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Episode.-2.0

この話単体でも短編としてお楽しみ頂ける内容になっております。






 走る。


「ぁ……、はぁ……」


 走る。走る。


「はぁ……はぁ……」


 天に満天の星空。地に赤い砂漠。

 その砂地を走る人々。

 ……自分も含めて。


(やれるのか……)


 右手側には自分と同じ無地の貫頭衣を着た、少し年上に見える男が同じ方向へと走っている。

 体は自分より大きい。でも足は自分のほうが少し速い、けれど……。


 一瞬、目が合った。

 男の必死な形相に背筋がゾクリとした。

 急いで目を逸らして左側に少し進路を変更。大きく息を吸って速度を上げる。

 額から流れ落ちる汗は激しい運動によるものか、それとも恐怖によるものか。


「なんなんだよ……」


 彼の人生は非常にチョロいものだった。

 顔や身長は平均より上。学業やスポーツも平均よりだいぶ上。控えめに言っても他人よりずっと恵まれている。

 トップの成績じゃないと入れない地元の公立高校に合格するのにも大げさな努力はしていない。普通に毎日30分だけ机に向かって教科書を開くだけ。受験前だってせいぜいが週3日、手近な塾へ一時間半ずつ通ったくらいだ。


「はぁっ……はぁっ……」


 中学の卒業式に同じサッカー部の同級生の妹から告白された。知っている仲だったし高校生で彼女が居ないのもダサいと思ったから付き合うことにした。

 でも二年生になってから知り合った女子に本気になってしまい、惰性で付き合っている彼女から心が離れていくのを感じていた。


「ふざけるなよ……」


 見渡す限り一面の砂地と地平線で遠近感の狂う視界に否応なく映り込む無数の塔の影。

 手近に見える塔へと向かって走るルートから少し左に逸れる選択をしたのは運が良かったのか、はたまた悪かったのか。

 見つけてしまった。乾いた砂地に斜めに刺さっているのは凝った装飾がされた掌サイズの鍵。


〘鍵を拾え〙


「くそっ、なんだよ……。はぁっ……はぁっ……」


 見間違いではない。前に観たのとは少し形は違うけれど、紛れもなくあの鍵だ。

 悪態をついて辺りを見渡し、ハッとしてすぐに顔を伏せてから落ちている鍵の方へと走り出す。

 よろめいたフリをしてサッと鍵を拾い上げ、美しい意匠の鍵に付いている紐を右腕に通した。

 そのまま肩まで紐を通すと、ぶら下がる鍵は肩口から貫頭衣の下にもぐりこませて周りからは見えないようにする。


(最悪だ。なんでこんなに早く見つかるんだよ)


 前方を遠目に走る他の走者が後ろを振るのではないかと疑心暗鬼に駆られて内心ヒヤヒヤしながら、なるべく表情に出さないようにと懸命に努める。

 鍵がこぼれないようにと意識的に脇を締めて走るが、この鍵で塔に登れたとしてもその先がどうなるのかは知らない。

 そもそも何のためにこんな事をさせられているのかも分からないのに、どうして他の人々はそんなに必死に走っているのだろう。

 自分だってそうだ。理解してない頭のまま、とにかくそうしなければならないという焦燥感に突き動かされて、今もひたすら塔を目指して走っている。


〘塔を登れ〙


 何のために?

 どうしてこうなった?


「はぁっ……はぁっ……はぁっ……はぁっ……!」


 自分でもなんで《あの子》を好きになったのか、実のところよく分かっていない。

 その女子は特別美人という訳ではなかった。付き合っていた彼女のほうが目鼻立ちの整った美人だし、一つ年下だけど胸だってその女子より一回り以上大きくて順調に成長中だった。

 性格だって悪くない。その兄である友人とも仲が良いのだ。およそ不満と言える部分は無い。

 なのに、どうしてだろう。


「はぁ……はぁ……、嘘だろ……」


 なるべく人の見えない方を選んで走っていたら、また別の鍵を見つけてしまった。

 ポツンと、誰にも気付かれることなく砂の上に横たわっている。

 まるで自分に見つけてもらうまで待っていたかのように。


〘鍵を拾え〙


(くそっ……!)


