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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

NO TRACE ―影を追う者―

作者: ゴヘイ
掲載日:2026/09/09

第一章 死者のいる街


雨は、記憶を消してはくれない。


ただ薄めるだけだ。


榊冬馬は、濡れた路地から古びた雑居ビルを見上げていた。


午後十一時四十七分。


六階建ての建物の五階だけに明かりが残っている。


双眼鏡を覗く。


カーテンの隙間。


人影が二つ。


ひとりは椅子に縛られ、もうひとりはその前を落ち着きなく歩いていた。


冬馬は双眼鏡を下ろした。


「間違いない」


裏手の非常階段へ回る。


濡れた鉄板を踏む音さえ殺して五階へ上がった。


扉には鍵。


細い工具を差し込み、数秒。


小さな音と共にロックが外れる。


中へ入った。


「そこまでだ」


黒いレインコートの男が振り返る。


「誰だ?」


冬馬は答えない。


男が拳銃へ手を伸ばした瞬間、冬馬は四メートルの間合いを一気に詰めた。


手首を取る。


拳銃が落ちる。


男を壁へ叩きつけた。


「誰に頼まれた」


「何の話だ」


「その箱」


床の銀色のアタッシュケースを見る。


「中身は爆薬だろ」


男の目が動いた。


それだけで十分だった。


「港湾倉庫、高架下、地下駐車場。全部同じ配線だった」


「……探偵かよ」


冬馬は一瞬黙った。


「昔はな」


その時、電子音が響いた。


アタッシュケースの側面に数字が浮かぶ。


00:30。


「馬鹿が!」


椅子の青年が叫ぶ。


冬馬は箱を開く。


四本の配線。


赤。


黒。


黄。


青。


基板の影に白線。


さらにその裏に透明被覆。


00:16。


冬馬はナイフを差し込む。


00:11。


一本を切る。


00:09。


数字が消えた。


静寂が戻った。


「……どうして分かった」


レインコートの男が呟く。


「見せ線が多すぎる。作った奴は自分の癖を見せたがっている」


冬馬は立ち上がった。


「昔から変わらない」


男が笑った。


「昔?」


冬馬の視線が鋭くなる。


「誰のことだ」


「ボンバーだよ」


時間が止まった。


炎。


爆音。


崩れた壁。


伸ばした手。


届かなかった指先。


血に濡れた女。


――冬馬。


忘れたことなど一度もない声。


冬馬は男の襟を掴んだ。


「今、何と言った」


「ボンバーだ」


「どこにいる」


「知らねえよ!」


冬馬の拳が壁へ突き刺さった。


コンクリートが砕ける。


男の顔から血の気が引いた。


冬馬自身も、砕けた壁を見る。


人間には出せない力。


それを見られた。


「警察が来る」


冬馬は青年の縄を切った。


「ここを出ろ」


「あなたは……」


「何も見なかった」


遠くからサイレン。


冬馬は窓の外を見た。


ボンバー。


まだ生きている。


違う。


この時代では――まだ死んでいない。


翌朝。


冬馬は駅前の喫茶店にいた。


新聞には昨夜の事件が小さく載っている。


〈雑居ビルで爆発物発見。何者かが解除〉


コーヒーに口をつけようとした時、入口のベルが鳴った。


「すみません、遅れました!」


その声だけで、身体が固まった。


美咲。


榊美咲。


七年前、炎の中で失った妻。


彼女が歩いている。


呼吸をしている。


笑っている。


この時代では、彼女はまだ生きている。


そして今頃、もう一人の榊冬馬――七年前の自分と暮らしている。


美咲がこちらを見た。


目が合う。


わずかに眉を寄せた。


冬馬は立ち上がった。


声を掛けてはいけない。


触れてはいけない。


彼女の人生には、既に自分がいる。


未来から来た自分の居場所などない。


店を出る。


雨上がりの街で、冬馬は初めて笑った。


「……生きてる」


それだけで良かった。


その夜。


借りた事務所の壁には、数十枚の事件資料が貼られていた。


失踪。


爆発。


人体実験。


不可解な企業買収。


中央には一つの名称。


《HELIX》


未来で冬馬の身体を作り替えた組織。


机の引き出しには、円形の装置があった。


腰へ固定する生体制御器。


冬馬は窓を見る。


向かいの屋上。


一瞬だけ黒い人影が見えた。


すぐ消えた。


「……気付かれたか」


夜。


高架下。


爆発物の仲介人を追いつめた冬馬は、人間の姿ではなかった。


深緑と黒の外殻。


長い触角。


橙色の複眼。


