第二話
2
思い出の品々は春希にとって懐かしい。妻のタンスの中身をまじまじと眺めて、思いを馳せることはこれまでになかった。杏奈は持ち物を生物と同等に扱うから、タンスから取り出してまじまじと観察すると怒る。
縁切りの刀に始まり、タンスの中には見覚えのある品がいくつも収納されていた。彼女が壊した目覚まし時計、プロポーズしたレストランのメインディッシュのお皿、結婚式のブーケトスで杏奈が投げた萎れた花束、小説で使うからと給料三ヶ月分をつぎ込んだ天体望遠鏡の壊れた破片。
極上の笑顔も大喧嘩した後の涙も、一挙手一投足の喜怒哀楽が胸の中に収納されていることを確認する。
ひとつひとつ、その想いにぶれがないこと、間違っていないことを答え合わせするように。
庭に射す陽が傾いてきた。
西日は空の色を飴色に変え始め、部屋の白熱電球と境界線を争っている。畳の痕が足に残るのも気にならないまま、春希は作業を続けていた。
上から三段目の右側の引出し。
待ち受けているものに向き合うために、春希は深呼吸をした。
その引出しを開けた回数は数えきれない。けれどあれ以降は一度も見ていなかった。
願望の具現した物体の集まりは、虫が体の内側を這うようなおぞましささえ感じる。まな板に心臓を晒したほうがきっと何万倍も心が安らぐ。
吐いた息がパンチタンスの表面に被ったが湿ることはなかった。
思い切って、一息に引いた。
ママ一年目のお弁当みたいにせき詰められた保護色が春希の目に写ったのは一瞬で、一段上の引出しが庇となって彼の視界を遮った。あらかじめ用意していた左手で、それを悠長に押し戻す。
電球が明るみにする正体を見て、胸を食い破られる痛みに襲われるのと同時に、埃が被っていないことに安堵した。
風呂敷よりも小さな布地が整頓された引出しから、一着だけ取り出す。
手に乗ったそれの、中身はがらんどうで、庭に吹いた冷たい風が心の中を通り抜けていく気がした。
赤ちゃん服を握りしめる。
胸元を締めるための小さなボタンだけが硬質で、彼の手にささやかな痛みを残した。
タンスとして正しい用途は服を収納することで、八つの引出しの中で服が入っているのは、この赤ちゃん用の引出しだけだった。
「無味無臭。ちょっとだけ、手垢がついてるかもな」
正しく使われることのなかった服をしまう引出しは、きっと妻の一番のお気に入りだったろう。彼女は誰よりも赤ちゃんの出産を願っていた。
夫が病院に呼ばれたとき、妻は既に入院の手続きを終えていた。
大慌てで春希が病室に滑り込んで一言、他の人も同じようにベッドで寝ている前で杏奈は宣言した。
「名前はわたしが決めるわ。世界で最も愛を注ぎ込んだ言葉を生み出せるのは誰? あなた? 違うわ、わたしよ。丁寧に推敲に推敲に更に推敲を重ねて、幾千万の星よりも輝く名前を黒い筆の一本でわたしが与えるの。名付け親の座を譲ってくれないなら離婚するわ」
妻は妊娠したらしい。
「おめでとう」
病院に急いで来てくれと言われて春希は仕事も早々に切り上げて飛んできたのに、妊娠の報告と出生届はわたしが提出すると宣言するためだけに呼ばれて、さしものよき夫でも肩を落とした。
「不服なの? わたしたちの子供よ」
「不服なのは、大事なことを電話口で事前に相談してくれなかったキミだよ。ドラマチックで劇的な展開なんて人生には要らないから」
「子供が産まれるのは普通のことじゃないわ。これ以上なく愛に溢れてるじゃない。そうよね」
同室で微笑んでいた同じ頃の女性が相槌を打つ。
これから数キロの子供を常時お腹に抱え、子を産む激痛が待つ妊婦らは一種の共同性に目覚めていた。入室して数時間と経っていなかったのに我が家の妊婦様はコミュニティの一員となっていた。
春希はそれを見てほっとため息をついた。
仲良くなれたのならよかった。不安を感じないというだけで、入院生活はどれだけ安定するだろう。母体としても健康は第一だ。
おめでたなら会う予定だった作家もドタキャンを許してくれるだろう。
