神官たち、来る
昨日と変わらぬ一日の始まり。
いつものように下着を身に着け、いつものように制服を羽織る。
先に身支度を整えた雪乃は一足先に家を出て行った。
雪乃も食堂に向かう筈であり、目的地が一緒である以上、明日馬としては二人並んで向かいたいと思わぬでもなかったが、雪乃がそれを避けていることにも気が付いている。
狭い施設内のことだ。
今更、二人の仲を知らぬ者はいない。
多くの者は、十代同士のささやかな恋を温かい眼差しで見守っていたし、小さな頃から仲の良かった二人がそういう関係になったことを自然な事だと考えてもいた。
だが、雪乃はそれを嫌がっている。
明日馬はその理由を漠然と理解している。
雪乃は鈴鹿曹長家の当主。
明日馬は蘇我三佐家の当主。
両家の間には隔絶した家格の差が存在している。
世襲される家格は、この施設内における絶対のもの。もし、千年間受け継がれたその体制が崩れれば、秩序が保たれなくなる。
そのことを気にしているのだろう――――明日馬は、そう思っている。
明日馬は上り線から連結路へと入った。目的地である食堂は様々な施設が整備されている下り線の一画にある。そこに行く為にはいずれかの連結路を通らねばならず、どうせ通るのであれば、奇数番の連結路を歩きたいと思っている。
奇数番の連結路は、水耕栽培農場に割り当てられているのが理由だ。
食用、或いは薬用のいろいろな植物が上下三段に重ねられた水槽の中に漂い、その髭の様な根の下には淡水魚や沼エビや沢ガニ、タニシなどが飼育されている。いずれも食用だが、蠢くそれらが見ていて楽しいのも事実だ。
水耕栽培農場は、この施設で消費される食料のほとんどをまかなっている。
自然、地下の地熱発電所から送られてくる電力の大部分は、この区画で消費されており、奇数番連結路の明るさは他の区画とは比較にならない。
水耕栽培農場の収穫の出来不出来が、そのまま施設内の人口を左右するとなれば、何をおいても優先されるべき場所なのだ。
薄茶色の塊が水中に漂う水槽の前に立ち、明日馬は中を覗き込んだ。
人を見慣れているせいか、タナゴを中心とした魚たちも明日馬の存在を意に介さない。大部分が薄暗い照明しか施されていない隧道の中で、眩しいばかりの灯り、そしてきれいな緑色の藻が生えた水槽は実に心の安らぐ光景だ。記録映像で見た外界の草原の光景とだぶる。
「三佐殿自ら魚泥棒とは恐れ入りますなぁ」
明日馬は魚を見続けているうちに、時を忘れていたようだ。唐突に声を掛けられる。声でその主が誰かは直ぐに分かる。
「邪魔しないでくれ。今、大きいのを狙っているところだ」
「お前さんに捕まる様な間抜けな魚はいないと思うぜ」
声の主は、鹿野雄二という名の明日馬と同い年の少年だ。
代々、水耕栽培農場の責任者をしている一家の出で、先祖は農協の農業改良普及員をしていたという。現在の農場責任者は雄二の祖父であり、いずれは雄二の父が、そして雄二が後継者となる予定だ。
現当主である祖父は七〇歳に届く年齢で、これは施設内では大変長命な部類に入る。もっとも、雄二の祖父に限らず、農業に従事する者は総じて長命であり、その祖父自身が僅か二六代目という事実が、それを雄弁に物語っている。結局のところ、生産者は供給を受ける側に比べると、遥かに栄養摂取が容易だということだ。
そして雄二も、その伝統に則り、同年の明日馬に比べ、身長は頭一つ分高い。肩幅も相応に広く、胸の厚みに至っては比較にならない。
どれだけ喰ったら、そうなるんだ――――そう思わずにはいられないが、口に出したことはなかった。
雄二は白いつなぎの作業服の袖をまくり、水槽の中に手を突っ込む。無造作に薄茶色の塊――――ジャガイモ――――を二つ取り出し、一つを明日馬に放り投げる。
「食ってみろよ。ここのは品種改良しているから生でも食えるぜ」
そう言うなり、雄二は自らの手にしたジャガイモに齧りつく。魚の泳ぐ水槽から直接、衛生的とは言えないが、それを気にしている様子はない。