飛蝗の能力を与えられた異形。


男が震えながら問う。


「何なんだ、お前……」


冬馬は答えた。


「探偵だ」


男から一つの名前を聞き出す。


黒崎。


ボンバーへの資材調達役。


冬馬は闇へ消えた。


この街には、未来を知る探偵がいる。


誰にも知られず。


誰にも讃えられず。


失われるはずだった明日を追う男。


痕跡を残さずに。


---


第二章 導火線の先


黒崎征一郎。


表向きは輸入機械会社の営業部長。


裏では特殊薬品、兵器部品、軍用電子機器を横流ししていた。


そして未来の記録では、三年前に事故死している。


冬馬は写真を机へ置いた。


「事故死した男が、まだ生きている」


未来を知ることは便利ではない。


変化した瞬間から、その知識は役に立たなくなる。


すでに一つ、過去は変わった。


昨夜助けた青年。


本来なら爆発で死亡していた人物だった。


壁に貼った未来の新聞記事では死者一名。


しかし今朝の記事では死者ゼロ。


歴史は書き換わっている。


それでも冬馬は消えていない。


タイムポータルを作った真壁玲司の言葉を思い出す。


『君が向こうへ渡った瞬間、君は過去から切り離された異物になる可能性が高い』


「異物、か」


午後。


黒崎を尾行する。


ホテル。


倉庫。


会員制バー。


最後に黒崎は郊外の廃工場へ入った。


冬馬は望遠レンズを向ける。


数台のトラック。


HELIXの紋章。


胸の奥が熱くなる。


研究台。


拘束具。


冷たい照明。


焼ける薬品の臭い。


自分が改造された場所を思い出す。


飛蝗の細胞。


神経接続。


外殻生成。


そして。


洗脳オペレーション。


『対象S-17。記憶抵抗値異常上昇』


『感情核を切断しろ』


『無理です。特定人物への執着が強すぎます』


美咲の死。


ボンバーへの怒り。


HELIXへの憎悪。


それが冬馬の自我を繋ぎ止めた。


皮肉だった。


復讐心によって、人間でいられた。


廃工場から黒崎が出てくる。


その後ろ。


白衣の男。


冬馬は息を止めた。


未来で何度も見た顔。


改造担当主任。


片桐宗司。


本来なら冬馬と出会うのは四年後だ。


「早すぎる……」


この時点でHELIXは、既に人体改造を完成させつつある。


冬馬が知らなかっただけだ。


その夜。


黒崎の自宅へ侵入した。


探す。


金庫。


偽造パスポート。


帳簿。


一枚の写真。


若い男。


顔の半分に火傷痕。


背後には爆発した車。


裏に文字。


《B-01》


冬馬の手が止まる。


ボンバー。


未来では怪人となった姿しか知らなかった。


人間だった頃の顔を初めて見る。


その下。


次の標的。


日付。


場所。


冬馬の表情が変わった。


「……ここか」


中央区第三倉庫。


その場所を知っている。


七年前。


美咲が死んだ場所だった。


そして日付は――まだ半年先。


冬馬は写真を握りしめた。


未来はまだ変えられる。


その時。


玄関が開いた。


黒崎が帰ってきた。


冬馬は物陰へ身を隠す。


黒崎は電話をしている。


「例の探偵については?」


『こちらでも確認した』


相手の声。


冬馬は聞き耳を立てる。


『榊冬馬という探偵がいる』


心臓が跳ねた。


『だが年齢が合わない』


黒崎が笑う。


「親子か?」


『顔はほぼ同一だ』


沈黙。


『両方調べろ』


通話が切れる。


冬馬は目を閉じた。


恐れていたことが始まった。


HELIXは。


過去の自分にも目を向けた。


---


第三章 もう一人の探偵


榊冬馬、三十二歳。


未来から来た冬馬より七歳若い。


私立探偵。


妻・美咲と結婚して三年。


まだ人間。


まだ何も失っていない。


未来の冬馬は、通りの反対側から自分を見ていた。


若い。


当然だった。


しかし。


驚いたのは顔ではない。


表情だった。


よく笑う。


美咲が隣にいるからだ。


スーパーの袋を片手に歩き、美咲が何か言うたびに笑っている。


あんな顔をしていたことを忘れていた。


冬馬は帽子を深く被った。


見てはいけないものを見ている気がした。


美咲が若い冬馬の腕を引く。


「ねえ、今日何食べたい?」


「何でも」


「一番困る答え」


「じゃあカレー」


「昨日カレー」


「じゃあ昨日の俺を責めろ」


美咲が笑った。


未来の冬馬は目を伏せた。


帰りたい。


その輪の中へ。


「美咲」


名前を呼びそうになり、唇を噛む。


できない。


あの男こそが彼女の夫だ。


