5年前の終焉
その朝、西園弘明は雨の屋外で目覚めた。
衣服はズブ濡れ、右頬が泥と砂利に触れて不快だった。
どうやら冷たい地面の上にうつ伏せで眠っていたらしい。
身体を仰向けにすると、灰色の空から無数の雨粒が顔に落ちてくる。
弘明は何故自分がここにいるのか、まるで見当がつかない。
昨夜は偶然、いや思いがけない形で再会をした
かつての恋人、楠木由希子と共に過ごした。
パリ市内にある由希子のアトリエから
タクシーに乗ったことまでは憶えているが、そこからの記憶が全くない。
弘明は身体を起こし、周囲を見渡すと、信じられない場所に自分が寝ていたことに気付いた。
広大な墓地が弘明の目の前に拡がっていた。
〝由希子は今どうしているのだろう〟
パリへの出張が決まったとき、弘明は真っ先にそう思った。
由希子は5年前に別れた恋人だ。年齢は弘明の二つ年上で、
3年間、男女として付き合った。真剣に結婚まで考えていた。
新進の抽象画家として、名前が売れ始めていた由希子が、
唐突にパリ行きを決めた。都内で行なわれた
前衛画家の合同展覧会。たまたま由希子の絵を見た、
フランスの画廊オーナーが、アトリエを提供するから、
パリで創作活動を行なわないかと、熱烈なオファーを持ちかけたからだ。
主催者から、オーナーの身分を確認した由希子は、
まるで人が変わったかのように、パリへの情熱を弘明に吐露した。
その頃、弘明は中堅ファッション誌専属のカメラマンとして、
契約できるかできないかの瀬戸際にいた。
由希子は弘明のパリ同行を望んだが、
弘明には異国の地で生計を立てる自信も覚悟もなかった。
東京を離れたら、これまでのキャリアを棒に振ってしまうことになる。
弘明の活動拠点は飽くまで「東京」だった。
それまで順調な交際をしていた二人の関係に、ここで深刻な亀裂が生じた。
由希子と口論が多くなり、お互いの主張を譲り合わないまま、
出発の日が迫った。結果、由希子は部屋を引き払い、
2006年3月20日日、パリ行きを断行した。
弘明は、出発の日も、搭乗便も知っていた。
だが、空港に向かう高速道路で、大規模な渋滞に巻き込まれ、
その旅立ちを見送る手立てを失った。
そのままお互い連絡を取らず、5年の歳月が流れた。
弘明は35歳になっていた。
パリ出張は正味3日間。著名なインポートブランドの新作発表会に伴う、
チャリティイベントの取材が目的だった。パリ在住のフリー記者、
倉田幸弘と組むことに決まり、現地で落ち合うことになった。
倉田はパリの衣食住に通じていて、複数のメディアに気取った記事を書いている。
仏語が不得手な邦人を相手にコーディネーターをすることもある。
例えば弘明のような手合いに。
弘明がシャルル・ド・ゴール空港に降り立ったのは、
2011年3月23日午前2時のことだった。
7年ぶりのパリだった。空港の重い回転ドアをくぐると、
パリの冬枯れた風の出迎えを受けた。
その刺すような冷たさに、弘明は思わず肩をすぼめ、
コートの襟を合わせた。3月のパリは寒い。
気温は日本の真冬と変わらず、雨の日が多い。
タクシーの群れが、乗り場に連なっていた。
こちらではフィアットばかり走っている。弘明は最前列にいるそれに近づいた。
タクシーの後部座席に乗り込むと、いかつい髭面の運転手が振り向いた。
「ムッシュ?」
「パンテオン、シルヴ・プレ」
「ウィ、ムッシュ」
タクシーは深夜の高速道路を滑り出した。
45分後、タクシーは真夜中のパリ5区、
パンテオン前に停車した。弘明はチップ込みで
50ユーロ紙幣を支払った。目当てのホテルは、
この巨大な霊廟のすぐ脇に位置している。
ホテルの名前は、オテル・グランゾム。
前回のパリ滞在の際もこのホテルに宿泊した。
この界隈はカルティエ・ラタンと呼ばれ、
名門ソルボンヌ大学の学舎が密集し、
広大な面積を誇る市民の憩いの場、リュクサンブール公園がある。
ホテルのチェックインを済ませた。
バスタブのない部屋をあてがわれ、荷物を降ろした。
消臭剤程度ではどうにもならないほど、タバコの匂いが充満していた。
テレビをつけるとJ・P・ベルモンドの風貌によく似た、