明日馬も真似をし、齧りつく。
口の端から、汁が噴きだし、袖で拭う。
青臭い香り。
続いて、ほのかな甘さ。
かすかな渋味。
幼い頃に家族で食べた栗に似た味わい。
「美味いな――――」
貪る。ジャガイモは施設内の主食の一つであり、毎日のように食べている。その生産量が施設内の人口を左右する程だ。米や麦も食べるが、いずれも育成期間が長い為、主食としての地位はイモ類に一歩譲っている。
「生のままってのは初めてだ」
「そうだろう。今、数を増やしている最中だ。加熱調理するよりも、生の方が栄養を取り込みやすいらしい。いずれ皆で食べられるようになる」
「ふーん」
雄二は半分ほどになったジャガイモを水槽に投げ入れると、明日馬に対しても食べるのをやめ、水槽に戻すように促す。食べかけのそれを種イモとして利用するつもりなのだ。
もう一口だけ齧りつきたい欲求を抑え、明日馬も水槽にそれを投げ入れる。餌と勘違いしたタナゴがそれのまわりに寄り付き、とがった口先でつっつき始める。
「これから朝飯かい?」
餌でないと知ったタナゴが芋に興味を失った様子に見入った明日馬に雄二が問う。
「あぁ……一緒に行くかい?」
「いや、俺はもうすませたよ。のんびりできる三佐殿と違い、農家の朝は早いんでね」
嫌味ともつかぬ雄二の言葉に明日馬は笑う。
施設内で生まれた彼らは、朝というものを見たことが無い。
雄二と別れた明日馬は、水槽を眺めながらゆっくりと連結路を進む。もし、現代人がその様子を見たならば、ウィンドウショッピングを楽しんでいる様にも見えただろう。水槽の並ぶ農場区画は、何故か郷愁を呼び覚ます。ここは、さまざまな人々が目の保養に訪れる場所なのだ。
連結路から下り線に入ると高らかな金属音、そしてモーターの駆動音に混じり、油圧ポンプの作動音が聞こえてきた。
車輛の使えない隧道内では、老若男女問わずに日常的に愛用されているパワーアシストスーツの奏でる音だ。
元は介護用品から進化したというそれは扱いが容易で、その上、熟練を必要としない。大昔は量販店でつるしの背広の隣に売られていたぐらい普及していたらしい。
明日馬が視線を音源に向けると、一個分隊8名が地下へと続く立坑へと向かっている様子が見えた。
肩に中隊章であるオニヤンマをデフォルメした紋章に下に『東312』という標があしらわれている。東部方面普通科連隊第三中隊第一小隊第二分隊という意味であり、明日馬の部下である平一尉が率いる小隊に属している分隊だ。
「中隊長殿に敬礼!」
明日馬の存在に気が付いたらしく、梶原分隊長が行進を停止させ、敬礼する。明日馬は答礼を返してから、休めの指示を出し、分隊長に尋ねる。
「これから地下へ?」
「はい。第六立坑から掘り進めていたパイロット抗の一部が崩落しましたので、土砂の除去作業に向います」
「崩落――けが人は?」
崩落の事実を明日馬は知らなかった。
つまりは、報告しなくても良い程度の崩落、当然、怪我をした者などいないということだ。それでも、一応は心配し、確認する「フリ」をしなくてはならない。それも中隊を束ねる三佐家当主としての役目という訳だ。
「ご心配をおかけし申し訳ありません。土建屋連中が少々、補強に手を抜いたらしく……まぁ、我々は手伝いですから」
梶原分隊長の顔には苦笑が浮かんでいる。
収容施設の拡幅工事を土建一族は代々、担当している。当然、崩落を防ぐ為の補強資材はとっくの昔に底をついており、仕方なく、比較的岩盤の強固だと思われる区画から資材を抜き取り、新しい穴の補強にあてているのだ。
拡幅工事は土建一族にとって己の存在意義であり理由だ。
彼らは決して穴を掘り進める事をやめようとしない。
危険が伴おうが、穴を掘り続ける以外に自身のアイデンティティーを見つけられないのだ。