自分は未来の残骸に過ぎない。


その時。


道路向こうのワゴン車。


助手席の男がカメラを構えている。


狙っているのは若い冬馬。


HELIXだ。


未来の冬馬は動いた。


ワゴンを追う。


路地へ入ったところで運転席を引きずり出した。


「誰の命令だ」


「何の――」


冬馬の眼が橙色に変わる。


男の声が止まる。


「誰の命令だ」


「片桐……!」


予想通りだった。


「若い榊冬馬から手を引け」


「何だよ、あいつはお前の――」


冬馬は言葉を遮る。


「二度と言わせるな」


だが。


背後から声。


「その話、詳しく聞かせてもらおうか」


冬馬の全身が固まる。


振り返る。


若い榊冬馬が立っていた。


探偵の勘。


尾行に気付いていた。


若い冬馬は未来の自分を見る。


沈黙。


「……あんた」


冬馬は帽子を下げる。


「人違いだ」


「俺は探偵だ」


若い冬馬が一歩近づく。


「人の顔を覚えるのが仕事でね」


未来の冬馬は笑いそうになった。


同じ言い方をしていた。


「それ以上調べるな」


「何を?」


「最近の爆破事件全部だ」


若い冬馬の顔から軽さが消える。


「どうして俺が調べてると知ってる」


しまった。


若い自分は既にボンバーへ近づいていた。


だから美咲も事件へ巻き込まれたのか。


未来では考えもしなかった。


「忠告だ」


未来の冬馬は背を向ける。


「家族を大事にしろ」


「待て」


足が止まる。


「あんた、誰だ」


未来の冬馬は答えなかった。


「その顔」


若い冬馬の声が低くなる。


「俺に似すぎてる」


冬馬は振り返らない。


「世の中には、知らない方が幸せな事件もある」


「探偵にそれを言うか?」


「だから言ってる」


そして去った。


帰宅した若い冬馬は、美咲に妙な男の話をした。


美咲は笑いながら聞いていた。


「あなたに似てる?」


「七つか八つ老けた俺」


「じゃあ未来から来たんじゃない?」


冗談だった。


若い冬馬も笑った。


だが。


美咲だけは。


駅前の喫茶店で見た男の目を思い出していた。


あの時の男。


同じ人間だ。


そして。


あの男は。


美咲を見て泣きそうな目をしていた。


---


第四章 人間をやめた日


未来。


四年前。


美咲を失って三年が経っていた。


冬馬はHELIXの研究施設へ潜入した。


目的は一つ。


ボンバーを探す。


地下五階まで入り込んだところで捕まった。


目覚めた時、手足は拘束されていた。


片桐宗司が見下ろしている。


「榊冬馬。探偵」


冬馬は睨む。


「ボンバーはどこだ」


片桐が笑った。


「面白いな。自分がどうなるかより、それか」


「答えろ」


「その執着が欲しい」


HELIXは人間の感情を研究していた。


恐怖。


怒り。


愛情。


喪失。


それらを肉体進化の触媒として利用する。


冬馬に選ばれた生物は飛蝗だった。


跳躍力。


瞬発力。


感覚器官。


再生力。


そして驚異的な神経反応。


麻酔の中。


身体が作り替えられていく。


皮膚の下を何かが這う。


骨が軋む。


筋繊維が裂け、再構築される。


悲鳴を上げる力さえ残らない。


最後に洗脳処理が始まった。


映像。


音声。


電気刺激。


自己認識を破壊する。


美咲の記憶が消されていく。


笑顔。


声。


指先。


ひとつずつ霞んでいく。


冬馬は必死に名前を呼んだ。


美咲。


美咲。


美咲。


そこへ別の記憶。


爆発。


ボンバー。


HELIX。


怒り。


『脳波異常!』


『処理を停止しろ!』


冬馬は拘束具を引き千切った。


初めて変身した。


研究員の悲鳴。


砕けるガラス。


片桐の驚いた顔。


冬馬は施設を破壊し、雨の中へ逃げ出した。


鏡に映った姿。


長い触角。


異形の目。


外殻。


人間ではない。


冬馬は拳を振り上げた。


だが鏡を壊せなかった。


そこにまだ、自分がいる気がした。


現在。


未来から来た冬馬は廃工場の地下で目を覚ました。


片桐の施設を調べている途中、罠にかかった。


正面に片桐。


七年前の片桐。


「興味深い」


片桐は冬馬の血液データを見る。


「我々の技術と極めて似ている。しかし完成度が違う」


冬馬は拘束具を引く。


「どこで作られた?」


片桐が問う。


「お前のところだ」


「何?」


「数年後にな」


片桐の表情が消えた。


冬馬は笑った。


「技術者なら分かるだろ」


拘束具が軋む。


「未来の失敗作が、返品に来た」


装置が砕けた。


