第76話 嵐の前ぶれ
【桜庭瑞希】
暦が一つ進み、8月ーーー。
「あ、あづい……」
「ですね」
隣を歩く晴明君も弱冠微笑みが引きつっている。
ーーー数日前。
晴明君の「あの一言」でざわついていた心も、今ではいつも通りに戻っていることに安心しつつ、一体あれは何だったのかと自問自答する。
が、どんなに考えても理由は分からず、ま、いっか、みたいな感じで諦めたのであった。
「う〜あづい〜溶けるぅ〜」
いくら平成よりもこの時代が涼しいといっても、京都は盆地なので暑いものは暑いのである。
おまけに嫌味なほどにジリジリと頭上で輝く太陽!
くそぅ。いじめっ子めぇ!
「僕はあまりこういう時期に外に出たことはないので……少しクラクラします……」
「え、大丈夫!?」
また倒れるのでは!?
「……大丈夫ですよ」
にっこりと優しい笑みを浮かべる晴明君。
が、
「晴明君がそういうふうなことを言う時こそ信用できないってわかってる?」
「……」
スッとバツが悪そうに視線をそらされる。
「本当に辛かったらちゃんと言ってよね?」
「はい。わかっていますよ」
「本当かなぁ……?」
凄まじく不安だ。
「ところで、この時期に外へ出たことがあまりないって、平安じゃあ夏は出歩かないの?」
「……出歩くのは出歩きますが、移動は牛車ですし、物の怪の類が出るのは夜なので、仕事は夜が多かったですので、暑いことはいいのですが、日の光が、ちょっと……」
「あーなるほど」
そりゃあきついわけだ。
「……でも、そうですね……。どうせ誰も見ていないことですし、問題ないですか……」
「誰も見てないって……?」
「まぁ、見ててください」
クスリ、と、悪戯っぽい笑みを浮かべた晴明君が、手に小さな印を結んで呟いた。
「『発』」
ーーーヒヤリ。
「えっ!?涼しい!?」
「ふふっ。術で少し気を操作してみました。これで暑くないでしょう?」
「うん!ってか涼しい!!これ、夏に冷房いらずだね!」
「……れいぼう?」
瞳を瞬かせ、首をかしげた晴明君は不思議そうな表情でこちらを見た。
「瑞希さん、れいぼうとはなんですか?」
「ああ、冷房はね、私がいた時代の道具なんだ。部屋の気温を涼しくしてくれる優れものだよ」
「道具……?陰陽術ではなく、そのようなことができるのですか?」
紫の瞳が驚きに見開かれる。
「……未来というのは、予想もできないほどに文明が進んでいるのですね」
「そうだねぇ。でもまぁ、いいことばっかりじゃないんだよ」
「なぜですか?」
「……文明が進むとさ、どんどん人って欲張りになるんだよ。自分たちの生活にいっぱいいっぱいのうちは考えもしないようなことも平気でするようになるから」
「……」
「ああ、でも私がいた時代の日本はとっても平和だよ。……この時代みたいに人が人を斬ることはないんだ。私がいた時代じゃあ、人斬りは犯罪……罪だから」
ーーー脳裏に映るのはあの雨の日の光景。
私が、初めて罪を犯した日ーーー。
「もちろん、こっちの時代で人を斬ることが罪じゃないとは思ってないよ?だけど、重みが、違うんだよ。向こうではたとえどんな理由があっても、相手が悪かったんだとしても、人殺しは罪なんだ。でも、この時代は違う。理由があれば、人は人を簡単に斬る。……多分ね、私、このままこの時代にいて、壬生浪士組に居たら、また、人を斬ることになると思う。……なんとなく、わかってきたんだ。この時代は、そういうものだって。そうなったら私、どうなっちゃうんだろうなぁ……」
ーーー私は、私自身を保てるだろうか?
私は、今度こそ。
自分の罪から逃げてしまうのではないだろうかーーーーーーー?
「……瑞希さん」
完全に暗い気持ちモードに突入しかけていた私の鼓膜を、晴明君の穏やかな声が震わした。
ハッとして見上げると、澄んだ桔梗色の瞳と目が合う。
その瞳は、まるで宝石のようにキラキラと透き通っていて、見ているだけで心が洗われるような気がした。
「……その時はまた、めい一杯自分の感情をぶちまけてください。僕でよろしければ、それを受け止めることくらいはできますから」
「……晴明君」
ーーー優しい、誰もを包み込むような微笑。
私は一体、何度この笑顔に救われただろう?
……けれど。
私が、彼を救ったことは果たしてあっただろうか?