 反射的に拾ってしまった。

 冷静に考えれば二つ持っている必要なんて無いのに何故か放っておけなくなり、気が付いたら掬うようにして拾い上げた左手で握り締めていた。

 直感めいた何かが拾わせたとしか思えない、何のことはない質素な鍵。


(誰かに観られてるかも知れないのに!)


 あの日もそうだった。

 次の休日に彼女とのデートの約束を控えていた放課後の校舎裏。誰の目にもつかないようにひっそりと壁に寄りかかる一人ぼっちの《あの子》を見つけた。


 異様な雰囲気だった。

 名前も知らない地味で目立たないクラスメイト。そんな印象の子だった筈なのに、その時はまとっている空気感が普通とはまるで違って見えたのだ。

 ただ何もせずに空を見上げているだけ。けれど何かが決定的に違う。

 そうだ、眼だ。緩やかな放課後の空気には場違いなほどの昏い眼。その何もかもに絶望しきった眼に、儚げな横顔に、目が離せなくなったんだ。


「……あっ!」


 突然の衝撃と口に入ったザラッとした砂の異物感に顔をしかめる。

 何だ。

 息が上がっていて急には頭が回らない。振り返ろうとしたら後ろから抑え込まれて体勢を立て直せない。

 何が起こった。


「今拾った鍵を出せ! ハァッ……ハァッ……!」


 耳元で怒鳴られて酸素不足の頭がクラッとする。

 男だ。背後から力強く押さえ込まれて、鼻がツンとする痛みと混乱で状況が分からない。


「分かった。分かったから、やめてくれ。そんなに強く押さえつけられたら痛みで何も出来ない……」


 男は少し間を置いてから探るように身体中をまさぐり始める。きっと鍵を探しているんだ。

 冷静になれ、何とか出来そうか。


 いや、状況はかなり悪そうだ。男の力は自分より強くて倒されたまま全然身体は動かないし、例え動けても痛みで身体が竦んでいる。

 なら大人しく言う事を聞いた方が身のためだ。


「焦るなよ、鍵が欲しいんだろ」


 前に倒れ込んだから腹の下にある左手に握り込んだ鍵は取られていない。

 目的ははっきりしている。だから、これを渡せばもう自分に用は無いはず。


「鍵は、ここだ。ここにある……」

「……分かった。ゆっくりと動け」


 言われた通りゆっくりと左手を動かそうとする。

 何をやろうとしているのか男も理解したのか、警戒は解かないまま少しだけ押さえる圧力を緩めた。

 何とか下敷きになっている左手を身体の下から外に出そうとして、鼻血の味がする砂を吐き出す。


「ペッ……、右腕だ」


 左手は外には出さずに、今度は右肩を回して貫頭衣がめくれるように動かす。

 男はすぐに察して右腕の付け根に巻き付けた鍵の紐を見付けると、手繰り寄せるように紐をずらして鍵を取り出した。


「悪いが、これは貰っていく」


 拘束されたまま紐を強く引っ張りながら鍵を奪われたので右腕が酷く痛んだ。きっと引き摺られた紐の跡で赤くなっているに違いない。


「もう行けよ。他のやつが寄って来てるぞ」


 うつ伏せで周りなんて見えないが、そう言ってやると焦った男はすぐに立ち上がって駆けだす。

 ご丁寧に走り出しの後ろ足で顔に砂をかけて行きやがった。

 咳き込んでから起き上がり、せめて顔くらい見ておけば良かったと後になって後悔した。


(馬鹿だな。もう二度と会わないに越したことはないのに)


