*陽だまりの人*〈C4/35~〉
ティエン視点です。
私は、自分が特別なのだと気付くのに随分と時間がかかってしまった。
私が感じているものは、誰もが当たり前のように感じているのだと思っていた。だから、急に一族の長より、主のもとへ向かわされた時、何故私が抜擢されたのかがわからなかった。
当時の私はまだ十二歳だった。それでも、私でなければならないのだという。
私たちの一族には、一般的に言う家庭というものが存在しなかった。子供たちだけが集まって暮らしている。常に、競い合うようにして。
子供という生徒たちと、大人という導き手。ただそれだけの関係だった。
だからこそ、能力がすべて。役に立てない者に価値などない。
ただ、私は、偶然にも特別だった。
他の皆のように、毎日毎日悲鳴を上げるような特訓は受けていなかった。武術は必要最低限として教わった程度だ。
歳の近いリンや――は、痣だらけだった。リンは筋がよいのか、それほどでもなかったが、――は常にぼろぼろ。みすぼらしいまでの有様だった。
リンは勝気で、負けることが大嫌いな性質だ。
常に人の上を行く天才肌の彼女と、同い年であるがために比較され続けている、――。
彼はいつも、諦めていた。リンには勝てない、と。
勝てるだけの才能が、自分には備わっていない。自分は落ちこぼれなのだと。
けれど、それを否定してあげる人は誰もいなかった。
もちろん、私も。
その諦めが彼であった。彼の唯一の持ち物だったと言っていい。
諦めたからこそ、自分を知り、自分にできることに懸命だった。そうでなければ、自分に価値がないことを理解していたから。
私が主のもとへ召された時にはすでに、リンも――も、それからヤンやフォヌシィを始めとする一族の面々が城に潜んでいた。ただ、潜伏している一族の者と必要以上に口を利かないことと申し付けられていたので、普段は他人のように振舞っていた。
一族の者はすべて、主一人のためにこの城にいる。
ネストリュート=イル=レイヤーナ。
それが主の名だ。
最初に対面した時の印象は、何を考えているのかわからない人、だった。
それは、一族の人間以外では、恐ろしく稀なことである。ただただ、鮮烈で、そばにいるだけで落ち着かない気分にさせられる。
この時の私はまだほんの子供だった。忠誠心など、まだ何も知らない、ただの子供だ。
主はすでに成人しており、美しく整った顔で私に微笑んだ。
「お前がティエンか? 本当にまだ子供だな」
背も低く、発育の悪い私は、年齢よりも更に小さく見えたことだろう。主はそんなことを言った。
「申し訳、ありません」
本当は、悪いなんて思わなかった。それでも、なんの表情も浮かべず、口先だけで謝罪する。
それでも、主は咎めることなく笑った。
「今後、お前は私の身を守るために仕えることとなる。けれど、私はなるべくお前に頼らぬようにするつもりだ。慣れるまで、城で好きにするがいい」
あっさりとそんなことを言われてしまった。
私の役目は、主の危険を察知すること。そのために、常に共にあるように、と仰せ付かっている。それなのに、主は私を必要とはしていないようだった。
がっかりなんてしない。丁度よかった。いらないなら、いらないでいい。
諦めがよいのは、――よりも私の方なのだろうか。
一人、ぼうっと使用人部屋に閉じこもっていると、リンがやって来た。艶やかな黒髪と、青い瞳。黒猫のような人だ。その性質も、猫のよう。
いたずらに狩り、飽きれば捨てる。それを性だと割り切る。
窓からやって来た彼女も、女性というよりもまだ子供だった。明るい笑顔を振り撒き、口を開く。
「ね、ティエン、何してるの?」
「何も」
「そう。役立たずね」
「ネスト様が私を求めずにいるのですから、何もする必要はありません」
リンはふぅん、と言った。
「でも、この城はネスト様にとって危険な場所なのよ。あんたもまずそれを知りなさい」
「…………」
何も答えなかった私の手を、リンはつかんでいた。細い指だけれど、振り解けないことはわかっている。だから、抗うこともしなかった。
廊下を歩きながら、訊いてもいないのに、リンは説明を始めた。
「ネスト様の命を脅かす敵は、ネスト様のお兄様方。――まず、王太子。ま、オッサンね。でも、こいつが一番厄介。で、二番目王子は気が弱いから、現段階では放置していいの。三番目は、まあ、ネスト様の次くらいに顔がいいし、割と真面目な方。だからこそ、長兄を差し置いてネスト様が上に立つ障害になりそうね。それから、四番目はバカで女誑し。一番楽に殺れそう。七番目は、まあまだ子供だし、ネスト様の弟だから、あんまり気にしなくていいわ」
