始まりの約束
新たなシリーズを書き始めました。
拙い文章ですが、読んでいただけると嬉しいです。
その日は、朝から雪がしんしんと降り続いていた。
前日まで晴れていたのが嘘のように、地面には雪が覆い隠すように積もっている。人々が暮らす街があったはずのその場所に、今は建物一つ見当たらない。生活の痕跡も、崩れたはずの瓦礫も全て白い雪の下だ。
そんな寂しさを誘う地に、一人の男の嗚咽が響き渡る。彼の周りには一人の金髪の少女と、その他にも大勢の人々が横たわっていた。
どこからか拭いた風に、男の灰色の髪がなびく。
「はぁっ、はぁっ……」
男は肩で息をしながら「どうして……どうして……」と繰り返し呟いた。右手に握られていた大剣が雪の上に滑り落ちる。
「どうして、君が。どうしてこんなことに――」
彼はもう一度呟くと、雪の上にがくりと膝をつき、金髪の少女を大事そうに抱きかかえた。少女の顔には真っ二つに割れた黒い仮面が半分ほど残っている。男がそれをどけてやると、彼女は男の方に視線を向け静かに微笑んだ。
しかしその微笑みとは対照的に男の手には生ぬるい液体が伝わっていく。気が付けば彼女の周りには赤い染みが広がっていた。
「あぁ……ぁ、すまない、イオ。俺はこんな、つもりじゃ――」
もちろん男は謝って済む話ではないと分かっていた。けれど彼は――「破壊」を司る神、ディスペディアは謝罪の言葉を口にしていなければ最早正気を保ってはいられなかった。
「もう謝らないで、ディスペディア。私は貴方を止めることが出来なかった。ただ、それだけのことなの。だからもう、自分を責めないで」
金髪の少女――イオはやっとのことで声を震わすと深く息を吐いた。おそらく言葉を発するだけで辛いのだろう、ディスペディアがどれだけ傷を押さえても彼女の血が止まりそうな気配はない。
何故あの時気づけなかったのだろう、とディスペディアは自分に問いかけた。
毎日のように会っていた彼女の姿を。愛している彼女のことを。黒い仮面を付けただけの彼女の姿に何故気づかなかったのか。
ディスペディアには冷静な判断力が失われていただろう。彼の心は怒りに蝕まれ、感情に身を任せて殺して殺して殺し続けた。
人間が神に背いたことが許せなかった。人間が裏切ったことが許せなかった。
理由を挙げようと思えばいくらでもあっただろう。そしてディスペディアは制裁と称し、本能に従って「破壊」したのだ。
我に返った時にはもう遅かった。彼の手はすでに、愛する存在を切り裂いていたのだから。
抱いた腕からイオの体温が失われていくのを感じ、ディスペディアは自分に宿った力の強大さと同時に無力さを呪った。
「神」であるはずの男は、消え去ろうとする命の前で何も為す術はなかった。
「破壊」を司る神には目の前の一人を助けることすら出来なかった。
「ディスペディア――」
イオは何かを逡巡した後、絶望に呑まれそうになったディスペディアの名を呼んだ。
「本当にヒトは愚かでどうしようもないわね。私たちが神になんて勝てるはずがないのに。たとえ私のように特別な存在でも、貴方に敵うことなんて出来ないの。それなのにヒトは神に宣戦布告したわ」
イオはそう言いながら首だけを動かし辺りを見渡した。二人の周りに横たわる者たちはみな、苦しみの表情を浮かべながら事切れていた。この場所だけではない。実はここは戦いの最後の砦だったのだ。ディスペディアがここへ辿り着くまでの戦場ではより残酷な光景が広がっていた。
「それでも、壊したのは俺だ。全部、全部壊した――」
ディスペディアは自らの行為を思い出すようにイオを持つ手に力を込めた。ヒトの倍はあろうかという巨身が肩を震わしているその姿はどこか滑稽だった。
二人が見つめる先には赤く染まった空がある。この星は――終わるのだ。