サルコジ大統領の演説が映っていた。
弘明はベッドで横になり、テレビを見ているうちに、
いつの間にか睡魔に取り込まれてしまった。
朝のパリ5区は、雨の気配があった。
窓辺から見た曇り空は、墨汁を水で薄めたような色をしている。
時計は午前8時半。待ち合わせギリギリまで、
部屋にいることもできたが、弘明は散歩がてら、
待ち合わせ場所まで歩いていくことにした。
倉田との待ち合わせはパリ6区、
サンジェルマン・デ・プレ教会前に午前10時である。
約束の時間までまだ1時間以上もあった。
雨は控えめだが、降り始めている。
弘明は教会の真向かいにある「フロール」という有名なカフェに入った。
弘明は道路側の席に座って、ギャルソンにカフェ・オ・レを注文した。
パリのカフェ・オ・レは、ブラックコーヒーに牛乳を注ぐ。
日本のようにクリームではない。通り沿いのテラスから、
雨に濡れるパリジャン、パリジェンヌたちを無心に眺めていた。
カフェを出る頃には、一層ひどい雨降りになっていた。
傘を持っていない弘明は、バッグを傘がわりに頭上に掲げ、
道路を横断し、教会の入口に立った。
だが、待ち合わせの時間から20分過ぎても、
倉田が現れる気配はなかった。痺れを切らした弘明は、
携帯電話を取り出した。
海外で使用できるよう手続きを済ませてある。
2コール目も鳴り終わらないうちに、倉田が出た。
「西園さんの携帯が繋がらないんで、ホテルにFAXを流しておきましたよ。
届きませんでした? 取材は主催者の都合で明日に延びました」
「ホテルに何も連絡はきてなかったぞ」
「すみません、行き違いだったみたいですね。とにかく今日はないですから」
だったら、携帯に連絡をくれればいいだろう。ボケナス。
だが、遠征地での円滑な仕事のために、弘明は口をつぐんだ。
「明日の取材は何時からだい?」
「同じ時間です。先方は24時間ずらして欲しいと――」
「わかった」
「会場はポルト・ド・ベルサイユですよ。迷ったらタクシーを使ってください」
弘明は仕事の出鼻をくじかれたことに、不機嫌になった。
風向きが悪い。こういう仕事はたいていうまくいかない。
突然の予定変更にも、振り回される自分にも腹が立っていた。
図らずもスケジュールは空白になったが、
この天候ではのんびり観光する気分にもなれない。
教会の周囲を、勢いよく雨粒が跳ねていた。
とにかく、雨避けが出来る場所まで移動しなくてはならない。
〝仕方がない〟
弘明は豪雨の路上に飛び出した。どこか適当なカフェを捜しながら走った。
デリカテッセンでもいい。少なくとも、フロールに戻る気はなかった。
「待って!」
突然、背後から女性の声が弘明を呼び止めた。
驚いて振り向くと、小走りに駆け寄ってくる人影があった。
まさかと思った。よく知っていた女が近づいてきた。
それは由希子だった。
「由希子!?」
黒ずくめの格好だったから、色白の素肌が余計に際立った。
黒いブラウスの胸元には、小振りな真珠のネックレスが控えめに留まっている。
髪は以前より長くなっていたが、5年の歳月が重なったとは思えないほど、
由希子は由希子のままだった。
「まさか、こんなところで会うなんて」
「驚いてないで傘の中に入ったら? 濡れるわよ」
「そうだな。お邪魔するよ」
由希子は微笑みながら傘を差し出し、弘明はその中に入った。
狭い傘の中で向き合うと、由希子の匂いが鼻腔に拡がった。
もどかしいような気分になった。馴染みのある匂いだ。
「はい、ハンカチ。 使って」
差し出されたハンカチを、弘明は素直に受け取った。
額の雨を拭った。
「ありがとう、ハンカチもなくて困ってた」
「パリで何をしてるの? 旅行か何か?」
「仕事で来たんだ」
「仕事でこんな雨の中を走らなきゃいけなかったの?」
「あいにく、パリの天気図には詳しくなくてね」
「軽口は相変わらずなのね」
「取材が明日に延びたんだ。おかげで、今日のスケジュールが真っ白さ」
「それなら私と一緒に過ごしましょうよ」
「いいのかい? 忙しいだろ?」
「わたしは時間に融通が利くから」
「良かった。ホテルに帰ろうかと思ってた」
「どこかに入らない? 立ち話も何だし……」