私情を挟みすぎだろうと思われるリンの説明をぼんやり聴いていた。けれど、ふと気になった。
「ネスト様は第五王子――第六王子は?」
欠落したそのピースを、リンは私に与えてくれなかった。
意味ありげに微笑んでいる。
「ああ、気にしなくていいわ。敵じゃないことだけは確かだから」
この時の私は、それ以上、その第六王子のことを気にしなかった。興味が湧かなかった。
ネスト様に対しても、興味があるとは言いがたい。私は、誰にも興味なんてない。
内側にドロドロとした汚泥を抱えている。それが人間、なのだから。
誰も、いらない。いなくていい。
一人にしてほしい。
いつも、それだけを願っていたのに。
『フーディアの民』は国王と、選ばれた次代の王にのみ、その存在を明かされる。
だから、今の段階でその存在を知り得ている者は、現国王とネスト様の二人だけ。
そのはずだった。
なのに、ネスト様はあっさりとその最重要機密をもらされているのだと、私が知ったのはその数日後のことだった。それも、敵対する可能性すらある弟王子にだ。
第六王子。
その存在は、確かに脅威ではないのかも知れない。けれど、所詮は人だ。
いつ欲に眩み、兄を陥れないとも限らない。いくら同じ母親の腹から生まれたと言っても、信用し切れるものではないはずだ。それを――。
あの、隙のない主の決断にしては、随分とお粗末だ。
情など、どこに秘めていたのか。血など通っていたのかと。
肉親に気を許す、何かその当たり前の感情に私は落胆していた。
一族が選んだ真の王とは、もっと絶対的な存在であると、どこかで思っていたのだ。
だから、私は第六王子ハルトビュート様に会いたくなかった。
会えば、その心のうちが見えてしまう。
見えてしまえば、知りたくもないことを知ってしまう。
彼が何を思い、兄に従っているのか。兄を王座に就けようとする自分たちのことをどのように思うのか。
薄汚い感情には慣れているつもりだ。
けれど、あまりに強い感情には眩暈がする。
もし、第六王子が何かを企み、ネスト様に従順な振りをしているのだとしたら、私はそれをきっと知ることになるだろう。その時、主は私の言葉を信じるだろうか。それとも、血を分けた弟の言葉を、信じたいように信じるだろうか。
真の王ならば、情を投げ打ち、冷静な判断が下せるものと思うよりなかった。
私は、ただただ悲観的だった。
こうした能力が備わっている以上、朗らかに育つことなどできなかった。
何もかも、始まる前から悪い方へと思考が向かってしまう。第六王子に会いもしない状態で、彼の裏切りによる未来を、私はすでに見据えていた。
心構えはできている。こうしておけば、第六王子に直面した時に、その心を知っても驚いたりしない。
そうして、分厚い壁を築き上げた私は、ただ愚かな道化だった。
「ティエン、お前にも紹介しよう。私の弟を」
ある日そう切り出したネスト様に、私はいつもよりも唇をきつく結んでから答えた。
「はい。いつでも。覚悟はできております」
そんな私の様子に、ネスト様はクスリと笑った。訳知り顔の、嫌な笑みだった。
「では、後ほどにな」
私は――私が出会ったことのある人の数など、高々知れている。
人間の、何を知ったつもりでいたのだろう。
初めて顔を合わせた瞬間に、その方から感じ取れたのは、私が予測したどんな感情とも違った。
それは、『感謝』だった。
あたたかな陽だまりのような笑顔を浮かべ、
「初めまして。君がティエンだね? 俺はハルトビュート。いつも兄上を守ってくれて、ありがとう」
そう、口にされた。
その言葉と、何も違わない心のうち。
私だけではなく、リンたちに対しても同じように感謝の気持ちを持って下さっている。
薄暗い闇に潜む私たちを、蔑む気持ちは一点もない。
ただ、兄を選び、助けてくれることに対する感謝だけが、溢れるほどにこの王子から感じ取れる。
私はあまりのことに呆然としてしまった。いつも感情を表に出さない子供だと言われ続けている私は、傍目にはわかりにくかったかも知れないけれど。
返答がないことに少し困惑した様子の王子に、私は慌ててお辞儀をした。
「は、初めまして。ハルトビュート様にお会いできて光栄です!」
それは、私の本心だった。社交辞令などではない。社交辞令なら、言わなかった。
そんな私の変化を、ネスト様はハルトビュート様とは似ても似つかない顔でおもしろそうに眺めていた。
