想像の双子
一体どこから小説の人物は立ち上ってくるのだろう。それは深層意識という何でもかんでもが煮詰められた、ふつふつ沸き立つごった煮の釜の中、あるいは腐敗した有機物の温床である沼地や氾濫した河川の跡地、あるいはよく言うようにどんよりとした水をたたえる不気味な古井戸。何でもいい、とにかくそれは僕自身の深部から沸々と湧き上がってくるものなのだ。
僕にとってはそれがどんな場合でも無視することのできない出発点であるので、まずは登場人物から物語は始まる。そして、登場人物の組み合わせで、ほぼ8割方展開は決まってくる。
今回は二人の女子高生が主人公だ。そして、彼女たちは同じ一つのイメージから分化して生まれたキャラクターなので、一卵性双生児と言っていいだろう。ただし、性格や見た目はかなり違っている。関係性が双子であっても、人間としては別個の存在だ。だが、すべて想像力という同一の土壌に生まれ育つのが小説内人物の宿命であるからして、二人はやはり双子といって許されるだろう。
僕は思っている。一人の登場人物だけでは発展性がない。相対する人物が出て初めて、鏡の役割を果たす存在となって、お互いの世界は深く広いものになってくるのでは、と。そして、その関係性は二種類ある。すなわち親和的であるか、敵対的であるか、のどちらかである。僕は前者の関係を象徴的双子と呼びたい。そして後者は宗教的双子と。僕はこれからこうしたペアをいくつか使って、その離合集散による物語を紡いでいくだろう。そこではこの2タイプは時にもつれ合いながら、常に判然と分かれているわけではないことも、付け足しておいてしかるべきかも知れない。
とにもかくにも、今回の主人公は、誰がなんといっても最初に決めた二人の女子高生、雪菜と瑞穂だ。僕は作者としてそう決めた。誰にも邪魔されることのない、白紙を前にした空っぽの頭という完全に自由な、なんでもありの世界の中で、僕は段々に彼女たちの行動を追いかけ、行く末を煮詰まらせていくだろう。
さて、雪菜と瑞穂。作者の深層意識から芽生えたこの二人の一卵性双生児は、しかし、先ほども述べたように性格も外見もおよそ対照的である。
まず雪菜。明治の華族の写真集から抜け出てきたような、つんと澄まし、お高くとまったご令嬢である。美意識にうるさく、もちろん洗練された趣味の持ち主だが、プライドも高くて、相手の欠点を容赦なくズバズバと切るので、扱いにくい人間だった。容姿はしかし、ある種の人から見たら完璧に見えるだろう。なかなか欠点を見つけることができないほど均整が取れた体つきをしており、四肢はすんなりと若草のように伸び、全体に華奢な中にも芯のあるしまった身体だった。そして顔。つきたての新米のようにつやつやふっくらした豊かな頬、ボルドーワインのように深い色の唇、菩薩の半眼のように、涼やかにまなじりが切れた細い目、しかし、真っ黒に光る吸引力のある瞳はすべてのものを吸収し、魅力的に輝き、相手をとりこにする。高い鼻梁はそのまま雪菜自身の美意識と完全にマッチし、彼女自身ご自慢の黄金比率に基づいて急角度にキュッキュッと段差がつき、小気味のよい切れ方をした鼻であった。
一方の瑞穂。瑞穂はいつも天パーを無理に刈り上げたボーイッシュな茶色の頭、穴の開いたビンテージ物のブルージーン、ロゴ入りの派手な色のミニTに茶色のスウェードのスニーカー、といった格好で闊歩している。一見ラフなように見えるが、実はいつもモノトーンのロングドレスでバッチリ決めている雪菜と比較しても、そのハートは繊細で、いつも何かしらの憂いを抱えているのだった。体つきは雪菜とよく似ており、やはりかなり華奢だが、すばやく立ち動けるだけの敏捷性は備えている。彼女は小さな体に大きなパワーを秘めた、いわばミニロケットエンジンだった。顔は意志の強そうな太い眉毛と、アーモンド形のリスのようにきらきら光る大きな眼、鼻はこじんまりと、そして口はかなり口角が高く、巨大で、時にワハハワハハと豪快に大笑する姿は、ローティーンの少年そのものだった。
こんなにも違う二人が、これからどういう行動を見せるのか。どうやって二人でかかわっていくのか。それがこの物語のアルファでありオメガである。
☆ ☆ ☆
雪菜と瑞穂が最初に出会ったのは、二人がまだ3歳で、保育園に通いだしたころだった。要するに二人は、現実には姉妹でも双子でもないが、恐ろしく仲がよく、小さな頃から長い時間を共有し、お互いをよく知っている幼馴染なのだった。
今は家庭の事情で隣同士ではないし、学校も違っているが、時々お互いに磁石のN極とS極のように自然に惹かれあい、求め合って、出会いを重ねているのだった。
今日もそうだった。
「おい、雪菜。あまり生き急ぐなよ」
学校の帰り道、川沿いの土手を歩きながら、瑞穂が5メートルも先を行く雪菜に声をかける。雪菜は見事に無視している。
「なあ、雪菜。また何かがあったんだろう?」
雪菜はキリッとした顔で後ろを向いて言った。
「何もないわ」
「そんなことない。お前、今日は歩くのが滅茶苦茶早いもの。お前が早く歩くのは、何かがあった証拠なんだ。それくらい、長い付き合いなんだ、分かるよ」
「じゃあ、何があったって言うの?」雪菜が興味を持ったように立ち止まって尋ねた。
「そうだなあ、男に振られでもしたんだろう」
「失礼ね。残念でした。振られたのではなくて、振ってやったのよ」雪菜はシャーシャーとした口ぶりで言ってのけた。
瑞穂はげんなりとした面持ちで言う。「おい、お前、もう高校に入ってからすでに12人だぞ。よく飽きないな。罪なやつだよ、まったく」