「いいとも。フロール以外なら」
「どうして?」
「ついさっきまでフロールで珈琲を飲んでたんだ」
「あら、そうだったの。それじゃマゴにしましょう」
弘明は苦笑した。
「午前中の間に、有名カフェをハシゴできるとはね」
マゴは観光客やパリジャンたちがひしめき合い、満席に近かった。
由希子の顔見知りのギャルソンが、席をあてがってくれた。
由希子はエスプレッソ、弘明は再びカフェ・オ・レを注文した。
フロールと飲み比べをしたかったわけではない。
胃に優しくないエスプレッソが嫌いなだけだ。
ギャルソンと由希子は二言三言、挨拶を交わした。
「よく来るのかい? ここ」
「時々」
「すっかり馴染んでな、パリに」
元来、由希子の物腰や仕草には気品があったが、
それがより洗練された気がした。
「どうしたの? タバコ、吸わないの?」
「やめたんだよ。もう3年になる。
禁煙じゃなくて断煙とか、絶煙てイメージだな。
今じゃ煙が嫌でたまらない」
「あんなヘビースモーカーのセリフとは思えないわ。
歳月は人を変えるって本当なのね」
由希子は黒いコートを脱ぎ、折りたたんで膝の上にかけた。
「由希子はあれからどうしてたんだ?」
「ずっとパリよ。一度も帰国してない。ずっとこの街を彷徨ってる」
由希子に男の影があるかどうか気になっていた。
だが、弘明はうまい尋ね方を知らなかった。
「まだ絵は描いているんだろう?」
「ええ」
「見せてくれないかな? 由希子の絵」
「自宅はパッシーにあるの。地下鉄の移動でいいかしら?
車を修理に出したばかりなの」
「構わないよ。 メトロの乗り方も予習しておきたい」
「出ましょう。 ここは私が払うわ」
「ありがとう。そのうち出世払いで返すよ」
「いつになったら出世するつもりなの?」
「大事なことは教えないことにしてる」
弘明の腕時計は午後2時半を回るところだった。
カルネ(メトロの切符)の回数券十枚を購入し、
メトロに乗った。これで明日の移動にも不自由しない。
線を乗り継いで16区のパッシー駅に着いた。
パッシーはパリ屈指の高級住宅街である。
重厚な造りの建造物やアパルトマンが、そこかしこに立ち並ぶ。
由希子の吐息は白く、手袋をしていない素手が寒そうだった。
血色が悪い。
「寒くないかい?」
「大丈夫、橋の間を歩きましょう。雨降りだから」
由希子は両手をコートのポケットに入れた。
2人はビル・アケム橋の橋脚の間を歩き、セーヌ川を渡った。
3階建てのアパルトマンの最上階まで階段を登りきると、
重い錠を開けた。最上階には、部屋はひとつしかない。
20平米ほどの広間の壁は白く、床は板の間になっている。
中央の作業台の上には、絵の具の瓶や筆が作業しやすいように整列していた。
製作途中のキャンパスが窓際に並べてあり、
下地を整えただけのものと、絵の具を重ねてあるものがあった。
由希子は立ったまま筆をとるから、
キャンパスの前に椅子はない。
「楽にしてね、狭い部屋だけど」
「いいところだね。静かだし」
「絵と格闘するにはもってこいの場所だわ」
弘明は来客用の赤いカウチに腰を降ろした。
部屋の隅にある小さな机には、由希子の両親の写真が飾ってあった。
奥には寝室、隣に天窓がある浴室、
アトリエの向かい側に小さなキッチンがあった。
男の気配はどこにも感じなかった。
脱ぎ散らかした洋服も、揃いのティーカップもない。
生活の中心にあるのはあくまでも絵画であって、
その他の事象に、まるで関心がない部屋だった。
それでも、どこかうら寂しさを感じずには
いられないと、弘明は思った。
「何か飲む?」
「ありがとう、何でもいいよ」
「何でもいいが一番困るの」
由希子が曖昧を嫌っていたことを忘れていた。
曖昧を描く抽象画家の性格としては、コントラストが面白い。
「珈琲を頼むよ」
「ブラックいい?」
「ああ」
壁に数点の抽象画が飾ってあった。
ゆくゆくはどこかの展覧会や、
画廊のラインナップに加えられるかもしれない。
由希子の専門分野である抽象画。
カウチから立ち上がり、あじさいをデフォルメした絵に
見入っている弘明を見て、由希子は言った。
