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思い出の向こう側

作者: 宵見

最初の序文、要るのかってやつよね

 結局私は、優しい人間が嫌いだったのだなと思った。

 ただ優しい人間と言うのは、自分では決してその気遣いを明かさない。口をつぐんで、ただ献身的にするだけだ。恩着せがましいのだ、相手に伝わらなかったら自己満足でしかない。

 そんな回りくどい事をするくらいなら、傷つけてでも相手と対峙するべきだ。

 その厳しい優しさが嬉しいときだってある。

 優しい事だけが優しさではない。




 今日は高校一年生の二学期の始まりだった。蝉はまだなきやまず耳にうるさい。長い坂道を強い日差しの中で歩けば陽炎の揺らめきがアスファルトの向こうのどこにでも見える。九月に入っても、未だ暑気は引かないままだ。


 教室はいつもより騒がしく、会話は夏休みの終わりを惜しむようなものと暑さへの文句が大半だった。

 ホームルームの始まる少し前に登校してきた私は誰にも挨拶をされることなく教室の左端三番目の席に着く。

 カバンから本を取出す、流行のものでなくしかしマイナー過ぎないもの。広げて読んでいるわけでもないのにすこし時間が経ったら一ページ捲る、どうせ誰も見ていないだろうが不審に思われないための行動だった。

「おはよう篠木さん」

 本に影を落としたのは紫の小物を付けた女子だった。

「ああ……ほら、むこうからよばれてるよ、古小路」

 明らかに没入しているように見える私にも話をかけてくる人間はいる。私は当たり障りのない返答で会話をつなぐだけだ。

 私に話しかけるような人間は社交的であるか向こう見ずであるかのどちらかで、そういう人間は大抵どこのグループにも一人はいるムードメーカーだ。

 友人から見れば気の使える人間だったり面白い人間だったりするのだろうが、それは身内贔屓というやつで私の様な周囲の人間と関わりたくない人間にとっては面倒でしかない。

 私は放っておいてもらいたいのだ。

 入ってきた教師を見ると皆、文句を言いながら楽しそうだった。

 

 学校は午前授業で終わりだったので私はすぐに教室を出た、することも無い身で楽しげな雰囲気の教室に居座る勇気などなかった。廊下には影になった校舎側からの風が涼しさを感じさせていた。

 校舎を出るとその暑さと陽射しに思わず目が眩む。しかし空には雲が多く、これからもっと熱くなるように思えて気が遠くなった。


 家に帰ると誰もいなかった。

 私と双子の弟の十吉が高校生になってから両親は共働きになった。十吉は部活に忙しくなり昼間から家に居るのは殆ど私だけになった。

 昔は帰ってくると母が今日一日の事を聞いてきた、質問の声は暖かい響きがして私は少し得意になって話した。

 今家の中に帰ってくる相槌は声の反響だけだ。私はそのことが寂しいのかどうか分からない、慣れてしまったのだろう。気が付くとそうなっていたのだから、気にも留めなかったのだ。


 洗濯籠の中身を洗濯機に放りこんで洗濯を始める、最近新調されたそれは乾燥機能の付いたもので私の仕事は一年前に比べると楽になった。それも父と母が私が家事をするのが楽なようにと五年ほど前に購入したものをわざわざ買い替えたからだった。

 洗濯物がまわっている間に掃除機をかける、掃除機も洗濯機と同じように新しいものに変わっていた。

 私は気を使われているのだ、はれ物に扱うようにされている。けれどもその扱いはずっと前からで、私はそのことに慣れてしまった。

 

 夕方になると掃除はあらかた済んでいて後は夕食を作るだけになった。今日の夕飯について考えていると弟の十吉が帰ってきた。

「ただいま」

弟と言っても双子の弟で学年も同じだ。十吉はサッカー部の部長で三年生が引退した今一番忙しいらしい。

「おかえり、御風呂入ってるから」

「ありがとう」

 会話はそれきりで汗臭い彼は脱衣所に入って行った。脱衣所の前に放置されていたエナメルバッグには十吉の通う高校のロゴがプリントされている。

 私と十吉は殆ど会話を交わさない、思春期の兄弟などそんなものだろう。昔の方が仲が良かったのは確かだがお互い兄弟離れが進んだ結果だ。

しかしそれだけが原因ではないことも私には分かっている。けれど私の失敗が無くても関係は冷えていただろう。

 私は作った夕食を彼が風呂から上がる前に食べきった。

 

 夜の九時頃に母が帰ってきて父はその少し後に帰ってくるのが通例だ。今日もいつものように母が先に帰ってきた。

「ただいま、郁」

「おかえり母さん」

 年の割に少し老けているような印象を受ける顔からは疲労が見て取れる。四月ごろから母は仕事が忙しくなったらしく、休みを摂って居る所を見たところがない。

 母は風呂に入ると言って脱衣所に入った。

 私は一人斜を向いて、労いの言葉の一つでも掛ける事ができなかった後悔に襲われる。しかし私にはそれを言うのすらおこがましく思えて、悔いばかりが渦巻いた。


 母が風呂から上がる少し前に父は帰ってきていた。父は禿げあがった頭に汗をかきながら少しくたびれたスーツを肩にかけていた。

「十吉は?」

 父が少し気の抜けたような声でそう言った。

「ご飯食べて部屋にいるよ。ご飯できてるけど食べる?」

「いつもありがとうね、あとは私がやるから郁はもう休んでよ」

 母は気遣う様な笑みを向けてきた。

「いいよ、これくらいしか私やることないんだから」

そう言うと母は渋々と言った様子で引き下がった。少し流れた沈黙を破るように母は話を切り出す。

「ねえ、新学期どうだった?」

十吉は風呂から上がってすぐ食べるので、私はいつものように二人分の夕食を作る。

「別にどうってことないよ、いつもと同じ」

 父は新聞に目を落としている、何も言わない。

 

 両親が何か話していた、私の名前だけが微かに聞こえるが明るい響きでは無い。

 台所にいる私には机に座る両親の顔はきっと案じるような顔をしているのだろうが、私は背中に向いていて見えない。

 流しにある水のたまった皿に自分の顔が写る、のっぺりとした表情のない顔をしていた。

 私は慣れたやり方で表情を作ると、温かな夕飯を運んだ。


 四人分の弁当を作ろうと思うと一番早く出て行く十吉に時間を合わせる必要がある。朝の五時半ごろに起きれば問題なく朝食も用意できる。

 家から出るまで十吉とは挨拶と食事の礼以外に会話は無かった。

 私の仕事はゴミ出しを終えるとあとは何もすることが無くなる。両親が起きてくる前に私は少し眠りについた。

 