既に蟻の巣よりも複雑に掘り進められた収容施設、内部スペースは十分にある。今更、拡幅の必要があるとも思えないが、土建一族は決してその行為をやめようとしないし、誰も敢えてそれを止めようとは考えない。それは彼らから生きがいを奪う事になると承知しているからだ。
下り線の食堂に明日馬が顔を出すと、既に大部分の者が食事を済ませた後らしく、いくつかの少人数のグループや家族が食後の談笑を楽しんでいるだけだった。
トレイを手に、カウンターに置かれた保温器を覗きながら順路に従い進む。
蒸したジャガイモ、ブロッコリー。
ペースト状にしたトマトをかけたナスの素揚げ。
採取後、一度乾燥させた青藻を再び水で戻した物をたっぷりといれた味噌味のスープ。
メニューには沼エビの唐揚があったが、人気だったらしく、それはもう残っていないようだ。やむを得ず、カイコガのフリッターを数匹、盛付ける。嫌いではないが、少々、食べ飽きてもいるのだ。
明日馬が手近の空いている席につき、食べようとした瞬間、制服を着た二人の隊員の存在に気が付く。
相手もこちらの存在に気が付いたのか、明日馬の座る席に駆け寄ってきた。
「おはようございます、三佐殿」
厳めしく敬礼している方が丹羽准尉、中隊本部付きの士官で、明日馬とは母方の従兄にあたる人物で、部隊内では副官を務めており、公私にわたって良き相談相手を務めている。母親によく似た肥満体に五分刈りの坊主頭が良く似合う。
その横で、尻のポケットからくしゃくしゃになった制帽を取り出し、それを頭に被ってからのんびりと敬礼してきた方は重機小隊長の小栗三尉。痩せた長身の持ち主で長髪も、無精ひげも、実に隊員らしくはない。生真面目が取り柄の丹羽准尉とは外観は至って対照的だったが、二人は家が隣同士で、年齢差はあるが子供の頃から仲が良い。
「おはよう。朝食は?」
二人に席を進めながら、鷹揚に問いかける。二人とも年長者だが、階級の差はこの空間では親の権威よりも絶対だ。
「済ませました……」
丈夫さだけが取り柄のパイプ椅子に二人は座る。平素、ハキハキとし活力に漲る丹羽准尉の言葉尻が少しだけ言い澱んだことに明日馬は気が付いた。
「何かあったのか?」
馬鹿げた質問だ――――問い掛けながら、明日馬は内心、そう思った。
何も変わらない。何も起こらない。それが日常だ。
混濁した時間の流れ、何が先で、何が後に起きたのか判別できない程、変化の無い日々。
「それが……」
丹羽准尉は小栗三尉の方に視線を泳がすが、三尉は天井に目線を向け、それに気が付かないふりをしている。
この無気力そうな人物が中隊最強の戦士などと誰が信じるであろうか。
常勝無敗、パワーアシストスーツを皮膚の様に使いこなす無敵の戦士。あまりの変幻自在な機動に「壁歩き」の異称まで奉られている。
知らんふりを決め込んだ小栗三尉の態度に諦めがついたのか、丹羽准尉が話し出す。
「実は今朝ほど発電所から代表者が来ました」
「発電所から? 珍しいね。食糧の増配でも要求してきたのか?」
明日馬は内心、少しだけ驚いていた。
敷かれたレールを歩むことのみに専念する日々、そのレールにまさかの分岐があったのだ。同じ景色、同じ会話を繰り返すのは一七歳の少年にとって 苦痛以外の何物でもない。
それが、変化しようとしている。ただの期待はずれかもしれないが……。
「いいえ。代表者が言うには、三佐殿に面談したいと……」
「面談? 久しぶりに地下から顔を出したと思ったら、いきなり私に面談を要求か……あいつらの非礼にはあきれ返るな。どう思う、准尉」
「全くです。ですが、お会いになられた方が宜しいかとは愚考いたしますが」
くりくりとした大きな目、その上に一筆書きしたような太い眉。
丹羽准尉は、その眉の間に皺を寄せている。
「心配するな、准尉……」
僕はカイコガを指先でつまみ、口中に放り込む。そば粉の衣に続いてカリッとした外皮を歯が突き抜けると、餌である青藻の養分を濃縮したやや粘る体液が口内に迸る。甘い。
「会おう。是非にでも会おうじゃないか」
変わりばえのしない日常に訪れた変化の兆し。
