あたしにとって、この脚は。
本当に本当に本当の本心を、教えてほしい。
あの日の出来事を、あたしは、決して忘れたりしない――。
……今日もまた、一日が始まってしまった。
朝起きて、あたしが最初に思うことはいつもそれだ。鈍い頭痛に顔をしかめながら、ゆっくりと上体を起こす。
「あ゛ー……?」
寝ぼけたままの頭で時計を見れば、まだまだ早朝と呼べる時間帯。
おかしい。昨日もなかなか寝付けなくて、ようやく眠れたのは確か二時過ぎだったはず。
普段なら、こんなに早く目が覚めるはずないんだけど――。
「……カーテン」
カーテンの隙間から射し込む朝陽。細く伸びた光の帯は、ちょうどあたしの顔があったところに伸びていた。
ちゃんと閉まってなかったのか。しくった。こんなことで、睡眠時間を削られるなんて。
「っとにもう、……最悪!」
浮かぶ苛立ちもそのままに、あたしはカーテンを掴んで乱暴に引く。シャッ、と僅かに空いていた隙間は消え、部屋の中は暗闇になる。
カーテンは分厚くて遮光性の高いやつにしてもらってるから、閉め切ってしまえばこっちのもの。
真っ暗になった部屋の中で、あたしはもう一度もそもそと布団の中に潜り込み、完全な暗闇に安堵する。
「はぁ……、」
柔らかなベッドのマットレス。
あたしの体を優しく包み込んでくれる。
これよ、これ。寝不足のあたしに今必要なのは、全てを赦してくれるこの優しさよ。
世間の大変さとか、世知辛さなんて、今のあたしには関係のない話だわ。
「…………」
まぁ、正確には、関係なくなったんだけど。
それこそ本当に、関係ない。
あたしは、ハーフパンツから伸びる両脚を軽く撫でる。手術の跡はもう残っていないが、そんなことは慰めにならない。指を這わせてみれば、変わるはずのない現実を突き付けられる。
「関係ないわ。……あたしにはもう、全部」
亀のように、布団の奥へと沈む。
何も聞こえないようにと。何も聞かなくていいようにと。
今は、時計の音ですら煩わしい。
カチコチと響く無機質な音が、あたしを急かして責め立てているようで。
こうして、非生産的に惰眠を貪ることを許さないみたいで。
あたしの心を、ひどく苛むんだ。
「全部、終わったの……終わったのよ……」
だから許してよ。これぐらいのこと。
いいでしょ、別に。こうしていたって。
「あたしの全ては、あの時終わってしまったんだから――」
吐き出した言葉には、苦い砂を口一杯に詰め込まれたような不快感が伴った。
じゃりじゃりしてて、吐き出しても吐き出しても口の中に残っている。
舌が痺れるし頬がひくつく。のどの奥から込み上げてきて、あたしの口を塞ごうとする。
苦くて、不味くて、体に悪そうな。
どんな毒よりも強い、全てを塗り潰す猛毒だ。
「……うぅ、……」
いつの間にか浮かんでいた涙が、枕を濡らし始めていた。
あたしは強く目を閉じて、まぶたの上から両手で押さえる。
止めろ、泣くな。
泣いたら余計に惨めになる。
泣いたって変わらない。何も、変わらないのよ。
あたしの思いとは裏腹に、涙は溢れて止まらない。
ああ、まただ。
あの日以来あたしは、こんな風に涙が止まらなくなることがある。
もう悲しくもないのに、とっくに泣き切ってしまったはずなのに、どうしてこんなに止まらないの?
「どうして……」
あたしは、震える自分の体を抱き締める。
今は五月。布団の中で、全然寒くなんかないのに。
どれだけ力を込めても、タチの悪い風邪にかかったみたいに全身の震えが止まらない。
「あたしは……、っ!!」
ギュッと目をつぶっていたら、ミシミシと、何かが軋むような音が聞こえてきた。それに続いて、固いものが砕ける音も。
あたしの体は、一際大きく震えた。
現実のことではない。それは分かっている。
その時のことを思い出して、あたしが勝手に怯えているだけ。
それでも、あたしの心臓は握り潰されそうになる。
あの日、あたしが、意識を失う直前に聞いた音だから。
あたしの耳の奥にこびりついていて、いつまでたっても取れないの。
「…………」
息を殺して、小さく丸くなって、治まってくれるのをじっと待つ。
心臓が、激しくドクドクいっている。
じっとりと、背中に汗が浮かんできた。
ふいに襲ってくるこの恐怖は、こうやってひたすらじっとして、過ぎ去ってしまうのを待つしかない――。
「――――ぁ、」
どれだけそうしていたのか。ぼんやりとしていた思考が少しずつはっきりとしてきて、あたしは布団から顔を出す。
もう、体の震えも溢れる涙も、全て治まっていた。
ヤマは越えた。
「汗……」
その代わりといってはなんだけど、あたしは全身汗まみれになっていた。
伸び放題に伸びた前髪を掻き上げて、額の汗をパジャマの袖で拭う。
汗をかきすぎたのか、のども少し渇いていた。
目は完全に冴えてしまっていて、とてもではないがこのまま寝直すことはできない。
とりあえず、のどの渇きを癒そうと枕元に置いておいたスクイズボトルに手を伸ばす。……が。
「……空っぽじゃん」
そうだ。昨日も寝るのに時間がかかって、ちびちび飲んでたらなくなったんだった。
なんとも間の悪い。しかも、飲めないと分かったら余計に飲みたくなってきた。
「水でいいか。ちょっとくんでこよう」
台所は、母さんが朝ごはんを作ってる時間だからパス。洗面台がマシかな? ついでにトイレも済ませて、汗も拭けたら拭いておきたいな……。
あたしは、ベッドの上を這うようにして縁まで動き、ソレに手を伸ばす。
もうちょい――。
「……っ!? うひゃっ!!」
手が届いた、と思った途端にソレが動いた。
体重を掛けてソレに乗り移ろうとしていたあたしは、支えを失ってベッドから転げ落ちる。
情けない声が出て、背中から絨毯に落下。ドスンと大きな音がする。
「痛ったたた……」
「なんで?」と見てみれば、なんとブレーキが外れているではないか。
カーテンといいブレーキといい、どうして今日はちゃんとしてないのよ!
「ほんっとに、最悪……!」
文句を言いながらソレを引っ張り寄せ、今度こそしっかりブレーキを掛ける。しかし落ちたままじゃあ乗れないから、一旦ベッドの上に戻らないと。
コンコン、って。
そんなことをしていたら、部屋の扉をノックされた。
『ちょっと、大丈夫なの? なにか、大きな音がしたみたいだけど……』
母さんの声。
音を聞き付けて見にきてくれたのか。
「大丈夫、なんでもない! だから入ってこないで!」
ベッドを支えにして体を起こし、あたしはそう答える。
扉に鍵はかけてないが、母さんは開けようとしない。
あたしが入ってきてほしくないときには部屋に入らない、というのが暗黙の了解になっているからだ。
見られたくないときも、あるからだ。
あたしは、ベッドの上に戻るために、手を掛けて登ろうとしたのだが。
『……蘭先輩?』
「!?」
思わぬ声に動揺して、またベッドから滑り落ちた。
ドタン、とまた大きな音がして、『先輩っ!?』と彼女の慌てた声とともに、ドアノブを回す音が――。
「っ、美月! 開けるな!!」
『……!』
あたしは、反射的に叫んでいた。
「大丈夫だから……! ……開けないで」
半分ほど回っていたノブが、ゆっくり元に戻る。
「なんでアンタが? 朝練あるんじゃないの?」
『……先生には、言ってあります』
「そうじゃなくて、何しに来たの、って聞いてるの」
まぁ、聞かなくても分かるんだけど。
『蘭先輩を……、その、迎えに来ました』
ほら、やっぱり。
『せっかくわたし、先輩と同じ学校に入れたのに、先輩、練習どころか学校にも顔を出さないから……』
「……そう」
扉の向こうの美月の声は、緊張のためかかすかにに震えていた。
『何があったのかは、わたしも知ってます。愛風莉先輩とか、鷹音先輩とかに聞いて、蘭先輩がどうなったのかも』
「…………」
『正直、今でも信じられません。よりによって先輩に、そんな……。でも、もう退院して、自宅に帰ってこれたんですよね? 学校にも、出ていけるようになってるんですよね? じゃあ、せめて、学校ぐらいは――』
そこまで言われて、あたしは。
「――やめて」
自分でも驚くほど、冷たい声を出していた。
『っ――!?』
怯えたように息を呑む美月。
あたしはざわつく心のまま、扉越しに睨み付けた。
「あたしは、行かない」
『で、でも!』
「……走れもしないのに、出ていく意味なんてないわ」
『そんな!?』
美月が悲鳴のような声をあげる。
あたしはベッドの上に手を伸ばして、枕を掴んだ。
「だから、アンタはさっさと朝練に行きなさい。あたしなんかに、構わなくていいから」
『で、できません! そんな、』
「行け。って、言ってるでしょ」
『わ、わたしは、先輩と――!』
「――いいから、」
いい加減に……!