 何人かが数メートル先を脇から走り抜けていく。

 ここには鼻から血を流して座り込む人間に興味を持つやつなんて居やしない。助け起こす人間なんて、こんな場所にまで来てる筈がないのだから。

 今の自分の姿はどう見ても鍵を取られた負け犬そのものだろう。きっと逆の立場なら自分だってそう思ったに違いない。


「痛っ……」


 怪我の状態を確認して、思ったより右腕の痣が痛々しいのを見て嫌になる。

 鼻血を拭おうとして、そっちはそのままにしておくことにした。


〘塔を登れ〙


(このまま負け犬の格好で塔へと向かおう)


 その方が狙われるリスクを少しでも減らせるかも知れない。そんな小賢しい知恵を使ってまで向かおうとする塔に、一体どんな価値があるのだろう。

 裏切られて、暴力を振るわれて、惨めな思いをして、散々な目に遭って。

 そんなこと、一度や二度ではない。


(馬鹿だよな。また駄目かも知れないのに、いつまでこんなことを続けてるんだ)


 あの男に渡さなかった左手の鍵の紐を左肩まで通して、貫頭衣の下に潜り込ませる。

 素直にこっちを渡していれば右腕が血に滲む必要も無かったのに。


(だいぶ遅れたな。でも、また走るしかないか)


 こっちの鍵はどうやらさっきまで向かっていた塔とは別の塔の鍵らしい。

 視界正面に映る塔は影となって揺らめき、視線を横にずらすと別の塔がくっきりと視えた。

 未だにここのルールはよく分かっていない。それでもよく分かっていないなりに経験で得た知識と、聞いた知識を併せて先へと進むしかない。


(今回はいつもと少し違う流れだ。二つの鍵を拾って、片方は奪われたけどもう片方は誰にも知られずに塔へ近付けてる)


 立ち上がって走り出す。

 一つ目の鍵は何となく拾ってしまったが、二つ目の鍵は妙に引きつけるものがあった。きっと拾うべくして拾った、そういう運命だったのだろう。

 だから中途半端な覚悟で拾った一つ目の鍵は殴られて奪われても仕方がなかった。

 そう思うより他ない。


「はぁ……はぁ……」


 《あの子》の頼み事を引き受けたのもきっと運命だったのだ。

 最初は気を引きたくて興味本位で聞いてみた。どうしてそんな辛そうな顔をしているのか、悩みを聞いてあげれば自分に好感を持ってくれるのではないかと淡い期待を抱いて。

 すぐには話してくれなかった。

 けれど学生の悩みなんて、友達関係か、家庭の事情か、成績のことか、恋の悩みか、そんな所だろうと。

 その時はそれくらいのありふれたものだとばかり思っていたけれど、そうではなかったんだ。


「はぁ……はぁ……、多いな……」


 痛々しい光景が広がっていた。

 塔に近付くにつれて見えてきたのは座り込んだままの人々。


 片目が腫れ上がってへたり込む女。

 俯いて肩を震わせ嗚咽を漏らす男。

 うつ伏せのままピクリとも動かない女。

 折れた片足を投げ出して泣きながら悪態を付く女。

 両手を砂に叩きつけて意味不明な叫びを繰り返す男。

 ただ呆然として虚空を見つめる女。


 なるべく見ないようにしながら走る。走りながら視線を感じる。

 ねちっこく淀んだ悪意、けれど害意の無い憐れみの視線だ。


(憐れなのはお前たちだ。同類に見えてるんだろ、他人を蔑んで自分を慰めてるんだろ。残念だけどそれは作戦だ。お前たちとは違う、こっちには奪われなかったもう一本の鍵があるんだよ)