それは兆しに過ぎないかもしれないし、或いは単なる気のせいかもしれない。
それでも、待ち望んでいたものには違いない。
気持ちが逸るのを感じる。
平静を装うのも至難な程に。
発電所の連中が地下から上ってくるのは極稀な事であり、場合によっては、それだけでニュースになるほどだ。
彼らは先祖代々、地下深くに掘削された地熱発電所を守っている。親から子へ、子から孫へと、発電機を保守し、維持する技術を世襲していく。
他の職業につく事は無い。
この収容施設では全てがそうだ。
ある職業に就く家の者は、その家の仕事を覚え、継承していく。選択肢はない。
どうしても他の職業に就きたいのであれば、養子に行くしかないが、そんなことをしてまで家業を避ける者は稀だった。
伝統芸能の世界がそうであるように、自衛隊員の子は自衛隊員に、発電所の子は発電所に、農協の子は農協に――だ。
発電所員と会う直前、丹羽准尉が耳元に顔を寄せ、小さな声で耳打ちしてきた。
「彼らは尊大です。御不快に思われるかもしれません」
「知っている。准尉、心配するな」
この施設の生命線である電力を司る発電所員達は、自分達が如何に重要な仕事をしているか、先祖代々、叩き込まれている。
電気を提供し、その代わりに彼らは農作物を得ているのだ。
地下深くに引き籠った発電所員達はどういう訳か、その代価であるはずの農作物を、神に対する供物の様に感じているらしい。
電気は神。
発電機は神殿。
自分たちは神官。
何代か前の名も無い発電所員が考えついた、この与太話を彼らは真に受けている。敬虔なる発電所員は、何故か神話の世界に逆行しているのだ。
食堂の隣、議事堂と呼ばれる会議室で面会は行われた。必要とあれば、二つの部屋を遮る衝立を取り除き、大講堂としても使用できる構造となっている。その広さは、この施設内の人員の半分が一堂にかいせるほどだ。
「お初にお目にかかる、第三八代蘇我三佐殿」
明日馬は思わず絶句した。
その想像以上に尊大な態度に対して。
揃いの灰色の作業服を纏い、聖なる冠の如く黄色いヘルメットを被った彼らの態度は慇懃だし、礼節にも適っているが、その精神は全くもって無礼極まりない。
施設の最高管理者を前にして尚、彼らは敬虔だが無知な信者を相手にする神官の態度を崩そうとしない。
かろうじて明日馬は堪えた。
怒気を表情にあらわさなかったのは「指揮官にとって最も大事な事は自制心である」だと父親から叩き込まれていたおかげだ。
それが今、役に立った。
彼らに席を進め、鈴鹿雪乃曹長の部下が差し出した塩の入った白湯をひとすすりした明日馬は気持ちを落ち着かせ、神官の代表者の発言を静かに待つ。
変化のない日常に、久々に訪れた非日常。
昂ぶる気持ちを抑えられない。
彼らの無礼を咎めるのはそれからでも良い。
そう思っていた。
保守用の部品が枯渇した――――。
簡単に言うと、そういう事だった。
しかし、彼らがその事実を告白するまでの道のりは実に長かった。その場にいる中隊本部のメンバーの誰にも理解できそうにない図とデータを延々と説明し、最終的な結論はそれだけだった。
「……それで?」
そう問いかけたのは席につかず背後で『休め』の姿勢のまま、小一時間ほど立っていた雪乃だ。
「三佐殿にどうしろと?」
一八歳の曹長に詰問されるのは、五〇歳代と思しき発電所長。彼で四五代目。地下は環境が悪いせいか、やや世代交代が早い。彼はやや鼻白みながらも応じる。
「我らは事実を告げたまで。そしてこれから先、このリストの部品がなければ更に供給できる電力は弱まる。そして遠からず――――」
「電力供給が止まる、ですか?」
それが最悪な事実だという事を最も承知している筈の発電所長は、さも当然の要求をしている様な口調だ。
地下二五〇メートルから亡霊のごとく現れた神官団は、よりによって最悪な『お告げ』を携えてやってきたのだ。
この収容施設で電力が切れたらいったいどうなるのか?
