*愛しいと思うこと*〈C5/25~〉
幼少期からレジスタンス活動前までのサマル視点です。
俺は、父と母、それからひとつ下の妹との四人家族だった。
両親は優しかったし、妹はかわいい。仲のいい家族だ。
どこにでもいる、有り触れた家庭。このまま続くと思っていた平穏。
永遠と呼べないまでも、俺が大人になるまでは、このあたたかさで包んでくれるのだと信じていた。
けれど、それはある日、奪われる。
国の小さな田舎町の一角で、その病は蔓延した。伝染性の病は、その猛威を振るい、次々と町人を飲み込んでしまった。最初に病に罹ったのは妹のプレナだった。そうして、それが発症してしてすぐに、俺も同じように罹患した。
ただ、俺たちは比較的軽く済み、立ち直ることができた。けれど、両親は、俺たちが元気になった頃には、代わるように床に臥していた。まるで、俺たちから病魔を引き受けてくれたかのように。
「なあ、元気になったら、みんなで出かけような。天気のいい川辺に、前みたいに、さ……」
それが叶わないと思いたくなかったから、俺はベッドに横たわる父さんの、病によって湿疹の浮き出た手を握った。いつも大きく、優しく、俺たちの頭を撫でてくれた手が、弱々しく俺の手を握り返す。
そうして、同じように湿疹が浮き出てかぶれ、爛れた顔で、父さんはなんとかして笑ってくれた。
「そう、だなぁ。行こう。……お前たちには、まだ、親が必要だから、こんなところで、死ねない、よ」
夜中に目が覚めてしまった俺が、父さんと母さんのある会話を聴いてしまったことなど、二人は知らない。父さんが、もしかすると俺の本当の父さんじゃなかったとしても、俺には関係ない。他の誰でもない、父さんの息子でありたかった。
「うん、うん……っ」
そう、力いっぱいうなずくけれど。
なんだろう。
そう言ってくれる言葉が、虚しくすり抜けてしまう。本人たちがどれほど望もうと、神様は残酷に命を奪ってしまうのだと、この時に知らされた。
隣のベッドに横たわる母さんに付いていたプレナの慟哭で、母さんが逝ったのだとわかった。そうして、気付けば父さんも微笑を浮かべたまま、動かなかった。
突き付けられた現実に打ちのめされる暇もなく、俺たちの周囲は目まぐるしく変化して行くことになる。
親を失ったのは、俺たちだけではなかった。だから、特別などではなかった。
行く場所を失った俺たちは、孤児院ではなく、遠縁の親戚のもとへ行くことになる。孤児院は、そんな子供たちでいっぱいだったのだ。少しでも、よそへ回せる子供がいるのなら、そちらに回ってもらうしかなかったのだろう。
その親戚とやらの夫婦は、俺たちの両親よりもずっと若かった。ただ、すごく嫌なものを感じてしまう。多分、子供が好きじゃなかったのだろう。それでも、知り合いの人たちが伝を頼りに見付けてくれた、唯一の肉親だ。親戚の夫婦は、慎ましく暮らしていた両親が残した、ほんの僅かな財産を受け取り、俺たちを渋々引き取ったのだった。
笑顔ひとつ浮かべなかった、新たな両親と呼ぶべき人たちの背を、俺とプレナは付いて歩く。
子供だった俺たちは、どんなに嫌だと思っても、そうするより生きて行く術がなかったのだから。
不安げに俺の手を握るプレナの手を、俺は強く握り締めた。
プレナは、妹だ。俺はもしかすると貰われっ子で、プレナとの血の繋がりもないのかも知れない。
いや、もしかするとあの夜の会話は、ぼうっとした俺の取り違えで、本当のところは俺もあの両親の息子に違いないのかも知れない。それを訪ねることがついにできなかった。
――どちらにせよ、俺にとってプレナは大事な存在だ。
絶対に、守っていかなければいけない。プレナにはもう、俺しかいないのだから。
それからというもの、俺たち兄妹は家の中で居場所もなく、常に小さく縮こまっていた。寄り添っていられる相手がいたことだけが唯一の救いだったと言ってもいい。
親戚の夫の方は、気性の荒い男だった。すぐにカッとなっては、目が合っただけで殴られる。
妻の方は、だらしない女だった。常にはだけた衣服と、煙草のにおい。
大嫌いだった。
だから、俺たちはなるべく外にいた。
引っ越した先は王都の只中で、俺たちは右も左もわからずにいたけれど、下町の人々は優しかった。フラフラしていると、子犬みたいな女の子にまとわり付かれるようになった。どうやら、父親が忙しいので預かっているという。
人懐っこい女の子――レヴィシアには、俺たちの深刻な事情なんてどこ吹く風だった。無邪気にはしゃぐその姿に、俺もプレナも、忘れていた笑顔を取り戻せた。