 憐れみの視線を向けられて喜ぶ人間なんて居ない。

 自分は顔が良いから、スポーツが出来て勉強も出来る文武両道の自分が優しくすれば、それだけで価値があると思い上がっていた。

 《あの子》にはそんな見え透いた薄っぺらな態度が、上っ面しかない感情とも言えないような無意識の傲りが透けて見えていたんだろう。

 色んな言葉を投げかけて、会話を試みて、悩みを聞き出そうとしたけれど、決して心を開いてくれようとはしなかった。


「ああ、最悪だな……」


 塔の麓に広がっていたのは地獄絵図だった。

 殴り合い、取っ組み合い、引きずり倒し、傷つけ合う。聞くに堪えない怒声と悲鳴。血肉と骨を叩きつける鈍い音。

 目に見える全ての暴力と凶行が、心臓をぎゅっと締め付ける。ただでさえ走ってきて荒くなった呼吸が不規則になって立ち眩みを起こしかけた。

 鍵を奪った者が塔へと走り出そうとして、別の誰かに襲われていた。次々とタックルされて押し倒されたら最後、鍵を手放すまで暴力の嵐に呑み込まれる。


(嫌だ、ここに居たくない。居ちゃいけない……)


 砂に倒れ伏す男、よろめく女を避けながらなるべく人の少ない場所を選んで走っていく。


 危ない。

 倒れていた男が腕を伸ばしてきたのを跳んで躱す。よく見ると大した怪我はしていない。

 目に見える暴力を振るっている人だけが危険とは限らない。例え力が弱くても知恵を使って鍵を奪おうとしてくる。ここはそういう場所だ。


「イヤ! 誰か助けて!」


 悲痛な叫び声を上げる若い女。あそこは狙い目かも知れない。自分より弱い者がターゲットになっているなら自分が狙われる順番はそれだけ後になる。

 身体の小さい者、見るからに貧弱な者、怪我を負っている者、身体は大きくても満身創痍な者。

 鼻血しか出していない自分より条件の悪い人間なら探せば沢山いる。

 彼らが犠牲になっている合間を縫って走ればきっと塔までの道が出来上がるだろう。

 いいや、それしか道は無いのだ。


(ごめん、ごめん、ごめん……!)


 自分に優しさが無かったわけじゃない。足りなかったのは誠意だったんだ。

 どれだけ《あの子》にアプローチしても気の無い反応しか返ってこなかったのも今なら分かる。自分が無自覚な傲りを持っていたのは間違いない。苦労なんてした経験が無いんだから。

 何も自分に限った話じゃない。不幸な境遇で育ったのでなければ、高校生なんてたぶん皆そうした無自覚な傲りを持っているんだと思う。

 きっと《あの子》の眼には、無自覚に幸せなその他大勢の一人として映ってたんだろう。そんな視点で見られたら、逆に条件が恵まれてれば恵まれてるほどマイナス要素にしかならない。


「お前ぇ、鍵持ってるだろ!」


 誰に向けられた言葉なのかは分からないけど自分だったら最悪だ。どのみち走ることに変わりはない。

 他にも別方角から塔へ向かって走る人がいる。標的が分散してくれるなら好都合。ここまで来たらとにかく走るしかないのだ。

 塔までの距離はちょっと分からない。500メートルは切ってると思うけど、砂地と人と塔だけで他に建物が無いから遠近感が掴めない。

 塔に近付くにつれて走者同士の距離が近くなる。一斉に円の中心へ向かえば当然そうなるだろう。

 だいぶ前を走っていた男が待ち構えていた人々に群がられて必死に迂回しようと走る向きを変えた。


「あっ!」


 自分より塔に近い位置を走っていた別方角から来た短髪の小柄な女性が猛スピードで横から迫って来た男に捕まった。

 このままじゃ駄目だ。鍵の数は人々の数に対して少な過ぎるのだ。だから時間が経つほど鍵を持っている人から奪おうとする人数が増える。

 乱闘になって勝ち上がれるほどの自信は無い。だったら自分が塔へと辿り着く確率を上げるには走る人数が多いに越したことはない。


「うわああああっ!」


 喚くように叫び声を上げて、短髪の女性を捕まえた男を後ろから蹴り飛ばす。

 まさか鍵を奪う前から攻撃されると思ってなかったのか、それとも獲物に集中していたからなのか、攻撃は綺麗に決まって男は受け身も取れずに転倒。女性は驚いた表情でこちらを一瞥して、すぐに青ざめて駆け出そうとした。

