縁起堂 14
別の邑に出かけていて、難を逃れた者が一夭いなければ邑は全滅し、警吏が見回りで訪れるまで、与之介の所業は余夭の知れるところでなかっただろう。
そして与之介は一つまた一つと、百々目鬼達の邑を襲っていったに違いない。
与之介の襲撃時に留守をしていた若者が邑に戻ってみると、邑には住夭の姿が影も形もなくなっていたのだ。
その為、慌てて一番近い水ノ宮の監視所に、百々目鬼の若者は駆け込んできたのである。
ただちに邑人の行方が、捜索されることになったのは言うまでもない。
もし邑夭が、河童子の狩り場で捕らえられて、全身余すところなく食べられたとなると、それは邑夭が不運だったとしか言えない。
無論、河童子とて生きていかねばならない。
河童子は、一度満腹すると数ケ月から一年は物を食べない。
生命維持に必要な行為は、どれだけ人間から見て残酷であっても、妖かしには罪とはならなかった。
河童子が食べるのが目玉で、それ故に百々目鬼の目玉を抜いては食べるというなら、それは決して残酷なことにはならない。
それを残酷とするなら、人間だって残酷ではないか。
木の実を毎日毟って食べることを、人間は残酷とは思わない。
植物だって、生きている。冥府では、植物の妖かしも多い。
梅の木の精である、菅公のように。
妖かしの世界も、獣の世界と同じで、食うか食われるかだ。それが自然の理である。
人間の理では、それは残酷だということになる。
けれど、残酷だと言う人間が、一番無益な殺生をしている。
倫理観や人の道、言葉は如何にも高邁であるが、争いに次ぐ争いの人間の歴史を、どう説明するのか。
獣の世界も妖かしの世界も、生きる為以外の理由をつけて争い合うようなことは、ない。
争うことは、許しがたい罪となる。
生きる為に他の命を奪うことは許されるが、問題は、分を越えることなのだ。
腹をくちくし、生命活動を維持する為ではなく、楽しみの為だけの食事は罪悪である。
冥府の者にとっては、人間ほど罪深い存在はない。
人間は、楽しみの為だけに、平気で生き物の命を奪うのだ――獣にしても、植物にしても。
与之介の行為も、それと同じである。
人界ではともかく、冥府であれば、決して許されることではない。
調べがついて宮が与之介を捕縛に向かった時には、百々目鬼は、三体が両目まで刳りとられて死んだ後だった。
一つ二つなら失くしても支障はないが、百々目鬼も、沢山の目玉を抜かれると衰弱して死ぬのだ。
もう一体は、もう少し捕縛が遅れていれば、助からなかったであろう。
危ないところだったのだ。
あとは全員、無事保護された。