雪菜はそれに対してきわめて冷静に答えを述べる。「私は単なる男嫌いのあんたと違って、理想の相手の存在を信じているの」
「私立のいいところに通っている人間にしては、知能程度の低い意見だな」瑞穂も負けずに皮肉ってみせる。
「ほっといてよ」
「分かったよ」
二人は苦笑いしながら、しばらく土手の斜面の芝生に並んで寝転んだ。快晴の空にぽっかりと一葉の雲が浮かんでいる。
しばらくして雪菜が言った。
「でもさ、私が思うに、人間界でも蟻や蜂のように中性っていう性別が大半を占めていたとしたら、世界は今と違ってずっと平和だったんじゃないかなって」
「それはあれかい。男と女の間の諍いがなくなるからってこと?」瑞穂はまだ雪菜の意見の核心がつかめていない。
「愛がなければ、憎しみも生まれてこないと思うのよ」雪菜は慎重に言葉を選びながら言う。
「でも、中性にも愛情はあると思うよ」瑞穂が違う角度の見解を述べた。
「どんな愛?」
「献身の愛だよ」
「わー、やだなーそれ。私には無理」雪菜が参ったといったように、舌を出してみせる。
「大丈夫。お前は何度生まれ変わっても女王様だから、関係のない話だよ」
「それは褒めてるの、けなしてるの?」
「褒めてるんだよ」
そう言いながら、瑞穂は密かに思っていた。あたしなら、喜んで雪菜の兵隊の一人になるのにな、と。
いつの頃からだったろう、学校の帰り道、放課後の校庭、近所の野原に雪菜が姿を現すたびに、そこだけふわっとバラの花びらを煮詰めたような濃厚な香りがして、思わずクラクラとなってしまうのは。雪菜の長い黒髪に顔を埋めたい、項に口づけをしたいと思うようになってしまったのは。
昔は罪悪感など感じなかった。でも、小学5年生の頃から次第に心に咎めるものを感じるようになった。自分は何かが異常なのではないかと、気になって仕方がなかった。それ以来、中2になるまで悩みはどんどん滓のように沈殿し、降り積って行くばかりとなり、瑞穂は苦しみの沼に足を絡めとられて、にっちもさっちもいかなくなった。
しかし、中2のころちょうど、市の職員であった父の泰造の転職により、今までのマンション暮らしができなくなり、引っ越したこともあって、雪菜と少し隔たりをおくことになった。それから高2になる現在に至るまで、瑞穂は雪菜とはつかず離れずの微妙な距離を保ちながら付き合うようになった。
寂しくないと言えば、嘘になるだろう。しかし、そうして強制的に距離ができたことで、若干は呼吸がしやすくなり、自分と雪菜との関係を客観的に見つめることができるきっかけになった。ただ、根本的な気持ちに変わりはなく、苦しみから逃れられたわけでもなかった。
瑞穂がこうして一歩を踏み出せずに、一人で苦悶しながら、距離を測りかねている一方で、雪菜のほうは男子との恋愛に余念がなく、瑞穂の気持ちには気づいていないという、非対称的なチグハグな関係が成り立っていた。しかし、雪菜と瑞穂の二人の関係の根底には、誰よりもお互いを信頼し、心を委ねきっている幼馴染という大前提があった。その意味で、どんなにお互いが離れ、気持ちがすれ違っていても、今日のように会えば、すぐに反応する、空気のようなお互いが必要な関係であり、また引き合うことをやめない、遠い銀河系同士のような二人なのだった。
一体、この二人の関係は今後どうなっていくのだろうか。高校を卒業し、人生の進路を見極めるまでに、二人はお互いの道を見出すことができるのだろうか。
☆ ☆ ☆
雪菜はデートに忙しく、瑞穂は一人で家に引きこもり、絵を描くのに集中していることが多かった。実は瑞穂は昔から絵を描くのが大好きで、その道で食べていくために、高校は美術科のある公立高校を選んだのだった。
今はコンテストに応募する作品を描いている。題は「罪を背負う天使」と決めていたが、なかなか具体的なイメージが湧いて来ないで、苦戦していた。
ちょうど季節が正月だったので、出稼ぎから帰ってきた父を囲んで、親子三人水入らずの年越しを迎えることになった。年末の大掃除は、父が障子の張替え、母が食料調達&料理、瑞穂が窓拭きと雑巾がけという風に三人でうまく分担したので、あっという間に終わった。瑞穂はこの行事に毎年熱心に参加したが、今年も絵から離れる、よい気分転換とばかりに喜んでやった。ぼろい木造の家をピカピカに磨きたてること、それは代々続いてきた、この家の住人たちの思いを受け継ぐことでもあると思い、もちろん家族を含めて、家のすべてを愛している瑞穂は、まるで家族に対するようないとおしい気持ちで埃のたまった窓の桟をこすり上げるのだった。
さて、こうしてすべての準備を終え、いよいよ玉村一家は元旦を迎えた。朝のお屠蘇が終わり、母の丹精込めた料理を堪能した瑞穂は、お年玉ももらって、いつもよりご機嫌だった。それは、いつも後ろ向きな瑞穂には珍しく、「幸せ」という文字が脳裏に浮かんでくる、稀有な時間でもあった。
しかし、その夢のような時間は、瞬く間に過ぎ去った。
「瑞穂、お客さんだぞ」玄関先から父の声がした。
「さて?」一体元旦から何事だろう、と玄関先に首をのぞかせると、隣家の中野家の中学3年生の坊主、本多達郎が姿を見せていた。
「明けましておめでとうございます」達郎は元気よく頭を下げてお辞儀をした。「おじさん、おばさん、瑞穂、今年もよろしくお願いします」
「どうも、どうも、ご丁寧にありがとうね」父泰造はかしこまって挨拶を返した。瑞穂にはそれが滑稽に見えた。
「どうせ目的は分かってるんだけどな」瑞穂が言うと、済ました顔で達郎が答えた。「残念でした。今年はちゃんと用事があるんだよ」
