第三話
3
小さな服を畳む。もう一生、縁のない服だ。誰かにあげてしまうのがいいんだろうけれど、都合よく出産するような知人はいなかった。
引出しを戻す。
残りは最下段の二つだ。短足があるからなのか、最下段には取手が二つある。
真ん中の穴と下から持ちやすい窪みは、どちらにせよ座らないと引くことができない低い位置にある。
畳に片膝をついた春希は、左側の窪みに指を掛けて二つ上の段が頭を殴打しないように、もう片方の手をキャッチャーフライでも取るかのように広げて待ち構えた。
下の段には遊び道具が入っている。グローブに始まり、人生をシミュレートしたりクテュルフがうーにゃーみたいなボードゲームから、一時期杏奈がはまっていたグレイシー柔術のためのミットも片づけていたはずだ。
指をかけた最下段の取手を手前に引いた春希は、獣の叫びを聞いた。ワンとかニャーとか、聞こえないはずの生き物の声を、確かに聞いたのだった。
「いってえ!」
膝立ちしていたすねにピンポイントでロケット発射したのは、飛び出してくるはずのない最下段のもう一つの引出しだった。キャッチャーフライで上を向いていたら予想外の方向からのアッパーを受けた。
轢かれるような痛みに悶えて畳の上を転げまわる。そうしたら、雑多な荷物の国が防衛するかのように、とげとげしい絨毯となって春希にさらなる苦痛を味合わせた。
最弱の罠だったパンチタンスは、ペットが飼い主に噛みついて歯形を残すように、最後の最後に本懐を遂げたのだった。
それは、二重の意味で。
すねと背中に生じた痛痒は呻きに変換されて春希の体から消化された。ようやく立ち上がったとき、パンチタンスの引出しはタンスから飛び出ていた。
止め具はないから外すのは簡単だけれども、人の手なしに外れるのか……?
引出しのなくなった暗がりに、微かな違和感があった。指先でなぞると、何かを嵌め込んである継ぎ目に触れた。
電球が揺れて照らす場所をまちまちと変えた。灯台が海路を失った船乗りたちの指針になるように、春希は未来の見えない真っ暗闇の中で歪んだ光を見つけた気分だった。
最下段の下、引出しを外したときに初めてわかる、短足には人為的に嵌め込まれた板があった。
広げた手のひら程の四方形の板を指で押すと、対角が浮き上がった。
こんなものがあるなど、杏奈に一度も聞かされなかった。小さな棚ならともかく、タンスから引出しを剥がすことはない。せいぜいが引っ越しや模様替えだろうが、彼女はタンスを一度もこの場所から動かしたことがない。
パンチタンスの隠し部屋。その中には何もないはずだった。
けれど開く前から、春希は胸騒ぎが止まらず、誰かに手を操られていた。勝手に十指が木の板を持ち上げた。
水の中で止めていた息を、水上で一気に吐き出すように、閉じこもっていた空気が循環するのを息遣いだと感じた。
隠された空間は未開の地ではなかった。
きっと彼女のことだ。初日にはこの仕組みに気づいていたのだろう。
和箪笥には底部や引出しの奥に隠し箱が存在すると春樹は後から知った。
大きくはなくとも、本当に大切なものを入れるには十分な大きさのくり抜き。多くの隠し箱の在処はあまりに功名に隠蔽され、長年使用する持ち手が気づかないことさえある。外様には見せられないような物を忍ばせていることもあれば、家族の中の秘密さえ隠し通す。
現に妻が隠していたそれを彼は知らなかった。
春希は隠し箱の中身だけを取り出し、引出しを元に戻す。役目を終えたとばかりに、パンチタンスは存在を色褪せ、魂が抜けていた。
彼が見つけたのは、茶色い封筒だった。
それはよくある茶封筒だ。彼の会社で使っているものではなかった。どこか別の出版社のものでもない。百均で購入できる市販品だった。
中身は、なんだろうか。
机の傍の棚には、作家である杏奈が書いてきた小説のゲラが封筒に入ってどさりと積み上がっている。彼女の思考を言葉で表したそれは彼女の脳とも心とも言える。そしてそれらを春希は全て読みこんでいた。