 そんな表情をするってことは、きっと自分の後ろにも追っ手が大勢来てるって事なんだろう。悪いニュースだけど振り返って後ろを確認する手間が省けた。


「はぁっ……はぁっ……!」


 事情を深く知りもしないで助けになろうとするなんて偽善もいいところだ。

 《あの子》は決まって毎月同じ頃になると校舎裏で一人沈痛な面持ちをして過ごしていると知り、その度に何度も話しかけて憂いを帯びた表情を見つめる日々を過ごした。

 そうしている内に付き合っている彼女と会う頻度はどんどん減っていった。何となくバツが悪くなり、部活で忙しいからと言い訳までして。別の高校だから分からないだろうと高をくくっていたんだ。


 もうこの頃になると自分の中にある感情が初恋であると自覚していた。そう、初恋だったんだ。

 そうして足げくアプローチに通い続けて半年経った頃、遂に《あの子》は悩みを打ち明けてくれた。

 やっと助けになれる。その時はそれが全てで、密かに心の中でガッツポーズまでしていたのを憶えてる。


「あぐっ!」


 躓いた。

 違う、足を狙われたんだ。

 咄嗟に地面に手を付こうとして、左腕を大きく開いたら鍵を見られると思い直す。その一瞬の判断の遅れが明暗を分けた。

 両腕を抱えるようにして転がることで怪我をしない転倒は出来たが、すぐに立ち上がって走り出すまでの動作の途中で再び地面へ叩きつけられる。

 完全に捕捉されていた。


「どこだ。出せ、出せよ!」


 マズいマズいマズいマズいマズい。


「はぁっ、はぁっ、鍵なんて持ってない。お前たちと同じだ。ここに陣取るつもりで来ただけだ」


 倒れた衝撃でせっかく止まっていた鼻血がまたぶり返す。背中を冷や汗が伝う。血の味がする。頭の中が真っ白になりかける。何とかしないと。


「嘘だ! 早く出せ、俺には分かるんだ!」


 考えがまとまらない。この男一人なら脱出はまだ可能かも。でも足を掴まれてる。

 何でこんな目に遭わなければならない。

 呼吸が荒い。酸素が足りない。頭がクラクラするのは転がったからか。たぶん目眩を起こしてる。


 引き受けて何の得があった。


 駄目だ早く起き上がらないと。蹴ったら反撃されるかも。でも蹴らないと足を離してくれない。


 辛くなる人間が自分になっただけじゃないか。


「離せっ、離してくれっ」


 『悪夢を見るの』と、《あの子》は言った。

 正直最初は、何だそんなことかと思った。悪夢なんかが原因であんな表情をするのかと、自分の中に無い感覚で全く想像できなかったから。

 でも話を聞いてみると、感想とかどう思ったかとかばかりで具体的な悪夢の内容は話さない。夢だからうろ覚えなのかとも思ったけれど、語る口調と感情は真に迫ってる。

 ここまで真剣に話すのだから、きっと本人にとっては現実と一緒なんだ。そう思ったからこそ一歩踏み込んで聞いてみた。


「今すぐ出すか。もっと痛い目に遭ってから出すかだ!」


 なるほど、悪夢以外の何物でもない。もう一人増えて二人がかりではどうしようもないな。

 今こうして殴られてるのも、夢とは思えないほどはっきりと痛みを感じる。まるで現実だ。

 いいや、現実でこんな風に理不尽に殴られたり蹴られたりした経験は無いんだから、やっぱり悪夢に違いない。

 悪夢の中だから仕方がない。お手上げだ。


〘塔を登れ〙


 走らなければならない。塔を目指さなければならない。その衝動も夢の中だからこその設定なんだ。そういう夢なんだから従わざるを得ない。

 だから仕方がない。どうすることも出来ない。


「あぐっ、げほっ! うぐっ、うあっ!」


 待っていても過ぎ去らないと知っている。

 あの子の語ったように、この悪夢は耐えていても決して終わらない。悪夢を観る限り、塔を登るか、失敗して何度も何度も再チャレンジするかの二択。

 別の事を考えて痛みから目を逸らし続けていても何も改善したりしない。待っていても何も好転したりしない。逆転なんて、起こらない。


「っ……!!」


 頭に強い衝撃。薄れゆく意識。




――――――――――




(今なら、あの子の気持ちが分かる)


