がいる穏やかな気候の星に着くはずだった。


「救難信号は出してるから、すぐに救援は来ると思うよ」


 チヒロを中心に寄り添いあった三人にそう告げると、お互いの顔を順番に見合わせながら、またすがりつきあった。意味のない疑問や悲鳴を叫びあっていただけのこの三人は、本当に? と私の目を探る。


 たとえ私が嘘をついていたとしても、貴方たちにはわかりようもないでしょうにね。





「残念ですが」


 病死した母を担当していた医師は哀れみの色を瞳に浮かべて私にそういった。母の臨終を告げた時と同じに。母の病は遺伝性のものだったから、いつか私も発症することがあるかもしれないとは思っていた。

 母は三十五歳で亡くなったから、私もそのくらいまでは生きられるだろうとなんとなく考えていたのに、どうやら大学へ通ったことは無駄に終わりそうだな、と意外と冷静に受け止めることができた。


 今は朝起きるのが少しだるくて、たまに鼻血が出るくらい。どのくらい持つだろうか。体を動かすことができるのはどのくらいまでだろうか。実感がなかなかわかないその診断は、半年ほど前に受けたもの。母は床についてから亡くなるまで数ヶ月だったと思う。発症がいつだったかは知らない。





 ミチもユウリも、チヒロほどではないが裕福な家庭の娘たちで、その人生を飾るために大学へ通い、そこそこ家柄に見合う男性と家庭をつくることだけを信じているタイプの女性で。手を荒れさせない嗜み程度の家事くらいしか身につけてはいないし、それで何一つ不自由はない。この星に来ることさえなければ。


 彼女たちは倉庫から食料を持ち出すことすらしない。飲み物も食べ物も、テーブルの上にいつでも湧いてくるものだと思ってるかのように。星間旅行中には緊急時に備えて、ある程度の食料や生活用品などを載せておくことが義務付けられている。緊急時といっても実際にはワープの順番待ちや着陸待機くらいの想定でしかないが、それでも乗員が一月暮らせる在庫はある。念のため倉庫の中も確認し、そう伝えていたにも関わらず、彼女たちはテーブルの上の菓子や何かを無造作につまみ続けていた。全ての在庫を三十日と人数で割らなくても不安を覚えないのだろう。それは自分たち以外の誰かが当然しているであろうことなのだから。


 救難信号は出してある。航空局に提出を義務付けられている予定航路からさほど離れていないのも確か。私達が行方不明になった時点で捜索は開始されているだろう。


 けれど彼女たちは多分知らない。

 宇宙はとても広いことを。

 救難信号を出したところで、ある程度の見当がついていなければ、その信号を拾うことはできないのだということ。


 私たちは未開発の惑星に着陸している。惑星とは自転公転するもの。救難信号は全方位に向けて発信されるものではないこと。それでも、もしこれが本当に純粋な事故ならば、とっくに私達が消息を絶った位置は特定され、救援の信号を受信してるはず。

 既に私達の時間でいえば一週間経っていた。


 彼女たちはまるで疑っていない。今彼女たちが生き延びられるかどうかの鍵は私が握っている。こんな消える寸前の命に頼るしかない彼女らが哀れで、こみ上げる笑いを抑えるのに苦労した。






 船外に出ると、むせ返るほどの熱気と湿度がまとわりついてきた。スコールの時以外はうつむいていてもまぶしいくらいの日射しが容赦なく照りつける。船は密林と海の間のわずかな岩場に着陸させた。かろうじて平坦といえなくもない場所はここしかなかったから。


 進んだ専門は理系だったけれど、古典文学を読むのは好きだった。何百年も前の地球、飼い慣らされていない動物たち、人の管理が及ばない気象、その中でささやかに自分たちの命を紡いでいる人間たち、その世界は、地球を飛び出しはるか彼方の星域にまで生活範囲を広げた私たちのそれよりも、ずっとずっと広く果てのない世界に思えた。

 きっと深呼吸をしたら空気は詰まることなく私の胸の中に吸い込まれていくのだろうと夢想した。


 立体ホログラムでみた太古の地球によく似たこの星で、大きく息を吸い込んでみる。熱すぎて胸が焼けるかと思った。まあ、現実なんてそんなものだ。慌てて携帯用酸素吸入器をとりに倉庫へ戻って出直した。ついでに空き部屋の浴室からシャワーカーテンを適当な大きさに切ったものも用意する。これを頭からかぶれば多少の陽射しは遮れるだろう。両手はあまり塞ぎたくないから何か細工をしなくてはと思ったが、森の中に入ってしまえば必要ないことに気づいた。木漏れ日も刺さるような痛みがあるが、動きを制限されることと天秤にかければ耐えられないものではない。シャワーカーテンは森に入ったあたりの樹に、目印も兼ねてひっかけた。