頬の緩んだ顔を鞄を弄るフリで隠しながら、嫁バカは病室の椅子に座って未来を話し合った。
杏奈のお産までは莫大な猶予があった。
それも当然で、検査器の結果が出た当日に入院をしたらしい。妻曰く、
「待ちきれなかった」
らしい。お腹も膨れていないし、過度な運動以外の制限もない健常体を病院もどうして入院させたのか夫にはミステリーのまま、杏奈の気楽な入院生活が始まった。
春希が仕事の合間に病院に顔を出すと、「忙しない作家さんの旦那」と誰からも挨拶されるようになった。彼女はまかなわれる質素な病院食を噛み砕きながら、日がなネタ探しに病院中を奔放する名物患者となっていた。
……実際には病気でもないのだから、患者ですらないのだが。
西の産科病棟で泣いている子供がいればホームズさながらに理由を暴き出し、東のリハビリ病棟で持論を繰り広げる老人がいれば耳を傾けて質問を返す。
そんなこんなと小説のネタ探しを病院内で行っていた自由気ままな作家様は、ふらっと家に帰ってくることもあれば、ときたま外に出てショッピングもした。
動けない入院患者のために動ける杏奈が代打でおつかいをすることも多かった。御礼のお駄賃を貰っていたようだったが、我が妻はあこぎな商売に手を染めはしなかった。
「あれ、なんだか果物の数、多くないか?」
「和泉さんに電動マッサージ機と、沢木さんにプロテインと、陣内さんに選挙の末端候補に小包を届けてくれってお願いされたから、それらのお礼」
ベッドで指を折る彼女の御膳には、寝正月が過ごせそうなぐらいみかんがこんもりとしていた。杏奈の栄養バランスや入院患者のプロテインを看護師の方々に報告する際に「頑張りますね」と言われた春希は、それが作家の万事屋顔負けの働きぶりについてか自身への労いなのかわからなかった。
入院患者にひっきりなしに頼み事をされて病院の仏さまとなっていた杏奈も、ぴたりと病院から出なくなった。
お腹が大きくなってきた。
膨らんだ彼女の腹部を触ると、なんだか無性に写真が取りたくなって、春希は振り込まれた給料をそのまま新型のデジタルカメラにつぎ込んだ。
「親バカね。そういえば、あんたの両親も見舞いに来たわよ。うちのといい、どうして孫を心底可愛がるのかしらね。娘のわたしこそ一番にしなさいよ」
「知ってる。父さんたち、今、家に泊めてるし。それにキミもいつかはそうなるよ。家一軒賭けてもいい。撮り足りないな。服脱げない?」
「ヌードカメラマンだってもっと暗に誘導するわよ。女性だけでも、一応は病室だから」
もっと恥ずかしいことを病院内でさんざやっておいて、彼女はどの口で言うのだろうか。春希は苦笑した。
それからしばらく、夏日が続いた。
太陽が地表を監視するような日々だった。
連日の猛暑はコンクリートを溶かし、地盤沈下で出版社や印刷所のビルもどこかに消えるのではとまことしやかに噂されたが、請求書がなくなることはなかった。
杏奈が春物では厚くて寝汗で起きてしまうというから、夏の薄手服を彼女の部屋から何枚か抱えて、見慣れた受付嬢に会釈だけして病室へ向かった。
病室で待ち構えていた妻が手を挙げて挨拶する。
気丈なフリを、春希はすぐさま看過した。
出産が終わって少しばかり休養したら退院する同じ病室の妊婦たちを、ときに鼓舞しときに祝砲をあげながら見守ってきた仙人様の顔色は、見る影もないほど芳しくなかった。
平素がアウトドアで肌も焼けていた杏奈だが、入院生活でまっさらな原稿みたいに白に戻っていた。
呆然とする夫の前で具合悪そうに、けれど健気にも口の端を持ち上げる杏奈の顔は青白い。血色の薄い彼女の手を握ってみると、雪の上に放置した金属みたいに冷たかった。
「先生に診てもらってね。ちょっとだけ、体調が悪いから、診察してもらっただけ。長いコト、入院してた恩恵だね。入院費を払ってた甲斐があった」
喘ぐように息を漏らしながら笑う杏奈は、まだ臨月には遠い。不安がつのる。ハイヒールでよろめく女性が赤ちゃんを抱っこするのを見ているような。