そうこうしているうちに、今度は仏頂面の友達ができた。でっかい屋敷に住んでいる、いわゆる金持ちなのだが、いつも寂しそうで放っておけなくなる。
友達といる時は素直に楽しいと思えた。けれど、家に帰るとやっぱり、地獄みたいな日々だった。
俺は、自分だけが殴られるのなら我慢した。でも、俺がプレナを庇うと、今度は躍起になってプレナに嫌がらせをしようとする。弱い、子供の自分は、やっぱり何もできなくて、下卑た笑いと一緒に巻き散らかされたプレナの髪を、うずくまって床に転がりながら眺める。そうして、涙を流すしか、できなかった。
ただ、そんな日々も終わりを告げる。俺たちは見かねた大人たちにより、親戚の家から救い出された。レヴィシアの父親を始めとする、大工仲間の厳つい男たちに凄まれ、あの夫婦は怯えながら俺たちに謝った。大嫌いだし、二度と会いたくない。それだけだ。恨んでいるというほどではない。
新たな里親になってくれたのは、一人暮らしのおばあさんだった。孫のような子供が二人増え、家が賑やかになったと喜んでくれた。とても優しく、幸せに過ごせた。たくさん、感謝している。
ただ、俺が十六になった時、家に帰ったら突然、心臓発作がもとで亡くなってしまった。よくしてもらったのに、寂しく逝かせてしまったことが、今でも悔やまれる。
そうして、俺とプレナは二人で暮らし始めた。近くには、あの大きな屋敷を売り払ったザルツも住んでいた。レヴィシアだけは、もうここにはいなかった。
父親と共に、どこかへ行ってしまった。どうやら、あの屈強で心優しかった父親のレブレムさんは、困っている人々を見かねてレジスタンス活動を始めたのだという。レヴィシアのことが心配だったけれど、居場所も何もわからない。ただ、あのレブレムさんと一緒なのだから、めったなことはないと信じた。
そうして、俺たちはただ日々を生きていた。
確たる立太子もいないまま、国王は病床にあり、そうして抑えの利かなくなった民衆による暴動を鎮圧するためだと言っては、隣国レイヤーナの兵が町を闊歩するようになった。
けれど、そんなものは建前だと、誰もが思っていた。最初から、自分が統治することが叶わなくなったこの国を、王はこの国の者に譲り渡したくなかったのではないか、と。
それくらいならば、自分を最後の王とし、レイヤーナにこの国を譲るつもりで、そういう約束事が裏にあるのではないかと。
そう考えれば、辻褄が合ったから。
やつらは尊大だった。すべてとは言わないが、俺たちと接触するような下っ端の兵士は、俺たちを支配下に置いているような態度を取った。
決まった後継者もなく、前途の薄暗いこの国は、いずれレイヤーナの属国となる。そう、顔に書いてあった。
そうなった時、どうなるのだろう。何が変わるのだろう。
俺たちには生きにくい世の中になるのだろうか。
何とも知れない、不安だけが先にある。
ザルツとも、よくそんな話をした。あいつは国に対して、俺よりももっと真剣に憂えている。先を見据え、しっかりと意見を述べた。
俺は、この国がどんな形になろうと、プレナが幸せならいいと思った。身勝手でも、本当に、俺にとって大切なのはそれだけだった。多くは望まないから、それだけは奪わないでほしい、と。
けれど、レイヤーナの兵士は下町を我が物顔でのさばる。
レジスタンス活動を続けていたレブレムさんが討たれたという噂が聞こえ、レヴィシアの安否が気遣われたけれど、その行方は知れないままだった。
そうこうしているうちに、俺たちは成人する。
年頃になってますますきれいになったプレナは、町を歩いているだけで兵士たちの目に留まった。からかうような野次を飛ばすくらいならまだいい。次第に、それらはエスカレートして行く。
まだ日も高いうちから酌をしろとプレナに絡む兵士を相手に、俺はプレナを背に庇いながら抵抗していた。ニヤニヤと嫌な笑いが俺たちに向けられる。
「オニイチャン、お前はお呼びじゃないんだよ」
肩をドン、とどつかれる。不安げに、俺の背中の辺りをプレナがつかんだ。
子供の頃、親戚の男から庇った時のように、俺は退かなかった。精一杯、兵士たちをにらみ付ける。
けれど、俺は同世代のやつらとの小競り合い程度のけんかしかしたことのないような民間人だ。いくら下等だろうと、兵士を相手取って戦えるわけじゃない。怖くないわけじゃなかった。
それでも、守りたいから、虚勢を張る。
その途端、重いこぶしが俺の腹に叩き付けられた。がはがはと、体を折って咳き込む。鈍い痛みと胃液が込み上げる苦さに、涙が込み上げた。