「行けってば!!」
あたしは扉に向かって枕を投げ付けた。
盛大に鈍い音がして、枕が床に落ちる。
『!!』
ムシャクシャしてるときに、何度も言わせるな!!
『――――』
美月は完全に言葉を失っていた。
そしてあたしも、すぐに後悔する。
「……ごめん」
言いすぎた。
美月は、悪くない。
「ごめんね、美月」
『……いえ』
今度は、優しくお願いしよう。
「でも、お願いだから、放っておいて。あたしのことは、もう」
『……』
「お願いよ、美月……」
『…………』
しばらく黙っていた美月は、最後に小さく『……はい』と言って帰っていった。
美月を連れてきていた母さんも、一緒に玄関までついていった。
「……はぁ」
あたしは、自己嫌悪でじりじりと燻るような不快感を感じながらも、できるだけそれを気にしないようにして、ベッドによじ上った。
ごろんと仰向けになり、ちょっといびつな大の字になる。
顔だけ横に倒せば、嫌でも視界に入ってくるものが。
車イス。
今のあたしの、足代わり。
「ホントに、最悪よ……」
朝からこんなことになるなんて。
――あの日、あんなことになるなんて……。
あたしが陸上競技というものを始めたのは、まだあたしが小学校の低学年だったころのことだ。
幼いころから元気を有り余らせていたあたしは、休みの日でも学校に遊びに行っては陽が暮れるまで走り回って遊んでいた。
そんなあたしを、父さんが地元の少年スポーツクラブというところに連れていってくれて。
そこで、速く走るための方法を、教えてもらったの。
運動会のかけっこや校内マラソン大会で、毎年一番になれるのがとても嬉しくて。
あたしは、週三回だったクラブの時間には欠かさず練習に参加したし、休みの日にも、父さんに付き合ってもらって、町内を走ったりしていたの。
当時、あたしのまわりには、あたしより足の速い子は一人もいなくて。
あたしはそれを誇らしく思っていたし、そうあることがあたしなんだと、わりと本気で信じていた。
中学生になって、本格的な部活動として陸上競技をやるようになってもそれは変わらなかったし、自分よりも強い人たちがたくさんいることを知って、あたしはとてもワクワクした。
毎日毎日汗だくになって練習して、昨日の自分より少しでも速くなりたくて。
走って。
走って。
走って。
ただただ、ただただ走り続けた。
そのうち、学校内にあたしより足の速い人はいなくなって。
学校の代表として公式大会で走るようになって。
地区大会とか県大会とかの記録をいくつか塗り替えたりして。
速く走る。
誰よりも速く。
たったそれだけのことが、あたしには、何よりも大切なことになっていた。
たったそれだけのことで、あたしは、何物にも代えがたい喜びを手に入れられた。
本当に単純なことだったけど。
あたしにとっては、決して譲れないものだった。
『蘭先輩、今日こそは負けませんよ!』
美月は、そんなあたしのひとつ後輩として入部してきた。
なぜか、初めて顔を合わせたときから敵意をむき出しにされてたけど。
『今日のわたしは、いまだかつてないくらい絶好調なんです! さぁ、さぁ、勝負しましょう!』
毎日のように対抗心を燃やしては、あたしに勝負を挑んできていた美月。
部活での練習が終わったあとに、いつも二人きりで勝負をしていた。
『ああっ!! また負けたぁ……』
で、いつもあたしが勝っていた。
特に長距離を得意とする彼女とは、決まって一五〇〇とか三〇〇〇で勝負していたから、あたしに負けるのは相当悔しかったと思う。
得意分野で負けるなんて、これ以上ないぐらいの屈辱だったろうし。
『ああ! もう!』
あ、誤解のないように言っておくけど、もちろん美月も十分速いのよ? 同学年相手なら、彼女は負けなしだったんだから。
『いつもずるいです! ラストスパート、どうしてそんなに伸びるんですか!』
けど、――あたしよりは速くなかった。
あたしが勝負に勝てた理由なんて、その程度のものだったわ。
『明日こそ、明日こそ負けませんからー!!』
そんなことを、毎日のようにやっていた。
そういうなんだかんだあったおかげかは分からないけど、学年がもうひとつ上がるころには、あたしと美月は仲良くなっていた。
一緒に自主練したりとか、二人でスパイクを買い行ったりとか。
公式大会でワンツーを決めたこともある。
お互いの家に泊まりに行ったこともあった。
あたしが中学を卒業するときには制服のリボンを美月にあげたし(泣きながらねだられたあげく強引に奪い取られた)、絶対にあたしと同じ高校に進学すると息巻いていた美月を見て、微笑ましい気持ちになったりもした。
……だから、本当にあの子があたしと同じ高校に来て、あたしがこんなことになっていると知ったときには、ひどくガッカリしたんじゃないかと思う。
悪いことをしたな、とも思うけど。
あたしにはもう、どうすることもできない。
コココン、コココン、コココンコン。
『おーい、起きちょうー?』
美月がやってきた日の夜。
夜も八時を回ったころに、新たな来客がやってきた。
「今度はアンタなの? ――愛風莉」
食後、灯りもつけずに部屋で横になっていたあたしは、リズミカルに扉をノックする音と、部活帰りのはずなのにそれを感じさせない明るさの声に呼ばれて体を起こす。
ウチの部で、あたしより元気のある数少ない人物なのだ。扉の向こうにいるのは。
『おぉ、起きちょうね。元気しよるかえー?』
愛風莉は、生まれ育ちが西のほうの人間だそうで、このご時世では珍しいくらい言葉に訛りがある。
時々聞き取りにくいときもあるけど、どちらかといえば彼女の愛嬌を強化するチャームポイントになっていて、他の生徒や先生からの人気は高い。
彼女自身、直すつもりはまるでないらしく、どちらかと言えば敢えて訛りを強めて喋っている。
故郷の言葉を忘れないためだと、前に言っていたような気もする。
「……まぁ、悪いところはないよ。後遺症も、今のところないし」
元気か、と聞かれて、ちらりと両脚に視線を向けてからそう返す。
『そっかー』と、愛風莉の嬉しそうな声。
扉の向こうでも、きっとうんうん頷いていることだろう。
『あんなぁ、今朝、美月が来たろ?』
「……来たよ」
そして同じテンションのまま、そんなことを聞いてくるのだ。
『あんたぁ、あの子に何ゆうたがで? 美月、朝練が終わるぎりっちょまで学校に来んかったし、来たら来たで目ぇぼったり腫れちょったわいや。それ見た皆、たまるかぁ、ゆうてたまげちょったけん』
「……マジ?」
『ホンマぁよ。ざまにショック受けちょった。よいよ、可愛い顔が台無しんなっちょったちや』
愛風莉は、けらけら笑いながら教えてくれる。
そんなに、泣かせてしまったのかな。
『ほんで? なんてゆうたが?』
「ん、ちょっと、……枕投げた」
『ははぁ! あんたのことしとうちょう子が心配して見にきてくれたぁに、蘭はそんなことしたん? そらぁいかなぁ、人でなしよ』
「そう、かな……?」
『そうよえ! よいよいかん!』と力強く言われてしまった。
そういう風に言われると、とたんに罪悪感が増す。
「……愛風莉、その、良かったら、あたしの代わりに美月に謝っといてくれない? ごめん、って」
『ウチが? 馬鹿言いな。そんなん自分で謝らなぁいかんけん。あんたが自分で謝りや』
「わざわざそのために来てもらう訳にもいかないでしょ」
『蘭が出てきたらえいわぇ。学校に』
「……そう、なんだけど……」
愛風莉の言ってることは正しい。
正しいんだけど……。
『……そんなに嫌かえ。学校に来るがぁが』
「……」
『ウチらに会いとうないん? それとも、見られとうないが? ……もしかして、両方かえ?』
「…………」
ふいに愛風莉は、声のトーンを一段下げた。
『……ホンマぁにもう、……走れんが?』
「……うん。この状態じゃ、もう、」
『まだ、ウチとも決着つけちゃあせんに?』
「……」
なんと答えようかしばらく迷って、結局は「うん」と。
『……鷹音も怒るちや。あの子やち、あんたがもんちくるがぁをずうっと待ちよう。それだけやない。他の皆も、先生もよえ』
「うん、……分かってる」
『もう走れんがなら、それはそれで仕方ないけんど、それでも、いっぺん顔ばぁ出せんもんかえ? にゃあ? どうで? 学校来てみんかよ、蘭?』
「…………」
あたしは答えなかった。
しばらくして、愛風莉の『……こらぁいかなぁ』と小さく呟く声が、聞こえた。
それからもしばらくの間、愛風莉はあたしのために色々と言葉を尽くしてくれたわけだけど、結局あたしは最後まで首を縦に振らなかった。