橙色の複眼が闇に灯る。


戦闘は一分も続かなかった。


研究員を殺さず。


機材だけを壊す。


片桐は逃げた。


冬馬は追わなかった。


壁の資料に目が止まったからだ。


《B-01 感情増幅処理成功》


ボンバー。


ただの雇われ爆弾魔ではない。


HELIXによって改造された最初期の成功例。


そして増幅された感情。


《破壊衝動》


冬馬は資料を握りつぶした。


「お前も……作られたのか」


だが同情はしない。


理由があろうと。


美咲を殺した事実は消えない。


---


第五章 BOMBER


ボンバーは爆発を愛していた。


ただし炎ではない。


爆発直前の静寂を愛していた。


誰もがまだ生きている数秒。


その後すべてが変わる。


その境界。


そこに美しさを感じていた。


人間だった頃の名は、御堂隼人。


爆破処理班の技術者だった。


事故で仲間を失った。


自分だけが生き残った。


そこから何かが壊れた。


HELIXは壊れた部分を治さなかった。


増幅した。


「人間は面白いよな」


ボンバーは冬馬に言った。


初めて二人が対峙したのは、地下の資材倉庫だった。


全身に爆薬と金属板を組み込んだ怪人。


顔の半分は耐爆殻に覆われている。


「死ぬ一秒前まで、明日があると思ってる」


冬馬の拳が震える。


「黙れ」


「その顔」


ボンバーが笑う。


「どこかで会ったか?」


冬馬は飛びかかった。


拳。


蹴り。


爆発。


ボンバーは身体の各部から小型爆薬を射出する。


冬馬は壁を蹴り、天井へ。


爆風を越えて接近する。


拳がボンバーの顔を捉える。


「ぐっ!」


追撃。


冬馬は止まらない。


美咲の顔。


爆発。


届かなかった手。


怒りが身体を支配する。


倒れたボンバーの首を掴む。


「お前が……!」


拳を振り上げる。


ボンバーが笑う。


「それだ」


冬馬の拳が止まる。


「いい目だ」


「何?」


「俺と同じだよ」


冬馬の顔が歪む。


「違う」


「何が?」


ボンバーが囁く。


「壊したいんだろ?」


冬馬は手を離した。


その一瞬。


爆発。


ボンバーが逃げる。


冬馬は瓦礫の中から立ち上がる。


追わなかった。


拳を見る。


殺そうとした。


未来では何度でもそう思った。


だが。


あの瞬間。


ボンバーを倒すためではなく。


自分の怒りを満たすために拳を振ろうとしていた。


それでは同じだ。


帰り道。


美咲を遠くから見た。


コンビニ袋を持って歩いている。


若い自分と話している。


笑っている。


冬馬は拳を開いた。


守るために来た。


復讐するためではない。


初めて。


その違いを理解した。


---


第六章 近づいてはいけない人


美咲は最近、誰かに見られている気がしていた。


不快ではなかった。


むしろ妙な安心感。


駅。


商店街。


職場。


いつも少し離れた場所にいる男。


黒いコート。


初めて見た時から気になっていた。


夫に似ている。


だが違う。


もっと疲れている。


もっと静かで。


何かを諦めた人の目をしている。


ある夜。


美咲はわざと帰宅ルートを変えた。


男はついてきた。


路地へ入る。


振り返る。


「いつまでついてくるんですか?」


冬馬は立ち止まった。


「人違いです」


「それ、前にも聞きました」


美咲が近づく。


冬馬は後退する。


「近づかないでくれ」


「どうして?」


答えられない。


美咲は顔を覗き込む。


「あなた、冬馬を知ってるでしょう」


沈黙。


「主人を」


その呼び方が胸に刺さる。


主人。


その立場はもう自分のものではない。


「知らない」


「嘘」


美咲は断言した。


「あなた、嘘が下手」


冬馬は苦笑した。


昔も言われた。


「……そうか」


美咲が目を細める。


その表情も覚えている。


「やっぱり知ってる」


冬馬は背を向ける。


「帰った方がいい」


「答えて」


「もうすぐ危険になる」


「何が?」


「全部だ」


その時。


屋上から金属音。


冬馬が美咲を突き飛ばした。


銃弾。


壁に穴。


HELIX。


冬馬は美咲の前に立つ。


「走れ!」


「でも――」


「行け!」


その声。


美咲は知っている。


夫が本気で怒った時と同じ声。


冬馬は変身しない。


見られるわけにはいかない。


三人の工作員を人間の姿のまま迎え撃つ。


だが身体能力を隠せない。


一人。


二人。


三人。


倒す。


美咲は逃げずに見ていた。


