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第一話

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 妻は自室のタンスを「パンチタンス」と命名した。


 質のよい和箪笥(だんす)というものは、引出しを奥まで押し込んだらタンス内の空気が流動し、他の引出しが隙間ほど開くようになっている。風の通り道を作ることで収納した諸々を湿気で傷まないようにする先人の知恵は、現代日本にも受け継がれていた。


 しかし妻の杏奈(あんな)が買った黄色い和箪笥は、ある引出しを引いたときに別の引出しまで飛び出してしまう、不良品だった。伝統を小馬鹿にするその原因は不明。挙句、その隙間は少し開くなんてしおらしいものではなかった。猫が構ってにゃんと殴るような速度で飛び出すのだった。


 三十路も過ぎて棘も抜けた気性の夫は危ないから返品しようと促した。


 初めて出会ったときから傍若無人ののぼり旗を背負っていた妻は、新品のタンスを両手で庇いながら言い張った。


「この子を手放すなんて嫌。ちょっとお行儀が悪いだけよ。しつければいいのに、すぐに返品するなんて家族としての思いやりが足りないのよ」


 届いて数時間の家具に愛着を持てるほど夫――(はる)()の愛は余っていなかった。

 ただ、執心している杏奈が稼いだ稿料で購入したという揺るぎない所有権があり、その不良品は彼女の部屋に居場所を得たのだった。



1



 遅れて吹いた木枯らしが落ち葉も一掃した庭を横目に、縁側を通って春希は杏奈の私室に足を踏み入れた。


 和が気持ちを落ち着かせるようで、杏奈の部屋は襖に始まり畳が連なり押入れが壁画の代わりを務める八畳の和室だった。天井からぶら下がっている電気は木枠の傘で飾られ、夫は垂れる紐を引いた。雑草が生い茂った庭よりも汚く、雑貨が散らばった彼女の部屋を見渡すためには、真っ昼間でも明かりが必要だった。


 いい大人がどうしてこんなに散らかせられるんだ、と小言が口を突く。


 小さな部屋の一角には作業机がある。ゴミのない机上とは裏腹に、(かたわ)らの棚には(おびただ)しいほどの紙が束となり、あるいは封筒に詰められて累積していた。

 圧迫されている一番下のドイツ語辞典など、杏奈は購入したことも覚えてないだろう。いや、杏奈なら覚えているか。


 春希は乱雑な作業机の周辺を避けて、どこぞで集めた資料などを踏んでしまわないよう慎重に歩いた。

すると導かれたかのように、彼はパンチタンスの前へと辿り着いた。


 パンチタンスの高さは四段で、成人男性の胸までしかない。

 特徴があるとすれば、足元が気になるぐらいに高い。一番下の引出(ひきだ)しの取っ手を掴むためにタンスには足があるのだが、全体の比率からすれば歪に見えるほどパンチタンスの足は大きかった。上げ底ブーツを履くタンスのことを、妻はそれも短足で狂おしいと評価していた。


 杏奈は物に思い入れを込める女性だ。それが物ばかりで整頓性の微塵もない部屋に繋がっているから手放しでは褒められないけれども、物を長く使う主義であることを咎めることもできない。