その涙は、弱い自分が情けないから。もっと、例えばレヴィシアの父親のレブレムさんように屈強な自分だったらと、どうにもならないことを嘆く。
「ほら、こっちに――」
兵士の腕が俺をすり抜け、プレナの肩に触れる。プレナがのどの奥でかすれた悲鳴を上げた。
無力な自分は、守りたいものも守れない。
守りたい。
大切な、大切な――。
そんな時、場違いなまでに静やかな声が、凛としてその場に割り込んだ。
「待って下さい」
野次馬をすり抜け、俺たちの眼前にやって来たのは、ザルツだった。けれど、ザルツは俺以上に荒事に向かない。細身の体がそれを明言している。
けれど、ザルツは表情を浮かべずに、淡々と兵士を見遣る。
「この二人は私の友人です。どうか、ご勘弁下さい」
そんな言い分が、この横暴な兵士たちに通じるはずがない。案の定、兵士たちは顔を見合わせて嗤った。けれど、その途端にザルツは前に踏み込み、兵士の手もとに何かを握らせた。体をかがめていた俺だけが、その手もとを正確に知ることができた。
「……まあ、いい。興が殺がれたことだし、勘弁してやろう」
驚くほどにあっさりと、兵士は俺たちを置いて去った。金銭は、何にも勝るのだ。
腕力だけがすべてではなく、ザルツは自分ができ得ることを選んで助けてくれた。戦うことでしか解決できないような守り方がすべてではないのだと言うように。
「ザルツ!」
プレナの表情が、ぱっと明るく輝いた。ほんのりと、頬を染め、微笑む。
ザルツは小さくうなずいた。
そんな二人が、お互いをどう思っているのか、二人に最も近い俺にはすぐにわかる。
ただ、俺は、それが受け入れられなかった。
その理由は、すでにわかっている。
その日の晩、俺はザルツのところに向かった。すぐ隣の路地を抜けた先に、ザルツは慎ましく暮らしている。有り余るような資産を持ちながらも、ひっそりと暮らしていたいようだ。
扉を叩く俺を、ザルツは表情ひとつ変えずに中に迎え入れた。きっと、来るのではないかと予測していたのだと思う。ザルツはそういうやつだ。
「……今日は、ありがとな」
そうつぶやくと、俺は勝手にテーブルの脇の椅子に腰かけた。時折、古参の使用人の人が来て世話を焼いてくれているらしく、部屋はいつもきれいだった。
話が長引くことを悟ったのか、ザルツも正面に座って答えた。
「いや。ああでもしないと収まらなかったからな」
そうして、表情からはわかりにくいくせに、眼鏡の奥の瞳だけが心配そうな色をたたえている。そんなザルツに、俺は小さくつぶやいた。
「俺、プレナのことが誰よりも大事だから、どうしても守りたいんだ」
すると、ザルツはうなずく。
「お前は昔からそうだった」
けれど、その理由を、ザルツは知らない。
この気持ちがどこから来るのかを。
ずっと、胸に秘めて来た想いを、気付けば吐露していた。
吐き出したいと願っていた。吐き出せるところが見付からなかった。
一番、聞かせてはいけない人物だと思うのに。
――いや、逆だろうか。聞かせておかなければいけない人物だから?
どろりと、嫌な、狡猾で醜い自分が、頭のどこかでせせら笑っていた気がした。
なのに、止めることができなかった。
「なあ、俺、プレナのことが好きなんだ」
その意味を、ザルツはまだ理解しなかった。だから、続けた。
「妹としてじゃない。異性として――そう言ったら、お前は軽蔑するか?」
ザルツは言葉もなく、ただ瞠目していた。淀んだ俺の目は、ザルツに向いている。この目を、薄汚いと思っているのだろうか。そんな卑屈なことを考えながら、それでも口は、言い訳をするようにひたすら動いた。
「俺たち、血が繋がっていないかも知れないんだ。……いや、本当は、どっちだかわからない。繋がっているのかも知れない。もし、そうだとしても、この気持ちは変えられないんだ」
すると、ザルツは小さく、そうか、とつぶやいた。その声音は穏やかで、何か急に泣き出したいような気持ちになった。
「どんな形であれ、誰かを愛しいと思う気持ちは誤りではないと思う」
仏頂面で、不器用で、そのくせに、本当は心根のきれいなやつだから、俺がどんなに駄目な人間でも手を差し伸べてくれる。それを知っていた。わかっていたから、だから――。
こうしてしまえば、ザルツは自分の気持ちを殺してしまう。
俺が悩むように、ザルツももがいて先に進めなくなる。二人の気持ちが通じ合うことはなくなる。
どこまでもずるい俺に、精一杯の優しい言葉をくれた親友に、ひどいことをした。
けれど、時々、ザルツのそんなところが嫌だと思う気持ちもある。その性根に触れると、自分が身悶えるほどに汚く感じられるから。笑顔を浮かべながら、俺はそんなことを思う。