「どうかしたの?」洗い物を済ませた母親の美鈴が台所から、手をエプロンで拭きながら、顔を見せた。
「実は兄ちゃんが東京から帰って来たんです」達郎が嬉しそうに言った。「久しぶりなんで、じいちゃんもばあちゃんもびっくりしていますけど、僕は兄ちゃんがものすごく気まぐれな人間だと知っているから、平気なんです。とにかく、兄ちゃんと会ってもらうために、瑞穂をお借りしたいんです。今日は実はそのために来たんですが」
「どうぞ、どうぞ。どうせ暇だものね、瑞穂」美鈴が愛想良く瑞穂のほうを振り返った。
「え、あたしは嫌だよ」瑞穂は初対面の人間と話すのが人一倍苦手だった。
それでも、と言うので、手土産に美鈴特製の御節をお重に詰めてもらって、瑞穂は隣の中野家にお邪魔することになった。
達郎にその途中で泰造からのお年玉を渡すと、「いつも悪いね」と達郎はニヤニヤしながら言った。
「本当に現金な奴だなあ」と瑞穂は呆れた。
瑞穂が達郎に連れられて中野家のリヴィングに入っていくと、仲のよい中野老夫妻が懸命に届いた年賀状を読んでいるところだった。
「ああ、これはこれは瑞穂ちゃんかい。取り込んでいて悪かったなあ」おじいさんが顔を上げて老眼鏡を外しながら言った。
「明けましておめでとうございます」瑞穂は深々と頭を下げ、手土産のお重をおばあさんに渡した。
「いつもどうもありがとう、瑞穂ちゃん」
「いえ、母からの物でして」
瑞穂はおじいさんの若者にも負けない豪胆さとユーモアが好きだったが、ただ優しいだけの、人形のように見えるおばあさんは、どこか影があって、あまりいい印象は持っていなかった。
「どれ、達郎。あの子を呼んでおいで」おじいさんが思いついたように言った。
「うん。そのために来たんだもの。いいよね、ばあちゃん」
「ああ、構わないよ」おばあさんが少し淋しげな声で言った。おじいさんがこそっと瑞穂の耳にこぼした。「昨晩帰ってきた司郎に、このくそばばあと怒鳴られてな、がっくりしているところなんじゃ」
おじいさんはさらに続ける。「それにしても司郎はなぜ急に帰ってきおったんじゃろう。錦の御旗を飾れるようになるまでは、帰ってこないと宣言していたはずなんじゃが」
「何かあったんじゃないんですか?」瑞穂は思わず言ってしまった。
「そう、そこなんだが、あいつは一向に腹を割らない。それどころか、陰気な顔で一歩も部屋から外に出てこようとしない。それで瑞穂ちゃんを呼んできてもらったんだよ。さすがに降りてくるだろうて」おじいさんが眉間にしわを寄せながら口にした。
「相当変わった人なんですね」瑞穂はまたも不用意な言葉を吐いた。
「そのようだ」おじいさんもため息を交えながら、同意した。
しばらく後、達郎が階段をヒョコヒョコと下りてくる後ろから、黒い人影が見えた。
「本多司郎、21歳、学生」降りてきた黒ずくめの痩せた男は、そっぽを向いたまま、瑞穂に向かってボソッとこぼした。
瑞穂は男のすげない態度に腹を立てた。そして、思った。こいつは悪党のヒースクリフだ。平和な世界に争いの種を撒きに来る、疫病神、悪魔のような男。一瞬でそのようなことを思った。
「兄ちゃんよう、瑞穂と3人で初詣に行こうぜ」司郎に比べれば平和の鳩のような達郎は、甘えっ子のように冷たい兄にねだったが、「こいつは女じゃない。男3人で行っても面白くないだろう」と司郎はにべもなかった。
瑞穂は一瞬、なぜこの男は誰にも告げることのなかった自分の秘密を知っているのか、と恐怖すら覚えたが、後から沸々と怒りが湧いてきた。
「失礼な奴だな。あたしだって、これでも一応女なんだぞ。確かに男は嫌いだけどな」すぐに啖呵を切った。
司郎はフフと謎めいた笑みを浮かべながら、広いリヴィングの中央にあるソファのど真ん中に、足を大またに開いたままドンと座って、紅茶を黙然と啜り始めた。そして、もう二度と瑞穂の顔を見ようとしなかった。
心底腹が煮え繰り返った瑞穂は、謝るおじいさん、おばあさん、達郎を置いて、さっさと自宅に帰ってしまった。それきりもう中野家のことは考えることすらやめ、頭の中から完全に葬り去ってしまった。それがその年の元旦の暮れのことだった。
泰造がいてくれたおかげで、三元日はこの上もなく楽しいときを過ごすことができた瑞穂だったが、しかし、一人になると、まだ絵のイメージがつかめずに、筆をとる気にもなれず、ただひたすら次の予定を楽しみに待つだけだった。
1月5日と日めくりカレンダーをめくったのは、その2日後だったが、まだ朝の2時40分だった。それから約2時間ベッドの中でソワソワしながら待ち続けたが、ついに我慢しきれなくなって、メールをした。まだ5時前だったが、すぐに返事が来た。
「私もOKよ。おめかしして行こうね。雪菜」
そう、今日は雪菜と新年になって初めて会う日であり、初詣に行くと決めた日だったのだ。
雪菜と瑞穂は最寄り駅で10時に待ち合わせて、1時間半かけて、県随一の大鳥居を誇るM神社におまいりした。さすがに元旦に比べると人は少なかったが、まだまだ混雑がなくなる気配はなかった。
雪菜は今日、真っ赤な丹頂鶴の総模様の振袖を着ていた。いつもどおりにGパンとGジャンの瑞穂は、ひそかにうっとりとして眺めていた。雪菜は何も気づかず、熱心にお参りした後、無邪気におみくじを引こうと言い出して聞かなかった。
「ごめん、あたしそういうの気にするから駄目なんだ」と瑞穂がいくら断っても、「今日はお正月なんだからいいじゃない」と雪菜は強引に勧めるのだった。
結果は、雪菜が大吉、瑞穂はただ吉とあった。喜ぶ雪菜の顔を憂わしげに見つめながら、瑞穂は言った。「こんなの詐欺じゃないの。いいのばっかりじゃないか」