「その絵、東京にいた頃から描いてたものよ。 最近になって筆を加えたの」
「どうりで見たことがあると思った」
由希子はサイフォンを操作しながら答えた。
互いの知らない5年間を話し始めると、おのずと夜は深まった。
距離も近くなったのかは、確信が持てなかった。
「お酒はやめてないんでしょう?」
「どうあがいても、アルコールだけはやめられそうにない」
「カベルネのワインをもらったの。ヴィンテージは2005年よ」
「当たり年か」
由希子はキッチンからワインボトルと、
ペアのワイングラスを持ってきた。
「日本で巨大地震があったのは知ってるだろう?」
「ええ、ニュースで見たわ。こっちでも、大々的に報道されたの。
原発事故が大変なんですって? 弘明はどこにいたの?」
「俺は事務所で遭遇したんだ。外に避難したら、周りのビルがメトロノームみたいに揺れてた。
交通機関が全部麻痺して帰れないから、事務所で一晩明かしたんだ。
仙台に住んでる友達は、まだ連絡が取れていない」
仕事を通じての友人近田春彦は、旅で訪れた仙台がいたく気に入り、
離婚を機に移転した。地震以来、携帯は繋がらず、
無事を知らせるメールもまだなかった。仙台の沿岸部を怪物のように、
津波が飲み込んでいくTV中継に、背筋が凍る思いがした。
関東在住だと地震は珍しくないが、今回ばかりは、空前絶後の規模だった。
どうにか近田と連絡を取りたかったが、通信インフラが破壊されて
どうにも手立てがなかった。
何とか無事であって欲しいと、弘明は願いながら日本を離れた。
「宮城県も沿岸部は、津波の被害がすごかったからな...」
「心配ね……でも大丈夫よ、きっと... 」
「だといいんだが……」
「連絡が取れないだけよ。きっと彼、小学校に避難しているわ」
「どうして小学校だってわかるんだい?」
由希子は質問に答えず、ワインを飲み干した。
既に空っぽだった弘明のグラスに、新しいワインがなみなみと注がれた。
由希子の表情は優しかった。
やがて、アトリエのTVは、古いフランス映画を映しだした。
マルセル・カルネの『北ホテル』だ。
弘明が座っているカウチの端に、由希子が腰掛けた。
しかし、2人の間には、微妙な空間が出来ている。
「……あのとき、どうして空港に来てくれなかったの?
搭乗ぎりぎりまで待っていたのよ」
由希子は少し責めるような口調になった。
弘明は内心たじろいだが、嘘をつくつもりはなかった。
「行ったさ……渋滞につかまったんだ」
言葉は最小限に抑えたかった。
弁解というものは言葉数が多くなるほど、軽率になっていく。
「それなら、あとから連絡してくれれば良かったのに。
言い訳を聞く耳は持っていたつもりよ、わたし」
「言い訳は嫌いなんだ、立場が悪くなっても」
「そうだったわね……」
由希子はうつむいて押し黙った。
由希子と向かい合いながらも、
弘明は何の連絡もしなかったことを後悔していた。
そうだ、言い訳くらいしても良かったのかもしれない。
しかし、由希子はパリに行き、
弘明は東京に残る運命は、どのみち変わっていなかったはずだ。
置き手紙に書かれてあったアトリエの住所に、
何度も手紙を書きかけたが、結局は便箋の上にペンを放り出すだけだった。
「もう結婚しているの?」
「いいや、あれからずっとひとりだ」
何人かの女性と寝たことはあった。
だが、返って由希子の存在を、際立たせるに過ぎなかった。
由希子との別れは痛手だった。次の恋愛に繋がらないほどに。
「私が忘れられなかったのね。それなら許してあげてもいいわ」
「……」
由希子は冗談交じりに言ったつもりだったのだろうが、図星だった。
何をどう繕っても5年の空白を埋めることはできない。
もはや引き返せる距離ではないと、弘明は決めつけていた。
「君を忘れた日はない、あれから1日も」
「嬉しいわ、嘘でもそう言ってもらえると」
嘘じゃないと反論しかけたとき、
弘明と由希子の視線がまるで音を立てるように、意味深に合わさった。
グラスのワインは飲み尽くされ、テーブルに置かれたままになった。
いつのまにか二人の唇は、音もなく重なっていた。
遠い距離を身体を合わせることで、少しでも埋められるだろうか?