冬馬が振り返る。


「どうして――」


「その傷」


美咲が冬馬の右手を見る。


古い火傷跡。


夫にも同じ場所に小さな傷がある。


未来では大きくなっていた。


「あなたは……」


冬馬は何も言わず走り去った。


その夜。


美咲は眠れなかった。


隣では若い冬馬が眠っている。


顔を見る。


そして。


雨の中の男の顔を思い出す。


同じだった。


違う時間を生きた。


同じ人間の顔。


---


第七章 過去は帰る場所ではない


真壁玲司は、時間移動装置を完成させた科学者だった。


未来。


HELIXに追われていた彼を冬馬が救ったことから二人は知り合った。


「過去へ行けば、全部元に戻せると思っているならやめろ」


装置の前で真壁は言った。


「戻すんじゃない」


冬馬は答えた。


「美咲を救う」


「君の美咲は戻らない」


冬馬は黙った。


「この装置は時間を巻き戻すものじゃない。過去の一点から別の未来を作る」


「分かってる」


「分かっていない」


真壁が冬馬を見る。


「向こうで奥さんを救っても、君が過ごした七年は消えない。君の身体も戻らない。君自身が若返るわけでもない」


「それでいい」


「帰っても来られない」


「それでいい」


「彼女と暮らすこともできない」


その言葉だけ。


少し時間が掛かった。


「……それでいい」


真壁は目を閉じた。


「随分、探偵らしくない選択だ」


「何でだ」


「報酬がない」


冬馬は笑った。


「依頼人が俺だからな」


現在。


冬馬は川沿いに座っていた。


遠くで美咲と若い自分が歩いている。


美咲の命を救えば。


あの二人の未来は続く。


それでいい。


だがHELIXは存在する。


ボンバー以外にも怪人は作られている。


この時代で止めなければならない。


携帯端末が鳴る。


匿名で使っている番号。


相手は若い冬馬。


どうやって調べたのか。


さすが自分だと思った。


『話がある』


「ない」


『俺にはある』


「家に帰れ」


『美咲が狙われてる』


冬馬の表情が変わる。


『あんたは知ってるんだろ』


沈黙。


『何が起きる?』


冬馬は川を見る。


教えれば歴史はさらに変わる。


だが。


もうそんなことを気にしている場合ではない。


「半年後」


冬馬は言った。


「中央区第三倉庫で大規模な爆発が起きる」


電話の向こうが静かになる。


「美咲はそこへ行く」


『なぜ』


「俺が事件を追ったからだ」


若い冬馬が息を呑む。


『俺?』


「お前がボンバーへ近づいた結果、美咲が人質にされる」


『お前って――』


冬馬は電話を切った。


もう隠し通せない。


そして。


未来は予定より早く動いた。


翌朝。


中央区第三倉庫が爆発した。


半年早く。


死者はいない。


だが壁には文字が残されていた。


《COME FIND ME》


ボンバーから。


未来の冬馬への招待状だった。


---


第八章 因縁の場所


中央区第三倉庫。


焼けた鉄骨。


焦げた床。


未来では美咲が死んだ場所。


冬馬は一人で入った。


変身している。


橙色の複眼が暗闇を捉える。


「来たか」


ボンバー。


未来と同じ場所。


同じ臭い。


だが。


美咲はいない。


それだけで違う。


「お前、俺を知ってるな」


ボンバーが言う。


「知らない」


「嘘だ」


冬馬は構える。


「探偵は嘘が下手でね」


ボンバーが身体から起爆装置を展開する。


「面白いことを聞いた。お前と同じ顔をした探偵がいる」


冬馬の目が細くなる。


「そいつに手を出すな」


「図星か」


爆発。


冬馬が跳ぶ。


鉄骨を蹴る。


空中で身体を捻り、蹴り。


ボンバーが防ぐ。


二撃。


三撃。


爆風。


床が崩れる。


冬馬は瓦礫を突き破る。


「どうしてそんなに必死なんだ?」


ボンバーが笑う。


「守りたい奴でもいるのか?」


冬馬の動きが僅かに止まる。


その瞬間。


爆弾が胸部装甲へ付着。


警告音。


冬馬は装甲ごと引き剥がす。


爆発。


変身機構が損傷する。


外殻が一部剥がれる。


「その下に何がある?」


ボンバーが近づく。


「怪物か?」


拳。


冬馬が受ける。


「それとも人間か?」


蹴り。


「どっちでもないか?」


冬馬が頭突きを返す。


「どっちでもいい」


「何?」


「止められればな」


冬馬の拳がボンバーを吹き飛ばす。


初めて。


怒りではなかった。


冷静だった。


勝てる。


そう思った時。


倉庫の入口。