 目覚ましの音で飛び起きるように目を覚ました。

 浅い呼吸を繰り返す、心拍のずれと脂っぽい汗の不快感が現実だと私に訴えかけてくる。

 夢の内容は大したことはない、すぐにおぼろげになってその輪郭を失う様なものだった。

 ただ、先生が出てきたのだった。


 先生と言うのは私が小学生の頃に会った男性だ。教師ではなかったけれど、私はちょっとした悪事を教えてくれるその人を先生と呼んでいた。そこには親近感と純粋な尊敬があったが、本人がそれに気づいていたかは分からない。ただ先生はそう呼ばれると時たま苦笑いを浮かべていたような記憶がある。

 ある時から私は先生と皮肉を込めて呼ぶようになった。酷く厭味ったらしいのだが、彼は顔色一つ変えなかった。

 丁度そのころに先生の言った言葉があるのだ。

 その言葉は当時の私にはどうしても理解できなかった。背が大きくなるほどにその言葉が強く私の劣等感を刺激した。

 それは私が一番苦しかった時期ふと思い出してしまった言葉であり、何より私が嫌っていた言葉だった。

 それをどうして今、夢の中で思い出すのだろう。

 目覚ましの機能を止め忘れていたのかまた音が響く。準備を始めないと始業に間に合わない時間になっていた。


 中途半端に空いた電車の中には同じ制服を着た人間が居た。三人の女子は誰も化粧が濃く自重と言う言葉を知らなそうだった。見た目通りに大声で夏休みに戻りたいとか喚いていて、私のすぐ隣の背広姿の男性が能面のような表情で騒ぐ彼女らを眺めていた。



 今日は木曜日で七時限まである曜日だった。教室に入りと私はうだるような熱気と無関係の黄色い声に襲われた。電車内で浮かべた脂汗はひく様子を無くしてしまった。

 始業式の一日後には直ぐに授業を再開するのがクラスメイト達には相当億劫らしく、私の気が立っていることを別にしても昨日よりも騒がしく感じる。それもいつもより遅めに登校したためにほとんど聞かずに済んだ。

 教室の冷房の起動はホームルームの時間までしないので、室内は夏の自室を思い出すのに易かった。

 私が眉を顰めたのはなにも喧噪のためだけではなかった。


 六時限目が終わると喧騒が大きくなる前に気の早い担任がすぐにはいって来た。

「はい、はい。総合の時間だけど、進路の話な。プリント配るぞ」

 そうして、授業を遅めに始めることを早口に告げて若い教師は去って行った。




 私がそのあとどうしたかあまり覚えていない。確かだったのは、つんざくような耳鳴りと体の全身から噴き出す不可思議な熱さをした汗の不愉快さだけだった。

 その日私は家事が何一つ出来ていなかった事を深夜、湿りきった寝具の上で知った。


「ねぇ、先生。私はどうすればいい?」

 私は誰にも届かない言葉を暗い部屋のなかで呟く。辛くなったとき私は嫌でも思い出す言葉がある。丁度最近夢で言われた言葉だ。

『友達に相談した方がいい』

 この言葉を思い出す度に胃の奥がじんわりと熱くなる。もともとあった悩みと共振するように感傷が押し寄せる。

 幼い頃、先生にぶつけた疑問は何度もそう言われ、はねのけられ、その度私は怒りを露わにした。

 小さい頃から私には友達というものが居たことが無い。周りから敬遠されて過ごしてきた私は何時の間にか、他人に対して同じように接するようになってしまった。

 そんなときに先生と出会い、親交を深めた。彼は大人というよりも少年のような男だった。

 私は先生と友人になったと思っていた。それは私に初めて出来た友達だった。最高に愉快なもので、私に友人の素晴らしさを説く周りの声が分かった気分になった。

 毎日公園に行って先生が居ないか確かめた程だ、居るのは週に一回か二回だったけれど、それでも十吉だけと遊ぶ時とは比較にならない程楽しかった。

 しかしある時から彼が態度を変えた。彼は急に友人という立場から梯子を外したように、ただの大人になってしまった。

 その言葉は彼が私の友人ではなくなったときに言った言葉で、私を何より傷つけた言葉だった。

『友達に相談した方が良い』

 先生がどうして態度を一変させたのか私は分からない。しかし、それ以来私は友達が出来たことが無い。

 私の友達は、先生しか居なかった。


 私の悩みは誰にも届くことはない、暗い部屋には変わらず私一人だ。窓の外には頼り気の無い月が揺らめいている。

 窓を開けるとべたついた体に生温い風が吹いた。





 心身が疲労していても私の体はいつもの習慣を守るように、目覚ましの時間を前にして起床した。

 効きすぎた冷房のせいか、床は冷えていた。


 居間にある四人掛けの机には渋い顔をした父が座っていた。

「おはよう、郁」

 私は父のその言葉に面を食らって、しばらく言葉を返す事が出来なかった。

「どうして起きてるの?」

 父は一番遅くに帰ってきて、起きるとき遅刻するか危い時間まで眠っている。そんな父がどうして私よりも早く起きているのか――いや、理由は分かっている。ただ、どうどう対処すればいいか混乱しているだけ。

「昨日の様子を思えば、それくらいするさ。郁は真面目だからつらくても習慣を守るんじゃないかって」

 落ち着いた声で言う父はいつもと変わらないようだった。

「なぁ郁。なにがあった?」

 その響きは静かだが叱責が滲んでいた。なにもないと言ったら火に油を注ぐだけだ、厳しい追及を受ける事になる。だから柔らかく言いにくい雰囲気を作り出す、慣れた動作だった。

