*小さな手*〈C3/38~〉
ユミラ視点のリュリュとの出会いです。
僕の母は、僕が十二歳の時に、早すぎる終焉を迎えた。
母は厳しくもあったけれど、誰よりも僕の理解者であった。息子の僕から見ても美しく、よくできた母であり、妻だったと思う。
けれど、そんな母に父は最期まで冷淡だった。多分、もう愛情などなかったのだろう。いや、最初からそんなものは存在しなかったのかも知れない。
母の母、僕の祖母は王姉であった。つまり、母は王の姪に当たる。
このクランクバルド公爵家にとって、母は一人娘であり、その婿に望まれた父がこの家にやって来たのだ。母が父を見初め、祖父母は渋々それを許したらしい。
母は父の何に惹かれたのか。本当は優しい人だと言ったことがある。
けれど、それは聡明だった母の、唯一の曇りだったのではないか。優しい人間なんて、たくさんいる。何も、父だけが優しかったわけではない。
それすらもわからないほどに盲目だった。惹かれてしまえば、理由なんてどうでもよかったと。
まだ子供だった僕が正確に理解できたわけではないけれど、母と父は、どう見ても不釣合いだった。二人の空気は調和することがなかったように思う。
父は母を愛していなかったし、父は僕のことも同様に疎んじていた。
孤独だったのは、僕か、父か。それとも、お互いか。
けれど、歩み寄ることはなかった。それは、母の死後も同じだった。
僕が幼い頃に祖父は亡くなり、当主の座についたのは、父ではなく、祖母だった。祖母は、父になんの期待もしていなかったのだろう。
そして、祖母は、今となってはこの家で唯一血を分けた孫である僕に、家督を譲るつもりなのだ。父ではなく、その息子である僕に。
僕と父の関係が悪化しようと、祖母にとっては瑣末なことだから。
僕はもう、諦めてしまっていた。
この家に生まれ付いた以上、普通の家庭、親子、愛情、そういったものとは無縁であるのだと。
名門と謳われようと、高々一貴族でこの有様だ。間違っても王位などについてしまったら――そう考えるだけでぞっとする。
それが義務だというのなら、僕はこの血を恨むだろう。
そして、ずっと険悪で冷え切った関係の僕たちが家族に、新たな風が吹き込んだ。
父が、後添えを貰うと言う。母を忘れたのかとなじるような気持ちが、僕はまるで湧かなかった。
望むようにすればいい、と。
関心がなかったのかも知れない。
それは、祖母も同様だった。
そして、やって来た女性を見た時、僕は少しだけ驚いた。何せ、思っていたよりも随分と若い方だった。
僕と十も離れていないのではないかと思う。まるで姉のような年齢の方に、僕は義母上と呼ばねばならない。けれど、それで父が機嫌よく過ごしてくれるのなら、それで構わなかった。
「お初にお目にかかります、息子のユミラです」
僕はそっと笑いかけ、義母の手を取る。儀礼的に口付けをすると、建前でしかない言葉を口にする。
「このようにお美しい方が義母上だなんて、光栄ですが、少し照れますね」
「まあ……」
恥らう仕草は確かに美しいけれど、それは計算され尽くした動きに思えた。彼女はそうして生きて来たのだな、と思う。
別にそれがいけないことだとは思わない。美しさも武器だ。有効に使えばいい。
ただ、それを選んだ父に、更なる落胆をしただけだ。
それでも、この時の僕には、まだ友好的な親子関係を築く腹積もりはあった。
そう――好き嫌いで突っぱねるつもりなんてなかった。けれど、どうしても許せないと感じてしまったのは、このすぐ後のことだ。
僕は、使用人たちとよく話すことを心がけている。彼らは、僕の目から見て、気が付かないようなところを見ている。知っている。彼らから学ぶことは多いのだ。
この日は、少し肌寒さを感じるけれど、秋の空が青くきれいだった。なんとなく、それを見上げながら敷地の中を歩いていた。
そんな時、使用人たちが数人固まって何かを囲んでいることに気が付いた。皆、どこか困ったような顔をしていたように思う。