弘明は由希子の柔らかい肌に触れながら、そう思っていた。
「お願い、帰って……タクシーを下に呼んであるから」
「え?」
突然のことに、弘明は言葉が見つからなかった。
このまま由希子と朝を迎えるつもりだったからだ。
まだ身体の熱も冷めていない。
「何か気を悪くしたのかい?」
「そうじゃないの。今日は本当に嬉しかった」
「それじゃどうして?」
弘明は動揺を隠せなかった。由希子の言動は矛盾している。
再会から数時間足らずだが、わずかながらも心の交流ができたと
弘明は信じていたからだ。
「もう逢うことなんかないって思ってたのに……」
「目の前にいるじゃないか。お互いに」
食い下がる情けない自分を自覚していた。
「これ以上、一緒にいられないの」
「なぜ!?」
「もう聞かないで。お願い」
由希子の唇がわななき、激しく弘明の胸にしがみついてきた。
「お願い、もう時間がないの。私のこと、忘れないで。
今夜のこともずっと。約束して」
「……」
弘明は由希子の背に腕を回しきつく抱きしめながら、
アトリエに来てからの時間が、
何か大切なものを壊してしまったのかと、後悔していた。
みじめな気持ちで階段を降りると、
タクシーが後部座席のドアを開けて待っていた。
タクシーに乗り込む前、由希子のいるはずの部屋を見上げたが、
既に灯りは消えていた。
タクシーは弘明を乗せると、行き先も聞かずに走り出した。
暖かい部屋から放り出されたショックは、依然として続いていた。
外国であることも作用していたかもしれない。
ふと、運転席にドライバーがいないことに気付き、
弘明は動揺したが、強烈な睡魔が覆いかぶさってきた。
遠のく意識の中、タクシーが深い霧の中を泳いでいるように感じた。
弘明は起き上がると、体中の泥や砂利を払った。
足下には自分のバッグもある。周囲には、多種多様な形の墓石、
石造りの十字架が混在している。
(なぜ俺は墓地に?)
弘明の目の前にまだ古くない、石の十字架が立っていた。
近づいて墓標を読むと、アルファベットで
「YUKIKO KUSUNOKI 1973―2006」と刻まれていた。
由希子の墓である。確かに彼女は1973年生まれだ。
しかし、2006年で亡くなったことになっている。
弘明は信じられず、刻まれたアルファベットを指先でなぞった。
では、昨日会った、2011年の楠木由希子は誰だったというのか?
洋服がずぶ濡れのせいで震えるほどに寒かった。
弘明は駆け出した。真っ白な息を弾ませながらゲートをくぐり、
墓地の敷地外に出た。通りかかった初老の白人男性に尋ねた。
「エクスキューゼ・モワ。ウ・ソム・ヌ(失礼、ここはどこですか)?」
男は、弘明のひどい身なりに眉を潜めた。
酔っ払いか何かと勘違いしているようである。
確かにいくらかワインに酔っていたかもしれないが、
泥酔したつもりはなかった。
「ペール・ラシェーズ」
「ペール・ラシェーズ?」
「ウィ」
ペール・ラシェーズ墓地。
パリ二十区にある巨大な共同墓地。
敷地内にはエディット・ピアフ、
ドアーズのジム・モリソン、ショパンなどが永遠の瞑りについている。
あのタクシーにここまで運ばれてきたのだろうか。
悪い冗談だ。弘明は思い出したように、所持品に異常がないか確かめた。
バッグの中身をざっとみたが、一眼レフは無傷で財布の中身も無事だった。
衣服は救いのないほど汚れてしまったが、身体に外傷はないようだった。
弘明はバッグから携帯を取り出した。
幸い雨を吸い込んではいない。弘明は倉田の携帯に電話した。
「すまない、待ち合わせの時間に間に合いそうもない。直接会場に行くよ」
「あれ? FAXがホテルに届きませんでした?
