「小児」病棟
※この作品には犯罪描写があります。
「あ、だめだよにっちゃん。その日は。もうちょっとあとに退院しな」
退院日を報告すると、同室のちーちゃんはそういってすぐにケータイに目を戻してしまった。
ちーちゃんは保険に凄くくわしい。何度も入院しているかららしい。よくわからないけど、ちーちゃんのいうことは、保険に関してはほとんど正しい。先に退院したまさくんのママが、退院日をかえてもらったほうがよかったといっていた。
わたし達みたいに、長期でも短期でも入退院を繰り返す子を持つ親としては、「はやく帰ってきてほしい」よりも「なるたけ出費を抑えたい」になるのは、仕方のないことだ。実際のところ、おうちよりも病棟のほうが安心できるし、退院したくないっていう子も居る。
退院したくないっていうろくちゃんは、おうちが近いからそういうことをいえるのだ。毎日お母さんや、お姉さん達がお見舞に来てくれる。それもその筈で、ろくちゃんの家族はろくちゃんにいい治療をうけさせる為にこの病院の近くに越してきた。
病院から歩きで五分のところに住んでるんだもん、毎日お見舞に来てくれて当然だし、もし退院したあとになにかあってもろくちゃんはすぐにこの病院へ来ることができる。
わたしはおうちが遠いから、はやく退院したい。週に一回、ここから出られるけれど、それって検査の為だし。
ちーちゃんはケータイをいじっている。彼氏とお話しているのだ。隣のベッドだから、身をのりだせばショートメッセージのやりとりが見える。見ないけど。
「よかったね、にっちゃん」
「うん」
向かいのベッドから声がした。そこに居るのはうーちゃんだ。うーちゃんははずかしがり屋さんで、常にカーテンを閉めている。食堂に集まってご飯を食べる時以外、うーちゃんはほとんど姿を見せない。
凄く可愛い子なんだけど、ひとからぶすだと思われるのがいやだから、隠れてるんだって。ひとに怒られたり怒鳴られたりするのがいやだから、廊下にもあんまり出ない。可愛いよといっても信用してくれない。
うーちゃんは隠れているけれど、お喋りはしてくれる。
「わたしももうそろそろ退院だよ」
「そうなの?」
「うん」カーテンが揺れた。「ママがいってた。あと二週間くらい。今度は一ヶ月、おうちに居られるかも」
「じゃあ、退院したら、一緒に遊びに行こうよ」
「うん。うみ、水族館行きたい」
行こう行こうとはしゃいでいると、廊下から声がした。「にっちゃん、退院だって?」
顔を向けると、まさくんが立っていた。「あ、まさくん」
「まさし、あんたまた入院?」
ちーちゃんが呆れた調子でいうと、まさくんははにかんで笑った。ひょろっと背が高くて、顔色が悪い。不自然な色黒さだ。
「数値が悪いんだって」
「まさくん、海行った?」
うーちゃんが可愛らしい声で訊いた。カーテン越しの声にも、まさくんはおどろかない。うーちゃんがそういう子だと理解しているから。
「うん。行ったけど、帰りの電車から降りたところで倒れちゃった」
「えっ、大丈夫なの?」
うーちゃんがカーテンをそっと動かし、目をのぞかせる。うーちゃんはまさくんが好きなのだ。
ふたりはこの間まで付き合っていた。まさくんが退院してしまって、病棟はケータイ持ち込み禁止だから連絡がとれず、自然消滅したのだ。少なくとも、うーちゃんはそう考えていた。
でも、まさくんの様子を見て、そうではないとわかったみたいだ。「大丈夫だよ。うーちゃんは元気だった?」
入院していて、元気だった? もないような気がするが、わたし達は再会した場合、この言葉を口にする。どうしてだろう。でもそれ以外に、いいようはないのだ。血糖値どう? とか、尿タンパク大丈夫? 発作はどれくらいの頻度になった? なんて、訊けないし。