「どうかしたの?」
僕が声をかけると、彼らは皆、やっぱり困惑した顔を僕に向けた。
「ユミラ様……」
「それが……」
彼らの中心にいたのは、小さな女の子だった。メイドが必死で慰めているものの、今にも泣き出しそうだった。
細く、絡まった髪と染みの付いたワンピース。固く結んだ口と、そのせいでしわになっている顎。
それでも、その子は泣くことを精一杯我慢しているように見えた。
「迷子? こんなところで?」
「はい。それで、親を探してあげようと思うのですが、ずっとこの調子でして。もしかすると、親の名前もわからないのかも知れません」
確かに、まだ三、四歳だ。『ママ』や『パパ』が名前だと信じている年頃だろう。
使用人の誰かの子である可能性が高い。きっと、親はこの屋敷の敷地のどこかにいるはずだ。
僕はその子供の前に屈み込み、目線を合わせた。そして、淑女を扱うように、その小さな手を恭しく取る。
「こんにちは、お嬢さん。僕はユミラ。君の名前を教えてくれないかな?」
その女の子は泣くのも忘れてきょとんとした。そのあどけない表情に、僕は思わず笑みがこぼれる。
「……リュリュ」
小さく答えた。
「そう。リュリュ、お母さんの名前を言えるかい?」
そうしたら、リュリュは途端に表情を曇らせ、口を引き結んだ。やはり、言えないようだ。
仕方がない。
「わかったよ。じゃあ、こうしよう」
僕はリュリュの小さな体を抱き上げた。小さくとも、重みはある。そして、子供特有のあたたかさが僕の腕に伝わった。
「一緒に、お母さんを探してあげるよ」
リュリュは再び泣きそうな顔になった。やっぱり、母親が恋しいんだろう。
「あ、あの、ユミラ様、そうしたことは我々が――」
庭師の一人がおずおずとそう言った。けれど、僕はかぶりを振る。
「皆は自分の仕事がある。大丈夫だよ、これは僕が自分でやりたいことだから」
祖母はこの程度のことで小言を言う人ではない。父は言うかも知れないが、そんなことは構わない。
僕は手始めに出会った使用人のすべてにリュリュを知らないかと聞いて回った。
すると、そのうちの数人が顔を曇らせた。顔を見合わせ、困ったようにうつむくと、わかりませんと言う。
違う。知っているのに答えられない。
そうとしか思えない反応だった。
僕は使用人頭のグレースのもとへ向かった。
「グレース」
「これはユミラ様」
振り向きざまにそう答え、それから僕が手を繋いでいるリュリュを見た途端、やはりグレースも微かな困惑を見せた。長年当家に仕え、祖母の信の厚いグレースなら、何かを知っていると思ったのは間違いではなかった。
「この子、リュリュを知っているね?」
グレースは他の使用人たちとは違い、ためらいがちに、はい、と答えた。
「どうして、そんな顔をする? 皆、何故知っているのに知らないと言うんだ?」
ふぅ、と小さく嘆息すると、グレースはピンと伸びた背筋を保ったまま、まっすぐに僕に顔を向けた。
「そのお子は、『若奥様』の連れ子――ユミラ様の妹君です」
僕はその言葉をぼんやりと反芻した。
「いもうと……」
そして、リュリュを見る。多分、リュリュは意味がわかっていない。
けれど、僕はなんとも形容しがたい、こそばゆいような感覚だった。兄妹なんて、今更できると思わなかった。けれど、考えてみれば、義母はまだ若い。今後も兄弟が増えることだってあるのだ。
この時、僕は間違いなく嬉しかった。
厳しい祖母、無関心な父。家族ではあるけれど、どこか遠い人たち。
これほどの距離でぬくもりを感じたことなどない。この小さな手を繋ぎながら、僕はそう思った。
僕は再びリュリュに視線を合わせるようにしてしゃがみ込んだ。
「リュリュ、どうやら君は僕の妹になったようだ」
「???」
リュリュには少し難しかったかも知れない。
薄い眉毛を寄せて考え込んだリュリュに、僕は微笑んでみせた。
「ええと、兄様って呼んでもらえると嬉しいんだけど」