まさか知らない原稿なんてあるはずもない。
封筒の輪ゴムを外して丸まりを解く。中身は紙だけだ。しかもそう多くはない。便箋でも三十枚もないだろう。封筒の封にのりはなく、すんなりと開いた。
中身は数十枚の原稿用紙だった。
表面に刷られていたのがインクではなく鉛筆で、文字がぎっしりと詰め込まれていたのを見て、春希はすぐに気づいた。
杏奈が病室で書いていた原稿だ。
一行目の表題を見るのと同時に、これがなんなのか知り、目頭が熱くなる。
『遺本』
妻の遺書だった。
春希が手元の原稿の存在に気づいたのは、杏奈の葬式を終えて一週間もしてからだった。
手の上の数十枚は短編だ。彼女が死ぬ前に執筆した、短編小説だ。
一度だけ杏奈は病院を脱走した。
春希が駆けつける前に彼女が息を引き取ったのはその翌々日だった。どこまで逃げていたのかと聞く猶予も余裕もないまま、杏奈は人としての力を失った。
答えは、ここにあった。
「家に、戻っていたのか」
杏奈の私室に踏み込んだ時、パンチタンスまでの道のりだけが不自然にでき上がっていた。それは偶然ではなかったのだ。彼女は、この原稿を家に隠すためだけに死ぬ間際に病院から抜けだしたのだ。
夫に何も知らせないまま。もしも気づかずにタンスを処分してしまっていたら、どうするつもりだったのか。
春希は妻のつたない思惑を感じ取って、苦笑した。
「何を書き遺したんだキミは」
我が家の中にあるということは見てもいいと許可を下したのだろう。そうでなくとも、編集の目を通すのが小説の常だ。
とっておきのクッキーを貪る子供のように、たまゆら温かくなった春希の心は、目を通して数行で、四肢を切り落とされた死体よりも冷たいものとなった。
※ ※ ※
俺が妻の部屋に入るのはいつぶりだろう。彼女の葬式を終えてからでないと、ここに踏み入るのは不埒な気がした。荼毘に付して天上の世界に送り届けることは、夫である俺の役割だ。
妻の私室はごちゃごちゃしている。おもちゃ箱をひっくり返しながら育った大人の末はこうなんだろうと思わせる。
鋭利なものでも踏んでしまわないように、一筋の獣道を歩くと、自然と目的地にたどり着いた。
妻は自室のタンスを「パンチタンス」と命名していた。
※ ※ ※
夫は肩で息をしていた。
全力逃走後のように脈拍が上昇している原因は、ただの小説だ。
多くの人にとってはありふれた小説だとしても、ただの一人にとっては違う。
そこに描かれているのは、生きている春希の姿だった。
※ ※ ※
お馬鹿な妻はなんでも取っておく。牛丼を買ったら紅ショウガは捨ててしまう癖に、旅に行けば小学生みたいになんでも拾って来る。俺はそのうちカエルの死体でも拾ってくるんじゃないかと毎日ひやひやしながら、彼女との結婚生活を楽しんでいた。
※ ※ ※
紅ショウガの取り扱いで杏奈と言い争ったことがあった。些細だ。些細なこと過ぎて、一度喧嘩したことを忘れて四度も同じ内容で口論して、同じ顛末で仲直りした。
それを覚えているのは、当人たちしかいない。
誰の葬式を行った。 妻だ。
誰がパンチタンスの前にいる。 妻の夫だ。
妻の夫は誰だ。
作中の俺とは誰だ。
どうして俺しか見ることのできない場所にこんな小説を残したんだ。
恐ろしい物語は、続く。
それが断罪なのか、はたまた別の何かなのか。
誰にもわからないまま、さらに奇怪じみて。
※ ※ ※
見るのは嫌だった。けれどそれは親として言ってはいけない言葉だ。
赤ちゃん服は無垢で、汚れていなかったことに安堵する。
そして俺は回想に入った。
妻が病院に俺を呼び出した。何事かと仕事を切り上げて、病院前の排水溝に足を突っ込むことも厭わずに病室にヘッドスライディングした。
頭の上で、選手宣誓より高らかに、妻が宣言した。