「うみは元気」
うーちゃんの目は嬉しそうに笑っていた。さっとカーテンに隠れ、可愛いことをいう。「まさくんがお手紙くれたら、もっと元気だったよ」
「ごめんね」
まさくんは謝って、にこっとした。
「あ、まさくんだ」
ろくちゃんの声がして、ちっちゃいろくちゃんがとことこやってきた。ろくちゃんはまだ五歳で、わたし達のなかで一番小さい。
まさくんがかがんで、ろくちゃんと目の高さを合わせた。「ロク、おはよ」
「おはよ」
ろくちゃんはにこにこしている。ふわふわした髪の毛が、ろくちゃんの動きに合わせて弾んだ。「あそぼ」
「いいよ。ベッド確認してきてからね」
ろくちゃんは頷いて、もときたほうへ戻っていった。まさくんはまっすぐ立つ。「じゃあ僕、307だから。きよくんみちるくんと一緒」
「おけ」
「まさくん、わたしが退院したら、うーちゃんのことちゃんと見ててね」
うーちゃんが、にっちゃん! と叫んで、まさくんは声をたてて笑った。
「よかったね、予定よりもはやくに退院できて」
「はい。36度6分です」
「問題なしです。よかったね」
担当看護師の山辺さんはそういって、わたしのさしだした体温計をワゴンへ戻した。もっと簡単に体温を測る機械もあるけれど、ここの備品は古い。
「二宮さんは、えっと、御園だったっけ」
「はい。電車で二時間」
「ああ、それは、本当に」
本当になんなのか、山辺さんはいわないで、わたしのテーブルを軽く撫でるみたいにした。
「にっちゃん、これ」
ご飯のあと、ちーちゃんがトイレへ行って、うーちゃんがカーテンから出てきた。ちーちゃんとうーちゃんはあんまり仲がよくない。
ちーちゃんは小学生だけど、こっそり持ち込んだケータイで彼氏と話してるし、コスメも持ち込んじゃだめなのに持ち込んでる。うーちゃんは中学一年生でわたしと同い年だけど、入院している期間が長いから、ちーちゃんみたいなタイプの女の子には慣れていない。
うーちゃんは長くてふわふわした髪の毛を揺らしながら、ふわふわっとこちらへやってきた。着ているワンピースもふわふわしている。うーちゃんは小さくて、可愛い。
うーちゃんはわたしのテーブルに、折りたたんだ紙を置いた。「これ、うみの住所と、電話番号」
「ありがとう」
さっと紙をとって、筆箱にしまった。ノートを破って、自分の住所と電話番号を書き付ける。うーちゃんに渡すと、うーちゃんはにっこりした。
「うみ、お電話していい?」
「いいよ。でも、月曜日と金曜日は塾があるから、それ以外の日にしてね」
「うん」
ちーちゃんのあしおとがしたので、うーちゃんは慌てて自分のベッドへ戻った。「にっちゃん、明日のおやつ、かちわりだって」
「おお、嬉しい」
退院まではあと少し。
わたしはお遊戯室で、ろくちゃんに絵本を読んでいた。ろくちゃんは綺麗なお母さんと、歳の離れたお姉さん達が居て、その所為か、男の子同士で遊ぶよりも女の子と遊ぶほうが好きだ。
「ロク、俺ににっちゃんかして」
「みちるにい」
ろくちゃんがにこにこした。頷いて絵本をわたしの膝からとりあげ、お遊戯室の隅っこ、監視カメラの死角に居るちーちゃんのところへ行く。そこなら、部屋以外でもケータイをつかえるから、ちーちゃんはそこにクッションを積み上げて座っていることが多い。
ここは子ども達が多いから、監視カメラも沢山あるのだ。
ろくちゃんを追い払った背高のっぽのみちるくんは、ろくちゃんが座っていたところに腰を下ろした。ふざけてわたしの膝へ寝転がろうとする。「みちるくん」
「冗談々々」