だから――なんていうのは、ただの言い訳だけれど。
それでも、この時の俺は、身動きもとれず、この晩の出来事を隅に追いやった。
そうしなければ、心が均衡を保てなくなりそうだった。言われた方は忘れることもできないのに、言い出した自分が勝手なものだ。自己嫌悪がなかったわけではないけれど、俺はそんなにも強くなかった。
けれど、そうして日々を過ごすうち、俺はレイヤーナ兵のことばかりでなく、次第に不安定になっていく治安を感じていた。レイヤーナの属国になるとの不安から、自暴自棄になり、荒れる人々が増え出した。このままで行くと、この国は、ずたずたになる。
それは俺がどうにかできる問題ではないと知りつつも、ただ、本当にそうなのかと思う気持ちもあった。
兵士と戦うような力はない。けれど、本当に何もできないのか。
それで、このまま国が荒れた時、プレナを守り抜くことはできるのか。
戦える自分でないと思うのなら、尚更だ。
ただ、戦う術を身に付けたとしても、それはその場しのぎでしかない。
本当の意味で、守りたいのなら、平和に暮らせる場所が必要だ。
このまま、荒れて行く未来を受け入れることはできない。
そのために、俺ができることはなんなのだろうか。
そう考えた時、思い浮かんだのは、レブレムさんだ。
レジスタンス活動の果てに命を落とす結果になったけれど、その活動こそが国を救う手立てだと信じたからこそ、戦い続けた。
だとするのなら――。
そうして、俺は決断した。
その前の晩に、再びザルツのもとへ赴く。少し、留守にするから、プレナを頼む、と。
ザルツは僅かに眉を顰めた。そんな仕草でも、俺には困惑しているのだとわかる。
どこへ、何をしに行くとは言わなかった。
ただ俺は、プレナと離れてでも、プレナが平穏でいられる暮らしを実現する。そう決めた。
ザルツは、俺がいないからといって、プレナとどうこうできるやつじゃない。まるで忠犬みたいにプレナを守ってくれるのだろう。もし、そうでなかったとしたなら、俺はきっとザルツを恨んでしまうだろうけれど、心のどこかでは、ザルツに甘えていた。救いを求めていた。
幼少期から、人の顔色を読むことだけが得意になった俺が、ザルツには醜い部分をさらしてしまう。見捨てないでいてくれると知っているから。
いつだって、俺は勝手なんだと思う。
「……必ず、迎えに来い。わかったな?」
――そんなことを言う。
俺は笑ってザルツを見遣った。
「わかってるよ」
笑いたくない時だって、笑って生きて来た。そんな俺の心を見透かすように、言葉がかかる。
「あんまり、無理をするな」
こんな自分を気遣ってくれる。どこまでも、どこまでも。
ん、と曖昧に返事をしてきびすを返した。
そうして、俺は一人、レジスタンスの情報を集めた。そうして手がかりをつかみ、なんとかして会いに行ってみると、レジスタンスの首領は、こともあろうに子供だった。
一瞬、少女かと思ったけれど、よく見ると小柄で線の細い少年だ。ルテアという名前だけではわからなかったけれど、その補佐をしているラナンさんという男性共々、姓を『バートレット』といった。
それは、レブレムさんのレジスタンス仲間の名前だ。更に探ってみると、どうやら、ルテアはその息子のようだ。
ただ、俺はレブレムさんとの繋がりを二人に語ることはしなかった。身もとを明かしたくなかったのだ。プレナを巻き込む危険性があると思えることは避けたかった。
そうして、レジスタンス組織『イーグル』は、突然仲間にしてほしいと言った俺を、受け入れてくれた。気のいい男たちばかりの組織だった。
「で、お前の名前は? なんて呼べばいいんだ?」
ルテアの問いに、俺は一瞬だけ躊躇して、それから笑って答えた。
「ジェイド。そう呼んでくれ」
今も昔も、すべてはあの翡翠の色をした瞳のために。
俺は、国の未来よりも一人の人を守りたいから立ち上がった。
ずるくて駄目な俺だけど、あの二人のもとに胸を張って帰れるように、この先を駆けて行こう。
苦労して見付けましたが、参加したルテアたちの組織『イーグル』は、目に付く困った人々を助けることが優先で、あんまり改革に熱心ではなかったという……。
陽気でよく笑っている、そういう印象を持たれるタイプの人間が、内面も陽気で笑っているとは限らない、そんな人物ですね、サマルは。
ただ、人の気持ちに敏感ではあります。他人のつらさも感じ取ることができるから、思い遣る言葉も口にします。ただ、本人は意外とそのことに気付いていないのかも知れません。自分って、ずるい人間だという認識が先に来てしまうんですね。