「いいの。私は信じるわ。だって、待ち人来たるっていうんですもの」
雪菜の無邪気で残酷な言葉に瑞穂ははっと胸を衝かれたが、表情には何も出さなかった。
和風喫茶のアンミツで一休みした後、雪菜と瑞穂は再び1時間半をかけて自分たちの町に戻った。
「やっぱりほっとするわねえ。人出が多いと疲れるわ」
「そうだなあ」瑞穂の気のない返事などまるで無視して、雪菜は言った。
「そうだ。久しぶりに瑞穂の家に行ってみたいな。美鈴おばさんにも会いたいし」
「でも、遠いぞ。それに疲れてないか」
「平気、平気。帰ってもうちには誰もいないし」
雪菜の言い出したら聞かない性格を知っていたので、瑞穂は簡単に折れた。二人は真っ直ぐに瑞穂の家に向かった。駅から歩いて30分ほどの距離だった。
「おばさん、お久しぶりです。明けましておめでとうございます」雪菜の頭がゆっくりと下がって、赤い総模様の袖が揺れた。
「あら、雪菜ちゃん。本当にお久しぶりね。どうも、どうも、よく来てくれたわねえ。ちょうど今、お汁粉が入ったところだから、一緒に食べていってちょうだい」美鈴はまったく屈託がない様子で、二人を迎え入れた。
「おい、母さん。あたし達はもうアンミツで腹いっぱいなんだ」
「あらいいじゃない、どうせ別腹でしょう。ねえ、雪菜ちゃん」
「はい」
結局、二人はのんびりと晩まで腰を据えて、お汁粉とみかんと煎茶で話し込んだ。気づくともう外は真っ暗で、闇が垂れ込め始めた。もう7時に近かった。
「美鈴おばさん、さすがにもう帰らなくちゃ」雪菜が慌て始めた。
「泊まっていけば?」美鈴が猫なで声で言ったが、雪菜は
「残念ながら明日も早いので」ときっぱりと断った。
「そうなの、それは残念ね。それじゃ瑞穂、雪菜ちゃんを駅までしっかり送ってあげなさい」
「言われなくても分かってる」
二人は玉村家を出て、駅に向かった。道は人気が少なく、街灯も点々と立っているのみの県道沿いでは、すでに足元も真っ暗だった。
「痛い!」そのとき、雪菜が声を上げた。
「どうした?」慌てて瑞穂が事情を尋ねると、
「どうも捻ったみたい。下駄が履きなれないせいかしら」
「しょうもないな。こんな道の真ん中で」。
しばらく瑞穂は雪菜に肩を貸しながら歩いたが、なかなか埒が明かなかった。
そこへ人影が近づいてきた。瑞穂がはっと目を上げると、それはあの疫病神だった。
そのヒースクリフは、真っ向からこちらに向かってやってきて、声を上げた。
「お前、何やってんだ」
「ご覧のとおり、友達が足を挫いて困っているところだ」瑞穂は言葉など交わしたい相手ではなかったが、仕方なく状況を説明した。
ヒースクリフは「ほお」と思案顔になって、瑞穂の肩に寄りかかっている雪菜を上から下まで探るような視線で見つめた。
「よし、俺が負ぶってやる」
「何言ってるんだ。ほっといてくれ」瑞穂は雪菜を支えたまま、慌ててその場を立ち去ろうとしたが、雪菜が
「素直に肩を借りようよ。やっぱり瑞穂だけじゃ無理だよ」そう言って、さっさと背をかがめて司郎の背中に負ぶさってしまった。そのまま呆気にとられている瑞穂を尻目に、二人はゆっくりと歩き出した。
「本当にほっといてくれ」半ば泣き顔の瑞穂を無視して、司郎は力強く歩き続ける。次第に呼吸が乱れて、汗ばんできた司郎の体からは、ぷうんと何やら獣めいた臭いが漂ってくるのだった。
雪菜はしかし、かなり機嫌がよかった。ずっとボソボソと楽しげに司郎と話を交わしている。瑞穂はそんな二人の姿を恨めしげに見ながら、後ろからとぼとぼと付いて行くしかなかった。
やがてついに駅に着いた。雪菜は木造の山小屋のような駅舎の前で、ストンと司郎の背中から下りて言った。
「本当にありがとう。助かったわ。あなた、お名前は?」独特の高飛車な物言いで、司郎に尋ねる。
「俺は本多司郎。こいつの隣人だ」司郎は傍らの瑞穂をあごで指した。「あんたは何て言うんだ」
「深山雪菜」
「雪菜か。お嬢様らしいな」
「そんなことないわ」
完全に二人の世界で話し合っている雪菜と司郎の間に、瑞穂は必死に割って入った。
「もういいだろう?雪菜は朝が早いんだ。早く解放してやんないと」
「そうか」すると、もう何も思い残すことはないといった風に、司郎はくるっと踵を返して去っていった。
まるで爽やかな好青年みたいじゃないか。瑞穂は苦々しく思ったが、雪菜はしっかりと司郎の存在を脳裏に焼き付けたようだった。
「爽やかな人ね」
「そうか?あたしにはただの気障にしか見えないけど」
「でも、いい男だったわ」
「それはお前の目がおかしいんだ。あんな真っ黒で、目のギロギロした男のどこがいいんだ」
「迫力あるもの。芯の強さを感じるわ」
「分かったよ」
そのまま二人は何となくわだかまりを残したまま、改札で別れたが、瑞穂は一人になった後、最後の不幸な偶然を、悔やんでも悔やみきれない気持ちで帰途に着いた。
寝る前に瑞穂は母親に訊いてみた。
「女って奴は悪に惹かれるんだろうか」
「何それ。あんたの話?」
「いや違うけど。一般論としてさ」
「そうねえ。若いうちはちょっと冒険がしてみたいんじゃないの。そういう臭いがするものに敏感なのよね。でも、すぐ飽きるわよ。結婚だってできないし」
「そんなものか」
「そうよ。そんなものよ」
瑞穂は今日の雪菜の美しさを思い出して、はあとため息をつきながら、眠りに着いた。
☆ ☆ ☆
それから1ヶ月半が経過した。瑞穂は雪菜とずっと会わず、ひたすら絵の制作に取り組んでいた。
やっと絵の具体的なイメージが湧いてきたのだった。