みちるくんはけたけた笑った。呼吸にいやな音がまざる。みちるくんはひどい喘息だ。この間まで、個室で面会謝絶だった。だから、しばらくぶりに顔を合わせたのだけれど、そういう感じはしない。
みちるくんはちょっと、淋しそうな目だ。
「にっちゃん、退院なんでしょ」
「うん」頷いた。「もう少しだよ」
「じゃあ、これくらいいいじゃん」
みちるくんはそういって、本当にわたしの膝を枕にした。わたしは今度は追い払わない。
ちょっとだけどちらも黙っていた。
「退院の前にさあ」
「みちるくん」
わたしはみちるくんの額に手をのせた。手を滑らせて、みちるくんの目を塞ぐ。みちるくんは口を噤む。
「わかってるよ。みちるくんの気持ちは」
「……うん」
「きよくんもだよね」
うんとみちるくんはいう。
わたしは微笑んだ。
「みちる」ちーちゃんの鋭い声が飛んでくる。「にっちゃんに変なことしたら、殺すよ」
「みちる、にっちゃんにまとわりつくなよ」
きよくんが大声を出したのは、お昼ご飯の時だった。
いつもならわたしは、うーちゃん、ちーちゃん、ろくちゃんと同じテーブルにつくのだけれど、今日はみちるくんと同じテーブルに居た。そこへ、きよくんがつかつかやってきたのだ。
みちるくんはにやにやして、スポーツ刈りの頭を撫でた。ずっとやってきた野球を、喘息で休んでいるみちるくんは、それでもその髪型を辞めない。
きよくんはテーブルに手をついている。
「にっちゃんはさ」
「お前がにっちゃんと一緒のテーブルがよかったんだよな?」
みちるくんが茶化すと、きよくんが赤くなった。きよくんの手がみちるくんの肩口をつかみ、隣のテーブルのまさくんが慌ててやってくる。
「きよくん、みちるくん」
「まさしは黙ってろ」
きよくんがいつになくきつい調子でいった。みちるくんはにやにやしている。わたしはぼんやり、ふたりを見ていた。
ちーちゃんが看護師を呼び、ふたりは大きな喧嘩はしなかった。きよくんは結局わたしの隣に座り、みちるくんを睨んでいる。
みちるくんはわたしを見てにやにやしていた。面白いよな、とでもいいたげに。
隣の部屋のひなちゃんと、ちーちゃんが喧嘩したのは、ランドリールームでだ。
看護師さん達が走って行って、わたしときよくんは手をつないでそちらへ行った。「どうしたの?」
「あ、二宮さん、清田くん」
師長と、魚住さんが、困り顔になっていた。ランドリールームの床には、看護師の白衣や、包帯、シーツ、雑巾、カラフルなシャツやずぼん、下着などが散乱していた。乾燥機や洗濯機の中身を全部ぶちまけたみたいだ。ここのランドリールームは、患者も看護師もつかう。
ひなちゃんが乾燥機の前を塞ぐように立ち、ちーちゃんがものすごい顔でそれを睨んでいる。
ひなちゃんは凄くふとっていて、身長も高い。ここにはいっている女子で一番大きい。二番はわたし。男の看護師さんでも、ふたりくらいしかひなちゃんより大きくない。ちーちゃんは細っこいのに、それに向かっていった。魚住さんがふたりの間にはいる。
「どうしたの? どうして喧嘩してるの」
「あたしが先に乾燥機つかおうとしてたのに、日永が邪魔したんだよ!」
「はあ?」
ひなちゃんがばかにしたみたいに鼻を鳴らした。目をわざとらしくぐるぐるさせる。「わたしが先にお金いれたんだけど」
「邪魔したからだろ!」
「どうしてあんたに譲らないといけない訳? 意味わかんない」
徹底してばかにした調子のひなちゃんに、ちーちゃんがわめいて飛びかかろうとした。魚住さんが抱き留める。「乾燥機ならもうひとつあるでしょ」
「そっちはやだ!」
「子どもみたいだねえちひろ」
「うるさい! デブ女!」