 結局、人間は経験からしか学べない。話を聞いただけで知った気になっても、それは本物ではないのだ。

 だから、《あの子》を本気で好きでいたいなら。その為に同じ苦しみを共有する必要があるのなら。この痛みにも耐える価値はあるのだと信じるしかない。

 そう縋るしか、耐えられそうにない。


「ううっ……、ううっ……!」


 そんな後ろ向きでどうする。

 隙を見て立ち上がれ、負けることに意味を求めて逃げようとするなんて、それこそ全然本物じゃないだろう。

 こうして殴られても、本当はそれほど痛くない。こいつらももうあまり力が残ってないんだ。なら拘束だってやろうと思えば抜け出せるに違いない。


「うおおおおおおおっ!」


 間近で大声を上げて怯ませる。その隙をついて拘束から抜け出した。男達は尻餅をついている。


(ははっ、やれば出来るじゃないか。何でやれないなんて思ってたんだ!)


 走る。走るんだ。

 塔はもう目の前で鍵だってまだある。それに敵は疲れきっている。きっとここで全力を出して走れば追いつかれっこない。

 サッカー部レギュラーの実力を舐めてもらっては困る。


(やれる、やれる、やれる!)


 簡単な事だった。ここは夢の中なんだから、本気でやれると思えばやってやれないことなんて最初から無かったんだ。

 地面を蹴る一歩一歩が軽い。走りにくいとばかり思ってた砂も全然問題にならない。

 静止の怒鳴り声が後ろから聞こえるが、追いかける元気はもう無さそうだ。きっと次に来る標的のために体力を温存することにしたんだろう。


「これが、塔……」


 間近で観るのは初めてだった。

 とてつもなく大きくて威厳を感じる。いや見惚れている場合じゃない。

 ここへ来て初めて砂ではない石畳の上を歩いている。螺旋階段を進むと壁に扉が見て取れた。これは遠くからじっくり観ていた時に確認している。


「よし、開くぞ」


 あまりゆっくりともしていられない。

 左腕に通していた紐を手繰り寄せて鍵を取り出し、鍵穴に差し込んで回す。

 これで、ようやく……。




――――――――――




〘塔を登れ〙


「〜〜〜〜かッ……!!」


 首を絞められている。

 あれ、でも今扉を開いて。


「鍵を渡せ。このまま死にたいのか! ええ?」


 夢を見ていた。悪夢の中で。

 頭を強く打たれて意識が飛んでいたらしい。

 そして言われて気がついた。鍵はまだ取られていない。意識が無い間も全身の筋肉を硬直させて守っていたようだ。


(諦めが悪いな。この状況、もう詰んでるのに)


 血流を圧迫されて目が充血しているのが分かる。いよいよ死ぬのかも知れない

 酸欠でもう意識が朦朧としてきた。

 こんなに苦しいならさっきの夢から悪夢へ醒めなければ良かったのに。


(今回はここまでか……)