たった一人の男によって滅びゆく。
まだヒトはいくらか生き残っているだろうが、これから生き延び暮らしていくのは不可能なほど、この星は壊れてしまっていた。
「きっとここで亡くなった人々には家族がいて、それぞれの生活があって。まさかあの平和だった日常がこんなあっけなく終わるなんて思いもしなかったでしょうね」
イオは自分が戦場へ赴く前までずっと戦ってくれた兵士のことを想い、せめてもの償いとして脳裏に彼らの顔を思い浮かべた。負けると分かりきった戦場に兵士たちを送り込むことになったのをイオは今でも後悔していた。けれど一方で破壊の元凶であるディスペディアに対して怒りが湧いてこないのは何故なのか、彼女自身正確な答えを見つけられていなかった。
「ねぇ、お願いがあるの――」
絶望に打ちひしがれていたディスペディアの耳に消えそうなイオの声が届き、彼は反射的に頷いた。その彼に応えて、イオは今まで通りまっすぐに視線を交わして言葉を紡いだ。
「どうかこんな愚かなヒトでも、私たちのことを見捨てないで。貴方が手に掛けた一人一人を、どうか忘れないで」
ディスペディアが当たり前だろう、という顔をするとイオは安堵のため息を吐いた。おそらくディアスペディアが地上に降り、人々を襲ったのは彼の独断ではないだろうとイオは踏んでいた。ヒトが神に宣戦布告し、攻撃を開始したからこそ「破壊」の神であるディスペディアがこの役目を担ったのだろう、と。
事実としてディスペディアは怒りに我を忘れていた訳だったが、それをイオが知る術はない。彼女が知るのは、その胸に走る傷を前に心から反省しているように見えるディスペディアの姿だけだ。だからこそイオは心の奥に潜ませていた感情を告げることを決断した。それがディスペディアの傷ついた心を癒すものであると信じて。
「私はね、もっともっと貴方と共に逝きたかった。平和に、そして穏やかに。私は貴方とただ語り合うことが、ただ同じ場所にいられることが本当に幸せだったの」
貴方は違ったの、と問いかけたイオにディスペディアは一瞬目を瞠る。イオは何も真実を知らないのだとディスペディアは悟った。同時に、その真実を彼女が知る必要などないということも。
ディスペディアはかつて彼女に向けていた穏やかな表情に戻り、彼女の髪をそっと撫でてやった。
「俺も同じだ、イオ。ただ君といるだけで幸せだった。君と見た世界がどんなに輝いていたか……。あの日々が永遠に続くことを望みさえしたよ」
それは確かにディスペディアの本心から出た言葉だった。イオと過ごしたあの日々はまるで楽園に誘われたようで――それが続くことなんて叶わないと知りつつも、お互いが自分を騙し合っていた夢の時間だった。
「だがそれは赦されなかった。『破壊』を司る俺が甘い夢を見るなんて赦されなかったんだ」
「ディスペディア――」
破壊の力。それはあまりにも強大で、悲しくて、孤独な力。この力を生まれ持った男はこれからも全てを壊し、失っていくのだろうと考えるとイオの胸は痛んだ。また同じように彼は悲しい顔を誰かに向けるのだろう、と。
「いいえ、ディスペディア。決してあきらめないで。貴方が幸せな世界を願えないなんて、そんな残酷なことはない。貴方が破壊を司るというのなら、その先には必ず『創造』があるはずでしょう?」
「……俺が、創造しろと?」
イオを抱きかかえながら周りを見渡したディスペディアは暗い表情で目を伏せた。白い雪の上に所々紅い花が咲いている。炎が木々を燃やす音しか響かない静かな世界で。イオが何を願おうとしているのか、ディスペディアには理解できていなかった。
「今のままではヒトはこの星と共に滅びゆくでしょう。けれど貴方なら、また新たな祝福を与えることが出来るはず」
