4 炭焼き小屋の老婆
玲七郎が登っている山は、標高が四百メートル程しかなく、車で行けるなら二十分もかからずに頂上に着くはずである。だが、生憎この先には舗装された道路がなく、うねうねと曲がりくねった林道しかない。
「だから田舎は嫌いなんだよ!」
文句を言いながらも、玲七郎は油断なく周辺の魔界を霊眼でサーチしながら進んで行った。敢えて頂上付近の真っ黒な部分は無視し、近場を入念に探る。
「ん?」
玲七郎は何か引っかかるものを発見した。霊気が渦を巻いている場所がある。周辺を透視して観ている霊眼を、魔界から現界に切り替えた。薄く煙が上がっている建物が観えた。
「炭焼き小屋か」
玲七郎は、役場にあった古地図で確認したときに、この辺り一帯の地名が【炭焼】となっていたことを想い出した。昔から、それがこの地域の主要な産業だったのであろう。
「行ってみるか」
近づくと、肉眼でもハッキリ白い煙が見えてきた。実際に稼働している小屋のようだ。
やがて、特徴的な三角屋根と煙突が見えた。小屋の手前が窯の蓋になっており、白髪の老人が、屈んで灰を掻き出していた。いや、老人ではなく、老婆のようだ。
玲七郎はニヤリと悪戯小僧のような笑みを浮かべ、老婆の背後から声をかけた。
「精が出るな、ばあさん。いい木炭ができたか?」
だが、老婆は振り向きもせずに、「いいや」と応えた。
「木炭など造ってはおらん。おらが欲しいのはこれじゃ」
何かを掴んだ拳を上げて見せた。握った指の間から、サラサラと白っぽい粉のようなものが零れている。灰だ。
と、老婆はいきなり振り向き、その灰を玲七郎の顔めがけて投げつけた。
玲七郎は咄嗟に手で目をカバーしたが、手に当たった灰が飛び散って、多少は目に入ってしまった。
「何しやがる!」
灰が沁みて目が開けられない。
「ふん。おぬしが勝手にお山に入って来るからさ。山の神はお怒りじゃぞ!」
「ほざくな、妖怪め! おれは、おまえらを退治しに来たんだ!」
「強がるな。目が見えぬのに、どうやって闘う?」
「くそっ!」
霊眼は精神を集中しないと開かない。相手もそれがわかっているから、わざと玲七郎を怒らせるような言い方をしているのだ。
老婆は引き攣るような声で笑った。
「人間とは哀れなものだな。陰陽師なんぞと威張っておっても、油断すれば、この様じゃ。おぬしの体は筋張っていて、あまり美味そうではないが、仕方ない。おらの朝餉になってもらおう」
何かをシュッ、シュッと擦る音がした。鎌のようなものを研いでいるらしい。
玲七郎は己の迂闊さに腹を立て、怒りに震えた。しかし、その感情の乱れで集中できず、霊眼はおろか、いかなる技も出すことができない。
玲七郎は上を向いて、「戻れ、闇鴉!」と叫んだ。
「おやおや、自分では何もできぬので、式神を呼ぶのか?」
老婆は皮肉を言いながらも、シュッ、シュッと鎌を研いでいたが、「よし。これなら、人間を切れるであろう」と言って立ち上がる気配がした。
玲七郎が目を瞑ったまま身構えた時、上から「旦那、お取込み中かい?」という声が聞こえてきた。
「闇鴉、こいつを何とかしろ!」
「あっしには関りないこって、と言いたいとこだが、そうも行くまいなあ」
「早くしろ!」
「式神遣いの荒い旦那だねえ。じゃあ、行くぜ、灰かけ婆さん!」
老婆が「小癪な!」と叫ぶと、シャッと鎌が空を切る音がした。
闇鴉の「鬼さんこちら」という揶揄うような声を追うように、シャッ、シャッと音がする。
「遊ぶな、闇鴉!」
「へいへい、合点承知」
羽ばたきの音が激しくなり、老婆が「くそっ、この馬鹿鴉め!」と口惜しそうに言ったかと思うと、「ぎゃあ!」と叫び声が上がり、脱兎のごとく走り去る足音が響いた。
「やったか?」
目を閉じたまま玲七郎が尋ねると、足下から返事があった。
「まあ、深手を負わせる程でもあるまいから、ほんの少し突ついただけだがね。それより旦那、さっきの見廻りの時に見つけた小川が近くにある。目を洗った方が良くないか?」
一瞬迷ったようだが、結局、玲七郎は首を振った。
「駄目だ。この山のものは信用ならねえ。暫く我慢すれば、自然に涙で流れるさ」
「ま、旦那がそれでいいなら、あっしが、とやかく言う筋合いじゃねえけどよ」
「大丈夫だ。それより、見廻りの結果を聞かせてくれ」
「そうさな。聞いて腰を抜かさねえでくれよ」