「え、と、にいちゃま」
素直にそう呼ぶリュリュが、とてもかわいらしかった。
妹なら、僕が守らなくてはいけない存在なのだと思う。
「うん。じゃあ、義母上のところへ行こうか――」
そして、僕たちはその残酷な現実、残酷な人々に直面する。
自ら、腹を痛めて産んだはずの我が子に、義母は柳眉を顰めた。一瞬、僕にはその理由がわからなかった。
後になって聞いた話なのだが、噂好きで早耳のメイドが言うには、リュリュの父親は義母を捨てて出て行ったのだそうだ。そして、その父親に、リュリュは似ているのだという。
けれど、そんなことはリュリュのせいではない。
それでも、義母はリュリュに愛情が持てないのだろうか。
そう考えて、僕はうんざりしてしまった。
僕と同じだ。
僕にはどうしようもない血筋によって、父は僕を厭う。
そして、血を分けた息子にさえ冷淡な父は、一滴の血の繋がりもない、別の男の子供など、何か汚らわしいものでもあるかのように見た。僕はその視線と形相に、改めて心が冷えた。ほんの少し残っていたはずの家族としての絆さえ、自ら断ち切ってしまいたいような気分になる。
ただ、その眼をリュリュに見せたくなかった。だから僕はリュリュを背に庇う。
それからというもの、父と義母はリュリュを使用人たちに任せ切りにした。同じテーブルで食事をすることも許さず、教育も与えず、着古した服を着せる。
僕がそれに対して意見すれば、二人はそろって顔をしかめた。僕の声は虚しく空回る。
忙しい祖母は、そんな光景に口を挟むことがなかった。
わかっている。祖母はあえて口を出さず、僕を試しているのだろう。
望むことがあるのなら、自らの力で切り開いて見せよ、と。
僕が無力さを噛み締めて謝るたび、リュリュは不思議そうに首をかしげた。
「にいちゃまは、どうしてあやまるの?」
「うん、僕がリュリュに何もしてあげられていないからかな」
すると、リュリュはぷるぷるとかぶりを振った。
「にいちゃまは、リュリュにいつもやさしいの。なのに、どうしてあやまるの?」
そうして、リュリュの小さな手は僕の指をきゅっと握った。
「リュリュ、にいちゃまにあえてよかった」
弱々しく笑う。この小さな子は、こんなにも傷付いて、それでもまだがんばっている。
僕が弱音を吐いてはいけない。僕は、この子を守れる兄でありたい。リュリュに頼られる存在でありたい。
「僕も、リュリュに会えてよかったよ」
そう、心から言った言葉に、リュリュはようやく嬉しそうに、子供らしく笑った。
僕がリュリュに構うことを、やはり父と義母はよく思わない。こっそりと使用人頭のグレースが教えてくれた話によると、養子に出すつもりらしいという。僕から父に頼んだところで、多分突っぱねられてしまう。やはり、祖母に頼むしかないのだろうか。
確かな解決策も見出せないまま、僕は考え続けていた。
そしてある日、僕はリュリュを連れて町に出ることにした。
たまには気晴らしになっていいかと。
最初は人の多さに戸惑っていたものの、リュリュは楽しそうだった。連れて来てよかったと思う。
服を買ってあげようと思ったけれど、そう目立つものを買い与えると、かえってリュリュが嫌な目に遭うかも知れない。僕は考えた末、白いリボンを選んだ。
白い絹地に絹糸の刺繍。百合の花のモチーフは、リュリュには少し大人っぽい。けれど、白く凛と咲く花のように成長してほしいと思った。
「おいで、リュリュ」
僕は店内でリュリュをひざに乗せ、細くもつれた髪を櫛ですき、左右に分けてリボンでまとめてあげた。
店員が見せてくれた鏡で、リュリュは何度も何度も首を横に振って左右のリボンを確認していた。ほんのりと紅潮した頬が、僕には微笑ましかった。
そうして、僕が店員と話をしていると、そこでおとなしく鏡を見ていたリュリュの姿がなかった。鏡だけがその場に置き去りにされている。
「リュリュ?」
僕は正面にいた店員を振り返った。
「あの、ここにいた女の子は?」
