『白紙論』
**
『人間の心は、白紙の紙に色々なことを書いていく――つまり、経験する――ことによって形成される』
西洋の思想家である、ジョン・ロックの『白紙論』は、このようなことを述べたものです。人間の心は、生まれた時は白紙の状態である。そこから色々なことを経験し、積み重ねていくことで、心は形成されていく。逆に言えば、経験したことがないことは、分からないということです。
**
1
人間は、「成長」していきます。人生を過ごしていく中で、様々なことを経験し、様々な人と出会い、様々な価値観に触れていく中で、自分というものを確立していくのだと思います。それはきっと、そうしよう、と思ってすぐにできることではありません。小学校のころから、先生や周りの友達、そして両親と関係を築いていく中で、徐々に積み重なっていくものなのでしょう。私の周りのみんなは、そうして「成長」していきました。小学校を卒業し、中学生となり、新たなメンバーと交流して、それまでは知らなかった気持ちを知りつつある人たちであふれていました。
私だけが、その輪の中に入っていませんでした。いえ、入れませんでした。なぜなら私は、その気持ちを知る資格がなかったから。小学校のころ、満足に他人と交わることなく、まして友達と呼べる人もろくにおらず、だけどそれを苦とも思わずに過ごしているような少女でした。ようやく、「トモダチ」という言葉が「友達」と姿を変えた時には、別れの時間は目の前にまで迫っていたのです。
ほんの少し前まで、そんなことも分からなかったような馬鹿な私が、それより高次な概念など、理解できるはずもありません。みんながどんどん「大人」になっていく中で、私はただ一人、「小さな大人」であらざるを得なくなっていました。「子ども」ではない。だけど、「大人」にはなりきれない。大きな概念の狭間で漂っている塵のような存在でした。そこから抜け出したい、と思ったことは一度や二度ではありません。一日一日、その焦りは募っていきました。だけど、方法が分からない。私の問いに、答えを提示してくれる存在が、周りにいない。その考えをよりはっきりさせてくれてしまった出来事が、つい最近ありました。
その疑問を持って煩悶としていたある時、私は思い切って、答えを知っていそうなクラスの女子に尋ねてみることにしました。彼女が一人でいる時をねらって、私は小声で話しかけてみます。彼女は、ほかのみんなに見せるのと全く差異のない明るい笑顔で私を迎え入れてくれます。
「〇〇さんってさ、確か彼氏さんいたよね?」
私は彼氏、とかいう言葉には、必ず「さん」を付けてしまいます。私なんかがおいそれと口にしてよい言葉には思えなくて。自ら距離を開けているのです。
「うん、いるよー」
さっぱりとした声が返ってきます。彼女は、隣のクラスにそういった恋仲の相手がいて、いつも部活で遅くなる彼を、日が暮れるような時間まで教室でじっと待っているような女の子でした。私は時々自習のために遅くまで残ることがあって、そんな彼女の姿も、幾度となく見ています。
「その彼氏さんってさ、〇〇さんにとって、どういった存在なの?」
そうした彼女の姿を知っているから、私は問いかけながらも、返ってくる答えの予想はしていました。大切だー、とか、かけがえのないー、とか、そういったありきたりで、でもそれ以上は言い表せないような返事を予想していたのです。
しかし、彼女は一瞬ぽかんとした表情を見せた後、高らかに笑いだしました。そして、唐突に笑うのを止め、私の耳元まで口を寄せて、囁いたのです。
「……どういった存在も、くそもないよ。ただの一人の男。それ以上も、それ以下もない」
言い終わるとぱっと顔を上げ、「これでいい?」と確認するだけ確認して、私の返事も聞かずにどこかへと去って行きました。
教室の喧騒が遠い。まるで、異次元に来てしまったかのよう。彼女の最後の笑いを乗せたような風が、私の体を掠めていきました。
それから丸二日が経過し、それでもなお私の心の中のもやもやは解消されずにいました。彼女から話を聞いた日、その日も彼女は遅くまで教室で彼を待ち、そして二人で一緒に帰っていました。私は、自分の下校道と重なっている場所だけ、二人のあとをつけたのですが、彼女は常に彼の話に笑顔を見せていました。その笑顔は、クラスのみんなの前で見せるそれと同じようにも見えるし、一味違っているようにも見えます。彼もまた、同様に楽しそうでした。もし、心の中で思っていることを知ってしまえば、どうなるんだろう? 私の家とは反対方向に向かう二人を立ち止まって見つめながら、そんなことを思いました。
本当に、それは特別な感情なのでしょうか? 小学校ではあまり経験しなくて、中学生になった途端、それを経験するという人は多いと思います。急に魅力的になった。あっちの小学校から来た誰々がかっこよかった、可愛かった。性格が良いと思った。その理由は人それぞれであれ、その心が行きつく先は、時に「友情」を越えます。そして私は、それが何なのか、答えが導きだせないのです。
「恋」って、何なのでしょう?? 少なくとも、単なる遊びで持つ感情ではないとは思います……。
家に到着し、私は鞄を放り出し、そのまま部屋に置いてあるぬいぐるみの山に顔を埋めます。きゅっと悲鳴を上げますが、それでも優しく私を包み込んでくれました。彼(彼女?)らのもふもふとした感触を味わいながら、私はみんなに問いかけるように、心の中で尋ねてみます。
――ねえ、教えて。恋って何?