「それは……言いたくない」

「どうして?」

 昔先生が教えてくれた秘密を守るためにどうすれば良いかという話を思い出した。申し訳なさそうにして、相手に理解を求める。

 もっとも、良い子だった私にはほとんど使う機会はおとずれなかったけれど、先生の言葉に苦しみの一因があるときに使うのがなんとも皮肉な気がした。

「それも…言いたくない……とにかく、家族には言いにくいよ」

「郁」

 いさめるように父は言う。父は優しい、過保護と言ってもいい、だから私がしっかり言った事を考えて、聞いてくれる。

「心配させてるのは分かってるよ、でもさ…言えない事の一つや二つ、あるでしょ?」

 大したことないよと継ぐ。父は黙って目を閉じて椅子を立った。その仕草で私は内心たじろぐ。成功した途端に私は嘘を吐いたことに自覚的になって罪悪感が湧いてくる。

「なぁ、本当に大丈夫か」

 扉に手をかけたところで振り向いた父は言った。細められた目があって私はとっさに視線を切ってなんともない、と答えた。

「少しは頼ってくれてもいいんだ」

 小さな声、恨めし気に細められた目、少し丸まった背。父は静かに悲しみを全身で伝えてきた。

「…それで十分だよ」

 私は申し訳なくて一秒でもその姿を直視できなかった。

 階段を上ってドアが閉まる音がするとすぐに私は深呼吸をした。何かしないと声を上げてしまいそうだった、耳まで赤く染まるのを感じると静かに息を吐く。

 罪悪感は土石流のように心を掻き乱した。心臓は一際強く跳ねて体の外と中が冷えたり熱くなったりを繰り返している。

 嘘は言っていない、そう自分に言い聞かせるが冷静な自我が誤魔化しだと指摘する。私は父の優しさにつけ込んで、優しい気遣いを跳ねのけた。それは相手の同情をかう、酷い手段だった。

 頼ってくれと父は言ったが、私にそんなことは考えられない。誰も私の悩みを取り除くことはできないから頼ったところで意味がないのだ。

 自分だけが悪いのだから、相談など出来る訳もない。それは私の矜持だ、一人でも失敗しないという決意だ。

 そして私は、どうしようもないほど意固地だ。

 先生の言葉が静かに私を掻き乱す、私に相談できるような人間はいなかった。

 


 いつもよりぎこちない手際で支度をしていると、十吉が起きてきた。

「おはよう」

「……おはよう」

 十吉は父が座った席と同じ所に座る。私はそれだけで身構えてしまう。今にもきれそうなか細い糸がこの部屋に巡らされていた。

「おれさ、学校で進路の話されたんだ」

 私は双子の弟が嫌いだ。双子だからなのか、こいつは私の事がよく分かっている。だから私はあまり十吉と話したくない、こいつに悟られたくはない。

「だからなに……」

 兄弟というのはお互い様なのだと先生は言っていた。兄弟は生まれて初めて作られる上下関係だから互いに影響せずにはいられない、場合によっては親よりも影響がある。年齢が近ければ近いほどそれは強い。

 十吉を嫌がる自分がまさにそうだろうか。先生の言った事があったっていると思うとやたらと悔しくなる。

 沈黙を破るように十吉が顔を上げて言う、その面差しは真剣そのものだった。

「郁も、されたんじゃないのか」

 頭が真っ白に染まって、次に赤く染まった。

 次の瞬間、私は十吉をぶった。

 十吉は透き通るような瞳でじっとこちらを見る。

「久しぶりな気がするよ、そういう理不尽なことされるの」

「この!」

 またぶとうとした私の手は十吉の手に止められた。少し前までは私の方が力が上だったけれど、今は腕が少しもうごかない。

「もうガキじゃないんだからさ、何時まで拗ねてんだよ。父さんも母さんも心配してんだぞ。郁の失敗なんて、お前が思うほど誰も気にしちゃいないんだよ」

 十吉は苛立っているのが、低い声と寄せた眉で分かった。

「うるさいっ! あんたがそれを言わないで!」

 十吉が言っている事が正しいのは分かっている。百も承知だ。

 私がめちゃくちゃな事を言っているのも分かっている、分かっている。けれど、正しい事を言われて解消する悩みならここまでこじれていない。

 十吉はそのあとそそくさと出て行った。私は惨めな思いを抑えきれずに声を殺して泣いた。

 なにも言い返せないのも、相手の言っているのが正しいのも、自分が情けないのも、全て一緒になって私を苛んだ。


 大声で怒鳴り合っていたからか、起きてきた母に学校を休むことを薦められて私は首を縦に振った。


 私がこうなってしまったのは二年前からだった。

 自分で言うのもなんだが、私は頭がよく成績優秀だった。いざ高校受験をする際に私は自分の学力に思い上がって油断していた。

 難関校を受けるというのに、勉強時間が少なく遊んでばかりいた。滑り止めなども受けずにいた。

 それは同じ高校を受ける十吉への挑発のようなものだった。

 けれど、失敗したのは私だけで合格したのは十吉だった。

 受験に失敗した私を誰も笑わなかった、散々挑発した十吉ですら私の前では一切嬉しそうにしなかった。

 十吉は必死に努力していた、昼夜を問わずに必死に勉強していた。対して私は何だろうか、傲慢などと言う言葉では説明しきれない程の驕りだ。

 その事実が耐えきれない程私を惨めにさせた。私は十吉より上だと思っていたのだ、姉として、人間として。それがとんでもない驕りだと気が付いて、優越感は劣等感に反転した。

 人間性はおろか、ありとあらゆる面で十吉の方が上だった。

 私は一年間予備校に通うことになった。そこまで裕福でない私の家は、パートに出ていた母を本格的に働かせる事になった。

 母が毎日疲れ切って帰宅するのを見ていられなくて私が家事を全てやり始めた。私なりの罪滅ぼしのつもりだった。けれど家族の家事をする私を見る視線は痛々しいものを見るようだ。