「うん、よろしく頼むよ。それから、ハルトでいい。俺はそんなに偉い人間じゃないから」
はは、と軽く笑う。
この時の私は、ハルト様が胸に抱えた晴れ晴れとした感情と一抹の罪悪感の意味をわかっていなかった。後になってみて、王位継承権の放棄という、微妙な立場であることを知るのだけれど、そんなことはどうでもよかった。
ネスト様は一族からの苦言により、私に供をさせる機会が増えた。けれど、ネスト様に媚びへつらう者たちは、ネスト様が背を向けた途端に、私に侮蔑のこもった視線を向ける。それは、私に対してというよりも、面と向かってネスト様に意見できないからこそ、その不満が私に向かうのだ。王太子でもない、第五王子のくせに、と腹の底では思っているのに、ネスト様を前にすると、自然とへりくだってしまう小者に多い行動だ。
暗い感情には慣れているけれど、ほとんど気が休まる時がない。
もう嫌だ。
一人にしてほしい。
誰も、そばにいてほしくない。
人間なんて、嫌いだ。
疲れ果てた心でそう思う。
そうして、意識が途絶えた――。
ただ、意識を手放してしまったのは、ほんの少しの間だったと思う。
なのに、その時、気付けば私の足は床から離れ、フワフワと宙に浮かんでいた。
私は状況が飲み込めず、辺りを見回した。そして、私を抱え上げているハルト様と目が合った。
「!!」
声もなく驚きを隠せずにいると、ハルト様は心底ほっとして微笑まれた。
「気が付いた? よかった。具合が悪いのなら無理はしちゃ駄目だ」
隣には、ネスト様の姿もあった。
ハルトが近くにいたから、運ばせた。ネスト様は後でそう言っていた。この勘の鋭い主は、きっと何かに感付いている。なのに、知らない振りをして、やっぱり嫌な人だ。
「もう、歩けます。ありがとうございました」
私が慌てて言うと、ハルト様はそれでも私を下ろさずにいて下さった。
「部屋まで運ぶよ。ティエンは軽いから、大丈夫」
「でも……」
多分、顔が赤いはずだ。私はこんな時、どうやってごまかしたらいいのかわからず、とりあえずうつむいた。そんな私に、ネスト様は言う。
「ハルトの厚意だ。素直に受けろ」
「……はい」
ハルト様の鼓動と体温が伝わる距離。
誰も要らない。いなくていい。
そんな風に思っていた私が、このぬくもりを心地よく感じてしまう。
この方だけは、特別なのだ。
それからの私は、ハルト様と紅茶を飲む時間が何より大好きな時間になった。
もちろん、そこにネスト様も交えているのだけれど、私の意識はハルト様にあった。もちろん、この場に主の命の危険がないとわかっているからだけれど、気付けばハルト様の動きを目で追ってしまう。
ネスト様と楽しそうに語り合い、うなずき、よく笑われる。紅茶と一緒に食べるのは、いつもスコーンが最初で、最後にもう一度そこに戻る。それがパターンのようだ。
自分の紅茶が冷めてしまうくらい、ぼうっとしてしまう瞬間がある。
そのたび、何故だかわからない。
何故、紅茶が冷めてしまうのか。
いつの間に、そんなにも時間が経過してしまったのか。
「――ティエン?」
ぼうっとしていた私に、ハルト様は心配そうにお声をかけられた。
「具合でも悪いのか?」
「い、いえ」
そう答えたものの、心臓が跳ね上がりそうな、痛いと思うほどの動悸がした。やっぱり、具合は悪かったのかも知れない。
この時の私は十二歳で、ハルト様は二十歳。ハルト様から見て、私は十分すぎるくらいの子供だった。
子供が、こんな感情を抱いているなんて、気付かれるはずもない。不思議そうに首をかしげ、いつものあたたかな笑顔を浮かべられた。
「そうか? それならいいんだけど」
どくどくと、空っぽだった私の心に血が通い出す。それを鮮明に感じた。
何か、意味もなく泣き出したいような気持ちになった。悲しいとか、嬉しいとか、そうした理由ではない。ただ、意味もなく、溢れる感情が込み上げて、説明の付かない涙がにじむ。痺れるように全身に巡る気持ちを、私は大切にしたいと思った。
不相応に、想いが返ることを求めてはいない。
それでも、ひっそりと想い続けることだけは止められない。
おずおずと見上げた先に笑顔がある。
ハルト様のために、全力でネスト様をお守りする。私はようやく、本来の役目と、それを貫徹する覚悟をした。とても不純な動機だけれど、ハルト様が悲しまれることなどないように。
結果がすべて。
だから、動機なんて、私の胸の中に秘めておけばいいだけのこと。
本人が自覚する以上に周りにはバレバレなんですけど、そこはわかっていません。
ハルトは鈍いので、気付いていませんし。