答えのない質問は、心の穴を通過して、身体じゅうを循環します。巡り巡るうちに、勝手に消えていく。
やがてお父さんとお母さんが帰ってきて、私は普段と変わらぬ姿で二人と接し、いつもと同じ夜を過ごします。いつものように、心の暴れを必死に押さえつけながら。
明日の学校の準備を整え、私はベッドにもぐりこみました。しばらくは悶々として眠れるかどうか不安でしたが、それでもいつの間にか夢の世界へと向かっていたようです。
そして。
こんな、夢を見ました。
*
どこか分からない。真っ白な世界に、私は来ています。雪で埋もれているわけではない。天国のように、雲で覆われているわけでもない。言わば、虚構の空間でした。何もないからこそ、真っ白。これから様々な物語が記されていく原稿用紙のように、「無」で、どことなく寂しさを感じます。
そんな私にかけられる声がありました。「ねぇ、聞こえる?」。私よりも幼さを感じる、少女の声。なぜか、それに優しさを感じます。
「だれ?」
私は、素直に思いついた言葉を発しました。するとその声は、くすくすと笑うのです。何か小声で呟いたようにも聞こえましたが、私には聞き取れませんでした。
「ねぇ、だれなの?」
少し苛立ちを込めて、私は再度訊ねます。声は「ごめんごめん」と軽い調子で謝り、ひと呼吸おいて、話し出しました。
「正直な話、ワタシに名前はないんだ。だから、好きなように呼んでくれて構わないよ」
あっけらかんと、その声は言います。
「名前がないの? どうして?」
「どうして、か……。なかなか答えづらい質問だけど、あえて答えるなら……」
暫し沈黙の時間があって、ぽつりとこう答えました。
「名前を付ける必要がないからかな」
「……」
よく、わかりません。そもそも、どうして声だけが聞こえるのか、実体はないのか、ここはどういった場所なのか……質問を挙げていったらキリがありません。私は諦めて、「それじゃあ、ナナシちゃんって呼ぶね」と、答えました。
「ナナシちゃん、か。わかったよ」
苦笑しているのがありありと感じ取れます。
「それで、キミは何て言うの? さすがにキミには名前があるよね?」
当たり前じゃない。と、心の中で息を荒げて言います。
「私はサユキ。それで、ここはどこなの? どうして私はこんなところにいるの?」
よろしくね、サユキ……と、そんな声が聞こえたような気がしますが、それには応えません。矢継ぎ早に質問をぶつけます。
「うん、普通そうなっちゃうよね。それじゃあ、ちょっと説明していこうかな」
ナナシちゃんは、そう言って、長い説明を始めました。
難しいことは、私には分かりません。だから要点をまとめると、どうもこの世界は夢の中の世界で、現実世界で何かに行き詰ったり、何かに対する答えを求め続けたりしている人が自然と訪れる空間なのだそうです。そして、私が会話している声の相手は、いわばこの空間の管理人のような人物。つまり、私を、あの問題の「解」まで導いてくれる存在であるということです。
そう思うと、私はがぜん、張り切ってきました。何せ、ずっと疑問に思っていたことが、これで晴らせるのだと。あのモヤモヤした気持ちから解放されるのだと思うと、テンションが上がらないはずがありません。
「それで、サユキはどうして自分がここに来たのか、心当たりはあるの?」
「もちろん! むしろ、私はこういう所に来てみたかったの!」
鼻息荒く告げる私を、ナナシちゃんは笑いながら見ているようです。
「それじゃ、その話、聞かせてもらえる? キミの力になれるように努力するよ」
私はその声が終わる前に話し出していました。
「……というわけなの。ナナシちゃんはどう思う?」
これまで私がずっと考えてきたことを、つい最近起こったことを踏まえて、私は出来る限りかいつまんで話しました。不思議と、それだけでわずかながら心が軽くなったように思います。よくよく考えたら、私の気持ちについて誰かに話したのは、彼女が初めてでした。
「難しい……っていうか、普通、中学生が考えるような問題じゃないよね」
話を聞き終えた彼女がまず発したのはこんな言葉でした。
「サユキって、普通の中学生じゃない?」
問われて、即答します。「そうだよ」って。
「私が異常なことは、ナナシちゃんに言われるまでもなく十分承知してる。だからこそ、同い年の誰もが深くは考えないようなことを真剣に考えちゃうんだよ」