 その時期からちょうど先生の事を思い出し始めた。

 両親と十吉の会話の中で、度々友人の話題は出てきた。しかしそれは私が盗み聞いた話で私の目では一切そう言う話はされなかった。

 それが一層惨めで仕方なかった。

 今年の四月に十吉とは別の高校に入学した私は周囲と馴染めなかった、明るい話題が自分とは無関係に思えて仕方なかった。

 それは一年前私が驕っていなければ手に入ったものだと分かっていたから、それが眩しく映るほど後悔は強くなった。

『友人に相談すればいい』

 なにもかも全て自分のせいだ。他人に迷惑までかけて、誰かに頼るなんてそんな恥知らずな事は出来ない。





 泣き疲れて私はいつの間にか眠っていた。かけていなかった目覚ましの時間に起きて、乾いた笑いが浮かんだ。

 居間に入ると母が居た。

 やはり私は驚いて母が挨拶してくるまで何も言えなかった。

「どうして、起きてるの」

「それお父さんにも言わなかったでしょうね」

 母は呆れた様子で言った。開いた瞳孔に蛍光灯の光がいやに眩しい、だから私は母を直視できない。

「だって」

「だってもヘチマも無いの。親なんだから心配するのも当たり前でしょうが、郁は私が調子悪かったら心配してくれるでしょう。同じことよ」

 私はそれに閉口するしか無く、なにをどうすれば良いか分からなくなった。

「ねぇ、郁何があったの?」

 私は表情を作って申し訳なさそうに言う。

「……言いたくない」

 母は私の言葉に反応するように柳眉を逆立てた。

「話して、私には聞く権利があるわ」

 私お父さんほど優しくないよ、と言って母はこちらを見つめ続ける。

「何の権利か分かんないよ」

「郁が私に働かせてることを後ろめたいって感じるなら、話して欲しい」

 睨めつけるように見て、母よどみなく言った。

 視界が揺れて音が聞こえるような感覚は初めてだった。それで私はいま怒られているんだなと分かった。

 受験に失敗してから二年間まともに母と話したことが無かった、それは私がどんな顔をしていいか分からなかったからだ。失敗のしりぬぐいをさせている母に私は何を言えばいいか分からない。

 手が汗ばんで心臓が内側から強く体を圧迫する。地面がはるか遠くに思えて耳鳴りが聞こえる。

 体が声を発しようとして、息を吸ってのどを震わそうとすると音にもならず息が漏れる。

 言ってしまえと理性が急かす、臆病な私が焦って心の準備もしないままで言葉を先走らせる。

「進路、の話。だ、大学……どう、するかって」

 極度の緊張が抜けて、膝から崩れ落ちそうになる。

 母は深く息をついて、私に近づくと頭を乱暴に撫でた。そうか分からないけれど目の前がうるんだ。

「郁、あんまり気にしないの。もう冗談にできない程重い話でもないのよ、私にとっては。子供なんだから親には迷惑かけるものなのよ、限度はあるけど」

 郁がどう思ってるかは知らないけど、と母は悪びれもせずにそう言った。

「でも私、最低だよ! 努力もしないで、迷惑かけて失敗したらなにか言われるのが怖くて逃げてたんだ…」

 溢れ出す思いはもはやどんな思いなのかも分からない。封じ込めていた感情が出口を求め迸って私を漂白する。

「いいのよ別に、大したことじゃないってば」

 瞬間この数年で味わった事が無いほどの悔しさがすべてを押し流した。報われたような清々しい気分も押し流す、どす黒い鬱屈の濁流だった。顔が焼けるように熱くなって、眼球が鼓動した。

「なにが? 私の葛藤なんて大したことじゃないって!? わかんないよ。どうして気にせずに居れるの」

「大丈夫よ、別に――」

「――別にってなに? 何でなにも言ってくれないの、叱ってよ、お前が悪いんだって言ってくれないと分かんないよ!」

「郁は悪くないわ……」

「おかしいよ! 悪いことをしたら叱られるって教えてくれたのは母さんだ! 皆に迷惑掛けて、どこが悪い事じゃないの? それをなにも言わずに……いつ許されたのか分かんないんだよ、皆悲しそうな顔して疲れた顔をしてるのに、何でなにも言わないの!」

 私は涙ながらに叫び続ける、零れ落ちる涙があの時の心からの出血のようだった。

「黙って優しくされたってどうしようもないでしょ! 私をちゃんと見て、失敗したんだよ、あんなに情けなくさぁ。馬鹿だって言ってよ、踏み込んでよ! なんかいってよ! 変に優しくされて可哀想な人になるより、そっちのほうがずっと楽だ……」

 こんなことを言いたいわけでは無かった。弁解したくて焦燥感に駆られるが、言い訳を言いたいわけでもなかった。ただ暴言を言ったような気分にしかならず、吐き出して空洞になった後はもう、苦い後悔だけがそこに入った。叫んでいるときの高揚も何処かへ失せて、どうしようもなく情けない自分だけが取り残される。

 結局のところ叫びも私の本音だ。今までずっと維持してきた私の本音を騙す勇気と隠す力はもう無かった。

 今はただ、母の反応を身を丸くして待つ。

「そっか、郁はそう思ってたのか………ごめんなさい」

 母はそう言って静かに頭を下げた。

 母が謝る意味が理解できなかったが、ただ言葉にも態度にも反省が滲んでいた。

「どうして謝るの?」

「情けなかったからだよ……郁が失敗したのを叱ってやれなかったから……優しさを履き違えてたのね、私たちはちゃんと言わなくちゃいけなかったね」

 母は自嘲気味に落ち込んで言う。

「母さん、どういう……」

 私は酷く曖昧な問いを投げかけた、私は母の発言の意味が良くわからなかったのだ。

「……謝るくらいしか私には出来ない」

「なんでよ…」

 母は少し悲しげに眉を寄せて私に聞く。

「許してくれるかしら、郁」

 どうしてと聞くと母少し下を向いて言う。

「お互い悪いのが分かってて謝ったんだから、反省してそれで終わりじゃだめかしら……私は貴方を二年も放っておいた事を許して欲しい」

 先ほどは違う震えが全身を伝わる、後悔が歓喜になって体を震わせた。

「許すも何もないよ、私まだ謝ってない。……心配かけたのにずっとはぐらかして、今になってこんな勝手なこと言って」

 涙が止まらないけれど、気分が清々しくて仕方なかった。言葉の一つ一つが冷めていた何もかもを熱く共振させる。

「ごめんなさい」

 失意にの底に沈みきっていう事すらおこがましく思えていた、言葉を私は口にする。

「…ああ、でもお父さんは少し怒るかもね『何で言ってくれなかった』って」

 きっとそうだわ、と笑って、これで終わりとでもいうように母は手を打った。

「もうこんな時間、私が家事やろうか?」

 咽び泣いて声が出ない私は首を横に振った。母はそれに頷いて私に背中を向けた。

「……ねぇ、私恥知らずかな」

「何が?」

「ひどい迷惑かけて散々うじうじしたのに、叫んで喚いて身勝手なことを言いまくったのに、凄く気分が楽なんだ」

 少しだけ、本当に少しだけ気分が軽くなった。私は久しぶりに人と会話したのだ、本音を言ってそれを返してもらった。

 凄く単純で、だからこそ強い力があった。

 それは友達と言うつながりでは無かったけれど、間違いなく相談だった。

 殻を破った様な清々しい気持ちは、先生と初めて友達になった時の感覚に似ていた気がした。

「抽象的すぎてよくわからないんだけど、一つ言っておくと……私が働き始めた理由、老後の貯蓄って意味もあるのよ」

 母は去り際にまた頭を撫でて出ていった。小さい頃頭を撫でられるのが嫌いだったことを思い出して、感情が堰を切ったように溢れ出してくる。

 とにかく馬鹿馬鹿しくって、声を上げて泣いた。


 泣きはらした目を気にしながら家を出ると、呼応するように暑気は何処かに行って、あれだけ立ち込めていた陽炎も蝉の声も隠れるように一切いなくなっていた。

 