考えるまでも無い事はその場にいる誰もが承知している。
暗くなる?
水耕栽培が不可能に?
食料が枯渇?
そんな事は大した問題ではない。それは云わば二次被害に過ぎないのだ。
もっともっと大きな問題がある。
水の電気分解が出来なくなる、という事だ。
それは、施設内にいるすべての人間が等しく窒息する事を意味している。
心臓が鳴り響き、耳の奥に鼓動がこだまするのをその場にいた中隊本部の者、全てが感じていた。
程なくして、予言を携えてやってきた胡散臭い神官達は地下神殿へと戻っていた。
明日馬は酷く混乱していた。
発電所員の無礼を見逃してしまうほどに。
よりによって、何で、こんな事に―――――そう思わずにはいられなかった。
三佐の家に生まれ、この施設の指導者となるべく育てられた明日馬ではあったが、発電部品の枯渇などという事態は、そもそも想定外だった。
母親の記憶はほとんどない。
父親は責任感のある厳しい人だった。
三佐として恥ずかしくないようにと、佐官級のみに伝わるさまざまな知識や戦術を明日馬に伝授していた。
それらは若い明日馬の血となり、肉となっている。
父親は常に言っていた。
蘇我三佐家は施設内唯一の佐官の地位にある家。
初代の蘇我三佐は施設内で唯一の指揮幕僚過程の修了者だ。中隊次席の平一尉家の初代は幹部上級過程どまり、つまりは取得した知識、見識に関して両者は大きな差があるのだという。
それこそが、三佐家の強み。
圧倒的優位。
そう事ある毎に言われていた。
それ故に、我が家は指導者なのだと言われた。
だけど、その『素晴らしい』はずの知識の中に、発電機の保守部品の調達などという項目はなかった。
丹羽准尉に中隊幹部の招集を手配させた明日馬は一同が揃うまでの間、第一倉庫跡へと向かった。
倉庫跡は体育館ほどの大きさなのだという。
体育館の実物など誰も知らなかったが、記録映像を見た限りでは、それが適当な表現なのだと理解はしている。
かつては天井近くまで様々な物資が備蓄されていたというが、今では片隅に数えるほどのコンテナが置かれているだけのがらんとした空間だ。
物資はおろか資源の補給さえ期待できない地下施設では、物資を経年から守るコンテナさえ再利用され、いろいろな物に加工されるのだ。
倉庫跡の片隅のロッカーから自分用の汎用パワーアシストスーツを取り出す。
艶消しの施された暗緑色の二種迷彩柄のそれを纏い、各関節部の駆動モーターを可動状態にする。背中のバッテリーから電力が供給され、低周波の回転音が次第に高まると、重量二五〇キロに達するそれは着用者の動きに素直に従い、滑らかに動き出す。
民生用と違い、主要部には硬化炭素繊維にハイセラミックプレートが組み込まれており至近距離から放たれたハーフインチ弾すら弾き返し、対人地雷を無造作に踏みつけて除去作業が出来る程の強度を持つという。
明日馬はヘルメット前面の茶色いバイザーを下ろす。
一瞬、ただでさえ薄暗い部屋がバイザーにより遮られ、視界が暗転するが、程なくして光度調整機能が働き、バイザーを下ろす前よりも明るく、部屋の隅々まで鮮明に見えてくる。
「お待たせ」
部屋の中央には一人の人物が佇んでいた。
明日馬同様に軍事用の汎用スーツを身に纏っている。
手には硬質ラバー製の銃剣が装着された三八年式装甲歩兵銃、腰には同じくラバー製のアーミーナイフ。馬鹿でかいサイズで、まるで鉈の様な大きさだ。
「……」