それはひなちゃんにはいってはいけない言葉だ。あっという間に、色白のひなちゃんの顔がまっかになった。牛みたいに吠えて、ちーちゃんに掴みかかる。師長がひなちゃんの腕を掴んで、ひきはなす。
師長がわたしときよくんを見た。
「二宮さん達、諏訪さんを呼んできて!」
わたしは頷いて、きよくんをその場に置いてランドリールームを出た。
諏訪さん……らんちゃんは、ひなちゃんの同室だ。ちょっとふっくらしていて、優しい。ひなちゃんがキレても、幼なじみのらんちゃんならなだめることができる。
わたしはらんちゃんに、ランドリールームでひなちゃんが暴れていることを伝えた。らんちゃんはすぐにランドリールームへ行ってくれて、ひなちゃんとちーちゃんの喧嘩はなんとか収まったらしい。
その最中に、ほんの少しの間だけ停電があったけれど、発電機が動いたから問題ないみたいだ。患者の為に動いている機械はとまっていないらしい。監視カメラやエレヴェーターは、一分くらいつかえなかったときいた。わたし達には関係のない話だ。
そうそう、その間に病棟を抜け出したって、まさくんが叱られた。まさくんは、うーちゃんがほしがっていた綺麗な千代紙を、喧嘩で看護師達が慌てている間に、売店まで買いに行ったのだ。うーちゃんの為だと聴いて、師長はまさくんをそれ以上叱らなかった。うーちゃんはみんなに好かれている。
喧嘩が煩かったと、抗議があったそうだけれど、わたしとまさくんとみちるくんは、その話をして笑った。
その日の晩、ちーちゃんは相変わらずケータイをいじっていて、うーちゃんはカーテンの向こうから出てこない。わたしはみんなからもらった色紙を眺めていた。きよくんは、退院しても忘れないで、また会おうね、と、何度も書いている。みちるくんは、カラーペンでキスマークを書いていた。
「ねえ」
わたしとちーちゃんは、びくっとしてそちらを見た。
出入り口の近くに、らんちゃんが立っている。らんちゃんは目をいっぱいに開いていた。
「なによらん、脅かさないで」
「ちひろ、にっちゃん、見た? 奥の棟」
奥の棟、というのは、わたし達子どもが入院しているフロアと、わずかな空間をはさんで存在しているフロアだ。間には、ランドリールームや、お風呂、お遊戯室などがある。
同じ病棟なのだけれど、そちらには大人達が入院している。
わたし達が廊下でお喋りしていると、そういうひと達やその家族から、煩い、って、看護師さん達にクレームがつく。だからわたし達は、廊下に出ている時はあまり喋らないようにしている。食堂やお遊戯室にはいって、そこでお喋りしたり、遊んだりするのだ。
何度もここに入退院を繰り返しているうーちゃんによると、昔はそちらも子ども達の病棟だったらしい。それは、やっぱり昔から入退院を繰り返しているひなちゃんもいっていた。
でも、子どもの患者が増えて、あたらしい病棟ができた。わたし達の病棟の、北の窓から見える病棟だ。中庭をはさんで向こうの病棟は、ここよりも明るくてここよりもひとの出入りが激しい。
わたしは最初、そちらにはいっていた。でも入院が長引きそうだということになって、こちらに移ったのだ。ここは入退院を繰り返している子や、入院が長引きそうな子がはいる病棟で、あちらはすぐに退院する子がはいる病棟。そういうふうになっている。
ここはとてもいいところだ。人間関係が少し複雑だけれど、いじめとかはずしはない。みんな、なかよくしている。
新しい病棟ができて、こちらの病棟がスカスカになったから、病棟をまんなかでふたつに分けて、ナースステーションもふたつつくって、長期入院の子ども用と、長期入院の大人用にした。それが、工事中別の病棟に居たうーちゃんの情報だ。