 ライトアップされた舞台の袖のように、暗がりでは何かが常にうごめいている気配があった。そこかしこに甲高い鳴き声、風が吹く方向とは別の方向へ向かう葉擦れの音。時にはちらちらと黄緑色や赤い小さな何対もの光が走って行った。三メートル進むごとに目の高さの枝に荷造り用の赤い紐を結びつけた。肉厚そうな葉や柔らかくなってきている実、何かの動物がついばんだ跡がある樹や草を中心に分類しながら集めた。視界の隅を走っていく何かの大きさを頭に叩き込む。


 銃や刃物の武器はあるが、飛んでるものを撃ち落すのはさすがにハードルが高い。地を走るものなら、あるいは罠を仕掛けるか何かで捕らえることができるかもしれない。

 宇宙船が海の上に突き出しているあたりの作業用出入り口からは釣り糸を垂らしてある。釣り針は縫い針に細工した。ちゃんと「返し」も資料のとおり作ったから間違いはないはず。ゆらりと動く影や波頭とは違う反射を、何度か海面に見た。入っていけば何かいそうだとも思うが、薄碧い海面のところどころに濃紺の部分が見えるということはかなり深い部分が口を開けて待ってるということだ。自由の利かない未知の場所に行くにはまだ早いと思った。もう少し、準備を整えてからでなくては。


 毎日外に出て行動範囲を広げた。生まれて初めての日焼けに最初こそ肌はびりびりと痛んでいたが、色が落ち着いてくると痛みはおさまってきた。酸素吸入器は船から森へ入るまでに時折使うだけで済むようになった。岩場に足をとられることなく森の中にたどり着けるようにもなった。一人乗りのエアバイクは搭載されていたけれど、エネルギーの無駄遣いはできない。船の中の機能も最小限に絞り、太陽光だけでまかなえる程度まで落とした。


 彼女たちは眠るときに個室へ戻る以外は常に一緒にいた。一体何をそれだけ話すことがあるのか知らないが、あまり内容に興味もわかない。時折私が通りかかった途端に口をつぐむことがあったから、多分そんなときは私の話でもしてたのだろう。別に今に始まったことでもないからそれも興味はわかない。というか、大体想像できる。


「ハルは私たちと違うから」


 彼女たちは、そう線を引くことで全てのことに理由がつくと思っている。

 私が彼女たちより成績がいいことも、運動ができることも、彼女たちのいうところの条件のいい男性が言い寄ってくることにも。

 そして今は、空調の整ったミーティングルームにこもることが正当だということにしたいのだろう。手伝われても足手まといにしかならないのは明白なので、別に問題はない。


 問題は外での探索を始めてから十日経っても、まだ食べられそうな植物が手に入らないこと。

 釣り針に魚がかからないこと。これは餌が悪いのかもしれない。手に入れた植物は全て成分分析にかけている。

 写真をとり、成分とともに、赤い紐の目印を記した地図に生えている場所を記録した。調理法までもたどりつかない。どれもこれも明らかに毒性を示していた。この星の動物たちには支障のない成分なのだろう。いくつか魚の餌にしてみたがやはり駄目だった。

 海に入るしかないだろうか。私はプールでしか泳いだことはない。命綱をつければなんとか岩場の陰にいるであろう貝なりなんなりが手に入れることができるかもしれない。食べることはできなかったとしても、魚の餌には海に棲むもののほうがいいだろう。




 書庫で資料を漁りながら明日の行動を検討していると、ユウリが入ってきた。

 書庫といっても紙の本があるわけではない。ミーティングルームや個室には装飾品として多少おいてあるが、ここには膨大な資料がおさめられたディスクや、視聴するための端末と椅子がいくつかあるだけ。ミーティングルームに比べ、少し無機質なこの部屋は彼女たちの好みには合わないし、船内のドアは全て手動に切り替えてあった。つまり、ユウリはわざわざこの部屋を訪れたということ。ちょっと驚いた。


 ユウリは私に声をかけるのをためらっているのか用がない振りをしたいのかよくわからないが、空いている端末の角を人差し指で撫でながらディスクが収納されている壁にそって目を泳がせていた。面倒くさい人。


「何か探しもの?」


 まるで私がいるのに今気づいたかのように、ああ、とユウリはやっと私に顔を向けた。その目つきは何か見覚えがあった。


「ううん、特に何か探してるってわけ、じゃないの」

「そう」


 まともに彼女の顔を見るのは久しぶりだ。いや、見たことがあっただろうか。よくわからない。でも記憶ではこんなに落ち窪んだ目はしていなかったと思う。ほんの少しばかりふくよかすぎる体にふさわしく、彼女の頬はいつも赤らんでいたはず。


