冥府 9
「皆、苦労をかけるの。侍従頭の其の方には特に、このような夜分まで付き合わせてしまって。済まないことだ」
書き終わった書類の、余分な墨を吸いとり紙に吸わせながら、宮は男を労う余裕すらあった。
宮が眠る前に飲む温めた飲み物と、夜中に喉が渇いた時の為に水を用意するのは、男が勝手にやっていることだ。
男が侍従頭になった時から、習慣となっている。
侍従の仕事は、本来は宮の身の周りの世話をすることである。
宮は自分の面倒は、全て己で見ることができた。
着物の召し替え一つとってもそうだ。
湯を使う時も、他者の手を煩わせることはない。
しかし、宮は唯夭ではない。
宮はこの冥府において、最も尊いお二夭の内の一夭である。
一夭は無論、火宮様である。
だが水宮は、貴夭でありながら、他者に傅かれることを好まない。
宮に仕えている侍従がする唯一侍従らしい仕事はと言えば、朝、宮が使った寝所の敷布や羽枕を整えることぐらいと言えた。
しかし宮は、朝寝床から起きると、すぐに敷布を整えなければ気の済まない性質である。
文机や室内の整理整頓も、全て宮の手になるものだ。
宮ほど、夭の手を必要としない者はない。
敷布の乱れを宮自ら直すことだけは、侍従が仕事がなくなりますと泣きついて、ようやく侍従占有の仕事を確保できたような次第であった。
侍従である我々に、本の埃だけ払えというのですかという、涙ながらの訴えが利いたのであろう。
そうでなければ宮は、何もかも自分で済ませてしまうことを諦めたりしなかった筈だ。
侍従頭である男の特権は、宮の髪を角髪に結うことである。
それ以外の仕事として、夜眠る前に飲み物を運ぶことは、男が自分で考えたことだ。
もちろん二十名ばかりの侍従は、宮の世話以外にも仕事があって、遊んでいる訳ではない。
遊ばせる要員があるなら、宮は真っ先に、水ノ宮の侍従の夭員整理をしてしまうだろう。
侍従頭である男も多忙と言えたが、宮に飲み物を運ぶ仕事は、一日たりとて欠かしたことはない。
こんなことでしか男は、宮の役に立つことはできないし、こんなことでも少しは役に立っているのが、男にとっては嬉しいのである。
「私のことなどどうでもいいのです。それに何より、宮様にお仕えできるのは、我が一族の誉れにござりますから」
男の、生真面目な性質がよく出ていると言えよう。
宮は、印綬を入れてある小箱を、文机の抽き出しからとり出した。
認めた書状に、水ノ宮の認め印である水炎の印章を押す。これで書状は、効力を持つ。