教室の中はいつもよりも強い喧騒を響かせている。口の端々にのぼるのは進路と文化祭の事だった。

「ねぇ、篠木さん」

 声をかけてきたのは、紫ぶちの眼鏡をかけた古小路という女子生徒だった。返事を返すと彼女はこちらをまじまじとみる。

 古小路は人気者ではあるが変わった人間でもあり、私に話しかけてくる人間の中で一等苦手なやつだった。

「今日は本持ってないの」

 鈍感なのか馬鹿なのか、心理的にも物理的にも距離を詰めようとしてくる。

「別にいつも持ってる訳じゃないよ、そんなに好きでもないし」

 私が普段よりもまともな受け答えをしたのは、少なからないゆとりが心に生まれたからだろうか。私以上に彼女はほんの少しの愛想がある返答に驚いた。

「えっ。うそ! わたしは好きなものとかいつでも持ち歩きたくなるタイプだからなぁ」

 私にそんなこと話してどうなるというのだろう。ただこうしている間にも彼女は目を動かして私の表情や仕草を伺っていた。

「その話は後でするとして……文化祭の話なんだけど。篠木さんの担当この時間帯でも大丈夫?」

「……何でもいいよ別に」

 やったー、私と一緒だねーと能天気に古小路は喜んだ。

わざわざ教室で本を読み、話しかけても素っ気ない態度の女に何度あしらわれても、彼女が構う理由が私には分からない。


 私が十吉を殴って以来彼とまとも会話は無かった。

 いざ十吉の事を考えると小さい頃から積み上がった確執が大いにある様な気がして、私はどうすれば良いか分からなかった。

 何か言わなくてはいけないと焦ってばかりで、何をどうしたいのか具体的な未来も考える事ができなかった。

 結局のところ私の十吉への感情は母や父への感情のわだかまりというはまた別個のものなのだ。

 私が何か言おうと思って十吉を引き留めた時の沈黙は他ならない私が培ったものだ。つい最近までどうとでも思っていなかったそれは、今の私に重く降りかかった。




 父親との和解に関して、殆ど会話は無かった。母から話を聞いていたからか、父とも私は謝り合いをした。

 父はぎこちなく笑って私の頭を撫でた。


 古小路は文化祭の手伝いと言う名目で私をしばしば雑用に駆りだした。波風を立てたくなかった私は、なるべく目立たないように古小路と仕事をした。彼女を無下にすればクラスでの私の扱いは興味がない状態から悪い方向に変わる、それだけは避けたかった。

「一つ聞きたいんだけどさ」

 ある日私は思い切って古小路に疑問をぶつけてみた。

「古小路はどうして私に構うの?」

 その言葉に彼女は目を瞬かせてと面を食らったようだった。

「篠木さんと仲良くしたいからじゃ、駄目かな」

「適当な受け答えをしてる相手と仲良くしよう、って言うのがよく分からないんだけど。……信用できない」

 私は古小路の事を警戒していた、どういう人間か分からないし何より友達面されるのが気に喰わない。

「……やっぱり、そう言う人なのかな」

 古小路は暫く黙りこんで何かを言おうとしていた、その表情には普段の少し抜けたような仕草とは違う雰囲気があった。

「……誰にも言わないって約束できる?」

 瞬間、彼女が別人に見えた。

 透明な視線だった、彼女自身が私に問いかけるほどの価値があるか値踏みをしているようだ。思わず、私は彼女の見せてくるだろう思いに誠実でありたいと感じさせられてしまった。

「親くらいしか話す人が居ないから……」

 悲しい確約だねと彼女は苦笑する。古小路は息を一つ払うと面差しが凛々しいものに変わる。

「わたしね、陸上部に入っててさ。二年生の先輩がいるんだけど、その人が篠木さんに似てるの。……少し孤立気味で、けど簡単に他人に靡いたりしなくて……それで苦しそうにしてる」

 彼女の顔を少し上気して赤くなり、普段のそれとは違う緩み方をしていた。

 私は思わず間の抜けた顔を晒しそうになる。

「……それで私はその先輩を口説くための予行練習ってわけ?」

 古小路は少し眉を寄せて、頭を振る。ばつの悪そうな表情で彼女は弁明しようとする。

「それは話が飛躍して……ああいや、どうだろ…」

 彼女としてはここで誠実なところがアピールしたかったのだろう。彼女は苦々しい顔で斜を向いていた。

「いいんじゃないかな」

 古小路の落胆と裏腹に、私はむしろ安心していた。彼女が裏表のある人間だったことが私には酷く嬉しかった。寧ろそれぐらいの方が気安くいれる気がしたのだ。

「うまいこと言えないけどさ……そう、本音が聞けた気がするわ」

 私は彼女の間の抜けた顔を見て、気のすくような気分になった。





 秋口にしては暑い日の今日、私の高校は文化祭を開催していた。

 私のクラスは食事を扱う団体になったためスケジュールはタイトなものだった。一日目は古小路と共に午前の担当となった私は、慣れない手つきで懸命に仕事をこなした。

 仕事が終わるといつの間にか、古小路に一緒に文化祭を回る約束を取り付けられていたのだが、彼女はトラブルの解決に追われて暫く休憩はとれなさそうだった。

 しかし、彼女が暇になったところで周りの女子が一緒に回りたがるだろう。暇になった私は一人目的もなく、活気づく校内を歩き出した。

 