どれだけ言われても、あたしは、今の状態のまま人前に出たくないし、皆だって、こんなあたしに来られたら迷惑だろうと思うからだ。
気を遣われるぐらいなら、あたしは自室に引っ込んでいたほうが良いのよ。
そして、間もなく九時も回るというころに、愛風莉は渋々帰っていった。
彼女の最後の言葉は、こうだ。
『あんなぁ、蘭。最後になるけんど、はっきりゆうちょくで』
「うん」
『ウチらぁは、あんたがどうなっちょったち関係なく、あんたに出てきてもらいたい思うちょうけんね。それだけは、忘れなよ』
「……うん」
その言葉をどこまで信じて良いのか分からなかったけど、ひとまずあたしはきちんと頷いた。
『ほいたら今日は帰らあね。おやすみ、蘭』
「おやすみ、愛風莉」
遠ざかる足音。あたしは再びベッドに寝転ぶ。
先程までのやかましさが嘘みたいに、一気にシンと静まりかえった。
そういえば、彼女が住んでいる学生寮、門限は九時までだったはずだけど、大丈夫なのかな。
「また、こっそり忍び込むのかしら」
もし寮長さんに見つかったら、罰として三日間食堂の掃除をやらされるというのに。あたしは、見つかりませんように、と小さく祈っておいた。
半分ぐらいはあたしのせいだろうから、それで愛風莉だけ罰を受けるのは流石に申し訳ない。
「……美月も、愛風莉も」
真っ暗な天井を見上げて、時計の針の音を聞きながらポツリと零す。
「あたしなんか、もう、放っておいてくれればいいのになぁ……」
じくじくと沁みる罪悪感。
胸が痛い。心が痛い。
そしてそれ以上に、治ったはずの両脚が痛かった。
あたしがこの高校を選んだ理由というのは、自宅から通える距離にあることもそうだけど、なにより部活動が非常に盛んだったからだ。
十数年前に全国大会制覇した駅伝部とか、数年前から甲子園の常連になってる野球部とか、とにかく運動系の部活動に力を入れている。
あたしが在籍している陸上競技部も、毎年何人かはインハイに出場する選手が現れる強豪で、短距離、長距離だけに留まらず、幅、高跳び、槍や砲丸投げなんかのフィールド競技も強い選手が揃っている。
あたしなんかは普通に受験して入学したんだけど。
スポーツ推薦枠もあるらしく、県外からやってきて自己の向上に努める子も多い。
『初めまして! ……じゃないか。去年もおうたね、大会で』
愛風莉も、そんな推薦で入学してきた生徒のひとりだった。
入学早々、陸上部の見学に行ったときに話しかけられた。
『奇遇やねぇ、あんたもここやったがや』
確か彼女とは、中学三年の時の全中で、ハードル走に出たときに競ったと思う。
決勝で隣のレーンだったし、可愛らしい名前だったから、あたしも覚えていた。
それと、彼女は幅跳びでも好記録を残していて、確か表彰も受けていた。だから、余計に記憶に残っていたのだろう。
『おんなじ学校やったら、今度はレギュラーの取り合いで競うことになるろうかねぇ? ま、ま、今度は負けんき、覚悟しちょりよぉ?』
負けない、って、あたしは僅差で愛風莉に負けたんだけど?
『なにを言いようがで! 一〇〇、二〇〇、四〇〇、八〇〇、一五〇〇、ハードルの全部で決勝まで走っちょいて、ウチとあればぁ競られたら、そらぁ負けたようなもんやいか。化けモンかと思うたちや、あん時は』
逆に、たくさん出すぎて決勝はあんまり活躍出来なかったけどねー。
入賞したの、一〇〇と一五〇〇だけだったし。
一五〇〇にしても、優勝候補とそのライバルがオーバーペースでもつれた隙に抜かせてもらっただけだから、なんとも消化不良だったわけで。
純粋に勝てたのは、一〇〇メートル走ぐらいの――。
『――久しぶりね。去年の夏以来かしら?』
と、愛風莉とわいのわいの言い合っていたら、別の子から話しかけられた。
『私のこと、覚えてる?』
意志の強そうなキッとした視線を向けられて、すぐに思い出す。
ちょうど、その話もしてたところだし。
『大会での屈辱、私は今も忘れてないわよ……!』
去年の全中で、一〇〇メートル走二位だった子。
都大会では三年連続で一〇〇メートル走の大会記録を叩き出し、一年のころから全中に出ていたスーパースプリントガール。
……あたしが、最後の大会でケチつけちゃったせいで、表彰台の上で泣き崩れてあたしを睨み付けてきた――。
『そ、それは忘れなさいよ!?』
鷹音との、再会であった。
『では、やはり、学校には来たくないと?』
翌日の朝。
今日は鷹音がやってきた。
「……みんなして代わる代わる来てくれるのは、まぁ、ありがたいけどさ」
『そう……』と、いつになく落ち込んだ声を出す鷹音。
普段のような冷静沈着な声じゃなくて、なんか、叱られた犬みたいな声だわ。
『それなら、私との決着は……』
「……愛風莉も言ってたけどさあ、それ。鷹音も愛風莉も、あたしの脚がどうなってるのか知ってるでしょ? 無理だって、走るのは」
『…………』
鷹音は、扉の向こうで黙り込む。
なにを考えているのやら。
普段はクールなんだけど、時々突拍子もないことを言い出したりするから油断ならない。
どこで見つけてきたのか分からないようなダサいTシャツ(緑と紫のボーダーに赤文字で「ちくわ味のメロンパン」と書いてあった)を私たちの分まで買ってきて、『これを揃いの練習着にするわよ!』とか言っちゃったりする子だし。
「……ねえ、鷹音?」
『……なによ』
「変なこと考えたりしてないでしょうね?」
だから、鷹音が変なことを言い出す前に釘を差しておかないと。
『……変なことって?』
「変なことは、変なことよ。いらないお節介とか、余計なお世話とか」
『っ…………』
……反応が図星くさいわね。
「アンタと、アンタの父さんには、もう十分お世話になったからね? アンタの父さんに紹介してもらった先生のお陰で、きちんとここまで治してもらえたし、傷痕だって残ってない」
『……傷は残ってないって、貴女……』
間違ったことは言ってない。
傷は完璧に塞がっている。
人工皮膚? とかいうやつで、痕も残さず綺麗に。
「あとで知ったけど、あの先生、めちゃくちゃ有名な外科の先生なんだってね。その先生が、これ以上はもう治しようがないって言ってんのよ」
『……』
「これ以上は、どうにもならない。だから、余計なことはしないで」
『……でも、』
鷹音の表情は見えない。
扉越しだから当然だ。
『走れるようには、ならなかった……』
「……そうよ」
それでもきっと、辛そうにしているんだろうな、とは思えた。
だって。
『悔しくはないの?』
「だって、仕方ないじゃない。治らないものは――」
『私は悔しいわ!!』
鷹音の声は、心底悔しそうで。
『貴女が、走れないのよ……! 他の誰でもない、貴女が……!!』
そして、泣いているようだったから。
『見知らぬ誰かなら、私だって仕方ないと思うわ。あるいは、そうなったのが私だったとしても、天命だったんだ、と思える。……けど、貴女でしょ。巻き込まれたのは、貴女だった……!』
ダン、と扉を叩く音がした。
『私に勝った貴女が。誰よりも速く走る貴女が。他人の何倍も練習する貴女が。見てるこっちが心踊るくらい、楽しそうに走る貴女が! ……走れなくなったのよ? こんな残酷なことってある……?』
もうひとつ、ダン、と。
『貴女は、――貴女だけは、こんなことになってはいけなかったのに。なんで、よりにもよって貴女がこうなるの? 貴女なら必ず、もっともっと高みを目指せたのに。どうしてこんな、理不尽なことが起きるの?』
「……」
『ねぇ、蘭。教えて。本当に、悔しくないの? あれほど一生懸命走って、走って、頑張ってたのに、その結果がこれなのよ? 悔しくないの? 悲しくないの? 辛いとか、苦しいとか、そういうことは思わないの? 悩んだりとか、怒ったりとか、そういう風にはならないの?』
「……鷹音」
『私は堪らなく悔しいわ。貴女がこうなってしまったことも、――そんな貴女に、何もしてあげられない弱い自分も』
ああ、そんなに泣かないでよ。
『初めてお見舞いに行ったときに、動揺してしまった自分が。こうして会いにきてるのに、貴女の顔が見たいのに、この扉を開けられない臆病な自分が。情けなくて、苦しくて、……とても嫌になる』
「……そんなこと、」
『あるわ。私はそう思うの。どうしようもなく』
鷹音が苦しむ必要は、ないんだから。
『だから、せめて教えて。貴女がどう思ってるのかを。本当にこのままで、いいのかを……』
「……」
『教えてよ……貴女の気持ちを。聞かせてよ……お願いだから……』
……あたしは。
「……正直言うと、ね」
『……』
「よく分からないの」
『……分からない?』