「冬馬!」


声。


美咲。


冬馬の身体が凍る。


なぜ。


若い冬馬が止めたはずだ。


美咲は匿名のメッセージを受け取っていた。


《夫がここで殺される》


ボンバーの罠。


「来るな!」


冬馬が叫ぶ。


ボンバーが笑った。


「なるほど」


冬馬の背後。


爆発。


変身機構が限界を迎える。


外殻が砕けていく。


深緑の装甲が消える。


人間の顔。


美咲が見た。


雨と煤に濡れた。


七年分老いた夫の顔を。


「……冬馬?」


---


第九章 君を守るために


美咲は動けなかった。


そこに夫がいる。


だが。


夫ではない。


自分が今朝送り出した榊冬馬より年齢を重ねている。


顔には傷。


目には、見たことのないほど深い疲労。


「どうして……」


冬馬は立ち上がる。


変身は戻らない。


「逃げろ」


「冬馬なの?」


「美咲」


名前を呼ばれた。


間違いない。


夫の声。


「何が起きてるの」


冬馬は答えられない。


「あなたは誰?」


美咲が近づく。


「何で私のことを知ってるの?」


「……」


「どうして冬馬と同じ顔なの?」


冬馬は彼女を見る。


未来の最後の日。


血に濡れた美咲。


目の前の美咲。


生きている。


それだけで喉が詰まる。


「君を守るために」


やっと言葉が出た。


「俺は戦っている」


「それじゃ分からない!」


美咲が詰め寄る。


「ちゃんと話して!」


冬馬は黙っている。


言えば。


彼女に、自分の死を知らせることになる。


未来の冬馬が生まれた理由を。


美咲は冬馬の目を見る。


怒り。


悲しみ。


安堵。


そして。


どうしようもない愛情。


質問が止まった。


「……私」


声が震える。


「死ぬの?」


冬馬は目を閉じる。


答えになっていた。


美咲が息を呑む。


その瞬間。


爆煙。


ボンバーが現れる。


「いい話だ」


冬馬が振り返る。


遅かった。


小型爆弾が複数炸裂。


視界が白く染まる。


「美咲!」


煙が晴れる。


いない。


ボンバーも。


床には一つの端末。


画面。


映像。


椅子に縛られた美咲。


『今度こそ同じ結末にしてやる』


ボンバーの声。


冬馬の手が震える。


また。


また奪われた。


端末に位置情報。


郊外採石場。


罠なのは分かっている。


それでも行く。


冬馬は壊れた生体制御器を拾う。


起動しない。


「動け」


赤い光が一瞬だけ点く。


「頼む」


未来で。


何度この装置を憎んだか。


自分を怪物の姿へ戻す機械。


今は。


これしか美咲を救えない。


冬馬は装置を腰へ当てる。


「もう一度だけでいい」


赤い光。


外殻が身体を覆う。


痛み。


神経が焼ける。


変身。


冬馬は立ち上がる。


橙色の目。


ただし不安定。


時間はない。


バイクのエンジンを掛ける。


雨の中。


採石場へ走った。


---


第十章 明日を奪う者


美咲は椅子へ拘束されていた。


ボンバーが爆薬を並べている。


「彼は誰?」


美咲が問う。


「本人に聞け」


「あなたは知ってるの?」


「知らない」


ボンバーは笑う。


「だが想像はできる」


美咲を見る。


「未来人ってやつじゃないか?」


美咲は黙る。


冗談に聞こえなかった。


ボンバーが一本のコードを繋ぐ。


「面白いだろ。未来から来てまで救いたい女が、また同じ男に捕まる」


「あなたは……」


美咲が睨む。


「何がしたいの」


「証明」


「何を」


「人間は何度やり直しても同じ所で壊れる」


遠く。


エンジン音。


ボンバーが笑う。


「来た」


壁を突き破るように冬馬が突入する。


変身状態。


「美咲!」


「冬馬!」


ボンバーが起爆。


爆風。


冬馬が美咲を庇う。


戦闘。


身体は限界だった。


一撃ごとに外殻へ亀裂。


ボンバーは笑う。


「未来でも俺と戦ったのか?」


冬馬は答えない。


「俺があの女を殺した?」


拳が止まる。


ボンバーは理解した。


「そうか」


笑う。


「俺が殺したんだな」


冬馬の拳が炸裂した。


「ぐあっ!」


ボンバーが吹き飛ぶ。


冬馬は追う。


だが殺さない。


腕の爆破装置を破壊。


肩。


胸部。


脚部。


一つずつ。


「なぜ止める!」


ボンバーが叫ぶ。


「殺せよ!」


冬馬は拳を下ろす。


「お前のためにここへ来たんじゃない」


美咲を見る。


「守るためだ」


ボンバーの顔が歪む。