 私の高校の文化祭は入場を制限しているわけでもないので、校内には様々な人が見受けられた。大学生や老夫婦、そして子供連れの夫婦。廊下にも教室にも色々な人が集まって大いに楽しんでいるようだった。

 何の変哲もない廊下だった、色紙やセロファンで飾られたチープな歓迎をしている。

 ただ私は、その中に人を見た。

「あ」

 驚きに全身が固まる、とけた鉛を流し込まれたように体が発熱する。有りえない事では無かった。けれども私は何処かで逢うことはないと思っていた。

 少し姿は変わっていたが間違いなくその人だと、すぐさま私には確信できた。

 私の古い、古い友人だ。

「先生」

 その呟きは大きな喧噪のなかでも矢のように飛んで、彼に突き立った。見開かれた懐かしい眼は、あのころよりも優しげになっていた。

「……」

 何を言ったか聞き取れはしなかったが、隣に幼子を抱いている女性は少し驚いていた。

 私が近づくと、先生は少し下を向いた。

昔見た頃には熊のように大きかったような記憶があるが、今見ればどこにでもいる体の大きな人だ。

「……久しぶり、先生」

 寂しそうなしかし嬉しそうな、零れ落ちそうな思いを湛えた表情だった。

「ああ……うん、久しぶりだね、郁」

 躊躇いがちに出された声を聴くと、私の意識は白くなった、言いたいことは山のように積もっていたというのに、先生の立ち振る舞いが私の心にいやに響いた。

 

 私と先生は校舎の外にあるベンチに座った。先生の奥さんであろう人が気を利かせて二人にしてくれた。慈愛に満ちた笑顔を浮かべる彼女は聡明そうな人物で私とまるで逆の人物のように思えた。

 賑やかな喧噪だけが二人の間にあるものだった。それは沈黙よりも空々しいなにかを漂わせていた。

 とかく焦燥感に駆られる。この無言が決定的な何かを暴いてしまう気がしてならなかったから、不安と緊張を断ち切るほどの恐れに押される。

 私は考えを振り払うように話を切り出す。

「先生、奥さん居たんだね」

 私は白々しく何にも気にしていない、当たり障りのない会話から始める。

「うん、いい奥さんだよ。おれには勿体ないくらいだ。そんなこと奥さんに言ったら、暫く口きいてくれなくなりそうだけど」

 喜色満面と言った様子で話す。

 彼の声音も、口調も記憶よりも何もかも優しげで穏やかだ。それはなにも私が成長したからそう聞こえると言うだけでなく、明確に違うと確信を持って言えた。

「先生はさ、お父さんになったんだよね」

 そのことが私には無性に気に喰わなかった、先生が私の友達から大人になった理由が見えたからだ。

「うん、そうだ」

「先生は、どうして私の友達をやめたの?」

 もし、この質問に先生が反応したら罪悪感をおぼえてくれている。だからなにという事も無い、そうだとしたらそこを私は責めるだろう。けれど私はその思いを抑えきれなかった。

 私には、先生が私という友人よりも自分の幸せを優先したという風にしか聞こえなかったから、そうしたいと感じるしかなかった。

 先生は恥を忍ぶように深い呼吸を何度かして言った。

「郁はさ、友達ってなんだと思う?」

 悔しくて辛くてたまらなくなった。

「先生がそれを聞くの? 私を友達として扱ってくれなかった先生が」

 私は聴くなり言葉を返した。自分でも驚くほどに声音は冷たく寂しかった。

「……おれはさ、郁の友達にはなれなかったんだよ」

 先生は見せたことのない自嘲を込めて言う。

「どうして勝手に友達になれないって決めたの、それまでは確かに友達だって思ってたんじゃないの?」

 私は半ば喚くように言った、母と口論している時とは違う強い怒りばかりが渦巻いていた。

「違うよ、友達だなんて意識してなかったんだ。友達ってさになろうと思ってなるようなものじゃないだろ。いざなろうなんて方が無茶なんだ」

 彼は苦しそうな顔をして、頭を振った。

「おれは郁の事を、友達として考えたことはないんだ」

 その言葉は余りにも辛い言葉だった、目から涙が零れそうになって体中が熱くなってその場を逃げ出したくなった。けれど私にはそれが出来ないでいた。

 友達の前で、そんな情けないところは見せられないから、話を最後まで聞くために震える膝が逃げないようにおさえている。

「歳の離れた兄弟くらいに年が離れすぎてたんだ……郁と遊んでいたのはさ、友情からじゃないんだ。年上として見栄を張りたかっただけなんだよ」

「ふざけないでよ!」

 私は自分の耳に痛いほどの金切り声をあげていた。

 疑問が呼び水になって怒りが湧いてくる。あの楽しかった日々を他ならない当人に否定されたように思えた。

「だったらどうして、最初から大人でいてくれなかったの? 私に友達みたいに接してきたの!」

 先生はずっと所在なさ気な表情をしている、私がわがままを言っているような気にさせられて、ますます苛立ちを抑えられなくなる。

「答えてよ! 大人なんでしょ、先生はさ。私の友達じゃなくなった先生は私に色々言ったよね、色んなことを教えてくれたじゃない。だったら今、私に教えてよ。先生」

 言って私は体の芯から冷え切った。それは酷い矛盾と皮肉をはらんだ言葉だと思ったからだった。私は先生に友達で居て欲しいのに先生が私と友達でない理由を明確に求めている。

 けれども、そうでもしないと私の心の整理がつけられなかった。どんな理由でもいいから、とにかく納得したかった。

「さっき言った通りだよ、おれは郁との関係を真剣に考えてなかったんだ。大人は子供の未来に対して責任があるんだ。おれは無責任だったんだよ、郁の事をよく考えてもいやしなかった」