すると、彼女はおずおずと言った。
「お連れの御者の方と一緒に先に外に出られましたが……」
それを聞いた途端、僕は自分の浅はかさを呪った。何も言わず、父が僕たちを見送ったのは、何か思惑があってのことだった。
僕が慌てて見せの外へ出ると、やはり御者のそばにリュリュはいなかった。
「ユミラ様、もうよろしいので?」
そう声をかける彼の顔はぎこちなかった。だから、僕にはそれが悲しかった。
「父に頼まれたんだね?」
「あ、あの……」
わかっている。彼にも生活がある。彼に断ることなどできない。
「僕はリュリュを探してから戻る。先に帰ってくれ」
「あ、ユミラ様!」
振り向かずに駆け出した。
子供の足だ。そう遠くへは行っていないと思う。
けれど、リュリュは自分から遠ざかろうとしてしまうのではないかと思った。
あそこは自分の居場所ではない。そう感じてしまうだけの仕打ちをされている。
だから、僕が一緒にいて、何度も大丈夫だと言ってあげなければならなかったのに。
途中、何度か人に尋ねた。小さなリュリュは、人ごみに紛れたら目に付かない。あの子は、声を殺して泣くことに慣れてしまっていて、大声で僕を呼んでくれない。
僕は焦燥感が勝り、この時は冷静にものを考えられていなかった。どうしたらいいのか、困惑する頭で呆然と上を見上げた。そんな時、僕の耳に、ある声が届いた。その声は次第に近付き、同じことを繰り返す。
「誰か、この子を知りませんか? お母さん、近くにいませんか?」
周囲の人たちの視線がその青年と、青年に抱えられているリュリュに注がれた。リュリュは案の定、声を殺して泣いていた。
「リュリュ!!」
僕は人を押しのけるようにして二人のもとへ駆けた。僕の剣幕に、青年は少し驚いていた。
「にい、ちゃま……」
ぐすぐすと泣きながら、リュリュはつぶやく。
「もう大丈夫だから」
僕は手を差し伸べ、青年からリュリュを受け取った。
「でも、リュリュ、いないほうがいいから」
そんなことを言う。僕はこの時、初めてリュリュに怒った。
「そんなわけない! そんなこと、二度と言うな!」
リュリュはびっくりして、声を上げて泣いてしまった。僕はその背を撫でる。
「一緒に帰ろう」
「うん……」
そんな僕たちの姿を、青年はじっと見ていた。僕はようやくそれに気付く。
僕よりもずっと年上の人だ。
穏やかな目をしている。それは、優しい光だった。
「お兄ちゃん、見付かってよかったな」
そう言って、彼は笑った。陽だまりのような笑顔だった。
僕たちの抱えるものが減ったわけではないのに、何故か急に気持ちが軽くなったかのような、そんな気になる。この笑顔に、励まされたような気がした。
「ありがとう。僕はユミラと言います。あなたは?」
「俺は、ハルトだ」
「そうですか、お礼がしたいので、どうか拙宅まで一緒においで下さい」
すると、彼は強張った顔でかぶりを振った。
「え? いや、いいよ。気にしなくて」
「それでは僕の気が済みません」
「ほんとに、気にしないでほしいんだが」
「駄目です。お願いします」
僕は、嫌がるハルトを半ば無理やり連れ帰った。
その後、リュリュを置き去りにすることに失敗した父と、僕は口論になったけれど、こればかりは譲れなかった。
そして、僕は旅人だというハルトに、この屋敷で働いてほしいと頼み込んだ。僕はこの出会いを一瞬のことにしたくなかった。心安らぐ人の大切さを、知ったからこそ、ここで別れては後悔しそうな気がしたのだ。
今後、僕にとって、僕を頼ってくれるリュリュが大切なように、リュリュにとっても僕が特別であればいい。僕らは、この冷たい家の中、寄り添って生きて行く。
いつか、リュリュを守ってくれる誰かが現れるまで、僕がリュリュを兄として守って行こう。
それだけは絶対だと、僕は亡き母の墓前で誓った。
平均年齢が高くなりつつあったため、若者を出してみました(笑)
そして、また問題が発覚。
女子がいない!