ぼんやりとした世界
私はぼんやりとした世界が好きだ。
眼鏡を外した時に広がる、輪郭のあいまいな景色。その曖昧さが、心の奥底を優しく包むようで、日常の輪郭をなぞる現実を一瞬だけ忘れさせてくれる。
「ごめんね、待たせちゃって」
旦那が微笑みながらスーツの袖をまくり、私の隣に腰掛ける。彼の香水と、ほのかに残る汗の匂いが混ざり合うのが、心地よい。
「ううん、大丈夫だよ。お疲れ様。」
彼が疲れた体を休めるために寄りかかってくる。私は、その肩の重みを受け止める。優しい人。私がどんなわがままを言っても、怒らない。どんなに心が遠くにあったとしても、問い詰めない。だからこそ、私は眼鏡を外したこの世界に逃げ込むのだ。
目の前にいるのは、彼。でも、ぼんやりとした視界に映るその姿は、“あの人”に似ている。いや、そう見えるように自分の心が操作しているのかもしれない。
“あの人”。
何年経っても消えない人。私の心の中に巣食い、私を形作り、私の視界を支配している人。彼の指先の温かさ、笑う時の仕草、その全てが私に幸福と苦しみを刻み込んだ。
彼と結婚した時、私は決めたのだ。もうあの人を思い出すのはやめようと。もう二度とその名前を心の中でさえ口にしないと。それが私の幸せのため、彼の優しさに報いる唯一の方法だと思ったから。
でも眼鏡を外すたび、私はその約束を破る。ぼんやりとした視界に、“あの人”の影を探す。旦那の声が、優しい笑顔が、“あの人”のそれと重なる瞬間を求めてしまう。罪悪感が胸を締め付けるけれど、それでも私はこの世界に留まりたい。
彼がふと、肩にもたれる体を離した。
「どうしたの?」と、心配そうに私を見る。私は微笑み返した。
「ううん、何でもないよ。少し疲れてただけ。」
そう言いながら、私は彼の手を握った。その手の温かさが、少しだけ私を現実に引き戻す。ぼんやりとした世界の中で揺れている私を、彼の優しさがそっと支えてくれる。
それでも、彼が気付いていることは知っているのだ。私が彼を見ながら、違う人を思い浮かべていること。けれど彼は、問い詰めたりしない。ただ静かに、私が眼鏡を外してぼんやりとした世界に浸ることを許してくれる。
そんな彼が、ふと耳元で囁いた。
「愛してるよ。」
その瞬間、胸がぎゅっと締め付けられた。現実の世界が、一気に鮮やかに戻ってくるようだった。彼の言葉は、私がどんなに遠くにいても、優しく繋ぎとめる力があるのだ。
私は眼鏡を手に取り、そっとかけ直した。そして、彼の顔をはっきりと見つめた。そこには”あの人”ではなく、ただ目の前にいる優しい彼がいた。
「私も……愛してる。」
その言葉を、ようやく私は心から口にすることができた。