今日の取材は主催者都合で明日に延期になりましたよ」
「何だって? また延期になったのか?」
「また? 延期になったのは今回が初めてですけど。
とにかく今日はないですから」
まるで昨日と同じようなやりとりをしていると、弘明は思った。
「倉田君、今日の日付を教えてくれないか?」
「時差ボケですか? 3月23日ですよ」
おかしい。3月23日は昨日過ごしたはずだ。
由希子と一緒に。弘明は混乱の極みにあった。
「確かなんだろうな? 本当に今日は3月23日なのか?」
「そんなこと、嘘をついてもしょうがないでしょう」
倉田は機嫌を損ねた言い方をした。無理もなかった。
昨日からの不可解を倉田が理解できるはずがない。
弘明は財布の中のカルネが無事であること確認すると、
地下鉄の階段を駆け降りた。
オテル・グランゾムの宿泊者名簿に、弘明の名前はなかった。
しかし、今日の午後からの宿泊予約が入っていた。
チェックインは午後3時からだと言われたが、
クラークに30ユーロを握らせ、
無理に部屋をあてがってもらった。
宿泊の手続きを最初からやり直す羽目になった。
シャワーを浴びると弘明はすぐに外に出た。
再び由希子のアトリエに向かうためである。
あんなハッキリした夢などあるはずがない。
白日夢を見るほどの妄想癖はない。
弘明は自分に強く言い聞かせていた。
リュクサンブール公園の脇でタクシーを捕まえた。
由希子のアトリエの場所は憶えていた。
ビル・アケムの橋からさほど離れていない位置にある。
弘明は記憶に鮮明な階段を駆け上がり、
最上階のドアを激しくノックした。
わずかなドアの隙間から覗いているのは、
警戒心をあらわにした見知らぬ老婆だった。
「ボンジュール」
弘明は挨拶したが、老婆は返事をしなかった。
ドアチェーンはかかったままである。
「ジュ・シュルシェ・アン・ファム・ジャポネーゼ(日本人女性を捜しています)」
「ノン!」
ドアは冷たく閉ざされた。
弘明はしばらく立ち尽くしていたが、
もう一度ドアをノックしかけてやめた。
弘明はペール・ラシェーズに行くしかないと思った。
あの十字架に刻まれていた名前が本当に由希子のものかどうか、
もう一度確かめる必要があった。
帰国後、弘明は由希子の実家がある、大分県の湯布院を訪ねた。
由希子の身に何が起こったのか、確かめるつもりだった。
ペール・ラシェーズで確認したあの十字架には、
やはりYUKIKO KUSUNOKIと、はっきりと刻まれていたからだ。
由希子の両親と妹が出迎えてくれた。
楠木家は駅前で、観光客相手の土産屋を営んでいた。
居間に通されると、弘明が良く知る由希子のポートレートが
仏壇に飾ってあった。弘明は、穴があくほどの胸の痛みに射抜かれた。
事のあらましは遺族からの説明と、彼女の妹が保管していた
当時のスクラップ記事からの推測も含まれる。
2006年3月23日午後。パリ、カルティエ・ラタン。
ドビルパン首相(当時)が打ち出した新雇用法(CPE)に
反発したデモ隊の一部が暴徒化した。
ソルボンヌ大学周辺で暴動が発生し、機動隊と乱闘騒ぎを起こした
コミュニストたちの一団が、画材道具を購入して店を出た直後だった由希子と
鉢合わせになった。曲がり角の出会い頭、いきなり棍棒のようなもので
側頭部を殴りつけられ、由希子は冷たい地面へと転がった。
由希子の身体の上を10数名の健脚が蹂躙し、暴風雨のように駆け抜けた。
路上に打ち棄てられた由希子の頭部から、
流れ出した血潮が石畳を染め、抱えていた画材道具も、
残らず路上に散らばっていた。
救急車が到着した頃には、由希子は搬送中に心肺停止状態に陥り、
午後3時59分に死亡が確認された。
夢にまで見ていたパリでのアーティスト生活は、
到着からわずか3日で断ち切られたのだった。
ペール・ラシェーズの墓は、画廊のオーナーの計らいで
用意されたものだと妹に聞いた。遺族は遺骨の半分をパリに残し、
もう半分を湯布院の楠木家の墓に納めた。
弘明は湯布院の墓地を訪ねた。弘明は墓前で手を合わせながら、
由希子との邂逅の意味を、自問自答していた。
由希子は「自分はパリを彷徨っている」と言っていた。
そういうことだったのか。そして5年もの間、
由希子の死を知らないままだった自分に逢いに来てくれたのだ。
由希子は断ち切られた夢のつづきを、たった1日だけ
弘明と一緒に生きようとした。
帰りの飛行機の中で、弘明は窓側に顔を向けたまま泣いた。
由希子のために泣くことが、どこか心地良かった。
帰京後、震災で行方不明だった近田から、Eメールが届いていた。
近田は津波の魔の手から逃れ、仙台の若林小学校に身を寄せていたという。
由希子が言った通りだった。弘明は〝すぐ仙台に行く〟と近田に返信し、
部屋を飛び出した。
2011年作品(了)