だから私は、周りのみんなに馴染めない。何も考えずに、感情の赴くままに生きることができれば、きっと私はもっと心の安寧を感じられただろうし、友達もできていた。そうなれなかったのは、全ては、この世のものを素直に受け入れることができなかったという性格ゆえです。
「うーん……ワタシもすぐには、答えは出せないよ。だからさ、一緒に考えていかない?」
わかったわ、と私は答えます。
「まずさ、サユキは恋愛についてどう思ってるの?」
「どう……?」
「そ。一番大きな枠組みなら……必要か不要か、とか」
恋愛の必要性……。そんなもの、答えは決まってます。
「必要だと思う。だって、恋愛感情がないと誰も生まれてこないもの」
よほど複雑な事情があるのであれば話は別ですが……でも、大半の人々は、そうした感情があってこそ、生まれてきたはずです。
「うん。そうだよね。ワタシもそれは同じ。でも、多分サユキが考えてるのは、そういうことじゃないよね」
全てを見透かしたような、ナナシちゃんの声。私は素直に頷きます。
「ええ。私が考えてるのは、恋愛って何だろう? ってこと。普段、学校で生活してたら、恋人をつくってる人とはたくさん出会うけど、中には真剣じゃない人もいる。さっき話した通りね。それに意味はあるのかな、って。そんな相手を『恋人』って呼んだり、『恋愛』してる、って言ったり……。もはや『恋愛』じゃない、って思ったの」
その時から特に、子孫を残したり共同生活を築いたりすることを除く、恋愛というものに疑問を抱き始めたのです。それ以前の考えよりも、より深淵に落ちてしまったような……。
「じゃあさ、サユキは、サユキと同い年ぐらいの人が恋愛することに、意味はないって思う?」
うーん……。完全に否定はできません。全員が全員、中途半端な感情で付き合っているわけではないし、中には真剣な人もいます(と、思いたいです)。ただ、その中には、高校進学と同時に別れてしまう、もしくはそれが原因で疎遠になってしまう人もいる。この時の恋愛が、将来に大きな影響を与えるかというと、その可能性は限りなく低い。そんなことを思うと……。
「どっちかって言うと……意味はないって思う……かな……」
断言はできません。ですが、これが今の私の答えです。
「なるほどね」
ナナシちゃんは、ぽつりと呟きます。
その声は、どことなく悲しそうにも聞こえました。
「……サユキはさ、恋愛って結婚して子どもを産んで、一緒に暮らすことだけが『恋愛』だって思ってたりする?」
「え……?」
「もしかしたら、サユキは、自分の中に持つ『恋愛』の意味の幅が狭すぎるのかもしれない。だから、周りの人がどう思ってそれをしているか、どうしてそうしようと思ったのか、理解できないんじゃない?」
「意味の、幅……?」
「分かりやすく例えてみようか。たとえば、『殺人』って悪いことだと思う?」
もちろん、と私は頷きます。
「普通はそうだね。でも、一言で『殺人』って言ったって、その裏には何があったか分からない。無差別に誰かを襲ったのかもしれないし、大切な人を奪われた怒りや悲しみがあったかもしれない。だからこそ、表面には見えない、内面的なことを加味した途端に、『殺人』という悪が、薄れるようになる瞬間があるかもしれないんだ。表面しか見ていない限りは、『殺人』は悪だ。でも、それに隠れてしまっているものを見つけ出すことで、その概念って結構簡単に覆ってしまうこともあるんだよ。恋愛だって一緒。サユキはそれを表面的にしか見ていないから、答えが導きだせない。もっと、内面的……主には感情面だね。それを、考えてみるのが一番だと思うよ」
彼女の言いたいことは、何となくですが分かります。ただ、言葉で言うのは簡単ですが、それを実行しろと言われたところで、私には越えられぬ壁があります。
「恋愛、って……どうしたらできるの?」
恋愛の仕方が、わかりません。
「自発的に出来るんだったら、それって恋愛って言わないんじゃ……」
「もっともだね。……じゃあ、こうしよう」
一旦言葉を区切り、高らかに宣言しました
「ワタシが、キミに恋愛をさせてあげる。無意識のうちに、好きな男の子ができるようにしてあげるよ」
彼女がそう言った途端に、世界は暗転しました。意識が、そこから離れていきます。
気づけば、私はいつものようにベッドの上で目を覚ましていました。先ほどまでの彼女の声は、まるで大音量で音楽を聴いていたかのように、頭の中にこびりついています。
窓の外からは、ちゅんちゅんとさえずる鳥たちの歌声が、聞こえていました。