「俺にまた失えと言うのか。再び生き返らせた地を、俺はいつかまた破壊するだろう。こんな想いをもう一度味わえというのか」
「私は信じてる。この悲劇を引き起こしたことに貴方は少しでも後悔の念を抱いているのなら、どうか同じ道を選ばないで。その先には貴方が私と夢見た世界があるわ」
そう言われてしまえば、男に最早返す言葉はなかった。これは償いなのだ、とディスペディアは言い聞かせる。
「俺がお前と共に光を見つけられていたのなら、こんなことは起こらなかった。お前を傷つけることなどなかった。……だから今度こそ、迷わない」
「――約束して、ディスペディア。私が幸せになれなかった分まで残されたヒトに祝福を与えてちょうだい。そして貴方が見失ってしまった光を、今度こそ創造の先で取り戻して」
確かにディスペディアの力を以てすれば、新たな祝福を与えるくらい出来ないことはない。彼は「神」なのだから。けれど星を蘇らせるほどの祝福を与えるには代償が大きすぎる。たとえ創造主となるディスペディア自身が背負うものではないとしても、彼を躊躇わせるには十分すぎる程に。
誰かが幸せを享受すればそれだけ不幸を享受する者が必要だ。それは神でさえ覆せない世界の理。それこそ世界に不幸を一手に引き受ける存在がなければ、全てのヒトの祝福を与えることなど出来ない。
それでも。ディスペディアにとってこれは最後の希望だった。
「あぁ、分かった。約束するよ。未来永劫、この星に豊かな自然を。そしてヒトの幸福を与え続けよう」
イオは唇を噛み締めたディスペディアを見、力尽きたように目を閉じる。彼女はもちろんその願いが無理を言うものだとは分かっていた。それでもディスペディアのこれからを想うとこのまま死ぬことは出来なかったのだ。いつか彼の創造した新たな「理」が、イオの見せたかった世界を与えてくれるだろうと、それだけを信じてこの地を旅立たなければならない。
「これから生まれてくる者たちに、どうか幸福な時が訪れますように――」
イオの最期の言葉は虚空へ放たれると同時、雪に吸い込まれていく。ディスペディアは動かなくなった彼女の身体をそっと横たえ立ち上がった。
『――俺はいつ、道を誤ってしまったのだろう』
「イオ。俺はいつまでも君も、今日のことも忘れたりしない」
魂の失われたイオのことをいつまでも眺めている時間はなかった。手遅れになる前にディスペディアにはやらなければならないことがたくさんある。
『――俺が君の身体を引き裂いた時か』
破壊の神であるディスペディアにとって、創造など初めてだった。しかし手伝ってくれるものなど誰もいない。どれだけの犠牲があろうと進むしかなかった。
『――それとも俺が君を愛してしまった時だろうか』
あまりにも残酷な理が、この世界を塗り替えようとしている。たった一つの約束によって、この日世界は姿を変えるのだ。
『――いや、君と出会ったことこそが間違いだったのか』
ディスペディアは白い粉が舞い降りる空をぼんやりと眺めた。まるでそれは、ヒトが神へと救いを求めているかのようで。
「どうか赦してくれ、罪なき少女よ。俺は約束を守るためにどうしても残酷な運命を課さなければならない。――あぁ、そうだな。君には名を与えてやろう」
ディスペディアは独り言のようにそう呟いた。彼を中心として、世界には真っ白な光が溢れていく。
「君の言葉がこの世界を翔ける時、今度こそ俺は罪を償おう」
『――認めたくなくて。それでも俺は』
彼は天に向かってしばし祈るような仕草を見せると、周りの景色さえ見えなくなった眩しさの中、一人歩いて行った。
やがて光が失われた時、そこにはいつもの夜が訪れていた。降り続く雪は足跡一つ残していなかった。
次回からようやく主人公が登場する予定です。