「罪を背負う天使」のキャンバスは、一面黒に覆われているが、中心の天使の回りだけ、ボーっと青白く狐火のように浮き上がっている。そして、天使の体の中心には、真っ青なハートが瞬いていて、天を仰ぐように腕を上方に突き上げ、翼をはためかせて今にも飛び立とうとしている。そんなイメージだった。
瑞穂は最初、キャンバスを憎しみを込めるかのように、荒いタッチで黒に塗りたくっていった。その上に白地で丁寧に天使を描きこみ、体全体を淡いブルーで染め上げた。そして心臓部は濃い青と白のグラデーションにし、翼にはちょっとゴールドの風合いも混ぜてみた。
3ヶ月ぶりに完成した作品を、チェックするように入念に眺めていた瑞穂の背後から、声がした。
「いいね。すごくいいね」
はっと瑞穂が振り向くと、同じ美術部の一年後輩、花園静香が立っていた。静香は普段は大人しくてまったく目立たない生徒だったが、静物画を描かせると、なかなか味のある作品を描くので知られていた。
「本当にいいかなあ」瑞穂が自信なさ気に言うと、
「うん。本当に」静香が励ますように言った。「すっごく玉村さんらしさが出ていると思うよ」
「あたしは根暗だから、絵も暗いだろう」
「人間的なのよ」
「あたし、その言葉は好きじゃない」
「そうなんだ。でも、とにかくすごい迫力よ。本当の苦しみを知っている人の世界という気がするわ」
「まあ、そんなに深いものじゃないけど、あんたにそう言ってもらえると、勇気付けられるな」
「あら、あたしこそ下手くそなのに」
「嘘ばっかり」
二人は顔を見合わせて笑い出した。
こうして、瑞穂は雪菜のいない間に、花園静香と親しくなったのだった。
静香には兄が二人いて、大人しい母親と野心的な父親の5人家族の中で、小さくなって生きていた。男たちがのさばっているので、女二人は大人しくしているほかにはなかったのであるが、いつでも金や地位、色恋の話ばかりの俗な男たちの世界に嫌気が差していて、絵に囲まれた、清澄で静かな世界のうちに唯一の慰めを見出しているのが静香なのだった。
「玉村さんも男嫌いでしょう」
「どうして?分かるのか?」
「なんとなく同じ臭いを感じるから」
「でも、あたしの場合は単なる天然だよ。男も女も嫌い。あたし自身は中性だと自分では思っている」
「へえ、面白いね」
「だから、働きアリのように、無の境地でやるべきことをやっていればいいと思う」
「でも、無になんてなれる?」
「もちろん、難しいさ。あたしだって煩悩だらけだからね。でも、あたしも静かな、心洗われる世界を目指してるんだよ、絵でね」
「やっぱりあたし達、似ているのよ」
「そうかなあ」
そして、意気投合した二人は、瑞穂の案で、瑞穂の家を訪ねることになった。
瑞穂の母美鈴は、瑞穂が初めて学校の友達を連れてきたことに驚いたが、瑞穂が熱心に静香の絵を褒めるので言った。
「瑞穂にもいいお友達ができたようで嬉しいわ」
「そうでもない。ただの仲間だ」瑞穂が照れくさそうにこぼすと、
「瑞穂ちゃんたら」静香は静かに笑った。
瑞穂の母に、最高レベルのもてなしを受けて、静香も喜んで舌鼓を打った。
「ご馳走様でした」
「いえいえ、何もお構いできずに。遅くなって、こちらこそご迷惑だったのじゃないかしら。いま、瑞穂にバス停まで送らせますから」
瑞穂と静香は、暗くなった夜道を並んで話しながら歩いた。ずっと絵や画家の話だったが、最後にバスに乗る間際に静香が言った。
「報われない恋は辛いよね」
「えっ?」
瑞穂が答える間もなく、静香を乗せたバスは走り去った。瑞穂はしばらく一人呆然と立ちすくんでいた。
ここにもあたしの本音を理解している人間がいる。そう思うと、瑞穂は心が冷気で凍えるような気持ちになった。雪菜への愛は、同性愛の印なのだろうか。自分でも分からないことを、いくら友人とはいえ、他人に知られるのは怖かった。自分のことはあまり話の種にするものではない、そう思った。
☆ ☆ ☆
一方、そのころ雪菜は、毎日のように司郎と会っていた。一日をほとんど家で寝て過ごす司郎には、いつでも時間があったし、部活に入っていない雪菜にも、司郎と会うための時間は、学校の合間を縫うようにすればいくらでもあり、二人は日々のデートに現を抜かしているのだった。
司郎と雪菜のカップルは、美男と美女の組み合わせとして、周囲からもてはやされ、本人たちもそのつもりでいい気になり、舞い上がっていた。雪菜は初めて本当の自分を理解してくれる相手を見つけたと思って、心も体も満たされた、雲の上を歩いているような浮揚感を味わっていた。司郎も雪菜には優しかったし、心底ほれ込んでいるように見えた。
ただ一つ、雪菜が気にしていたのは、司郎に東京で何が起こったのかが、分からないことだった。その他のことでは、饒舌とまではいかないにしても、何でも話してくれる司郎が、その話になると、いつも貝のようにぴったりと口を閉ざしてしまうのだった。雪菜は、もともと二人の付き合いに反対しそうな瑞穂には、なんとなく気がとがめて相談できなかったので、一人で忸怩たる思いを抱えていた。
そんな3月上旬のある日のことだった。雪菜が司郎といつものようにデートしていたとき、突然司郎の携帯に電話が入り、その連絡元を見た司郎の顔が、見る見るうちにパッと曇ったことがあった。
「どうしたの。何かあったの?」雪菜はすぐに心配げに尋ねたが、司郎は
「何でもない」と知らぬ振りを決め込むのだった。
その頃から、雪菜は二人の関係が前ほど親密なものでなくなってきたように感じ始めた。ともすると、司郎はどこか別の方向を向いて、浮かない顔であらぬことを考えているような姿を見せることも、しばしばだった。
