8 鵺の啼く森
ぬらりは随分畏れているようだが、玲七郎の反応は鈍かった。
「鵺か。話に聞いたことはあるが、本当にいるのか?」
「勿論さ。現界で実体化するのは、恐らく何百年ぶりかだと思うよ」
「うーん、今一ピンと来ねえな。ああ、そうか。何かの書物で挿し絵を見た気がするぞ」
陰陽師とはいえ、実戦的な妖怪退治を専門として来た斎条流にとって、鵺は最早伝説上の存在となっているようだ。
「それは、色んな動物が合体したような姿で描かれていただろう?」
「そうだな。だが、まあ、あまり強そうには見えなかったが」
玲七郎の感想を聞いて、ぬらりは苦笑した。
「あんたは、相手が強いか弱いかしか考えないんだな。だけど絵だけじゃ、鵺がどれほど強いかは、わからないだろうね」
「ほう、強いのか」
「ある意味、最強だと思うよ」
「最強?」
「そうだよ。さっき色んな動物が合体したようだと言ったけど、正にそうなんだ。西洋で言うと、キマイラだね。もっとも、合体しているのは動物じゃなくて、妖怪さ。鵺は他の妖怪と合体し、その力を自分のものにする。そうやって、どんどん強くなっていく。だから、おいらもこれ以上近づかないようにしてるんだ。あんたも気をつけた方がいい。式神も慎重に使わないと、鵺に取り込まれてしまうよ」
「おれの式神たちは、そんな間抜けじゃないさ」
「それなら、いいけど。さて、どうかな? 目はもう大丈夫かい?」
玲七郎は念のため、もう一度周辺を見回した。
「ああ。ちゃんとクリアに見えてるぜ」
「良かったよ。じゃあ、申し訳ないけど、おいらは戻るよ。ここは鵺に近過ぎる。さっきから震えが止まらないんだ」
「ああ、いいぜ。後は、おれに任せな」
「じゃあ、頼むよ」
去って行くぬらりの後ろ姿は、後藤ではなく、古びた着物を着た童だった。それが本来の姿なのだろう。
「さて、行くか」
玲七郎が歩き始めると、上から羽ばたく音が聞こえ、闇鴉が降りて来た。
「旦那、どこに行ってたんです? 暫く姿が見えませんでしたぜ。おお、目は治ったみてえですね」
玲七郎は片頬だけで笑った。
「おれにも色々と事情があるのさ。それより、ここから先、あんまりおれから離れるな」
「へ? あっしはもう、偵察してなくて、いいんですかい?」
「相手は鵺だ。他の妖怪を吸収するらしい」
「なんとまあ。桑原桑原」
闇鴉は羽根を畳み、玲七郎の右肩の上に留まった。
「ああ、そこでいい。火焔狐も一旦戻す」
玲七郎が左手を挙げて念じると、前方から火焔狐の姿が現れ、スーッと小さくなって、掌に吸い込まれた。
玲七郎は、改めて頂上の方を向いた。
「とりあえず、ゆっくり登って行こう。闇鴉、何か異変を感じたら、すぐに教えろ」
「へい、合点」
そこからは、もう獣道と変わらないような悪路だった。次第に樹木の密度が濃くなり、昼間なのに薄暗い。少し霧も出て来た。
「ふん。いかにも、って感じだな」
肩に乗った闇鴉も顔を顰めた。
「さようですな。旦那、霊眼を使ってみますかい?」
玲七郎は少し考えて、首を振った。
「いや、それは止めとこう。恐らく、相当に霊気が高まってる。こんなところで精神統一したら、下手すりゃ魔境に堕ちて戻って来れなくなる」
魔境とは、修行の至らぬ者が生半可な知識で座禅を組んだ場合に、精神に異常を来たしてしまうことを言うが、玲七郎の言い方はもっと具体的なことのようだ。
「とにかく、こっから先は一時も油断がならねえ。斬霊剣は出しとこう」
玲七郎は扇子を取り出し、両手で握った。
そのまま、摺り足のようにゆっくりと進んで行く。
どこからか、ヒョー、ヒョーという、薄気味の悪い鳥の啼き声が聞こえてくる。
と、繁みをガサガサと掻き分け、玲七郎に灰をかけた老婆が現れた。見たところ手ぶらのようだが、どこかに灰を隠しているかもしれない。玲七郎は距離を置いて声をかけた。
「ばあさん、さっきはよくもやってくれたな! 今度はそうは行かないぜ!」
返事は、ない。
いや、笑っている。
グフグフというような、くぐもった笑い声だ。
「があっ!」
老婆は突如そう叫ぶと、大きく口を開いた。いや、大きく、どころではない。顎が外れているかのように、顔が隠れるほど口が開いている。
さらに、メリッ、メリッと嫌な音がして、口から捲れるように顔が裏返しになっていく。
そこから一気に体ごと裏返り、老婆ではなく、あの髑髏法師の姿になった。カタカタと顎の骨を鳴らしている。
玲七郎は呆れたように笑った。
「なんだこいつら、鵺の影響で合体してやがるぜ」
「もう、逃がしは、せぬ」
髑髏のぽっかり空いた眼窩に、コロンと目玉が入った。その血走った目で玲七郎を睨むと、口から灰を吐きながら襲いかかって来た!