冥府 1
前口上
本日、皆、皆様にお目にかけまするは、数ある水宮司様の知略と武勇の物語の中でも、とりわけて珍しいものにございます。
その名も、縁起堂捕物手控。
水宮司様は誰も知らぬ者がないほどの、世にも賢きお方にして徳の高い御尽にあらせられますれば、そのお裁き一つとっても、まことに胸のすくような快刀乱麻ぶりを発揮されまする。
かくも水宮司様ほど、智者にして仁の方はおりますまい。
そのようなこと、言われなくとも知っていると、そうお慌てなさるな。
水宮司様の素晴らしさは、物語で篤と味わって戴けましょう。
さて、この水宮司様が手掛けた難問のもつれた毛糸玉、どのようにして解れていきますのやら。
では、では、我らが水宮司様のお話の、始まり、始まりぃ。
序
水ノ宮 内殿 夜御殿
深更は、子の刻を三つばかり過ぎた頃のこと。
黒い直衣姿の男が、静まり返った内殿の廊下を、足音一つさせずに歩いてくる。
男は、水ノ宮に仕える水狐の一人で、侍従頭に任じられていた。
廊下の壁には等間隔で灯り皿があり、男の歩みに伴って足元を照らすように青い炎が点り、男が通り過ぎる背後から一つ一つと消えていく。
男は黒塗りの盆の上に、水差しと湯飲みを載せたものを手にしていた。
年の頃は三十半ばほどに見える、端正な細面だ。肌理の細かい白い肌は、面を思わせる。
内殿付きの侍従は合わせて二十人ばかりいるが、宮に直に顔を合わせることができるのは侍従頭であるこの男と、男が選んだ数名のみである。
その侍従達も、侍従用に与えられたそれぞれの控えの間で安穏として眠りを貪っていることだろう。
このような刻限まで起きているのは、夜勤めの者と内宮の警吏のものだけだ。
内殿でまだ寝んでいないのはこの侍従頭と、男がこれから訪おうとしている水ノ宮の主である宮だけであろう。
内殿の一番奥に、宮が寝まれる夜御殿がある。
廊下のつきあたりに近付くと、入口の両脇の灯り皿に火が燃えた。
入口には薄布を一枚垂らして、目隠しとしてあるだけで遮る物はない。
目の荒い羅紗であるが、外からは室内の様子は窺い知ることができない。ただ、室内に灯りが点っていることだけは、布地を通して見てとれた。
男は、失礼いたしますと声をかけてから薄布を手繰った。
神聖なる宮の夜御殿を守るにしては、薄布一枚とは心許なく感じられるかもしれない。但しこの布には、幾つかの特性がある。
まず一つ目。通気性は良いが、空気中に拡散した毒は遮蔽される。