しかし、人一倍プライドの高い雪菜は、それ以上のことを直接司郎に尋ねはしなかった。一人哀しく、陰で泣いていた。
ある日、耐え切れなくなった雪菜は、突然放課後の瑞穂を、高校に訪ねた。瑞穂は美術部にいたが、楽しそうに他の女の子としゃべっていた。雪菜は、自分だけが除け者にされたようで、悲しくなった。
「瑞穂」それでも勇気を出して、瑞穂に声をかけると、
「あれ、雪菜か。どうした何かあったのか?」瑞穂の気のない返事に、雪菜はなおのこと傷ついた。
「ごめん、話があるんだけど」そうして瑞穂を見つめる目に光るものがあふれ出したとき、驚きを露にした瑞穂は、静香に「悪いけど、今日は友達に話があるみたいだから、先に帰るよ」と言い、雪菜の肩をガッチリとつかんで「しっかりしろよ」と声をかけた。雪菜は涙目のまま瑞穂のほうを見つめ、抱きついてしまった。
「おい、大丈夫か?」瑞穂は心配げに尋ねたが、雪菜がなおも泣くので、「こりゃ駄目だ」と言って、肩を貸しながら、二人分の荷物を持って、美術室を後にした。
そのまま二人は、最寄りの商店街の一画にある、なじみの喫茶店「手毬唄」に入った。ようやく落ち着いてきた雪菜は、震える声でハーブティーを注文し、瑞穂もブレンドコーヒーを追加した。
「ごめんね、瑞穂。あの人はほっておいて大丈夫なの?」
「ああ、静香のこと?大丈夫だよ。ただの部活の仲間だから、心配するな」
「そう」雪菜は言って、ハーブティーをズズッと一口啜った。
「話って何だよ」単刀直入に瑞穂は尋ねた。
「実はね…」と言って、雪菜は途切れ途切れに、今までのことすべてを瑞穂に告白した。あの出会いからすぐに司郎と付き合いだしたこと、しばらくはうまく行っていたのに、最近おかしくなってきていること、自分にはそれが耐え難いことを説明したのだった。
黙って聞いていた瑞穂は、しばらくしてから言った。
「あの男は最初から危険な人間だと思っていたんだ。知っていたら、あたしは反対したね」
「やっぱりそうでしょう。だから、こんなになるまで、言い出せなかったの」雪菜は瑞穂の顔を恐る恐る見上げながら言った。
「でも、仕方ないよな。誰が誰を好きになるかは、不可抗力だもんな」瑞穂は精一杯の明るい声で言った。
「うん」雪菜は安心したように、素直にうなずいた。
「で、どうしたいの、雪菜は?」
「よく分からないの。東京で何があったか知りたいけれど、知るのも怖い気がして」
「あたしは相当な悪の臭いを感じるけどな」
「そんな嫌な奴なの、あんたにとってあの人は」
「一目見るなり、吐き気がしたよ」
「そんなに…」
二人はそこで押し黙った。しばらくしてから、瑞穂が口を切った。
「とにかく真実を知るしかないんじゃないの」
「そうかしら」
「お前ならできるよ。ちゃんと調べるんだ。あの男が本当はどういう奴なのか」
「私にできる?本当に」
「ああ。あたしはお前を信じているから」
「そう…」
雪菜は瑞穂の真剣さに励まされたかのように言った。
「じゃあ、私、やってみる」
「その調子だ」
二人はそこで別れ、別々に帰ったが、それぞれの胸のうちにはある覚悟が生まれていた。少なくとも神様だけは、そのことをよくご存知だった。
☆ ☆ ☆
その頃司郎は、真夜中の駅の改札で、ひたすら人待ちをしていた。それは東京にいた頃の、悪友兼後輩の早乙女康志、通称ヤスだった。11時過ぎになって、ようやくヤスが姿を現した。
「遅くなって悪かったよ、司郎ちゃん」
「まったく遅すぎるぞ。この俺を待たせるなんて、100年は早いんだ」
「でも、苦労したんだぜ、司郎ちゃんのために」
「分かった。それで例の話はどうなった?」
「今のところ、何も進展はないみたいだ。証拠が出ていないらしい。だからうまくいけば、そのまま流れるかもしれない」
「でも、あの女がそういう行為に及んだのは確かなんだな」
「ああ、気の毒だが、それだけは確かだ」
「俺は破滅するしかないのかな」
「いや、万が一裁判になっても、情状酌量はしてもらえるんじゃないの」
「でも、それまでに相当な時間、拘束されるよな」
「仕方ないだろう。司郎ちゃんがやっちゃったことが、そもそも悪いんだから」
「はっきり言わせてもらうが、最初俺にはまったくそんなことをする気持ちなんかなかったんだからな」
「分かってる。司郎ちゃんはそういう奴だよ」
「おい、それで女将のほうはどうなんだ。かくまってくれないのか?」
「ああ、警察の手が伸び始めたらおしまいだからな」
「そうか、俺の唯一の頼みの綱だったんだが」
「仕方がないよ。ここでほとぼりを冷まして、うまく見過ごしてもらえることを祈るんだな」
「結局、それしかないのか。俺も落ちぶれたものだなあ」
「仕方ないよ。ここは我慢だ、司郎ちゃん」
「ああ」
二人の男の姿は、闇のうちに消えて行った。
☆ ☆ ☆
雪菜は司郎に直接問いただしても、埒が明かない気がしたので、こっそりと調べることにした。
まず、司郎が家で席を外した隙に、携帯をチェックした。すると、身元不明の着信記録が20件近くもあった上に、何かただならない様子のメールが頻繁にやり取りされていることが分かった。メールの主な送信者は、どうやら東京に住む友人らしかった。
「例の件は進展なし。ヤ」「例の件は今のところ無事。ヤ」「女からの証拠は出ず。心配するな。ヤ」
おそらく女性がらみの何かがあって、そのことでひそかに連絡を取り合っているようだ、とすぐに雪菜は見て取った。
後数件、大物の人物らしき女性からのメールもあった。