 懺悔をするようにしかし遠回りするように言う。

「途中で態度を変えることも、無責任で不誠実じゃないの」

そうだね、その通りだ。そう言って先生は呼吸を整えて口を開いた。

「郁はさ、今友達って呼べる人が居る?」

 その言葉は何度も小さい時と今言われた言葉を、本当に決定的にさせる、そういう大人としての真摯な心配のある響きだった。

 その言葉に私は虚無感で満たされて、何もかも投げ出してしまいたくなる。

 口にしたくない言葉を、懸命に口にしようとする。けれどその言葉を口にするという事は、先生は友達でないことを認めることに他ならなかった。

 けれど、言うしかないとも感じた。先生と友人になりたいのなら、私は子供をやめて、大人にならなくてはいけない。

「いないよ、誰もいない」

 私は子供の様に喚くのをやめた。

 先生は瞠目して、必死さが滲み出る声音で私に聞いてきた。

「少しでも話すような人もいない? クラスとかに」

 彼は痛々しいくらいに必死だった。

「どうしてそんなこと、他でもない先生が気にするの」

 彼は辛そうに口をつぐむ。けれどもめげずに口を開く。

「心配なんだよ、そんなこと口にするのもおこがましいけど」

 勢い込んで言って、また悲しそうに話始める。

「おれには友達はいなかったよ、友達になってくれそうな人さえいなかったんだ……それはとても悲しい事だ」

 情けなさそうな目を伏せて背を丸ませて、今にも消え入りそうなほど哀愁に満ちていた。

 私は一瞬情けないなと、先生を軽蔑しかけた。思い出と現実と怒りとやるせなさ、それぞれの落差で感情が暴れまわって、砕けそうだった。

「おれもね、友達なんかいらないって思ってたさ。だけど家族と喧嘩したとき、言えない事が出来た時……そういう時に友達が居ないって言うのは、辛い。逃げ場がないんだよ」

 先生は顔を上げて言う、自分の傷を抉る様な苦しみに満ちた表情で私をじっと見つめた。訴えかけるような眼を私は直視できずに目を逸らした。

 私が目を逸らしたのは、先生の言っている事に正しさを覚えてしまったからだ。それは他でもない私の二年間を思い出させる。

「郁はそういう事なかったか」

 先生は本当に少し身を乗り出して聞いてくる。

 喉元で留めていたつらく悲しい思い出が決壊しそうになる、けれど私は目を閉じて必死に堪えた。

「ないよ、全然ない。分かった様なこと言わないでよ」

 私の言葉を怒りだった、私は先生に子供として心配されていたのだ。先生は大人だ。だから先生は自分で言った事も忘れて、踏み込んできている。

『友達に相談した方が良い』のだ。私は先生の友達ではないから、彼に相談することは今もこれから先もない。

 思い出が本当に過去になった。

 癒着していた傷を剥がしたような尾を引く痛みと、強い後悔だけが残って他には何も残らなかった。

 寂莫とした沈黙がベンチを包む。冷涼とした風が虚しく熱くなった体を音も無く冷やす。

 夏の終わりを漠然と感じた。


 澱を乱すように良く通る高い声が聞こえてきた。

「篠木さーん、あ、御取込み中だった?」

 古小路はウェイトレス姿でこちらへ駆けてきた。彼女は近くまで来ると目を瞬かせる。

「ええと……お兄さん、ですか? わたし、篠木さんの友達の古小路って言います」

 先生は酷く眩しいものを見るような目をして、私と古小路の間で視線を往復させて笑った。

「いや違うよ、ただの知り合い。ゴメンね、郁借りちゃって」

 奥さんが待ってるんだ、と言って先生は何処かへ校舎に入って行った。

 古小路は不思議そうな顔をした後、私の手を取ってベンチから立ち上がらせた。そのまま、私は古小路の連れてきた女子たちと文化祭を回ることになった。


「ねぇ、篠木さん、私達かなり仲良くなったと思わない?」

 彼女は屈託のない笑みで人懐っこく近寄ってきた。彼女と仕事をするうちに古小路が人気者である理由が私には良くわかってきた。

「どうしたの、急に」

 確かに彼女とは気の置けない仲になったと私も多少なりとも感じていた。けれど面と向かって言われるとむず痒い。

「他人行儀じゃない?」

 聞き返すと、とぼけちゃってなどと彼女はにこやかに話しだす。 

 結局のところ古小路はこういうところが上手い。彼女は相手に不快感を与えずに話してかつ、ある程度自分の要求を押し通す強かさがあった。

「名前で呼び合わない? その方が友達らしいでしょ」

 憎めない奴というのだろうか、そのやり口が私には昔の先生を思い出させるのだった。

 私の友人への忌避感は未だに拭いきれないままでいる。けれどあの時、先生の前で言った言葉は確かに私を立ち直らせた。

 なにより、嫌悪や拘泥する気持ちをすり抜けるような魅力が古小路にはあった。

「……良いよ別に」

「ありがとう、郁」

 花の咲くような笑顔で彼女は言う、私は胸のあたりが滲むように暖かくなるのを確かに感じた。

「……ところでさ私、古小路の下の名前知らないんだけど」

 気遣いないちょっとした言葉でも私に尊い気持ちを運んでくる。

 彼女は一しきり笑うと頬を上げて言う。

「ま、やっぱそんなもんよね……あいっていうのよ、藍染めのあいで藍っていうの」

 心臓が早く脈打って、顔が熱くなる。口に出そうとすると気恥ずかしくてけれど悪い気分ではなかった。

「よろしく、藍」

「よろしく、郁」

 確かに友情が育まれたと感じた。

 それはずっと昔においてきた安らぎだった。





 夕暮れの道は過ごしやすい気温に変わって来ていて、文化祭後ので遅くに道を行く藍と私には涼し過ぎるくらいだった。

 道を行くと、公園があった。思わず声を上げた私に藍は反応する。

「どうしたの、公園になにかあるの?」

 そこは私にとって複雑な思いを呼び起こす場所だ。赤錆の吹きつけた時計、赤いジャングルジムに水色のブランコ、黄色の滑り台。

「昔、弟とよく遊んだ公園なんだ」

 なにもかもが思い出通りというわけではなかったけれど、十吉と仲が良かった頃、先生と会って別れた公園だった。

思い出が背中を押すように、私は友達に相談しようと思った。

「藍、相談聞いてくれるかな」

 昔と違って新しくなったベンチに二人で座った。

「弟の話なんだ、少し長くなるけど」

 藍は静かに頷いた。


 十吉はとても優しい、だから私は嫌いなのだ。

 彼は双子の弟という微妙な上下関係を実のところ何とも思っていない。そういうのを気にしていたのは私の方で弟と、十吉を軽んじていた。小さい頃から私は姉と言う立場を笠に来て十吉に対して横暴だった。

 だからこそ、私が固執した姉弟の関係に甘んじられていたという事実が私には耐えられない。

 私が弟に気を使われていると分かったのは、丁度受験に失敗したころだった。増長しきって失敗をした私にすら彼は気遣いをした。目が覚めたようにただ、様々な事に気が付いた。