「そう。……もちろん、誤魔化すつもりはないよ? あたしも真剣に答えてる」
『……ええ』
「でも、実際どう思っているのか分からない。悔しいのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。悲しいかって聞かれたら、今はもうそれほどでもない。憎むべき相手ってのがいないからかな? 色々思うところがありすぎて、まとまらないからなのかな? 分からない。あたしには、あたしのことがよく分からないの」
『……』
「ただ、あたしが病院で目を覚ましたとき、最初に思ったのは、――ああ、終わったんだ、……ってことだった」
『っ!』
「何がどうなったのか思い出して、自分の身体を確認して、それが間違ってなかったと分かって、あたしは呆然とした。……していたと思う、しばらくは。検査とかなんとか色々あったみたいだけど、その辺りのことはあんまり覚えてなくて、たぶんずっと、心ここにあらずみたいになってた」
『蘭……』
「……いまでもよく夢に見るの。あの時のことを。あたしが終わった瞬間を。そのたびにあたしは、息が苦しくて涙が止まらなくて、布団を被ってぶるぶる震えてる。毎日のようにそんなことになって、きちんと寝ることもできない。食欲だってあんまりないし、ストレスのせいかアレもずれてる。体重もだいぶ落ちたし、顔もひどいことになってるよ。……ねぇ、鷹音?」
『……?』
「そんなあたしに、本当に学校に出てきてほしい?」
『!!』
「終わってしまったあたしを、皆の前に引っ張り出したい?」
『そんな……』
意地悪だ。と、自分でも思う。
「出ていかないほうが良いんだって。きっと。あたしが行ったら皆気を遣うだろうし、あたしのことを知らない一年なんか、たぶん驚いて怖がるよ」
でも、仕方ない。
「……あたしはもう、終わったの。壊れてしまって元には戻らない。だけど、アンタたちにはまだ、先がある。今年も来年も、更にその先も。……だから頑張って。あたしなんか、気にしなくていいから……」
『…………』
しばらく扉の向こうで立ち尽くしていた鷹音は、最後に一言、『また来るわ』と言い残して去っていった。
……来てくれなくて、いいってば……。
あたしは、疲れたようにベッドに横になった。
……あの日は、雪でも降りそうなぐらい寒い日だった。
大晦日までもう何日もないような年の暮れで、数日前には二学期の終業式が終わっていた。
高校生になって二度目の長休み。あたしは相変わらず、走ってばかりいた。
「あー、疲れた」
その日のあたしは、暮れ始めた町の中を歩いていたと思う。
陸上部の練習が終わり、追加で何人かと自主練した後の帰り道だったはずだ。
「風、強いなぁ……」
建物の隙間を抜けて吹き付ける風が寒くて、あたしはウインドブレーカーのファスナーを締め直した。
ジャージの上から着込んでても、寒いものは寒い。
少し大きい交差点まできて、足踏みしながら信号待ちをしていると、遠くからサイレンが聞こえてきたのを覚えている。
救急車、ではなかった。ピーポーピーポーとはいってなかったから。
「……こっち来てる……?」
なんか、すごい勢いでこっちに――。
「――――え?」
次の瞬間。
信じられないことが起きた。
赤信号で止まっている車の間を抜けて、ありえない速度で赤い車が飛び出したのだ。
まだ、もう片方の道は青信号のままで、車がたくさん通っていたのに。
「あ――、」
赤い車は、信じられない速度のまま交差点に入り、当たり前のように、他の車とぶつかった。
おそろしく大きな、耳障りな音が交差点に響く。
思わず身が竦むような。
雷でも落ちたみたいな音だった。
赤い車は前の方がグシャグシャに潰れて。
ぶつかられたトラックも、タイヤを削りながら横に滑って。
ほとんど直角にぶつかった二台の車は。
引っ付いたままお互いを押し合い、交差点の角に突っ込んでくる。
縁石も植込みも乗り越えて。
歩道に突っ込んできた二台の車。
赤い車は裏返しになってショーウィンドーに突っ込み、トラックはぶつかった電柱をへし折って。
それでようやく止まったのだという。
あとから聞いた話では、赤い車はパトカーから逃げていたらしい。
何をしたかはしらないが、相当なスピードを出して逃げていたところで赤信号にさしかかり、そのまま交差点に突っ込んだのだとか。
車の運転手はほぼ即死。ぶつかられたトラックの運転手も、運ばれた先の病院で亡くなった。
不幸にも赤い車に押し飛ばされたお爺さんが骨盤を折って亡くなっていて、ほかにも何人もの人が巻き込まれて怪我をしている。
相当大きな事故だった。
ニュースでも連日報道されていたらしい。
らしい、というのは、あたしはそのニュースをきちんと見ていないのだ。
あたしも、この事故に巻き込まれたから。
今でも思う。よく死ななかったものだと。
「――――」
病院に運ばれたあたしが目を覚ましたのは、それから数日たった後のことで。
身体の至るところを包帯で覆われ、腕とかから何本も管が伸びていた。
自分が今どこにいるのかも分からなかったし、全身をベッドに固定されていたあたしは、起き上がることも出来なかった。
幸い、近くに看護師さんがいてくれていたみたいで、あたしが目を覚ましたことにすぐに気付いてくれた。
『もう大丈夫みたいね、良かった……』
あたしの顔を覗き込んでそう呟いたあと、看護師さんはどこかに行ってしまう。
医者の先生を呼びに行ったんだろう。
そうは思っても、確かめる術はなかったけど。
「…………ぁ、」
そしてあたしは、少しずつ、思い出す。
どうして、ここにいるのかを。
あの時、どうなってしまったのかを。
「……あぁ、」
耳に残る不愉快な音。
意識の途切れる直前に、確かに聞いた恐ろしい音。
「あああ、ああああ……!」
巻き込まれた、巻き込まれた、巻き込まれた。
あたしは、巻き込まれて、それで――!!
「っ!! あ、ああ、あああああああああ! あああああああああああああああああああっ!!」
思い出して、叫んだ。
何も考えられず、ただ叫んだ。
「あああああああああああああああああああ!! ああああああああああああああああああああああああ――――」
固定された身体を目一杯揺らして。
のどが裂けそうなほど激しく、声がかれるほど鋭く。
いかれたみたいに、気が狂ったみたいに。
ただ、その時の音を塗りつぶせるようにと。
あたしは声の限り叫び続けて、戻ってきた看護師さんに取り押さえられた。
「――――! ――――――――!!」
あたしは、意識を失っていた間も、ずっとこうやって暴れていたらしい。
声にならない声をあげて、全身の傷も厭わずにのたうち回り、何度もベッドから落ちそうになったのだと。
だからベッドに固定されていたのだ。
だから目を覚ましたときに『もう大丈夫』などと言われたのだ。
そのことに思い至ったのは、ひとしきり暴れたことで疲れて動けなくなったあとのことであり、叫びすぎて酸素が足りなくなって、頭がぼんやりしてからだった。
「…………はは、ははははは……」
そしていくらか冷静になった頭で、はっきりと理解したのだ。
あぁ、あたしはもう、終わってしまったんだ。と――。
コンコンコン。
鷹音が帰ってからしばらく横になっていたら。
ノックの音が聞こえた。
「…………」
あたしは寝転んだまま、ぼんやり天井を見上げ続ける。
返事をする気にもなれない。
先程までまた、あの日のことを思い出して震えていたのだ。
もう少し、このままでいさせてくれないかな。
コンコンコン。
しかし来訪者は、再び扉を叩く。
無情だ。けど、仕方ないか。
あたしは頭を振りながら起き上がる。
誰だろう。こんな時間に来るなんて。
「まだお昼前なのに……」
あの三人ではないと思う。
さすがに学校をサボってまでは来ないだろうから。
先生だろうか。
新しく担任になった神崎先生とか、陸上部顧問の安宮寺先生とか。
前にも一度来てくれたことはあるのだ。
結局、顔は合わせなかったけど。
コンコンコン。
三度目のノック。
あんまり待たせるのも悪いし、取り敢えず返事をしておこう。
――あとで考えてみれば、たぶんここが、この時が、いわゆる分水嶺とか天王山とかいうやつだったんだろうけど。
その時のあたしには、もちろん知るよしもないことだったわ。
「起きてるよ、……誰?」
扉の向こうの人物は。
『おはようございます』
「……えっと?」
あたしの知らない声の人だった。
『岡上蘭さん、ですね?』
「……はい」
扉越しでもよく通る、女性の声。たぶんそれなりに若い。
やっぱり知らない人だ。
でも、あたしの名前は知っている……?