 問題なのは思い出のこもった品を手放さない点だった。


 小学生が旅先で綺麗な石を拾ったり、浜辺から持ち帰った泥だらけの貝殻を愛おしく思うのと一緒だ。子供心を存分に発揮する彼女は、パンチタンスにも思い出をしまい込んだ。


 春希は最上段左上の引出(ひきだ)しに手をかけた。買って数年のパンチタンスの表面はまだ滑らからで、油の落ちた指を下から引っ掛けて、窪みを引いた。


 木霊する木が擦れ合う音は、二度、和室に響いた。


 パンチタンスは不在のご主人様の宝物を護るため、春希の下腹部を狙った。触れてもいないのに飛び出した上から三段目の引出しを、春希はなんなく受け止めた。


 ここ数ヶ月で幾度となくまみえたタンスの攻撃パターンは、彼の体に染み付いている。急発進した車のおもちゃを片付けるようにやんわりと、三段目の引出しを押し戻した。


 一番上、左側の引出しには、刀が鎮座していた。

 収まったそれは小型ながらも立派な光沢を放つ日本刀、を模したレプリカだった。


 杏奈はタンスに衣類ではなく思い出をしまいこむ。思い出深いような品を、手元に置いておきたがるのだ。

 豆腐も切れない模造刀を持ち上げた春希は、いかにもそれっぽいだけの軽量な約束を思い出す。

 結局こいつは、はたらいたのだろうか。




 初めての旅行をした。

 その時の二人は作家と編集の間柄で、旅行も経費で落ちる取材旅行だった。


 昔ながらの田舎街は古きよき家々が残る小江戸と銘打つ割には道幅が大きく、思い描いた下町よりは海外の田舎に日本家屋がタイムスリップしているみたいだと春樹は感じた。


 調子の外れたテンポを刻む足音が舗装されたコンクリートの上を歩く、快活色のマントを靡かせながら威風堂々と闊歩する若手の女流作家は、おかきやら焼きおにぎりやら、目についた店で何かを買っては、


(えにし)切りの刀ってご存知ないですか?」


 と聞きまわった。


 きっと店員は二人のことを仕事の付き合いではなくカップルだと勘違いしていたが、都合がよかったため訂正はしなかった。

 深刻な間違いでもない限り、訂正する必要なんてないとがさつな二人は思っていた。


 国道を下ってぐんと人通りも少なくなったところで、大きな社の周りだけがお祭りのように盛り上がっていた。

 甲斐なく居場所を教えてもらった縁切りの刀は、しかし閲覧するに至らなかった。

 神社の境内にある神器を拝謁するためには予約が必要だと巫女に頭を下げられる。弱小出版社なんて歯牙にもかけないテレビクルーが、我が物顔の客引きレポートで観光客にマイクを向ける姿だけを目に焼き写す。


 なんとか頼みこんで商魂たくましい住職に取材することに成功した。その代わりに購入させられたのが、ミニスケールの縁切りの刀だった。

 キーホルダーには大き過ぎるし、飾るには威厳も味気もないそのレプリカを、杏奈はタンスにしまっていたらしい。決して、あそこは物置ではない。



 取材旅行中、彼女はラーメンを食べたがった。


 小説家から食レポライターにでも転向する気なのではと担当編集として気を揉むほどに、三食ラーメン漬けだった。


 お昼時の中華飯店ですすったラーメンは素直にまずかった。今時のコンビニだってここまで質の悪いラーメンは販売しない。コーン茶のスープに、油ばかり吸った麺。新品の万年筆でも噛んでいた方がまだ味がある。載せられたメンマとネギが苦味しかこさないそれを完食する。彼女の舌もバカではないらしく、


「作家の矜持として、食べたものをそのまま不味いと言ったら負け。ファッション誌だって、比較して貶めるとき以外は不出来の烙印は押さないじゃないですか。小説家が味の感想で劣るわけにはいきません。それに読者が次に同じものを食べたときに、わたしの言葉を引きずる責任の追求をされるのも御免です」


 担当編集と一つだけ年の離れた作家は、律儀に丁寧語を使っていた。その関係を当然だと思っていた編集は、彼女が何を言いたいのか聞くために首を傾げてみせる。


「そうか。じゃあ作家さん、このラーメンは美味しいか?」


 間髪入れず、女流作家は一口すすった。


「水が美味しいラーメン屋です」


 コップに口をつけながら笑顔を崩さない彼女に苦笑する。量が目減りしていないラーメンを店主が見るのは気の毒だった。次の客にコップだけ変えて同じものを出せるぐらい、彼女は箸をつけていなかった。仕方なく編集者は二人分のほぐれていない麺を胃に投げ入れた。


 高カロリーな旅路だった。ラーメン屋に入りたがるくせに彼女は注文の全てを残すものだから、誰かが一食で二人前を食べることになる。旅行の前後で体型の輪郭が一回り大きくなった春希は、もうラーメンなんて見たくもなかった。