だからほんとは、大人のほうがあとから来たんだから、廊下で騒ぐななんていっちゃいけないんだよって、うーちゃんは怒っていた。怒るというか……こわがっていた。怯えてた。
その大人の病棟が、なんだというんだろう。
らんちゃんは震える声でいう。
「だれかしんじゃったみたい」
「え?」
「ほんとに? らん?」
らんちゃんはこっくり頷く。とても怯えている様子だ。
わたしとちーちゃんは目を合わせ、それからベッドに体を預けた。わたし達はどちらもベッドの上半分をななめに上げているので、目の高さはそんなにかわらない。
ちーちゃんはケータイいじりに戻り、わたしはおなかの上で両手を組む。
「あっそ」
「あっそって、ちひろ」
「らん、あんたここに来て短いから知らないんだろうけどさ、そういうの別にめずらしくないから」
らんちゃんの顎が外れたみたいにがくっと下がった。
実際、大人が死んでしまうのは、めずらしいことじゃない。
大人だけじゃなくて、子どもが死ぬこともある。
わたし達はもう、驚かない。知っている子が死んだら哀しいけれど、知らない大人が死んでしまっても、そんなの知らない。
それにもしかしたらそのひとは、廊下で騒ぐなと文句をいってきたひとかもしれない。
らんちゃんは困ったみたいな顔になって、どこかへ行った。ちーちゃんがいう。
「うみ、よかったじゃん。このままあいつらいなくなってくれたらいいね」
その言葉には気持ちがこもっていた。
ちーちゃんとうーちゃんは、なかよくない。
うーちゃんはちーちゃんみたいな、明るくて強引なタイプは苦手だし、ちーちゃんはうーちゃんを、うじうじしてて泣き虫であざといって悪口をいってた。
でも、病棟仲間だし、子ども同士だ。わたし達は、外部からの攻撃には結束する。
うーちゃんは、大人達が理不尽に、廊下で騒ぐなといってきた頃から、廊下にほとんど出なくなった。前はふつかに一回、一緒にランドリールームでお洗濯していたのに、今はうーちゃんママが来てそれをやっている。ランドリールームには大人の患者や、その家族も来るからだ。
わたし達は屈しない。ずっとそう思っていた。
うーちゃんが小さな声で、うん、といった。
大人は何人か死んだらしい。
看護師はわたし達に、くわしいことを教えてくれない。
きよくんがストレッチャーの数を数えて、六人だっていっていた。
ちーちゃんとわたしは、へえそう、というだけだ。
「にっちゃん、ほんとにまた会おうね」
「なにいってるの」
わたしはしばらくぶりに、うーちゃんを間近で見ていた。うーちゃんの小さくてお肉があんまりついていない手を握る。「来週、水族館ね。木曜日」
「うん」
「夏休みが終わる前でよかったよね」
ちーちゃんがケータイをいじりながら口をはさむ。わたしもうーちゃんも笑った。
わたしは今日退院する。
荷物は、お母さんが今、タクシーに積んでいる。わたしは色紙を胸に抱いて、廊下へ出た。うーちゃんも一緒だ。
みちるくんが出入り口のすぐ外に居た。ここの病棟は、自分がはいっている以外の部屋へはいることはできない。
みちるくんは片手を上げる。
「よ」
「みちるくん」
「うみ、あたしらは邪魔しないようにしよ」
ちーちゃんがにやにやして、うーちゃんと一緒に部屋へ戻っていった。わたしは苦笑いでそれを見て、みちるくんと一緒にお遊戯室へ行く。
監視カメラの死角にはいると、みちるくんがポケットからとりだしたものをわたしはうけとった。
「よかったな」
頷く。監視カメラは映像だけしか撮れないものだ。心配ない。ずっとここで、話し合ってきた。
みちるくんはわたしの手をとって、ぎゅっとした。
「お前、勇気あるよ」
「そうでもないよ」