『申し遅れました。私は、L&M医療介護機器サービスのキヌガサと申します。蘭さんの使っている車椅子を、リース契約で貸し出している会社の者です』
「はぁ……」
そんな人が、いったいなんでまた。
『すでにお母様には説明させていただいておりますが、本日は、弊社から貸し出している車椅子の定期点検に参りました』
「定期、点検……?」
『はい。貸出し開始日から二か月が経過しましたので』
一応、聞いてみよう。
「それって、断ったりとかは……?」
『申し訳ありませんが、それはできません』
「ですよね……」
車椅子を点検するとなったら、あたしの足がなくなるんだけど……。
『そんなにお時間は掛かりませんよ。長くても二、三〇分程度のものです。それと、どこか調子の悪いところがあるようでしたら、まとめて整備しておきます』
「あー、……それなら」
ブレーキ。
なんか外れやすくなってる気がするのよね。
『分かりました。合わせて確認するようにします』
「お願いするわ」
『それでは、』
「あ、ちょっと待って!」
『はい、なんでしょうか?』
部屋の扉を開けられそうになって、慌てて待ったをかける。
布団、掛けとかないと……。
初対面の人に、あたしの脚を見せたくはなかった。
下半身を布団の中に入れる。
形が分からないように整えて……。
「……はい、構いません」
準備ができたことを伝える。
『そうですか。それでは、失礼します』
そう言って扉を開けたのは、パンツスーツをピシッと着こなした女性の方だった。
「初めまして、蘭さん。キヌガサと申します。この春から担当となりました。よろしくお願いしますね」
「あ、はい……」
やっぱり若い。それになんだか、パンツスーツ姿が似合ってる。
「しかし、真っ暗ですね。もしかして、寝ていたのを私が起こしてしまいましたか?」
「あ、いや、あたし起きてても部屋を暗くしてるんで……」
「そうでしたか」
フワッと微笑んだ。と、思う。廊下からの逆光で顔がよく見えないのだ。ただ、サラサラしてる長い黒髪とか、細身ながらも出るとこは出た柔らかそうな体つきとか、同性であるあたしから見てもイイなあ、と思う。
というか、普通に羨ましい。
髪なんか半年以上切ってないから、伸び放題になっちゃってるのよ。
「入りますね」
女性の方(キヌガサさん、って言ったよね?)が部屋に入ってくる。
そういえば、家族以外の人をこの部屋に入れたのは初めてかも。
一階の奥の方に位置するこの部屋は、あたしが車椅子に乗るようになってから使い始めたものだし、今まで来てくれた人たちも、この部屋の中には入れなかった。
そんなことを考えていたら、キヌガサさんが目の前まで来た。
「お預かりしますね」
「はい、お願いしま、す……?」
答えながらあたしは、少々戸惑いを覚える。
キヌガサさんが、手に包みを持っていて、なぜかそれを、あたしのベッドのそばに置いたのだ。
少し気になって、それはなにかと聞こうとしたんだけど。
「…………?」
車椅子を押していこうとしているキヌガサさん。
すぐそこまで来たことで逆光の影響が弱まり、もう少しだけ顔が見えた。
思わず目を奪われてしまった。
綺麗な人だ。
鷹音みたいにキリッとした目をしていて、だけどこの人は、もっとこう、違う何かがあるように思える。
でも、目を奪われたのはそれが理由じゃない。
それよりなにより、その――。
「……どうかしましたか?」
「い、いえ、なんでもありません……」
困ったようにキヌガサさんに問われて、慌てて目を逸らす。
いけない。マジマジと見つめてしまっていた。
キヌガサさんはそれ以上気にした様子もなく、車椅子を押していく。
部屋の外には別の誰かがいるらしく、キヌガサさんはその人に車椅子を渡した。
『あ、これがそうなんですね!』
「ああ、持っていってあげてくれ」
『了解しました!』
「慌てなくていいからな。乱暴に扱わないように。それと、ブレーキ回りをよく見ておいてほしい、と伝えてくれ」
『はい!』
キヌガサさんよりもっと若そうな、男の人の声。
私と話すより気安い感じの話し方をしていたので、たぶん部下とか後輩にあたる人なのかな、となんとなく思った。
男の人が車椅子を押していくと、キヌガサさんは部屋の中に戻ってきた。
部屋に入ってすぐの、扉のそばに立つ。
緩く微笑んで、こちらを見た。
「整備士のところに、持っていってもらいました。ここまで一緒に来ているので、今から、リビングを借りて点検を行います」
「あ、はい。あの、今の人は?」
「今年の四月に入社してきた新人です。私が面倒を見ることになりまして、こうして一緒に活動しています」
なるほど。
「とはいえ、私も去年までは支店で事務や経理の担当をしていましたから、こういった外回りの業務は今年からなんですよ。ですから、彼に教えられることもそんなにないんですけどね」
「じゃあ、なんで?」
「まぁ、いろいろと諸事情がありまして」
「色々?」
「いろいろです」
どうやら、その色々とやらは話してくれないみたいだ。
ちょっと興味があったんだけどな。残念。
「へぇ、そうなんだ」
「はい。……――ところで、」
「?」
ふいに、キヌガサさんの目が細まり。
「部屋の電灯、点けてもいいかな?」
いきなり、そんなことを聞いてきた。
「……なんで?」
「なに、暗いまま話をすることもないだろう、と思ってな」
「……えっと」
戸惑いと、ためらい。そのどちらもを感じて、あたしはキヌガサさんから目を逸らす。
なにか、雰囲気が変わったような気がする。口調も違うし。
というか、電灯なんかつけたら……。
「――私に脚を見られるから嫌、か?」
「っ……!」
こちらの内心を見透かしたよう言葉。
思わず息を呑むあたしに、キヌガサさんは、さらにとんでもないことを言い出した。
「では、単刀直入に言おうか。蘭。君の脚を、私に見せてほしい」
「っ!?」
「だから、電灯を点けたい。いいかな?」
いったい、この人は何を言っているのか。
あたしの脚が見たい?
なんの冗談だ、それは。
「あー、えーっと、キヌガサさん? あたしの脚を見たいって、それは……」
「もちろん本気だよ。冗談などではない」
「……その、見て面白いものじゃないし」
「面白そうだから、とか、そんな理由で見たいわけじゃないよ」
じゃあ、なんだというのだ。
「私は、まだ見たことがないんだ。君の脚を」
「……初対面、ですからね」
「そうだ。そして、それではいけないと私は思っている」
「なんで?」
「私が君の担当になったからだ」
「……」
意味が分からない。
この人は、何が言いたいんだ。
「つまり、だ。これからの円滑かつ柔軟な対応を目指すためには、担当する相手の現状を確認し正しく把握する必要がある。だから、実際に一度見せてほしい、というわけだ」
「……ふうん」
「もちろん、こちらとしても前の担当者から引き継ぎは受けているから、ある程度のことは把握しているし、君の脚がどうなっているのかは知っているよ。ただやはり、聞いただけの話と実際に見たことがあるのとでは違う――」
「――待って」
今、なんて言った?
「……知ってるの? あたしの脚が、どうなっているのか」
「もちろん知っている。君の脚を手術した先生にも確認したからね」
「……知ってて、見たいって言ってるの?」
「そうだよ。……駄目かな?」
……なんだ、それは。
「……嫌です」
「ほう、なぜ?」
「理由なんてありません。嫌なものは嫌だからです」
「ふむ、そうか」
やれやれ、とでも言いたげに、キヌガサさんは首を振った。
「それなら仕方ないな。見たことのある者に順番に聞くようにするよ」
「なっ……!」
そして、当たり前のことのように、呟く。
「さしあたり、君の両親に。病院にアポを取れ次第、先生と看護師たちに。それから――」
激しく、嫌な予感がした。
「確か、術後にお見舞いに来ていた女の子たちがいたらしいね。お友達なのかな?」
「――!!」
「学校を通じてその二人にも――」
「待って!」
言葉を遮る。キヌガサさんは、不思議そうに首を傾げた。
「どうした?」
「どうした、じゃないわよ! アンタ、いったいどういうつもりなの!?」
「……なにかおかしなことを言ったかな?」
「ふざけないで! あの二人は関係ないでしょう!!」
思い浮かぶのは、あの二人の顔。
病院にお見舞いに来てくれたときの。
「関係があるかないかは知らないが、それでも君の脚を見たことがあるんだろう?」
「ある、けど……!」
「それなら、聞く価値はある。少なくとも、私にとってはな」
「……!!」
この女……!!