「……ねえ、もう三週間になるよね」

「私達の時計では、正確には十八日、ね」


 あの、と言ったっきり、ユウリは口をつぐんだ。

 私は画面に目を戻し、釣りの資料を再度チェックしながら、樹の根元を掘ってみることを試してなかったことに気づいた。森の中には無数の虫が這い、飛び回っていた。勿論、地球とは違う生態系なのだから進化の過程だって当然違う。この星の植物も動物もディスクにはデータがほとんど入っていなかった。でも試してみる価値はある。虫は虫っぽい形をしているし動物は毛むくじゃらだったりしているし。幼虫は魚の餌になるかもしれない。


「あの、ね」


 急に声をはりあげたユウリに視線を戻した。


「何?」


 また黙り込もうとするようにユウリはうつむいた。


「聞きたいことがあるならどうぞ。ないなら部屋に戻ってもいい?」

「何してたの?」

「調べ物」

「もう終わったの?」

「終わりはしないわね。あなたが用を済ませて出て行ってくれるのなら続きをするわ」


 見開かれたユウリの目には純粋な驚きしか伺えなかった。

 こういうとき、彼女たちの思考回路に若干のうらやましさを覚える。自分が拒否される可能性が頭をよぎることなどほんの一秒すらもないのだ。

 私には彼女たちを受け入れなくてはならない理由など何もないというのに。

 先日別れた男性もそうだった。自分は相手に不利益になるようなことは何もしていない、だから受け入れられて当然だと。いつでも座る椅子が用意されている生活をしているとみんなこうなってしまうものなのだろうか。黙りこくってしまったユウリの横をとおりすぎようとしたとき、袖を掴まれた。


「あの、ね、食事とか飲み物、あとどのくらいもつの? ここ何日か少し減ってるよね? もうなくなっちゃうの?」

「水は浄水装置があるから、心配いらないわよ」

「じゃあ食べるものは? ねえ、一ヶ月って、在庫は一か月分って言ってたよね? どうなるの? なくなっちゃったらどうなるの?」


 今やユウリは私の両腕に爪をたてんばかりにしがみついていた。ユウリと私の背は同じくらいにも関わらず、彼女は私の目を覗き込むように顔を近づけている。鈍く底光るこの目を私は知っている。亡くなる間際の母がこんな目をしていた。


「どうなるって? 考えてみたら? 今まで何不自由なく満たされていたその胃に何も入らなくなったらどうなるか。ダイエットの宣言、何回したんだっけ? 食べるのを我慢できなかったのはご飯じゃないわよね。お抱えのシェフにダイエットメニューをつくらせて、それでも甘いものをやめられなかったんじゃなかったっけ? おなかがすくってことをあなたもしかして知らないかもしれないから、わからないかもね?」


 ユウリのふんわりとやわらかい手首を掴み、私の腕から引き離した。


「よかったわね、念願のダイエットがかなうかもよ。もっとも好みのところでやめられるかどうかわからないけどね」

「でも、でも」

「でも、なあに?」


 ユウリは涙を浮かべながら小刻みに首を振っている。


「ハル、あなたなんとかしてくれるんでしょう? 助けてくれるわよね?」

「どうして私があなたを助けるなんて思うの?」

「だって」

「ねえ、どれだけ食料が残っているか、って聞いたわね? 倉庫を見てきたら? 鍵なんてかかってないわ。見てきて、数を数えて、あとどのくらいもつか、一日にどのくらい食べたら何日もつか、一人でならどのくらいもつか、二人でならどれくらいもつか、自分の目で確かめてみたらいいわ」

「だって、ハル」

「私に何ができるというの? あなたたちと同じ年の女性なのに。私は話しておいたわよ。食べるものの量も、どのくらいもつのかも、ね。あなたたちは、何も考えずにテーブルに載っているものを食べ続けてたじゃないの。食べたいときに、食べたいだけ。何を今更不安そうにしているの?」

「ハル、やめて。怖い」

「聞いてきたのはあなたよ」

「だって、ハル、あなたがテーブルにおいてくれたんじゃない。だから」

「おいてあるものをどれだけのペースで食べるのか、それはあなた方が決めたんじゃないの?」


 やっとユウリの脳に私の言葉が刻まれたようで、みるみるうちに血の気が引いていった。


「そんな、だってハル」

「私は一言も、テーブルの上の食べ物が三人分だとも一日分だとも一食分だとも言ってないわよ」


 手首から手を離すと、そのまま床にへたり込んだユウリを見下ろす。部屋にはいってきたときよりも一回り小さく見えた。


「三人……?」


 ユウリはそうつぶやいてもう一度私を見上げた。

 人間、いざとなると脳が活発に動き出すこともあるようだ。彼女のこれまでの人生でこれほどまでに思考が加速したことなんてなかったんじゃないだろうか。小刻みに揺れる瞳の奥では今必死に私の言葉をたぐりよせていることだろう。