 《あの子》から聞いた話を思い出す。

 約一カ月に一度、同じ悪夢を見る。その悪夢には他にも大勢の人がいて、皆の目的は同じだった。

 塔を登る。

 無数の塔に星空と砂だけの大地。塔に入るには鍵が必要で必ず争奪戦になる。理不尽に振るわれる暴力に屈して、心を折られて、塔には辿り着けない。

 失敗しても終わらない。また次の月に悪夢を見る。

 まるでリセットだ。何度も、何度も繰り返す。

 終わらない悪夢。


「がはっ! えほっ!」


 急に塞がれていた気道が開いた。

 咳き込みながら何が起こったのか見ると、短髪の女性が首を絞めていた男に体当たりをしていた。

 けれど強張った身体はすぐには動かない。どうする。


「行って!」


 反射的に立ち上がろうとして、失敗した。

 足に激痛が走る。ああ、これ折れてる。いつ折られたんだろう、全然分からない。

 短髪の女性は顔を赤く腫らしている。戻って来たということは、きっと鍵は奪われたんだ。

 あの時助けたのは利用しようと思ったからで決して善意なんかじゃ無かったのに、律儀だな。


「ありがとう、ごめん」


 掠れた声でお礼を言った。

 手を引いて立ち上がらせてくれる。そんな事をしてももう走れない。もう塔には辿り着けない。

 だから……。


「待ちやがれ!」

「うあっ……」


 無様に転んだ。手を引っ張ってくれる短髪の女性に微笑みかけて、身体を押して離れる。

 そして左手を強く強く握り締めて、這うようにしてその場から離れようともがく。

 目で『行け』と訴えかける。

 塔の前まで来て、他人を助けようなんて考えるようなお人好しが自分に巻き込まれて酷い目に遭う所なんて見たくない。


「鍵なんて持ってないって言ってるだろ! もし持っててもお前達になんて死んでも渡すものか! そんなに欲しかったら自分の足と手で探して来い!」


 力いっぱいの大声で叫んだ。これは宣戦布告だ。

 例え自分がここで負けても、決して人から奪おうとする連中なんかに気持ちで負けないために。

 約束したんだ。《あの子》の悪夢を終わらせてやるって。

 でも、ああ……。


「往生際が悪いんだよ、その足じゃ無理だろ。いい加減諦めて次また頑張ればいいじゃねえか!」


 あっという間に捕まった。そして再び砂の味を噛み締める。どれだけ声高に叫んだ所でこれが現実。

 けれど叫ぶこと自体に意味があった。例え無意味に見えても、足が使えなくても、心までは折られていないって証明したかったんだ。

 だからここでいくらいたぶられても、もうお前達の負けなんだ。絶対に。だから時間の無駄。殴ってる暇があったら別の鍵を探せばいいのに。


(くっそ、痛いなあ……)


 握り締めた左手を右手で更に硬く握り込む。腹ばいになって両手を砂に埋めて体ごと覆いかぶさる。

 後はもう亀のように丸くなって攻撃が止むのをひたすら待つ。何の生産性もない無駄なあがき。

 ふと、そんな自分を遠くから見つめるもう一人の自分になったような錯覚にとらわれる。痛みと恐怖心と極度の興奮が現実感を失わせた。


(それってつまり、自分でもこれが夢ではなくて現実だって認めてるってことだ……)


 《あの子》の悪夢は本物だった。

 最初は半信半疑だったけれど、まるで本当のことのように怖がっているのを見て何か力になってあげたいと思うようになった。


 一つだけ、この終わらない悪夢から逃がせる方法がある。


(あーあ、これ足以外も骨折してるかも……)


 それを実行しようと思ったのは、付き合っていた彼女の兄から殴られた次の日だった。

 思い返せば無抵抗で殴られたのはそれが人生で初めての経験だったんだ。

 きっと全力では殴ってなかったんだろうけど、今感じてるような相手を思いやらない暴力なんかよりもずっとずっと痛かった。

 あの痛みはきっと、一生忘れない。


(何か怒鳴られてるけど、耳がキーンとして全然聴こえないな……)


 二人がかりで仰向けにされて、無理やり両手の握りから指の一本一本を引き剥がされていく。その様子を意識だけ遠くから眺めている。

 どうやら今回はここまでらしい。


(今回は行けると思ったんだけどなぁ……)