みちるくんは頭を振る。
ちょっとだけ移動した。それだけで、監視カメラにはいる。みちるくんはわたしに軽くキスした。わたしはみちるくんにくっつく。
「ありがとうね」
「俺、けっこうほんとにお前のこと好きだぜ」
「わたしもみちるくんのこと好きだよ」
みちるくんの胸から、がさがさした音がする。
「協力してくれたし、いいひとだから」
うーちゃんがカーテンの奥に隠れるようになったのは、うーちゃんを傷付けた大人がいるからだ。
うーちゃんは可愛い。内臓の一部がきちんと機能していなかったり、唇の形がひとと違うけれど、それはうーちゃんの所為じゃない。誰の所為でもない。何度も手術して、頑張っているのに、誰に文句をいわれることでもない。うーちゃんはあのままで充分可愛い。
うーちゃんは可愛いし優しい。おなかのなかに悪いものができてしまったわたしに、変な同情じゃなく、優しくしてくれた。ひどいアレルギーのちーちゃんにだって、腎臓の悪いまさくんやろくちゃんにだって、喘息のらんちゃんきよくんみちるくんにだって、病気でふとっているひなちゃんにだって、うーちゃんはずっと優しい。
うーちゃんはこの病棟の良心だ。うーちゃんが居たから、わたし達は喧嘩はしても、いじめをしたりすることはなかった。ちーちゃんの口が悪いのは仕方のないことだ。
あたらしい病棟では、何度もいやな思いをしたのに、ここは居心地がよかった。
だから、廊下に居たうーちゃんを、ばけものだといった大人を、わたし達はゆるそうとは思わなかった。
らんちゃんとろくちゃん、それにうーちゃん当人は知らない。
まさくんは、無理に退院した。どうしても退院したいっていって。それは、ここ以外を調べる為だ。この病棟以外を調べる為。そして、どこに行ってなにをしたらこの病棟の監視カメラが動かなくなるか、わかった。
きよくんとみちるくんは、機械にくわしい。だからまさくんと三人で相談して、停電の方法を考えてくれた。どうやったのか、わたしやちーちゃんはしらない。それぞれ、知っていることが少ないほうが安全だと判断した。
わたしとちーちゃんは、週に一回、病棟から出て検査をうける。幾つか同じ検査があって、わたしかちーちゃんのどちらかが待っている時間ができる。一緒に行動するのだ。
わたしはタイミングをはかって、「はいってはいけない」といわれている場所へはいった。そこが、薬を保管しているところだというのは、きよくんが調べてくれたから知っていた。
そこでわたしは、まさくんからいわれたとおりのボトルを盗んだ。
それが毒なのか、なにかの薬なのか、知らない。
でも手にはいった。わたしはそれを病棟へ持ち帰った。お遊戯室でみちるくんにそれを渡すと、しばらくして注射器を渡された。それは誰が手にいれてきたのか、わたしは知らない。
実行するのはわたしとみちるくんだ。わたし達はどちらも、中学生にしては背が高い。
うーちゃんをいじめた大人が誰か、わかっていた。それにみちるくんは、喘息の子どもが居る病棟でこっそりたばこを吸っている大人の存在も把握していた。
ここは「小児」病棟なのに、大人達はわたし達に敬意を払おうとしない。
そこに入院している大人達は、ほとんどが手を尽くしてもどうにもならないようなひと達らしい。だからうみをいじめても平気なんだって、まさくんは顔をまっかにして怒っていた。
わたし達は絶対に、報復する。きよくんとみちるくんがわたしを巡ってぎくしゃくしているように見せたのも、その為だ。ふたりが喧嘩をしているように見せる必要があったらしい。それは、まさくんのいっていたこと。