その人物は無言のまま、軽く一礼する。そして、その動作が終わらぬうちにワンアクションで装甲歩兵銃をいきなりぶっ放してきた。
パワーアシストスーツ着用者専用の三八年式の口径は二〇ミリ。訓練用の弾丸だといえ、命中すれば、数メートルは吹き飛ぶと言う代物だ。もし、実弾である二〇ミリ穿孔爆裂弾であったならば多脚戦車の装甲さえ穿つ。総重量127キロのそれは生身の人間に扱える代物ではなく、引き鉄さえ重くて引けないだろう。
銃身の上がる動作を見極めた明日馬は、左に跳躍し、訓練弾を避ける。
着地と同時に、相対した相手との距離を一気に詰める。スーツのアシストにより、跳躍力は助走無しでも6メートルを超える。
二歩で相手に掴みかかれる――――そう、計算した上での跳躍だ。
しかし、相手は明日馬の動作を読み切っていたのか、ふわりと舞うように上へと飛ぶ。予備動作など無い、スーツ本来の性能を全て引き出せる者ならではの動き。
高い―――。
腰を落とし、地を滑る様な姿勢から高く飛んだ相手目掛け、明日馬は20ミリ弾を真下から放つ。跳躍中の回避動作は熟練者でもかなり難しいはずだ。
だが、相手は難なくそれをなした。まるで羽根が舞い落ちる様に静かに背後へと着地、同時に腰だめの姿勢のまま20ミリ弾をぶっ放す。
かろうじて、かろうじて、明日馬はこれを躱す。
激しく横転しながら、相手との距離を一旦とり、装甲歩兵銃をフルオートで撃ちっ放す。
凄まじい反動、スーツ各部のモーターが悲鳴を上げ、衝撃を吸収しようとするがそれでも肩が外れそうなほどだ。
不安定な姿勢からの射撃では牽制にしかならない。その事を相手は熟知している。まるで脅威を感じていない様子であり、余裕すら感じさせる動きで無造作に距離を詰める。
三〇連弾倉が僅か2秒で尽きる。
リロードする余裕は、もはやない。
弾倉が尽きたのを見た相手は、自ら装甲歩兵銃を足元に捨てる。まだ弾丸は十分に残っている筈だが、その優位を簡単に捨てる。
舐められた――――そう明日馬は感じた。
ふざけるな――――そうも思った。
弾丸の尽きた歩兵銃を捨て、腰から特大のラバーアーミーナイフを抜き放つ。装甲歩兵銃には銃剣が装着されているが、その扱いは得意ではない。
セオリーに従い、低く構える明日馬に対し、まるで生身の人間の様に軽やかなステップを踏み、ボクシングの様な動きでナイフを突き出してくる。
相手の右手が繰り出してきた直線的な刺突を左手で外へと払いのける。
身体の正面が開く。
よだれが出る様な隙。
躊躇わず踏み込み、ナイフを下から喉仏あたりを狙い、突きあげる。接合部、スーツの弱点の一つだ。
かなり鋭い一撃だった筈だが、相手は頭部を少しだけ傾けてその一撃を滑らせる。
最低限の動作。
無駄が無い。
結果、当ってはいるのだが、有効打にはならない。無駄な動作を省いたスーツ着用時の戦技に適った動き。
不用意に伸びきった右手首を相手の左手が掴む。
一気にモーターの回転数が跳ねあがり、明日馬の右手は捩じり上げられる。不意な角度にスーツのモーターが対応しきれず、油圧ポンプが戸惑う様な悲鳴を奏でる。
がら空きになった胴体に強烈な前蹴り。
的確に胃を狙った打撃。
スーツ越しでも身体に衝撃が伝わり、明日馬は思わず吐きそうになる。内臓が腹の中でのた打ち回る。
もし、朝食を全部食べていれば実際にバイザーの中を吐瀉物で汚す事になっていただろう。それほどの打撃。