「シロちゃん、元気にしてる?」「クロくてもシロよ、あんたは」「用意は整っています。後はあんたの覚悟しだいよ」
この先、何かが起こることを、この時点で雪菜は悟った。
そして、その数日後、本多司郎は東京の友人を家に連れてきた直後に、一週間完全に中野家界隈から姿を消したのだった。一週間後に戻ってきた、普段どおりの司郎の姿を見て安堵はしたものの、直接理由を訊けもせず、雪菜は心配しながら、事の経過を追っていく他はなかった。もう、付き合う、付き合わないどころの話ではなくなっていることが明らかな展開に、雪菜は眩暈に襲われそうな疲労感を味わっていたが、まだ確かなことは何も分かっていないので、なすすべもなく真実を知る機会が訪れるのを、ひたすら待ち続けることしかできない歯がゆい雪菜だった。
☆ ☆ ☆
一方の瑞穂は、3月の春休み期間を利用して、ある日一日上京した。朝の6時の電車に乗った瑞穂は10時には東京に着いていた。そして、まったく時間を無駄にしないように、中野のおじいさんから聞いていた、司郎のかつての住所と所属大学の情報を有効利用して、すぐにその2箇所を尋ねた。どちらもお互いに近い、30分圏内の場所にあった。瑞穂は、両方の場所で、すぐに聞き込み調査を始めた。下宿先のほうからは何も有力な情報はなかったが、司郎が休学している大学からは、司郎の所属学科が分かり、それでその学科の研究室を訪れたところ、運良く司郎をよく知っている同級生たちの集団と助手さんがいた。そのどちらからも、司郎が突然休学するまで、ある料亭でアルバイトをしていたことを教えられた。
瑞穂はすぐにその料亭を訪ねた。うな重を頼みながら、アルバイトの子にそれとなく司郎について訊いてみた。すると、その噂話の好きそうなバイトの女の子は、司郎が女将に非常に気に入られていたのに突然辞めたことが、最近までのこの職場の最大のゴシップになっていた、とひそひそ声で教えてくれた。
「どうして辞めたんですか?」瑞穂は無邪気を装って尋ねた。
「それが、女将が絶対に教えてくれないんです。でも、私たちに分かっているのは、ある女性客とのトラブルが種だったということです」
「どんな女性だったんですか?」瑞穂は顔に表情を出さないように苦労しながら、質問した。
「確かN大学の2年生で佐野エリカちゃんとかいう大人しい女の子だったけど、司郎君目当てに頻繁にここに通っていたのに、ここ最近、ぜんぜん姿を現さないから、みんなそのせいだと思ってます」
「それはやっぱり、その女子学生を振ったということですか?」
「さあ、そこまでは分かりません。何があったんですかねえ」
しかし、瑞穂にはそこまで聞ければ十分だった。瑞穂はすぐさまN大学に飛び、佐野エリカについて調べた。すると、調べるまでもなく、すぐに事情が分かった。佐野エリカは3ヶ月前の去年の暮れに首吊り自殺をしていた。
衝撃の事実だった。そして、その理由は解明されていないというが、瑞穂には、それに本多司郎が関与していることは明らかだった。では、どうやって?
瑞穂は諦めずに調査を続けた。
3時ごろになって、ようやく佐野エリカが自殺の直前に欝状態になり、ある病院の精神科に通っていたことが判明した。佐野エリカの下宿先の隣人の女子学生から聞きこんだ情報だった。
これを最後と思って、瑞穂はその足で早速その病院を訪ねたが、個人情報保護の観点から、最初は何も教えてもらえはしなかった。しかし、時間のない瑞穂は粘りに粘った。警察の手を借りると半ば脅すようにして、ようやく担当医からヒントをもらった。
佐野エリカは、襲われたのだった。
その一言だけで、瑞穂はすべてを理解した。司郎が突然東京を逃げ出したわけも、そして滅多に外に出ようとしないことも、最近怯えているわけも。
どんな理由があったかは分からない。しかし、いかなる理由があるにせよ、女の子を襲うのは立派な犯罪だ。これであの男の罪と悪の根深さが分かった。瑞穂は、怒りと疲労をあらわにしながら、最終列車でS県に戻った。
☆ ☆ ☆
その同じ日に、雪菜は偶然にも駅でヤスと一緒にいる司郎を発見していた。向こうは雪菜に気づいていなかった。雪菜は見慣れない顔が一緒だったため、東京からの友人だろうと見込みをつけ、恐る恐る後をつけ始めた。
二人の男はなにやら熱心に話をしている。
「司郎ちゃん、やっぱりこっちに残るかい?」
「そのほうが安全だろう」
「でも、警察の手が伸びればあっという間だぜ。俺がせっかく女将を口説き落としたんだから、女将の好意に甘えてみるってのはどうかな」
「あの女将だって、所詮はわが身愛しの女かもしれない。いつ裏切るか分かったもんじゃない」
「でも、仕方ないだろう、この際は」
「結局、俺がエリカを襲ったことが諸悪の根源ってわけだな」
「まあそういうことです」
雪菜はここまで聞いて、ワナワナと震えながら、その場に崩れ折れてしまった。
「襲う」という言葉が、耳から離れなかった。あの男はただの偽悪者ではなく、本物の犯罪者だったんだ。私はそんな男と付き合っていたのか。何も見えず、何も知らない振りをして…そのまま、雪菜は気を失って倒れてしまった。
雪菜が気づくと、そこは広い病院の一室で、ベッドに寝ている雪菜の傍らには、まるでボディーガードのように瑞穂が心配げに立っていた。
瑞穂は雪菜が目を覚ましたことにすぐ気づいた。
「よかった。雪菜、気が付いたんだな」
「う、うん。心配かけてごめん。私、一体どうしたの?」
「昨日の夜、道端で気を失って倒れているところを、親切な通行人の人が救急車でここまで連れてきてくれたんだって。あたしも今朝帰ってきたばかりで、今さっき聞いて、慌ててやってきたところなのさ」