「名前はわたしが決めるわ。世界で最も愛を注ぎ込んだ言葉を生み出せるのは誰? あなた? 違うわ、わたしよ。丁寧に推敲に推敲に更に推敲を重ねて、幾千万の星よりも輝く名前を黒い筆の一本でわたしが与えるの。名付け親の座を譲ってくれないなら離婚するわ」
俺は突飛で無茶苦茶な彼女の一文を理解して、ひとつだけわかった。
彼女は赤ちゃんの誕生を照れるほど喜んでいた。
だったら夫の役割は一つだ。
「おめでとう」
※ ※ ※
書いてあったのは夫の心情だった。
心までも忠実に記された、彼女の知るはずのない春希の本心だった。
どうして。どうして。
春希は落としそうになった読みかけの原稿を、無意識に掴み直す。
どうして杏奈の死後の、彼女の知らない世界に生きる俺がいる。
杏奈は死んだ。俺は見た。杏奈の安らかな死に顔。火葬場から燃え上がった灰。墓だってあるんだ。
なのに、そのあとの、夫の生活を。
パンチタンスの前で感傷に浸ることをどうして彼女は予見していた。
それも寸分違わず、左上の引出しから思い出の品を眺め、浸る思い出の場所さえ変わらず、そのときに思っていた感情さえ克明に。
この本はなんだ。
春希にとって、この本はただの小説ではなかった。
予知書。
人の生き様を未来に渡って鮮明にしたためていればアカシックレコードと何が違う。
逆らえない運命の流れを読む不可思議、体を粘土にされてこねくり回されるような感触。
心地いいともわるいとも言えず、ただただあっけに取られていた。
俺は、最後の段を引いてすねをうちつけていた。
俺は隠し箱を見つけた。
訝しがりながらも、何かに後押しされた俺はひとつの封筒を見つける。本の中の俺が『遺本』に気づいた。ページを戸惑いながら捲る様は、数分前の自身を俯瞰して覗いている。
息を吐くことさえ忘れて、俺は見た。本の中に書かれた俺を。
俺は俺を見つけて、俺を追いかける。
俺の感情まで追いかけてくる俺が、現実の夫にたどり着く寸前。
恐怖心さえ凌駕した心に促され、春希は次のページをめくった。
息をのむ場面で、彼女は改行を挟んで、間抜けな音を鳴らした。
――ピンポーン
場に合わない擬音の表現を訂正しようとも考えなかった。
春希は現実と分岐し始めた――杏奈の予期した未来を読むことに必死だった。
俺はインターホンの音ではっと顔を上げた。ホラー小説でも手にしていた気分で、俺は頭を振った。真夏の夜の夢を見ていたときみたいに、その場から逃げだすように、朧気分で脳に靄がかかりながらも、俺は妻の部屋を抜け出し、玄関まで出た。
※ ※ ※
「三億円強盗犯を逮捕しに参りました。現行犯死刑だ。バーン、バーン」
台風が俺を洗濯機ごとまわしたって、ここまで混乱はしないだろう。
玄関を開けるまでもなかった。家の鍵で勝手に入って、たたきに彼女は立っていた。
「神様より好きな男がいるから戻ってきちゃった」
扉の前に立っていたのは、死んだはずの妻だった。
「どうして……どうして」
言葉が出てこない。喉に花束を差し込まれているみたいだ。妻はたおやかであり、俺の口から花を取り除くように優しく口づけをした。触れた唇が彼女の硬さを俺から吸いだしていく。
地に足を立つ彼女を抱きしめたのは、いつぶりだったろうか。
「キミは、キミの、キミを、俺は、キミを愛している」
あの日、間に合わなかったベッドの上のキミに言いたかったんだ。
「君と一緒に生きていたい」
「一緒に生きていきましょう」
彼女の腕は、溶けるアイスのように、背中をべたつかせた。
「このなかでだけ」
※ ※ ※
作家の台詞はまさしく刃物だ。
煌く縁切りの刀。ガラス玉が破砕する音。
春希は原稿の最後のページだけを握り閉め、作業机の筆立てから赤ボールペンを乱雑な動作でとりだした。ペン先が紙を滑らずに止まる。キャップが外れていなかった。春希はキャップをパンチタンスに投げつけて、訂正のための二重線を書き千切った。
――人は生き返りません
線は滲んで、すぐに元の文字は海に沈んだ。
了