 ただ、我慢と気遣いだけで十吉は私に何もしなかっただけなのだ。出来なかったからでは無くて、どうという事はないから放っておいただけだった。

 私にはそれがどうしようもなく悔しかった。

 私は負けたのだと痛感させた、同時に自分の増長した態度の醜さに酷い嫌悪を抱いた。私は可哀想な人だから酷い失敗を誰も責めたりしなかったのだ。

 だからこそ、贖罪の様にそれこそ家の事は何でもやった。そうでしないと私の気が紛らわす事が出来なかった。

 

 心臓が強く鼓動している、反対に蝉鳴く声はか細く聞こえている。

「…話したらすっきりするなぁ」

「わたしは結構くるものがあったんだけど……郁が……そのダブってたとか。だから誰とも話そうとしなかったのか…」

 藍は下を向いて小さく言う、彼女は少し後悔しているようだった。

「それはいいんだよ……別に大したじゃない。……弟とこの前、数年ぶりに喧嘩して、かれこれ一か月も話してない」

「何にも話してないの?」

 喧嘩をするまでしていた最低限の日常会話すら、今は全くしなくなった。

 何もどうやってもぎこちなさばかりが支配して、そこから私は動けなくなる。私は弟とどんな関係を築けばいいのかわからない。

「何を話せばいいか分かんないんだよ」

「謝ればいいじゃないの?」

 彼女はあっさりとそう言って続ける。

「話を聞くと弟さんそんなに話の分からない人でもないみたいだし、謝ればゆるしてくれるどころか、溝も無くなるんじゃないかな?」

 彼女の言葉を聞いても私は踏ん切りがつかないでいた。自分が正しいことから踏み外すことがとてつもなく怖い。私は二年間張り詰めた私から弱くなってしまった、辛いことも痛みが伴うことも避けたくて仕方がない。

 彼女は真剣な声音で諭すように言う。

「大丈夫だよ」

「何を根拠に……」

「弟さんが優しいなら、郁が関係を何とかしたいって思ってるのを汲んでくれるよ……それでもだめなら、ほら、友達の言うことを信じてみる気ない?」

 藍は真っ直ぐにこちらをみつめて言った。

 その言葉で不安だった思いが霧散する、暖かい気分になって何でも出来そうに思えてきた。

 まるで魔法のようだった。

 

 私は十吉が帰ってくるまで、色々な事を考えた。何を謝ればいいか、どう伝えればいいか。けれど結局思い出せたのは小さい頃の思い出ばかりで、その輝いた思い出が私をどうしようもなく感傷的にさせる。

 あのころは何もかもが楽しかった、先生と遊んで十吉とも何の確執も無かった。

 けれどあの子供の頃にはもう戻れない、私はもう大人だから有耶無耶にせず謝ってきちんと新しい一歩を踏み出さなくてはいけなかった。

 それは二人の間に横たわる負債のような思い出を捨てるか消化するかの辛い選択だ。けれどそれでも、私は仲直りがしたかった。

 私の全ての情動を断つように、玄関の戸が開く音が鳴った。変に呼吸が乱れて途端に何も考えられなくなりそうになる。

 けれど硬直する体に藍の言葉が蘇ってくる。大丈夫だ。息を吹き返したように強く心臓が弾む。

 居間に入ってきたのは間違いなく、十吉だった。

 大丈夫だ。友人のお墨付きなのだから。

 誠実に謝りたい気分だけが胸を満たした。

「その、ごめんなさい! 私っ……」

 気持ちが逸り過ぎて二の句を告げなくなると、静寂が立ち込める。

「その、とにかく」

 沈黙に耐え切れずに十吉の顔を見ると彼は唖然としていた。

「……その、なにを?」

 下手したら彼は私より動揺しているのではないかと言うくらいに、目が泳いでいて言葉も虚ろだった。

「それは、この前ぶってそのごめんなさい…」

「いや、いいよ別にそれはおあいこだよ、触れられたくないことだってあるしさ、不用意に言う方も悪い」

 彼はおかしな仕草を交えて言う。

「それだけじゃなくて……二年前だって、私が」

 私が言おうとすると十吉は首を振って恥ずかしそうにした。

「いや、もういいよ。十分痛い目見て反省したんだろ……郁があやまるくらいなんだから」

 十吉は、嫌になるくらい優しかった。

 そうして、とてもぎこちなく私たちは仲直りをした。

 十吉と仲直りしてから、大きな変化はなかった。ただ、家事が当番制になったくらいだった。




 その休日は文化祭の打ち上げだった。休日に出かけることを親に嬉しそうに、十吉にはただ驚かれた

藍に誘われて参加した打ち上げではクラスメイトの激しい歓迎に遭った。藍が私に手伝わせていた作業をさも私の成果の様に喧伝した結果らしい。おせっかいな友人だった。

 三々五々に帰っていく姿を見ると私も何だか楽しさの余韻か、なおさら寂しいような気分になる。

「帰ろう、郁」

 声をかけてきた藍は少し寂しそうな表情をしていた。


 藍には事の顛末をすべて伝えた、彼女には相談に乗ってもらった恩があるからそれくらい当然の義理だろう。

 仲直りが出来たことを伝えると彼女はこちらまで嬉しくなるような笑みで笑った。

 彼女だけに私は少しだけ気恥ずかしい話をする。

「私思い出したことがあるの」

「何、美談?」

「そんなんじゃないよ……小さい頃は良く喧嘩してたんだけど、私が意固地になって絶対折れないから、最終的に渋々十吉が折れてくれてたんだ」

 藍が意外だと笑うとわたしはくすぐったい気分になった。

「…私がどう謝ればいいか分からなかったのも、謝られたときに責められなかったのも、きっとお互い慣れてなかったからなんだ」

「それは確かに、美談って言うには余りにお粗末ね」

 九月の始めに一人きりで歩いていた道に、いつのまにか蝉の声と暑さはぱったりと消えていた。

ただ私と藍の忍び笑いだけが道路に響いていた。


まえがきにそんなこと書く必要ないでしょって話よね

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― 新着の感想 ―
[良い点] とても楽しく読ませていただきました。 三次元的な波が無く落ち着いているにもかかわらず、魅せるところではしっかりと魅せてくるあたり、さすがの宵見クオリティと言ったところでしょうか。 主人公の…
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