 この悪夢を見た回数は六回。鍵を拾えたのは今回で二度目だ。鍵の本数は合計で三本。

 これが多いのか少ないのかは分からない。けれど大きなチャンスを逃したのは間違いないだろう。

 彼女の兄に殴られて、彼女に別れ話を切り出して、身軽になってから《あの子》に思いを告げた。

 最低な自分なりの最低限のケジメ。

 それで得たのは『悪夢の譲渡』。それが《あの子》と付き合う条件だったからだ。


(『《あの子》』か。ここに来ると自分も含めて現実側の名前が分からなくなる……)


 きっとこの悪夢の中に居る間は(こっち)が現実で現実(むこう)が夢なんだ。

 だから現実(むこう)の認識が曖昧になる。

 もちろん現実(むこう)に居る間は(こっち)の記憶が曖昧になる。

 《あの子》に関係する事と、強く心に焼き付いた出来事以外は現実感の薄いおぼろげな記憶だけ。


(あ〜あ、バレちゃったか)


 全ての指を引き剥がされて、手には何も持っていないことがバレてしまった。荒々しいボディチェックをされて、どこにも鍵を隠し持っていないと何度も何度も検められた。

 彼等はまるっきりの殴り損だ。だからってそんな怒りと落胆の表情なんてしないで欲しい。こっちは文字通りの骨折り損なんだから。


(また次回やり直しか……)


 男達は興味を無くして立ち去った。

 生まれつき恵まれていて、ろくに苦労も知らなくて、無自覚に傲慢で、誠意の無い偽善者で、いざとなったら計算高くて狡賢く、暴力が怖くてすぐ現実逃避して、真正面からやり返せるだけの度胸も無い。

 顔がいいのも身長が高いのも、勉強ができるのもスポーツが得意なのも、全部足しても自分の内面の悪さの方が多くてお釣りがくる。

 ここに来るようになってから毎回少しずつそれを思い知らされた。


(本当に最低だ……)


 こっそりと鍵を渡した短髪の小柄な女性は無事に塔を登れただろうか。

 ええかっこしいの典型だ。そんな事をしたくらいで自分のマイナス面は何も改善しないのに。

 それでも、この理不尽な悪夢の中でも偽善だろうと何か善いことをしようとしてないと、いつか自分まであの暴力を振るう悪鬼羅刹共と同類になるような気がして、それが怖くて仕方がない。

 いつか心が完全に折られる。いや、もう折れかかっている。


(こんなこと続けられる気がしない……)


 きっと、いつか見た《あの子》の絶望しきった表情と同じになる日が来る。

 《あの子》から悪夢を引き継いでから、段々と《あの子》の中から悪夢の記憶は薄れていっているらしい。

 代わりに悪夢を見る度に自分の覇気が無くなっていくのを感じる。日々明るくなっていく《あの子》の隣にいると、否応なくそれを分からされる。


(駄目だ。駄目だ……)


 最近は《あの子》の明るくなった顔を見るのが辛くて仕方がない。あんなに見たかった明るい笑顔が眩しくて、自分とは同じ場所に居ないのだと痛感させられる。


(違う、違うだろ……!)


 そんな事を思ってはいけない。決して考えてはいけない。


〘塔を登れ〙


 塔を登ればいいんだ。

 また鍵を手に入れられる機会は必ずやってくる。自分より弱い女性でも塔に登れたんだから、もっと条件のいい自分にやれない筈はない。

 でも今回は本当に惜しかった。目が覚めたら、《あの子》に平気な顔を見せられる自信が無い。


「ああ、誰か。代わりに引き受けてくれないかな」


 弱音が口から漏れてしまった。だいぶ追い詰められているな。もうあと一回か二回で達成できなければ、きっと心が耐えられなくなる。


 だからつい考えたくなってしまう。

 《あの子》から教えられた、この終わらない悪夢を引き継がせる条件は……




◇◆◇







《あとがき》


 随分前に書き溜めたまま放置していたプロットの一つ【魔肖の塔】より抜粋した前話です。

 読み返している内に何となく手直ししてみたくなり、せっかくなので形にして投稿してみました。


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