「……ねぇ、晴明君。一つ、聞いてもいい?」
「え?……はい、なんでしょうか?そんな方に改まって……」
不思議そうに首をかしげる晴明君へ向き直り、私はかねてから少し疑問に思っていたことを口にした。
「晴明君は、さ……。……ひょっとして、歴史を変えることには反対なの?」
一瞬の沈黙の後、紫色の瞳が大きく見開かれる。
私はその瞳をじっと見つめ、彼の答えを待った。
「……歴史の改変は、陰陽術の観点から申し上げれば、最大の禁忌と言えます。そして、それ以前に、歴史を変えるということは、恐ろしく困難で、ほぼ、不可能に近い」
そこで一旦言葉を切り、彼は居住まいを正してその宝石みたいに澄んだ瞳で私を見据えた。
が、その瞳には少し迷うような色があった。
「……申し訳ありません、瑞希さん。僕は、あなた方が歴史を変えることは不可能だと、そう思っていたんです」
「それは……すごく、難しいから?」
「ええ、それもあります」
一瞬、彼の視線が外れ、その瞳に悲しみが宿ったことに、少し違和感を覚えたが、しかし、それはすぐに消えた。
「そもそも、過去を変えること事態、不可能の代名詞のようなものです。……けれど、あなたはそれを覆してしまった」
「……大阪力士乱闘事件の時に?」
「はい。……本来、歴史を変えることはできない。そして、もし変わったとしても、なんらかの形である種、ゆがんだその歴史を正そうとする修正力が加わります。その場合、あなたが助けた方はその修正力で殺されるはずだった。……けれど、今のところはそうはなっていないんです」
「それじゃあ、あの助かった力士は死んでないの?」
「はい。それは間違いありません」
「そっか……」
それじゃあ、なんで修正されなかったんだ?
「これは、僕の持論ですが……もしかしたら、あなたがこの時代に呼ばれた『理由』に、その疑問を解明する鍵があるかもしれません」
「それは……私が、歴史を変えるために、ここに連れてこられたってこと?でも、それはそうとして、どうしてその『歴史の修正力』が働かないんだろう?」
「……それはわかりません。ですが……」
晴明君はふと、天を仰ぐようにして見上げ、目を細めた。
「僕は、歴史を変えることなど、できないと思っていた。……それが禁忌であると、決めつけて。いえ、禁忌なのは確かでしょう。けれど。現段階で、歴史というものが、瑞希さんの行った改変を容認している以上、あなたは正しいことをしているのかもしれません。……もし、それが誤った道ならば、必ず修正されるはずですから。だから……」
紫の瞳が、私の瞳を映しそして微笑んだ。
「さっきの質問にお答えします。……僕は、信じることにしたんです。あなたが目指す、歴史の改変された未来を。それが修正されない限り、歴史は、『運命』は、それを認めたことなのでしょう。ならば、僕はそれに従います」
そう言って淡く微笑んだ晴明君は、清々しさの中に、ほんの少しの寂しさをを混ぜた、そんな顔だった。
ーーー私たちが、タイムスリップすることになった理由。
そもそも、私たちがここに連れてこられたのは、一体誰の手によるものなのかすら、まだ分かっていない。
けれど。
その理由がわかった時。
すべての謎が解ける。
ーーーその時、そんな予感がした。
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【安倍晴明】
……あなたはすごいですね、瑞希さん。
僕には、歴史を、過去を変えるなんて、そんな勇気はなかった。
失敗するかもしれない。
もっと「あなた」が傷つくかもしれない。
「歴史の改変」は禁忌だから。
そんな言い訳を並べて、僕は過去を変えようとはしなかった。
ーーー「彼女」との約束を、言い訳にして、変えようとしなかった。
一度、変えられるかもしれないなんて期待を抱いて、それが裏切られる絶望を味わいたくはなかった。
ーーーそれもまた、僕の罪。
僕は、弱い人間です。
だから、僕にはあなたが眩しい。
……どうして、あなたは。
そんなに、まっすぐに進めるんですか、瑞希さん……?
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【???】
「歴史の改変」。
晴明、あなたは「歴史の改変」が禁忌であるということを誰よりもよく理解している。
ーーー本来ならば。
あなたはそれを一番望む立場にあった。
けれど、あなたは、己の「理性」をとってしまった。
自分自身が「陰陽師」である、という、ある種のあなたを縛る鎖に甘んじて。
「あいつら」は、あなたに過去の改変をさせなかった。
自分たちの不都合になるから。
ただ、そんな理由で。
それなのに。
あなたはあなたが弱かったから、「陰陽師であること」を言い訳にしたから、なんて、そんな風に思ってるんでしょうね。
ーーーそして、あなたが「彼女」と交わした約束。
ーーーあなたは、それに背くことができないはずだから。
あなたはいつもそう。
どんな時でも、自分よりも他人を優先する。
どんな時でも、他人ではなく、自分を責める。
あなたが自分のためだけに生きられたなら、どれだけ良かったか……。
ーーーあなたは優しい。
けれど、あなたは気づいていない。
その優しさは、仇にしかならないということを。
ーーー桜庭瑞希。
「歴史」は、改変しても、そのある種のねじれ、歪みを正そうとする働きが加わる。
けれど。
あなたの「改変」では、その力は加わらなかった。
確かに、この先も、そうなり続けるとは限らない。
けれど。
「あのこと」ならば。
たとえそれが、大きな改変であったとしても。
それは、あなたにとっては正しいことだから、変えることができるかもしれない。
私では、できなかった。
何度も、何度も繰り返した。
ーーーこれ以上はもう猶予がないの。
あなたが最も変えなければならないのは、「あの人」の未来。
もし、それに失敗すれば。
ーーーあなたは死ぬわ、桜庭瑞希。