「私、どうして倒れちゃったんだろう」
雪菜はそういって昨日のことを思い出そうとした。
痛いっ。頭が割れるように痛んだ。かすかに思い出したのは、嫌なことばかりだった。
「私、思い出したくないな」
「いいよ、雪菜。思い出したくないなら、思い出さなくていい。ただ一つ、あたしは東京に行って真実を知った。多分お前も何かの弾みでそういうことになったんだろう。ならば、あたしはこれから警察に届けに行ってくる。それでいいよな?」
「瑞穂、よく思い出せないけど、私、あいつと会って話してみたい」
「だめだ、危険すぎる。お前は二度とあの男とかかわりを持つな」
「そんな…」雪菜は力なく肩を落とした。
「大丈夫、あたしがついてるから」瑞穂は力強く言った。
瑞穂は家に戻り、準備万端に整えて、司郎を中野家から呼び出した。
「お前の悪事はみな知っている。今からすぐにA公園まで来い。玉村」
雪菜の携帯からのメールはすぐに相手方に届き、3分後に返信が来た。
「分かった。すぐに行く」
そして、瑞穂は司郎と命がけの談判の末、司郎が東京に戻って二度と雪菜の前に姿を現さないことを約束させた。そして、約束どおり1週間のほとぼりが冷めた後、瑞穂は警察にすべてを話した。警察の捜査の手は東京に向かったが、しばらくは音沙汰がなかった。
1ヶ月の後、雪菜はようやく当時の記憶を思い出し始め、退院の見込みがついた。そして、ちょうど同じころ、ついに本多司郎が逮捕されたというニュースが入ってきた。
瑞穂は病室で雪菜にそっとその事件の記事を読んでやった。そこにはこんなことが書かれていた。
佐野エリカは司郎の腹違いの妹である。司郎は、司郎の母とエリカの父が不倫してできた、不義の子だった。それを苦にしたエリカの母は、早くに自殺してしまっていた。一方、司郎の母も、度重なる心労の末、司郎が幼いうちに、病気で亡くなっていた。すべてを知っているのは、司郎の祖母、中野の老婦人だけだった。
司郎は何も知らなかったが、母が早くに亡くなったことを気にしながら育ち、すっかり暗い、ねじけた人間になっていた。一方のエリカは、父親の度重なる浮気に嫌気が指していたが、父と長い間二人暮しだった。それが、最近になって父が癌になり、気弱になった父親は、腹違いの子供がいることを告白した。それ以来、エリカは兄を捜し求めた。それが司郎だった。ようやく探し当てたと思ったら、司郎の母親のことで口論になり、エリカの正体を知らなかった司郎は暴力を振るって、エリカを襲ってしまった。エリカはこれを苦にして、欝となり、ついには自殺してしまったのだった。遺書はなかったので、本多司郎は長い間、実家に潜伏して逃げおおせていたが、なぜか東京に戻り、知人の助けになっていたところを、取り押さえられた。この事件の解決の裏には、勇気ある民間人の活躍があったということを、新聞は報じていた。
それを聞いた雪菜は言った。
「あの男は二重の罪を犯していたのね。法的な罪と、人道的な罪を」
「ある意味では哀れだな」
「そうね。でも、もういいわ。私も自分の馬鹿さ加減に気づいたもの」
「でも、お前もこれで退院だし、結局、終わりよければすべてよし、だよ」
「そうね」
そこへ突然、瑞穂の携帯が鳴った。見ると、花園静香からだった。
「どうした?」
「おめでとう。あなたの作品、「罪を背負う天使」が見事にコンクールで優勝したの」
「まさか?」驚き呆れる瑞穂に、
「おめでとう、瑞穂」雪菜は涙を流して喜び、そして、がっちりと瑞穂の体を抱きしめた。
「い、痛いよ、雪菜」
☆ ☆ ☆
本当に終わりよければすべてよし、と言えるのだろうか。あまりにも重い行為であり、事件だったのではないか。ここで軽く流してしまうのを良しとしない僕が一方にいる。しかし、普通の人間の日常からはあまりにもかけ離れている感覚でもある。今回は、まずそんな日常にも落とし穴は待っているということにさえ気づけば、それでよしとしようではないか。世間には、言われない悪意というものが待ち受けていること。それにまず気づくことが、ある意味では何よりも大事であったのではないかと僕は思う。
もう一つ大事なことは、瑞穂が命がけで雪菜を守ったことである。瑞穂の気持ちが果たしてどういう種類のものかをあえて問うことはすまい。そういう次元の話しではないからだ。瑞穂にとってはただ大事と言う気持ちがあるだけで、それをあの悪い男のように暴力を振るって何かをしようなどとは、最後まで思いつきすらしなかったのだ。瑞穂にとっては、そして、雪菜にとっても、二人の関係は清く、美しい関係なのだ。それがお互いに分かった二人は、もう二度とお互いに対しても、自分自身に対しても、裏切りを行ったりはしないだろう。そして、これがある一つの愛の形であることを、僕ははっきりと言っておきたい。これが瑞穂の言う献身の愛であることは疑いを待たないだろう、とも。
想像の双子は、想像の種が尽きたところで、またもとあった混沌へと帰ってゆく。いつかまた新たな想像の種が生まれたとき、二人は異なる名前と個性を持って生まれ出てくるに違いない。それまでは、また待っていただきたい。
僕の短い夜は今日も深けて行く。
完
少し重い内容ですが、ずいぶん前から暖めていた題材を初めて形にして見たので、作者としては愛着があります。とりつきにくい冒頭部分は抜かしてかまいませんので、中身をじっくりとご覧ください。そして、つまらないところ、おかしなところを指摘してくださったら、うれしいです。よろしくお願いします。