自然と腰が引け、身体は前傾姿勢をとる。
そこに狙い澄ましたかのような後頭部への手刀。
明日馬の意識が一瞬、遠のき、我知らずの内に膝を地に着ける。
続けて、顔面への左膝蹴り。
衝撃でバイザーの光度調整機能がエラーをおこす。致命的なエラーだ。視界を失い、そのまま後ろへと倒れる。
1秒に足りない時間で再びバイザーが機能を回復する。
視線の先には天井から吊るされた電灯。
仰向けに倒れている――――そう悟った瞬間、電灯の明かりが何かに遮られる。
ブーツだ。
その靴底が明日馬の顔面に向い、急激に落下してくる。
横に回転し、躱す。
否、躱せなかった。
踏みつぶす動作はダミー。
本命は膝。
全体重をかけた膝が側頭部に突き刺さる。まるで虫ピンに刺されたかのように動きを封じられる。
「……参った」
「随分、簡単に諦められるのですね。それでは困ります」
相手の顔面を覆っていたバイザーが開く。
大きな瞳、少しだけ上気してはいるが、息は乱れていない。どこか困惑し、微かに哀しげな表情。
高湿度の空間にも拘らず、雪乃は汗すらかいていない。彼女は無様に負けを認めた上官に対し、少し困ったような表情を見せていた。
「曹長には適わない……」
手助けされ、明日馬は上半身を起こす。
雪乃も片膝を着くと、目線の高さを合わせた。
「諦めが早すぎます。まだまだ戦闘を継続できたはずです」
少し強い口調で言う。
「じゃあ、曹長は何故、銃を捨てたんだい?」
「それは……」
口ごもる。
「本当は、僕が弾倉を撃ち尽くした時点で勝負はついていたんだ。格闘戦になったのは君の情けからだ……むしろ、君の情けの方が問題じゃないかな」
「でも、あのまま私が撃ったら――――」
「訓練にならなかった、だろう?」
二人は立ち上がる。ヘルメットを外し、ロッカーへと向かう。
「僕と君の実力はその位違うんだ……だけど、僕の傍には君がいてくれる。君が守ってくれるから、僕は指揮に専念できる。そうだろう?」
明日馬は、背後に立つ雪乃が小さく頷くのを感じた。
鈴鹿雪乃は中隊内でも屈指のスーツ戦闘の強者だ。
天賦の才ともいうべきものが彼女に備わっている事は、中隊全員が知っている。人呼んで「魔女」
その雪乃に負けても明日馬に悔しさはない。
訓練は毎日のように行っているが、一度も勝てたことはない。それどころか、最初から彼女に対しては負けを認めている部分が明日馬にはあった。子供の頃から、ずっとそうであり、まるでそれが当たり前の様になっている。
それが指摘された諦めの良さにつながっているのかもしれない――――そう感じていた。
恋人としての彼女が、或いは部下としての彼女が、或いはそのいずれもが、明日馬のそんな諦めの良さに対し、不満を持っているらしいことは感じている。だが、現実問題として中隊の長い歴史において、初めて十代でレンジャー教官の資格を得るなどという天才を前にしてみれば、それさえも虚しさだけが残る。
二五〇名の中隊員の中で、彼女に格闘戦で勝てる者がいったい何人いるだろうか?
無敗のチャンピオン・小栗三尉は別格として、パワーファイターの丹羽准尉、第一小隊の平群一等陸曹、第三小隊の武藤陸士長ぐらいではないのか。
「甘やかされ過ぎたのかな……」
明日馬はローカー内の扉に取り付けられた鏡にうつった自分と視線を合わせると、そう呟いた。
脱着の手助けしようとする雪乃を片手で制し、一人でスーツを脱ぎ、制服に再び着替えると、会議室へと向かった。