理解できない。


冬馬は最後の起爆装置を破壊する。


ボンバーが崩れ落ちる。


勝った。


そう思った。


だが。


小さな電子音。


冬馬が振り返る。


美咲の首元。


小型の装置。


ボンバーが笑う。


「最後の一個」


00:90。


冬馬の表情が変わる。


「それは俺の身体とは繋がってない」


ボンバーが血を吐きながら言う。


「外しても止まらない」


00:82。


冬馬は美咲へ駆け寄る。


装置を見る。


解除不能。


遠隔停止なし。


爆薬量。


半径百メートル。


この場所でも周囲に作業員住宅がある。


「冬馬」


美咲が震える。


「大丈夫だ」


冬馬は爆弾を外す。


「何するの?」


「大丈夫」


もう一度言った。


美咲から装置を取り外す。


抱える。


00:61。


「待って」


冬馬は立ち上がる。


「どこに行くの」


答えない。


「冬馬!」


彼はバイクへ向かう。


美咲が腕を掴んだ。


「行かないで」


七年前。


自分が掴めなかった手。


今度は。


美咲が自分を掴んでいる。


冬馬はその手を静かに外した。


「大丈夫だ」


「嘘」


「……そうだな」


少し笑う。


「昔から下手だった」


美咲の目から涙が落ちる。


冬馬はバイクに跨がる。


「若い俺に」


美咲が息を止める。


初めて認めた。


「何も話さなくていい」


エンジン。


「ただ」


冬馬は彼女を見る。


「幸せになってくれ」


走り出した。


---


第十一章 NO TRACE LEFT BEHIND


00:48。


バイクが夜の採石場を駆ける。


爆弾を左手に抱える。


右手でアクセル。


00:41。


前方。


崖。


その先は無人の採掘跡。


十分遠い。


冬馬は速度を上げる。


美咲の声が頭から離れない。


行かないで。


未来でも。


同じことを言われた気がした。


あの日。


美咲は逃げるよう冬馬に言われ。


それでも戻ってきた。


だから巻き込まれた。


長い間。


冬馬は自分を責めた。


自分が事件を追わなければ。


自分が探偵でなければ。


美咲は死ななかった。


だが。


今は違う。


悪いのは。


殺した者だ。


奪った者だ。


守ろうとしたことが罪になるはずがない。


00:25。


冬馬はバイクから立ち上がる。


アクセルを固定。


00:19。


飛び降りる。


バイクは爆弾を乗せたまま崖へ。


冬馬は地面へ叩きつけられる。


転がる。


変身解除。


身体が動かない。


00:08。


崖の向こう。


バイクが落ちる。


00:03。


冬馬は目を閉じる。


爆発。


夜が昼になる。


爆風。


轟音。


美咲は遠くからその光を見た。


「冬馬――!」


膝から崩れる。


大地が揺れる。


炎が空へ昇る。


誰も帰ってこない。


美咲は泣いた。


未来から来た夫。


自分を守るために戦い。


自分を守るために死んだ。


そう思った。


翌朝。


若い冬馬が美咲を迎えに来た。


事情は何も知らない。


美咲は彼の顔を見た。


同じ顔。


まだ傷のない顔。


抱きついた。


「どうした?」


若い冬馬が驚く。


「何でもない」


美咲は泣きながら笑った。


「帰ろう」


遠く。


山の斜面。


草の中で指が動く。


冬馬。


生きていた。


爆風で吹き飛ばされ。


身体は傷だらけ。


だが。


飛蝗の再生能力が命を繋いだ。


彼はゆっくり起き上がる。


遠くの道路。


若い自分の車。


助手席には美咲。


二人が帰っていく。


冬馬は追わない。


ただ見送る。


そして。


笑う。


「間に合った」


涙が落ちた。


嬉しかった。


美咲は生きている。


未来は変わった。


しかし。


冬馬自身には帰る家はない。


それでいい。


そう言い聞かせる必要もなかった。


本当に。


それでいいと思えた。


---


第十二章 影を追う者


三か月後。


街では不可解な事件が続いていた。


失踪。


人体実験。


原因不明の変死。


HELIXはまだ存在している。


ボンバーは採石場で死亡していた。


片桐は姿を消した。


組織の中枢は不明。


事件は終わっていない。


古い雑居ビル。


扉に小さなプレートが付いた。


《調査事務所 NO TRACE》


名前は書かれていない。


依頼人が入ってくる。


「人を探してほしいんです」


冬馬が資料を受け取る。


二十歳の女性。


三週間前から行方不明。