 しかし取材旅行の最終日に立ち寄ったつけ麺屋は中々に美味しかった。油の膜で保温されたつけ汁に冷やされた麺を通す。絶妙な温度の柔らか麺が喉を魚介スープで潤しながら下っていく感覚に思わず身悶える。三日三晩ラーメン漬けだったにも関わらず春希は貪るように食した。これを最初に食べたかったと心底思いながらスープまで完飲した。


 豪快な飲みっぷりを見せた編集の対面に座る作家は、三日にわたる苦行の末に、赤色の器を見るのも嫌になっていた。


 杏奈はラーメンが好きではない。

 男性はラーメンが好きだという過去の経験に基づいて、待ちに待った二人での旅行中は彼の趣味に従おうとしただけだった。はなから少食な彼女に一般男性に追いつける胃袋は持ち合わせておらず、頬張っても焼け石に水で毎食残していた。


 対面で水ばかり飲む女性に、春希は「またか」と思いつつ、食べ終わった自分の杯を横にずらして、減っていない器に手をかけた。


 編集者は最後にいい麺屋に出会えたことに感謝していた。雑誌部署の同僚にこのネタを渡せば特集を組めることまで考えていた。そして作家は、お店が混んでいないことに感謝していた。

 彼女が狙っていたのは、味よりも混雑の具合だった。


「これ、本物でしょうか」


 ラジオから流れる当時流行りのポップスを背景に、食事の最中に杏奈が手にしていたのは縁切りの刀だった。もちろん盗品ではない。


「いみじくも神社から買い受けた品です。効力がないとも限りません。……そうじゃない?」


 持っていても役に立たない模造品は邪魔になるからとホテルに置いてきたはずだった。どうして彼女はそんなものをわざわざ持ち歩いているのか。

 筋トレ? なわけがない。


「効果を試すべき」


 真摯な瞳が対面の彼に刺さる。明確な意味を伴った彼女の熱が伝わる。


「俺で試してみるか?」


 縁切りの刀。

 その名の由来は、壮麗な美女に惚れた悪鬼が彼女の婚約者に襲いかかった際、婚約者が逆に切り返してやったという話が原本らしい。三文小説甚だしいが、ご相伴に預かろうと参拝客はとどまることを知らないという。なんせ話の最後に、この刀を持っていた男女の縁は生涯断ち切れなかった、とまで明記してあるくらいだ。


 恋愛成就の神様もきっと困っているに違いない。

 こんな風に、恋仲が成立してしまうのだから。


「はい」


 杏奈は迷いなく頷いた。


「試すのは俺でいいのか」


 彼女の瞳はクリスタルブルーに輝く。それでいて、燃え上がる炎のように光を携えていた。揺るぎない己を自身の中に抱えている強い瞳から、春希は目を離せなかった。

 網膜の向こう側に宿る力を見ていると、段々と引き込まれる。

 春希は心臓が溶けるような熱量を受けた。溶けたガラスのハートを胸中に忍び込んだ誰かがすり替える。

 途端、全く別の光景が眼前に広がった。


「はい」


 杏奈は首肯した。胸の内側に自身を刻み込ませた男に対して。


「そうか。じゃあ一口、ラーメンを食べよう」


 男は照れ隠しにラーメンをがむしゃらに食べた。最後の一口を残して、麺の乗ったレンゲを彼女の口元へと運ぶ。


 餌をもらう雛のように口をすぼめた女性を見ていると嗜虐心が湧いてきた。高校生が初恋をしているわけじゃない。二人とも経験のあるいい大人だ。だというのに、彼女の行動の全てが愛おしく見えてくる。


「共同作業だ」


 二人で食べ終えたラーメンをテーブルの真ん中に置く。妻は麺を噛み切らずにそのまま飲み込み、嚥下する音を閑古鳥が鳴く店内に響かせた。


「いけず」


 作家とは人を操る職業だ。生者も死者も、登場人物も読者も、世界の理さえ問わず。

 編集者はまんまと作家に乗せられた。

 縁切りの刀を背負って二人は同じ家に帰宅した。


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