ひなちゃんとちーちゃんが、ランドリールームから白衣を盗んだ。大きなひなちゃんが服の下に隠してお遊戯室に運び、カメラの死角のクッションの下へいれた。
ひなちゃんとちーちゃんが喧嘩を始めたら、わたしときよくんはわざとそこへ行く。そして、らんちゃんを呼んできてといわれたら、わたしが呼びに行く。その間、きよくんはトイレに隠れて、ちーちゃんが隠し持っていたケータイで、やっぱりケータイをこっそり持ち込んでいたまさくんに連絡する。
まさくんが病棟を出て、停電を起こす。
わたしとみちるくんはお遊戯室で、白衣にきがえる。
注射器を持って、大人達の部屋へ行く。
大人達は淋しいのかもしれない。お見舞に来ているひとは居なかった。居たとしても、ちーちゃんのコスメをかりてお化粧したわたしと、のっぽのみちるくんが白衣を着ていれば、見慣れない看護師だと思うだろう。
大人達はわたし達の顔なんて見ていない。うーちゃんは可愛いのに、唇の形がひととちょっと違うだけでいじめたんだから。
わたしの退院がはやまったから、計画もはやまったけれど、よかったんだと思う。
わたし達は注射器をつかって、点滴になにかをまぜた。うーちゃんをいじめた大人と、たばこを吸っている大人と、その家族が誰か、調べたのはちーちゃんだ。ちーちゃんの彼氏も昔ここに入院していて、うーちゃんを知っている。ケータイでここの名簿を写真に撮ってくれた。
わたし達は愛想よくした。停電で驚いた所為で数値が悪くなっているといったら、だれも疑わなかった。わたし達は、看護師の真似をしただけ。いつもわたし達を、嘘でなだめる。
監視カメラが回復する前に、わたし達はお遊戯室でもとの服に戻り、みちるくんが白衣を持ってランドリールームへ行った。そちらではまだひなちゃんとちーちゃんが喧嘩のふりをしていたから、みちるくんがこっそり白衣を戻しても誰も気付かなかった。わたしはその間に、トイレで顔を綺麗に洗った。
床に落ちた白衣はすぐに洗われている。わたし達が着たって証拠はない。
みちるくんは体がうすい。呼吸の音ががさがさしている。入院は半年以上で、だから野球で鍛えていた体もすっかり細くなってしまった。
「俺、なんとか、治すからさ。お前もちゃんとしてろよ」
「うん」
そう返したけれど、うまくいくかはわからない。担当医は、君みたいなタイプはまた来ることになるだろうから、と、笑顔でわたしの退院の挨拶を遮った。
でもそれでいいのかな。
わたしはみちるくんに、とびきりの笑顔を向けた。
「またここに来たら、その時はみちるくん、また膝枕してあげる」
みちるくんもにこっとして、もう一度わたしにキスした。わたしはみちるくんを抱きしめて、好きだよといった。
ポケットのなかでは注射器がからから音を立てている。駅まで十五分、電車でおうちの最寄り駅まで、二時間以上。
何ヶ月もベッドに縛り付けられ、検査以外では病棟から出ることもできなかった娘が電車内をうろついても、お母さんはなにもいわない。わたしは七分丈のジーンズと花柄のタンクトップ、白いカーディガンで、がらがらの車内を端から端まで何度も歩いた。
お母さんは勝手に色紙を読んでいるだろう。みちるくんからのふざけたキスマークや、きよくんがもう一度会おうねとやけに念押ししていることを、微笑んで。
一時間程で、まさくんが行ったという海が見えてきた。この電車は、海のすぐ傍を通る。本当にすぐ傍を。
わたしは誰も居ない車両の窓を開けた。カーディガンのポケットに手をいれ、ふたつの注射器をとりだす。野球の好きなみちるくんに指南されたとおりに投げると、注射器はふたつとも、きらきらしながら海へ落ちていった。
窓から身をのりだして、海風に身を任せる。
来週の木曜日は、うーちゃんと水族館だ。