「誤解のないように言っておくが、私は別に嫌がらせのつもりでこんなことを言っているわけではないぞ。見せてもらえるならそれに越したことはなかったんだが、それが駄目だったから次善策を検討しているだけだ。私は、君の脚の現状を知りたいだけなのだから」
「…………!」
「まぁ、何人に聞いたところで実際に見るよりは劣るわけだがね。それでも、やらないよりはマシだ」
……つまり、どうしても見たいということでしょ。
「…………あたしが見せたら、聞くのはやめてくれるの?」
「そうだな。聞く意味もなくなるからな」
「……そう……」
思い浮かぶのは、あの二人の顔。
病院にお見舞いに来てくれたときの。
あたしの脚を見て、言葉を失い、目を逸らされた、あの時の――。
「分かった。見せるわよ。見せればいいんでしょ!」
「そうしてくれると、ありがたい」
あたしは、脚を見せることにした。
嫌だけど、仕方ない。
あの二人に、あの時のことを思い出させるほうが、もっと嫌だ。
「……その代わり!」
「ふむ」
「目は、逸らさないで。……お願い、だから……!」
「……分かった」
神妙に頷くキヌガサさん。
あたしは観念したように溜め息をつき、部屋を明るくする。
眩しい。この部屋の明かりをつけるのも、何日ぶりだろうか。
扉を閉めてキヌガサさんが、ベッドのそばに来た。
「…………」
「…………」
お互い、無言。
あたしはそろそろと布団を掴むが、激しい不安に襲われてなかなか決断できない。
本当に、見せていいのだろうか?
この人に。あたしの脚を。
「…………それじゃあ、」
それでも、ここまできたら見せるしかない。
あたしはそっと、布団をまくった。
さらけ出されるあたしの脚。
キヌガサさんの眉が、ピクリと動いた。
「…………なるほどね」
そして、それだけだった。
言ったとおりキヌガサさんは、目を逸らしたりしなかった。
あたしは少しだけホッとした。
また、目を背けられたりしたらどうしよう、と思うと、……怖かったのだ。
「確かに、傷は残ってないな」
「うん……」
「感覚はあるのか?」
「ある、よ」
「膝は? 曲がるのかな?」
「……多少は」
キヌガサさんがベッドのそばに膝をついた。
「触ってもいいかい?」
「え、それは……」
「少しだけだから」
「…………じゃあ、少しだけ」
そっと手を伸びしてくる。
触られた瞬間、少しだけ身体が震えた。ちょっとだけ、変な声も。
「んぅ……」
「…………」
キヌガサさんの手、暖かくてスベスベしてる。
膝とか太股とかを、確かめるみたいにしてゆっくりと撫でていくと、「ありがとう」と言って手を離した。
「よく分かったよ」
「そう……」
「じゃあ、最後の確認だ」
「……?」
確認……?
「君の本心を聞かせてほしい」
「それは、どういう……?」
「君は――」
「――今でも走りたいか?」
「――――」
…………はあ?
「どうだろう。君の本心は」
「…………いやいや、キヌガサさん?」
ほんとうにこのひとは、なにをいっているの?
「え、なに、たった今見せて触らせたのに、なんでそんなこと聞くの?」
「確認だよ。君が走りたいかどうかの」
「……いやいやいやいや、」
聞くまでも、ないでしょ。
「この脚で、走れるわけないじゃん」
「そうだな。その脚では難しいだろうな」
「だったら――」
「それでも、走りたいと思うかどうかは別の話だよ。蘭」
キヌガサさんが立ち上がる。
そして、あたしの目を見つめてきた。
「走れない、というのは単なる状況であって、本心ではない」
「……!」
「私が聞いているのはな。走れなくなった今でも、走りたいと思っているかどうかだ。実際に走れるか否かは、今は問うてない」
「…………」
「で、どうかな? 走りたい、と思っているかい?」
あたしは……。
「思って、……ないよ」
「ふむ」
「走れないのに、走りたいなんて思わない」
「なぜ、そう思わないんだろうな?」
「なぜって……」
あたしは、理由を考える。
「そもそも、出来もしないことをしたいと思う意味はないでしょ。どうせ、出来ないんだから」
「なるほど」
「それに、もう終わったことにいつまでもしがみつくのはみっともないし、なんか、情けないと思う」
「そうか」
「あたしは、あの日終わってしまった。それは変わらない事実だし、とっくに受け入れたことなの。だから、今さら走りたいなんて――」
「――と、自分を納得させているのだな?」
「――――!」
「でなければ、考える必要などないからな。走らない理由、なんてものを」
「…………」
「言い訳だよ、それは。自分の本心を誤魔化すための。私が聞きたいのは、そういうものじゃない。誤魔化しでない、本心を聞きたい」
「……だから、」
「では聞き方を変えようか。もし、君が事故に遇っていないとして」
「!」
「今のような脚になっていなくて、今でも毎日のように走っているとしたら、君は、走りたくないと思うのかな?」
「そんなこと……!」
あるわけがない――!
「仮定ひとつで、すぐに覆る。と、いうことは、君の走りたくないという思いは所詮その程度のものだということだ。本心なんかではないな」
「そんな、無茶苦茶な……!」
「……私が聞きたい本心というものは。いいかい、蘭。本心というものは、だ」
キヌガサさんの視線が、強まる。
「現実とも仮定とも、一切関係のないもの、だ。なぜなら本心とは、ただひとり自分自身のみが見ることのできる自らの奥底であり、そこに、他のものが干渉する余地はない」
「――!」
「あらゆる仮定も想定も踏み越えて、決して変わらないナニか。その人物を、その人物たらしめるモノ。心の芯、核、中央点、魂や信念、或いは……、まぁ、これを、なんと呼ぼうが構わないが、とにかくそれは、たかだか仮定ひとつでぶれるようなものではない」
そしてすぐに肩をすくめた。
「……ま、あくまでもこれは私の持論だがね。ただ、今の君には通用する考え方だとも思っている」
「……」
「そしてさらに言えば、本心を言わない人間にはいくつか種類がある。本心に気付いていながら誤魔化す者、そもそも本心に気付いていない者、それが本心であると勘違いをしている者、だ」
「果たして君はどれかな」と、あたしの目を覗き込んできた。
背筋がゾクッとした。その、瞳の強さに。
心の中まで見透かされそうな気がして、あたしは、目を逸らさずにはいられなかった。
「…………」
「……まぁ、そうだな。自分の本心を知るというのも存外難しいことではある。自分ひとりで自分自身の内側を覗き続けるのは難しいし、心を病むことだってあるらしいからな」
「……」
「そこで、だ。人は古来より外へも問いかけた。外からの反射で、内側へ切り込んだんだ。より深くへ、より濃いところへ。自分探しの旅というやつも、きっとその内のひとつなんだろうさ」
「なにを……」
キヌガサさんの言葉を聞いていると、だんだん訳が分からなくなってくる。
あたしは、今、何を相手にしているの?
この目の前にいるモノは、いったい何だ?
「そこで今日は、試作品を持ってきている」
「……試作、品? なんの……?」
「君の両親から依頼されていたものだ。さきほど、そこに置いておいただろう?」
「……あ、」
さっきの、包み……。
「ほら、これだよ」
「…………」
「開けてみるといい。そして、見るんだ。君がどう思うか、どう感じるのか、それを私も知りたい」
「……」
手渡されたそれは、たいした大きさも重さもない。持った感触は硬く、それでいて、曲げようと思えばよくしなりそうで。
包みをどけて、中身を見る。
――あたしは、絶句した。
「……ねぇ、これって…………」
かろうじて振り絞った声は、ひどく細くて頼りない。
今にも消えそうなものになってしまった。
「そうだよ」
キヌガサさんは、頷く。
なんで、こんなもの……。
「君のために作った、義足だ」
「――――」
「事故で失った、両膝から下の代わり。君がまた走り出すための、新しい脚だ」
あの日あたしは、事故に巻き込まれて。
突っ込んできたトラックの、下敷きになった。
縁石を乗り上げて持ち上がった車体が、あたしの身体を踏みつけて。挟まれたまま、トラックが止まるまで引きずられた。
厚着をしていたから、擦り傷とかはあんまりなくて。
押し倒されたときの打ち身や打撲、骨のヒビなんかが何か所かあったらしい。
「――――ぅ、」
トラックが止まって、倒れたときに打った頭とか、ズキズキする全身の痛みとかそういうもので意識が朦朧として。
気を失いそうになっていた、その時。
あたしは見た。見てしまった。
「…………あ、し」
トラックの、タイヤを回すための軸。シャフト、っていうのかな。そこに、ジャージの裾が噛み込んで、両足が浮いていた。
あたしは、落ちそうな意識と動きそうにない身体で頑張ってみたけど、どうにも外せそうになかったから。
仕方ないや、と、諦めた。
諦めて、しまったの。
……そのまま頑張ってもどうにかなるか分からなかったけど。
諦めるべきでなんか、なかった。
「…………?」
足に違和感を感じた。
引っ張られるみたいな。
引き込まれていくような。
高まるエンジンの回転音。
止まったはずの、トラックのシャフトが、少しずつ回り始めていた。
――電柱にぶつかって意識を失っていた運転手さんの足が、少しずつアクセルを踏み込んでしまったのではないか、と、あとで病院にやってきた警察の人に説明されたけど。
その時のあたしには、なんの慰めにもならなかったわ。
待って。
待って。
そんな、止めてよ。
それはダメ。止めて。お願い。誰か。止めてよ。助けて。あたしは。それは。脚が。だめ。助けて。ねえ。止めて。やめて。そんな。だめだって。たすけて。ねえ。だれか。とめて。あしが。あたしの――。
あしが――。
*****、*****、*********、********************……――――
……落ちる意識と心を切り裂くように、その音は、あたしの鼓膜にこびりついた。
「……大丈夫かい?」
気が付けばあたしは、義足を握り締めて泣いていた。
「…………」
息が苦しい。掠れて、ひゅーひゅーいってる。
背中を撫でてくれてるキヌガサさんの手が、暖かい。
でも……。
「……なんでよ」
それとこれとは、話が別だ――!!