「具合が悪くなるって、わかってたのか?」
問い詰める春希の態度に、視線を彷徨わせた杏奈は、無言の圧力に負けて、小さく頷いた。
かねてからおかしいと思っていた。
妊娠して数週目の女性が入院する理由がどこにあるだろうか。職場の女性陣に尋ねても、内診のために通うぐらいだと答えていた。どこも悪くない妊婦を入院させる病院だって、ベッドの一つを健常者に占領されていい気持ちのわけがない。だが彼女はしがらみなく病院内を奔走していた。
だとしたら理由は一つだけだ。
杏奈にはなにかしらの異常がある。
「病気か?」
怪我ではないだろうと目途をつけて春希が尋ねても、彼女は首を横に振って答えようとはしなかった。
病気なのだと春希は理解する。
問い詰めることはしなかった。嘘をつく彼女も苦しかったに違いない。それ以上に、彼女が揺るがない信念を持って何事かを隠していたことに気づいたからだ。
杏奈はベッドの上でシーツを握りしめながら、いつものように瞳に燃えたぎる力を宿していた。
「任せて。わたしが必ずなんとかするから。作家はハッピーエンドにするのが仕事だから」
自分一人で何かを背負いこもうとする彼女を前に、春希は信頼で答えることに決めた。何も聞かずにベッドの上の彼女を強く抱きしめた。
入院生活から気楽さが消えさり、夫婦の憔悴と隣合わせのものに一変した。
春希はできる限りのことを尽くし、未知の暗闇の中でもがく彼女をバックアップした。朝と昼に病院を訪ねて杏奈と会話し、夜は会社の明かりが消える寸前まで仕事をやり切り、命を削ってできる限りのことをした。
同様に、杏奈も命を燃やして闘病生活に励んだ。手術と薬による心身の調整を幾度となく行った。春希は妻に施される複雑奇怪な理解もできない現代医学の結晶に縋るしかなかった。
手術の結果を待つ時間は猛火にじわりじわりと炙られているようで、彼の鉄の心も日に日に小さく擦り減っていた。
それも一本の電話で、終焉を迎えた。
春希に手術の結果を伝える電話は、杏奈からではなく、病院の医者を名乗る男が発信したものだった。
入院初日のサプライズみたいに、要件を聞かされないまま春希は病室に到着し、ベッドで泣き崩れる杏奈を目にした。傍に立つ白衣の医者と看護師の顔にも翳りが差している。
「申し訳ありません。当病院で再善の限りを尽くしましたが、現代の医療ではやはり」
「やはり、やはりなんだっていうんですか」
どこか攻撃的な口調になった春希に、医者は悲痛さをあらわに応じた。
「お子さんを救うことはできませんでした」
両手で顔を覆った杏奈の頭が垂れさがり、すすり泣きが廊下にまで響くほど大きくなった。それは産声に似ていたのに、赤ちゃんはどこにもいなかった。
杏奈の胎盤は生まれつき脆かったそうだ。子どもを産むためには脆弱すぎる胎盤だった。彼女がそれに気づいたのは検査器が正常に動作しなかった時で、すぐさま入院の手続きをした。胎盤は誰かと交換するようなことはできないらしい。母体の血液を基盤としているから他人の胎盤を流用できない。
杏奈は健康を維持するために入院して、手術で胎盤回復と補強を行っていた。
発育する赤子に慎重に気を配りながら手術をする難しさは、例えるなら包丁の刃を握りながら料理するようなものだ。病院側も無理難題であることは事前に説明していた。
それでも子どもを産みたいと懇願した杏奈は、必死に何度もお腹を裂き、赤子が育つだけの胎盤を獲得しようと努力した。
実らなかった努力の結果が、変色した胃液を病院食に吐き出す杏奈の姿だった。
彼女は、子を失って以来、目に見えておかしくなっていった。
胎盤のせいではなかった。瓦解したのは彼女の心だった。
春希は杏奈の一番の理解者だった。見舞いにくる彼女の同窓生や、どこかから聞きつけたファンの応援葉書よりも、失意の気持ちを汲み取ることに長けていた。
病んだ妻に俺は何をしてあげられるだろうか。考えに考えて、家族として身を捧げることしか思い浮かばなかった。