警察は家出として処理。


だが。


写真の背景。


冬馬の目が止まる。


HELIX関係企業の看板。


「いつから連絡が取れない?」


依頼人へ質問する。


いつもの探偵の顔だった。


夜。


若い榊冬馬は妻と食事をしていた。


美咲は以前より夫を大切にするようになった。


理由は言わない。


未来の話も。


冬馬は知らない。


ある男が。


自分たちの未来のために死にかけたことを。


美咲だけが時々。


雨の日に窓を見る。


あの男は本当に死んだのだろうか。


分からない。


でも。


どこかで生きている気がした。


「どうした?」


若い冬馬が聞く。


「何でもない」


美咲は笑う。


「ただ、雨だなって」


同じ頃。


街の反対側。


高層ビルの屋上。


異形の男が立っている。


黒と深緑の外殻。


長い触角。


橙色の眼。


その視線の先。


HELIXの輸送車。


冬馬は飛び降りた。


落下。


壁を蹴る。


跳躍。


トラックの屋根へ着地。


工作員が銃を構える。


冬馬は拳を握る。


昔。


この拳は復讐のためにあった。


ボンバーを殺すため。


HELIXを壊すため。


失ったものへの怒りをぶつけるため。


今は違う。


車内から。


助けを求める声が聞こえる。


行方不明の女性。


それだけで十分だった。


冬馬が屋根を引き剥がす。


「誰だ!」


工作員が叫ぶ。


橙色の複眼が暗闇に光る。


「探偵だ」


一人を倒す。


二人目。


三人目。


車両停止。


女性を救出する。


「あなたは……」


冬馬は背を向ける。


「警察が来る」


「名前を教えてください」


冬馬は止まった。


名前。


榊冬馬。


もう、その名を使う必要はない。


この時代には。


ちゃんと榊冬馬がいる。


妻と暮らす。


人間の榊冬馬が。


「名前なんて必要ない」


「でも、お礼を――」


冬馬は夜の街を見る。


無数の灯り。


あの日。


初めて気付いた。


一つ一つに。


守るべき人生がある。


美咲を救えば終わると思っていた。


自分の事件さえ終われば。


それでいいと思っていた。


違った。


ボンバーがいなくなっても。


HELIXがある限り。


誰かが怪物にされる。


誰かが奪われる。


誰かが。


未来の自分になる。


だから。


戦う。


これは復讐ではない。


過去を取り戻すためでもない。


自分が幸せになるためでもない。


誰かが。


当たり前に明日へ進むため。


ただそれだけだ。


冬馬はビルの端へ立つ。


風が吹く。


外殻の裾が揺れる。


背後から女性が叫ぶ。


「待って!」


冬馬は振り返らない。


跳んだ。


闇へ。


翌朝。


新聞に小さな記事。


〈行方不明女性、無事保護〉


犯人逮捕。


救助した人物は不明。


防犯カメラにも鮮明な姿は残っていなかった。


若い冬馬は新聞を読む。


記事を見て妙な感覚を覚える。


「何?」


美咲が聞く。


「いや」


若い冬馬は笑う。


「変な事件だと思って」


美咲も記事を見る。


〈正体不明の人物が救助した可能性〉


少しだけ笑った。


「そう」


「何か知ってる?」


「知らない」


美咲はコーヒーを飲む。


「ただ」


窓の外。


晴れた空。


「そういう人がいてもいいと思う」


街の雑踏。


誰も気付かない。


黒いコートの男が歩いている。


榊冬馬。


この時代には存在しないはずの男。


未来を失い。


過去へ帰り。


愛する人を救い。


それでも彼女の隣には戻らなかった男。


ポケットの中。


一枚の写真。


もう取り出すことはほとんどない。


忘れたわけではない。


忘れる必要がなくなった。


美咲は生きている。


それを知っている。


それだけで。


前を向ける。


冬馬の携帯端末が鳴った。


新しい依頼。


《原因不明の失踪事件について相談したい》


冬馬は足を止める。


空を見る。


そして歩き出す。


過去を変えるために来た男は。


いつしか。


未来を守る男になった。


名誉はいらない。


感謝もいらない。


歴史に名前を残す必要もない。


救われた人間が。


彼の存在を忘れても構わない。


残すべきものは。


自分の痕跡ではない。


誰かの明日だ。


冬馬は人混みへ消えていく。


誰にも気付かれず。


誰にも追われず。


ただ次の事件へ。


――NO TRACE LEFT BEHIND.



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