「なんで! こんなもの持ってきたのよ!」
「……」
「こんな! 板切れのどこが! 脚の代わりになるっていうの!?」
あの日ボロボロに千切れたあたしの両足は、どうやっても治せなかった。
ぐちゃぐちゃになり過ぎてて、縫い合わせるとか、そんな状態ではなかったのだ。
できたのは、傷口を塞ぐこと。せめて傷跡を消すこと。
その程度だった。
あたしの脚は、それほどまでにひどい状態だったのだ。
「あたしをバカにしてるのっ!?」
「……そんなつもりはない。それは、陸上競技用に設計された、特殊合成炭素素材の義足だ。軽量かつ強靭性に優れ、反発係数なども国際競技基準を満たしてある」
涙を零しながら睨み付けるあたしから、キヌガサさんは目を逸らさずに答える。
あたしと目を合わせたまま、ゆっくりと立ち上がった。
「縫合し塞がった切断面を再度開き、残った脛骨に接合部品を埋め込んで固定する。義足は、接合部とボルトで繋げるから、壊れたりしてもすぐに付け替えることができるし、使わないときは外しておくこともできる」
「誰がそんなこと……!」
「君の先生が、膝から下を出来る限り残したのは、これを取り付けることができるようにするためだ!」
「――!」
「その義足にしてもそうだ。それは、君の先生と我が社の義肢装具士が、何度も打ち合わせをおこなって作り上げた試作品だ。君がまた走り出せるようにと、もてる知識と技術を詰め込んである」
「……」
「それを依頼してきたのは君の両親だ。それを設計したのは君の担当医だ。それを形にしたのはウチの職人だ! その義足には、君にもう一度走り出してもらいたい人々の、様々な想いが詰め込んである! 断じて、板切れなどではない!」
「…………!」
そんな、勝手なことを言うな……!
「あたしが、いつ、こんなもの作ってって頼んだのよ……!? あたしは、もう、走れないの! こんなものを付けてまで、走りたいとは思わない! あたしの脚は、こんなものには代えられないわ!」
「……!!」
「あたしの脚は、あの時終わったの! あたしの一番大切な宝物は、あっさり砕けてなくなった! こんな模造品なんか、いらない――!!」
「っ!」
あたしは、手にしていた義足を投げた。
とっさに避けたキヌガサさんの額を掠めて、義足は扉に向かって飛んでいく。
いや、額ではないか。額の――。
『うわっ!?』
「……!」
「っ……」
扉に当たって落ちた義足。
部屋のすぐ外から、男の人の声がした。
『え、今の音はなに? あ! だ、大丈夫ですか! モモコさ――!』
「入るな! ケンタロウ!!」
『っ、はい!!』
こちらを見据えたまま、キヌガサさんが一喝した。
「私が! ここから出ていくまで! 絶対に入ってくるな!!」
『はい!』
「他の誰もだ! 近寄らせるな――!!」
『了解です!!』
怒気の籠った激しい言葉。
「行け!!」という一言で、男の人は部屋から離れていく。
「……犬みたいな人ね」
「素直な良い男だよ。アイツは」
……とにかく。
「とにかく。あたしは、義足なんかつけないわ。そんなことしてまで走るつもりはないし、つけろと言われてもつけない」
「……もちろんだ。この手術には、君自身の同意が必要になる」
なんだ。そうなの。
「じゃあ、あたしがつけないと言っていれば、つけなくてもいいのね?」
「そうだ。そして、本来ならこの確認は、君が学校に行くようになってしばらくしてから行う予定だった」
「っ……」
「学校に行くようになって、部活の練習風景でも見て、自然とまた走りたいと言い出すのを待つつもりだったそうだ。……だが、君はそうはならなかったな? 皆が、あの手この手で呼び掛けても、君は応じなかったな?」
「それは……」
あれは、そういう……?
「別にそこを責めているつもりはない。だが、いつまでも確認する機会がこないままというわけにもいかないのだよ。時間をかけても解決するものではないだろうし。だから――」
あたしは、キヌガサさんの言わんとすることを理解した。
「あたしの本心を知りたい、と?」
「その通りだ。だから私はここにいる。今日、君の本心を確認するように頼まれたからな」
「……誰から?」
「君のことを信じている、皆からだ」
「みんなって……」
「皆、だよ」
「……」
言うつもりは、ないらしい。
「君は、さきほど、今も走れるのであれば、走りたいと言ったな?」
「……言ったよ」
「では、なぜ、走れるようになるものを、拒むのだ?」
「…………」
「答えられないな? ……では、はっきりと言ってやろう」
「……なにを――」
「――お前はいつまで、過去に拘るつもりだ」
「――――!」
叱られている。
あたしは、はっきりそう感じた。
「お前は、たいそう足が早かったそうだな。それこそ、中学時代は比喩抜きで誰よりも」
「……」
「高校に入っても、誰よりも速く走れるように。毎日毎日練習して、誰よりも頑張っていたそうだな」
「そ、そうだよ……」
「だが、それは全て過去のことだ。事故に遭う前の。脚を失う前の。今は遠い過去の話だ。今のお前とは、似ても似つかない立派なころの姿だ……!」
「……!」
「翻って、今のお前はどうなのだ? 学校にも行かず、毎日毎日、ほとんど部屋に閉じ籠って出てこない。友達が来ても顔も出さず、相手が自分を甘やかすのをいいことに、自分自身を正当化して赦そうとしている。……今のお前を、昔のお前が見たらどう思うだろうな」
「だ、だってそれは……!」
実際に、走れないから――!
「違う。お前は、走れなくなったことを言い訳にして、いつまでも立ち止まっている自分を正当化しようとしているんだ。『できない』のと『やらない』のでは、天と地ほど違う。どうにもならない事象を言い訳に使うことほど、醜いことはない」
「――!」
キヌガサさんは、怒気をはらんだままの言葉で、あたしを責める。
「お前が、脚を見られるのを恥ずかしがるのも、学校に行くのを嫌がるのも、義足をつけたくないと言うのも、全て一緒だ。お前はいまだに、今の自分を認めていないのだ。走れたころの自分こそが、輝いていたころの自分こそが、本当の自分だと思いたいのだ。だから、今の自分を認めるようなことをしたくないと言うのだ」
「違う、違う――!」
そんなことはない。あたしは、今の自分を受け入れて……。
「もし仮に、今のお前と私がかけっこをしたとしよう。お前は、私に勝てるのか?」
「っ!」
「なんなら車椅子を使ってもいい。一〇〇メートル走で勝負して、お前は私に勝てるか?」
「か、勝てないわよ! でも、それは――」
「それは? 脚が悪いから? ……昔のお前も、勝負に勝てなかったときに言い訳をしていたのか?」
「!!」
「していなかっただろ? その時その時で目の前の勝負に全力を尽くして、たとえ負けても次は勝つ、と気を引き締めていたはずだ。少なくとも私は、そう聞いている」
「え? あ……?」
待って、待ってよ……。
「……お前が、本当の意味で失ったものは、速く走るための脚なんかではない」
「……」
「誰よりも速く走る。その思いだけで他人の何倍も練習し、全国大会にまで進めるほどの実力を手に入れた、走ることに対する熱意だ!」
「ま、待ってよ。そんな、急にそんなこと言われても……」
キヌガサさんは、悲しそうに目を細めた。
止めてよ。そんな目で、あたしを見ないでよ……!