産婦人科とは別病棟で入院するようになった杏奈を毎日と見舞った。
外出はできなくとも、杏奈の仕事に対する意欲は失われていなかった。ベッドで体を起こしながら、原稿用紙に胡乱な字を書き続けた。
作家という職業は、何かを失ってもどうにかして物語を脳の外に持ち出せれば勝ちだ。鉛筆を動かしている間の彼女は、食事や睡眠をしている時よりも顔が明るい。それが春希にとって唯一の救いだった。
「わたしの物語が目指しているのは創造することなの。クリエイティブとは違くって、空想の現実的創造。それは干渉と考えてもいい。読み手に、わたしの意のままになって欲しい。登場人物も一緒。彼らは読まれる側であって同時に読み手でもある。読者がハッピーエンドを応援する気持ちを、彼らも持っているの」
個人の病室で書き連ねた小説を、しかし彼女は一度も担当編集に見せることはなかった。
ただ一度だけ、小説を書くために必要だと言い張って、杏奈は無断で病院を抜けだした。
一日経って帰ってきた患者に医者一同は激怒し、体を労わる気がないのなら退院してくれとまで言った。心の病気だったから、家で療養することも質を考慮しなければ可能だった。
春希も一晩中走りまわって疲労困憊だったこともあり、杏奈の味方をしなかった。
代わりに彼女の味方をしたのが、お使いを頼んで話し相手になっていた患者たちだった。抗議の末に、二度と脱走しないという契約を結んで見逃してもらった。
一日ぶりの病室のベッドに入った杏奈は、どことなくすっきりした顔で、まさか浮気でもとからかったら、まるで阿呆でも見るかの如き目で夫を見返した。
「ちょっとだけ血色がよくなってるな。マッサージにでも行ってたのか? 治ったら好きなだけ連れて行くから、もう少しだけ辛抱してくれ」
「わたしだって我慢できないときがあるのよ。後悔しないためには、思い立ったら即行動」
「我慢してないじゃないか。内容が間違ってる文章は訂正。編集で二重線つけるからな」
元気が沸いた杏奈は朝ご飯をよく食べた。春希はトレイを配膳台に戻して、会社に戻るか家に帰って寝るか悩みあぐねながら立ち上がる。
俯いていた妻が夫に呼びかけた。
「あなたは、子供は欲しかった?」
春希は中立ちのまま固まった。中途半端に折れた膝が痛いと感じるよりも、彼女の質問が恐ろしかった。子供を失ってから、その質問は意図的に行われていなかった。喋ってしまえば妻が責任を感じてしまうから。
そんな彼を見つめていた杏奈はつけ足す。
「わたしのことなんて考えなくていいの。純粋に、新しい家族に歓迎的だったのか聞いておきたいだけ。どっちだとしても怒らないわよ」
「欲しくなかったよ。どちらかと言えば、だけどね。新しい生活よりかは、入院する前ののどかの一言で済む日々が好きだったよ」
それが春希の本心だった。
子供を望んでいなかったわけではないが、新しい家族という存在に強い執着もなかった。
子を産んで育てる喜びよりも、今を過去と比べてしまう。病気で床に伏せた妻を見舞う生活より、昔の生活が落ち着いていて……。どうしても幸せを求めてしまう。
「よね」
その一言で杏奈は質問を切り上げた。
表情から察するに、苦悩していた春希にとっては意外に、満足気な顔をしていた。二万円の宝くじが当たったときも同じ顔をしていた。
そして杏奈は真剣な顔で不思議なことを言い出した。
「いつかね。わたしとあなたは巡り合うわ」
「今こうやって話し合っているのに何を言っているんだ。ナースコール押す?」
「巡り合うのよ、ハッピーエンドに。もしもの話をするけれど、いつか、いつかね」
その時に、初めて気づいた。
それはいつからだったのだろう。
病院を抜けだした前にはあっただろうか。
いつ、失ったのかも彼は気づいていなかった。
見つめ合った杏奈の瞳に、輝くクリスタルブルーの力は宿っていなかった。
「わたしが先に逝くようなことがあれば、一度だけは再婚を許します」
妻の口角が上がる。