 これまで私がテーブルの上の食べ物に手をつけていたかどうか、思い出そうとでもしてるのかもしれない。調理が必要なものですら、私が同じテーブルにつくことはなかったことは思い出せているだろうか。そうよね。今まで一緒に食事したことなどなかったのだから不思議に思うはずもない。ホストとゲストがともに食事をすることはあっても使用人は宴の席にはつかないもの、ね。

 私はかがみこんで、ユウリの耳元に唇が触れるほど近づいて囁いた。


「確かめてみたら?」






 次の日、釣りが初めて成功した。

 樹の根元をいくつも掘り起こして捕まえた虫を釣り針に刺す時は少し背筋がぞわぞわしたけど、正解だった。それに釣れるまではどうやらそばでみていたほうがいいらしい。その場を離れて戻ったときにたまたま竿が引いていたから釣り上げられたが、三本仕掛けたうち、一本からは釣り針ごと餌がもっていかれていた。それでも残った二本でもう一匹釣り上げた。


 餌にした虫は四種類。魚が食いついたのは二種類。あとで記録しておかなくては。二匹の魚の色合いは少し違うけど同じ種類の魚だろう。私の二の腕ほどの大きさのが一匹、それより二回り小さいのが一匹。

 硬いうろこで覆われていて、その上に粘膜でもあるのかぬるぬるとしていた。


 小さいほうの魚の胴あたりにナイフをあててみたが刃が立たなかった上に、予想以上に跳ねる魚の力は強かった。屋敷の厨房でシェフたちが魚をさばいているところは見たことがあるし、簡単な下ごしらえは手伝ったこともある。どこかに刃を差し込める場所があるはず。どこだっただろう。書庫でみたデータの画像を思い出す。見た限り骨格はさほど変わらないように思える。そう、魚にはエラがある。覆い尽くす鱗とは少し形の違う場所、その出っ張りの下に切っ先をつきたてる。その後は簡単だった。魚は一通り暴れた後、痙攣しておとなしくなった。後から見てみると皮手袋に切れ目が入っていたけど、あの尖ったヒレだろうか。これも忘れないように記録しよう。


 分析室に入り、皮手袋から使い捨ての実験用手袋に替えて、慎重に内臓と身と骨を切り分ける。あれだけ植物に漏れなく毒性があるということは、虫も毒性を含んでいると思ったほうがいい。内臓と身をそれぞれ必要量すりつぶして分析器に入れた。簡易なものとはいえ、何故こんな装置まで搭載しているのかよくわからないが、チヒロの父親はどこか少年ぽいところがあって、よく別荘の星で何か採取しては分析して喜んでいた。科学者でもなんでもないはずなのだけども。


 ともかく、身に毒性はなかった。案の定内臓は駄目だったけど、やっと見つけた。背もたれに体を一瞬預けたけど、体が重く感じる前に立ち上がり、残りの一匹をいれたバケツを持ってキッチンへ向かうと珍しく通路にミチとチヒロがいた。


「ああ、ハル! なんだかユウリがおかしいの」


 駆け寄ってきたチヒロはいつものように私の腕にしがみつこうとして、下げているバケツに気がついた。


「これ……なあに?」


 ミチとチヒロがうろうろしていたのはユウリの部屋の前だった。

 倉庫から食料を根こそぎかき集めてこもってしまったらしい。

 どれほど在庫の少なさに衝撃を受けたのだろう。それとも在庫が少ないということすらわからなかったのだろうか。

 彼女たちが今まで一日にどれくらい食料を消費していたのか、そんなことを覚えているとも思えない。大体当初の量を知らないのだから、残っているはずの量がわかる道理がない。

 普段動かしていない脳はやっぱり動いたところでたかがしれたもののようだ。それとも、ぎりぎりのところで育ちのよさがでたのだろうか。私の部屋や倉庫の奥の小部屋、キッチンの収納棚、分散させておいた食料はどれも一ミリたりともその位置を変えていなかった。


 本当に倉庫の中に残っているものが全てだと思い込んだらしい。


「ぶらさがってるだけの糸にとびつくなんて、魚ってひどく間抜けなのね」


 魚の釣り方を教えるために連れ出した作業口から眼下に広がる海をおそるおそる覗き込んで、とびきりのお嬢様がつぶやいた。ええ。本当に本当にひどく間抜けね。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