「そ、……そうだ! キヌガサさんもさっき見たでしょ! あたしね、毎日のようにあんな風になって、その、外に出るようになったら、他の人にも迷惑が……」
「……あれこそ、病院に通って治療すべきものだ。おそらくPTSDに近い。事故後はあんな症状が出ていたらしいが、今も続いているなど私は聞いていなかった。まさか、誰にも言っていないのか?」
「え……、えっと、」
「……言ってないんだな。そうなると、どちらにしても病院には行ってもらう必要が出てきた」
「ま、待ってってば!」
あたしは思わず、キヌガサさんの手を取った。
これを離したら、だめな気がした。
「待って。お願い、待ってよ……」
「……」
「あたしはもう、治ったの。ちゃんと治ってる。だから、病院には行かなくてもいいの。大丈夫なの……」
「なぜ、そんなに嫌がるんだ?」
だ、だって……。
「やっと退院できて、父さんも母さんも安心してくれてたのに、また病院に行くようになったら、その……」
「学校に行かなくて、心配かけるのは良いのか?」
「それは、だって、車イスで行ったらきっと、学校の皆に迷惑をかけるから……」
「…………」
キヌガサさんは、ひどく困ったように顔をしかめた。
何を考えているのかは、分からない。
でも、また迷惑をかけるようになるのは、嫌だ。嫌なの。
「あたしはもう、たくさんの人に迷惑を掛けたわ。家族にも、病院にも、学校や部活のみんなにも。これ以上、あたしの都合でみんなを困らせたくないの。みんなに安心してほしいの……!」
だからあたしは、ここに閉じこもっていたいの――!
「……なぁ、蘭」
「…………」
キヌガサさんは、深く溜め息をついて。
「……君のその間違った優しさが、一番皆を傷付けている」
「……え?」
掴んだ手を、握り返してきた。
「君は、自分の本心と向き合っていない。だから、君自身に向けられた皆の想いに気付かない。気付けないんだ」
「……」
「そんな状態のまま皆と向き合おうとしても、きちんと向き合えるはずがない。なぜなら、皆は君と向き合っているのに、君自身が、君と向き合っていないからだ。皆がどちらを向いているのか分からないのに、向き合えるはずがないんだ」
「……!」
「皆に心配を掛けたくないというが、逆だ。皆に心配されて、気に掛けられて、気を遣われて、優しくされて、……そうされている自分を認めてやらないと、皆、心配で君から目が離せないんだ」
「…………」
「皆は、君がまた元気になって、走り始めることを信じている。今の君にどれだけ信じてもらえるかは分からないが、それは事実だ。いいかい、蘭」
「……うん」
名前を呼ぶ声は、先程までと違って、とても優しかった。
「迷惑をかけてもいいんだよ。もっと皆を頼っていい。君は、車椅子がなければ出歩くことも出来ないような身体なんだ。君の望むと望まざるとに関わらず、そうなってしまったんだ。それはもう覆らない事実なんだ」
「……」
「昔のように走ることはできない。まわりから奇異の目で見られることもある。今まで当たり前に出来ていたことが出来ないし、或いは誰かに手伝ってもらわなくてはならない。それを恥ずかしく思うこともあるだろう。嫌だと思うこともあるだろう。気を遣われるのが疎ましかったり、傷付くことだってある」
「…………」
「普通の人を見て、羨ましくなるときもある。気分が悪いときは憎しみに変わるかもしれない。自分より足の遅かった人間に、今の自分では勝てなくなっていて、絶望的な気持ちになるかもしれない」
「あ……」
唐突に、抱き締められた。
慈しむように。大切なものを扱うように。
「そんな自分が心底嫌になって、捨て鉢な気持ちになることもある。見捨ててほしいと思うときもある」
「うん……」
「でも、君を待つ人たちは、見捨ててなんかくれない」
「…………!」
「皆、君が大切だからだ。楽しそうに走る君が、大好きだからだ。だから皆、君に構うんだ。君に元気になってほしくて、君に会いにくるんだ。君にもう一度走れるようになってほしくて、義足を作ったんだ」
「…………その、」
あたしの声、たぶん震えてる。
「みんなって、誰のことなんですか……?」
「……皆は、」
「お願い。教えて」
「……」
「お願いだから……」
一際強く、抱き締められた。
あたしも、キヌガサさんの背中に手を回す。
「君のご両親」
「うん」
「担当医、病院の看護師。私の会社の、担当の者たち」
「うん」
「君の学校のお友達」
「……あの三人もなのね」
「そうだよ。でも、それだけじゃない。顧問の先生も、陸上部の部員たちも。担任や他の先生も。クラスメイトだけじゃなく、他のクラスや別の学年の人たちもだ」
「…………!」
キヌガサさんの言葉は、止まらない。
「君のお友達は、町中を回って集めていた。他の学校の生徒からも、道行く人たちからも。地元の知人や後輩なんかにもお願いしていたし、お願いされた君のことを知っている人は、さらにそこから自分のツテを使ってお願いしていったらしい」
「……それって」
「君の義足を作るためのお金だよ」
「――!!」
「皆、というのは、つまりそういうことだ。数えきれないほどたくさんの人たちが、君の義足のためにお金を出した。それだけたくさんの人たちが、君に立ち直ってほしいと思っているんだ」
「……なんで?」
「皆君のことを知っているからだ。当然だろう? 君は毎日のように町を走っていた。楽しそうに、嬉しそうに。誰よりも速くなりたいと言っていた君が、本当に誰よりも速く走れるようになって。それでも毎日走るのを止めなかった。皆、君を応援していた。皆、君の走る姿を楽しみにしていた」
「あ……」
「……そんな君が、今、走れなくなっている。何か出来ることはないかと、皆思っていた。大したことは出来ないけどせめて、君のためにできることはないかと考えた。だから、たくさんのお金が集まった。何度でも作り直して、君がいつまでも走り続けられるぐらいたくさんの。……もっとも、これを教えたら君が気を遣いそうだから、事故の保険金で賄ったと言うつもりだったらしいがね」
「…………あっ!」
あたしはハッとして、キヌガサさんから身体を離す。
「じゃあ、さっきあたしが投げた義足って!?」
「……皆が出してくれたお金で作った、第一号……っ! おい!」
「――――!!」
転げ落ちるようにして、ベッドを降りる。
キヌガサさんが止めるのも聞かずに、扉の前まで這っていく。
そして、改めて義足を手にして、あたしは――。
「う……、」
その重さを、感じた。
「うぅ、」
そして、義足を胸に抱いて。
「――うあああああぁぁぁぁあああああああああああああ、あああああああぁぁぁぁああああ――――」
――――ただ、泣いた。
溢れる涙は止まらなかったけど。
この涙は、いつまでだって止まらなくてもいいと思えた。
「ねえ……、キヌガサさん」
「どうした?」
ひとしきり泣いて、泣いて。
キヌガサさんにも手伝ってもらって、ベッドに戻って。
義足が壊れてないことを確かめて、それから。
「これを使うようになったら、前みたいに走れるようになるかな?」
キヌガサさんに聞いてみた。
「……はっきりとしたことは言えないが、まぁ、難しいだろうな。膝から下の筋肉を使えなくなっているわけだし、ただでさえブランクがある。なにより、それで走れるようになるには、今までとは走り方などを大きく変えなくてはならないだろう」
「そっか……」
「……それに、だ」
「?」
「その義足は、過去に戻るためのものではない。君が未来へ進むためのものだ」
「――!」
「あの日で立ち止まったままだった君が、また一歩ずつ、走り始めるためのものだ。だから、前みたいに走れるかなんて、そもそも気にしなくていい。……それに、今の君なら、きっと前よりも速く走れるようになるさ」
「うん……、分かった」
そこでキヌガサさんが、コホンと咳払いを。
「ところで、肝心なことをまだ聞いてないな」
「え? ……あっ、」
「君がその義足を使うためには、君の同意が必要だ。君の本心を、まだ聞かせてもらってないぞ?」
片目を閉じて、からかうように聞いてくる。
たぶん、分かって言ってるんだろうな。
「言わなきゃ、だめ?」
「駄目だ。必要なことだからな」
「……それじゃあ」
あたしは、キヌガサさんの目を見て、はっきりと答えた。
「――走りたい。あたしはまた、走れるようになりたい」
キヌガサさんが、嬉しそうに微笑む。
「……それは、君の本心かな?」
「うん、そうだよ。……あたしは、この義足を使って、また走れるようになりたい。走れるようになって、それで、皆の想いに報いたいよ」
「……そうか。では、そのように話を進めることにするよ。詳しい話はまた後日、君のご両親や先生を交えてすることになるだろう」
「はい!」
あたしは、力強く頷いた。
「……さて、それならそろそろ車椅子を持ってきてもらおうか。だいぶ長いこと、待たせているはずだからな」
そう言うとキヌガサさんは、部屋を出ていった。
待たせていた男の人を呼びにいったのだろう。
「…………」
あたしは、自分の脚を見下ろして思う。
膝から少し下、そこから先のなくなった脚を。
あたしにとって、この脚は。
今までのあたしを支えてきた、大切な宝物だった。
そして、手元の義足を見て思う。
あたしにとって、この義足は。
これからのあたしを支えてくれる、大切な宝物になるだろう、と。
今日という日の出来事を、あたしは、決して忘れたりしないだろうと――。
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございました。