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Dark of the moon 〈another episode〉  作者: 五十鈴 りく


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14/15

*名を捨てる時*〈Last〉

 僕は、なんのために生まれ、なんのために存在するのか。


 誰しもこの問題に直面し、悩み抜くものなのだと思っていた。

 けれど、僕の置かれた特殊な環境においてはそうではなかった。

 その疑問を持った瞬間に、僕は落ちこぼれの烙印を自らに押してしまったのかも知れない。



「――おい」


 呼ばれて振り返る。そこには、物心ついた頃から僕の教育係であったルオがいた。

 厳しい顔に鋭い眼光。鞭を手にした姿に、幼い僕はただただ震え上がった。


「何度言えばわかる? お前は本当にどうしようもないな」


 ちくり。

 鞭は振るわれなかった。なのに、痛い。

 鞭打たれた時よりもずっと。

 教えられたことをやろうとがんばるけれど、僕には難しかった。あんなこと、できっこない。


 けれど、隣にいたはずのリンが気付けばおらず、そのことに気付いた時には、彼女の手は真っ赤に濡れていた。その手には、獲物がある。あの素早い野兎を、手にした刃で屠ったのだ。

 まだあどけない彼女の、青い勝気な瞳に僕は戦慄した。同じ年頃の子供であるはずの彼女が、なんの躊躇いもなく手を下す。その俊敏さに驚くよりも、その心に驚いた。

 あの色に恐ろしさを感じないのかと。


「よくやった、リン」


 成功したリンは、ルオに褒められた。

 ルオは、そうした時しか僕たちの名を呼ばない。だから、僕の名が呼ばれることはなかった。

 リンは、優秀な子供だ。すぐに一族にとって素晴らしい戦力となるだろうと言われた。

 そうして、僕は、落ちこぼれ、と――。



 僕が存在する一族は、俗に言う日陰の存在。

 王を陰で支えるために暗躍する。

 だから、弱くてはいけない。強くならなければ価値がない。

 わかってはいる。けれど、できないものはできない。


 どう足掻けば、高みに行ける?

 この弱い心はどうすれば強くなれる?

 わからない。

 わからない。

 そう自問し続けるだけの毎日。

 そうして、答えなど出るはずもなく、ただいたずらに歳月だけが過ぎ去って行く。



 僕たちの存在に意味を与える、一族が選んだただ一人の『王』。

 成長した僕たちは、そのお方のもとへ行くのだった。



         ※※※   ※※※   ※※※



 その、一族が選んだ真なる王は、まだ王ではない。


 第五王子、ネストリュート殿下。


 上に四人の兄王子がいる。

 王座までの道のりは険しく、遠い。

 だというのに、一族の誰もがネスト様は間違いなく王の器であるという。

 確かに、ネスト様は容姿端麗で文武両道、非の打ちどころのないお方だった。

 リンはひと目でネスト様を主と認め、ひざまずく。あの勝気でプライドの高いリンが、頭を垂れる。


 いや、何もそれは不思議なことではない。

 僕たちは一族の末端。

 求められるのは、一族の総意を受け入れ、この方を主としてお守りすること。

 そこに疑問など要らない。任務を遂行することだけが求められる。


 ただ。


 ドウシテ――。

 どうして、皆、自分の心で選びもしないことを受け入れられるのだろう?

 そんなこと、誰も思いはしない。

 呼吸をするように、当たり前で自然なことなのだから。

 それができない僕は、水の中に沈んで行くような息苦しさを日々に感じてしまうけれど。



「――レン」


 ネスト様が僕を呼ぶ。

 その頃には、僕も自分の心を押し殺すことが、多少なりともできるようになった。

 肉を斬り裂く時の感触、血の色。恐ろしかったのは、最初の何回目までだっただろうか。


 すべては、ネスト様のため。

 ネスト様は、末端の僕のことさえちゃんと名を呼んで覚えてくれる。

 嬉しくないわけではなかった。


 それでも、嬉しい気持ちよりもずっと、疑う気持ちが強くあった。

 皆が落ちこぼれと呼ぶ僕を、ネスト様は何故こうも気にかけてくれるのか。僕に価値を見出してくれるはずがない。何故だかわからない。わからないから――気味が悪かった。


 大したお方なのだと思う。

 それはわかっている。認めている。

 けれど、底の知れない恐ろしさがある。

 そばに寄られると、緊張でどうしようもなく体が重くなった。

 そんな僕を知ってか知らずか、ネスト様は言う。


「お前に頼みがある」


 頼み?

 命令のことだろう。


「はい。なんなりとお申し付け下さい」


 僕は、一族の末端。

 ネスト様の手足。

 僕の意思などとは関係なく。

 顔を上げず、ひざまずいたまま、抑揚なく答えた僕に、ネスト様の声が降る。


「隣国、シェーブルの調査を頼みたい」

「調査、ですか?」


 僕は思わず首を傾げてしまった。

 隣国シェーブル王国は、確か国王が病み付いていると噂されている。そのため、治安も少しずつ荒れ始めたらしい。このレイヤーナ王国に害を及ぼさないか調べて来いということだろうか。

 ネスト様は整ったお顔で柔らかく微笑んだ。ただ、その微笑でさえ、計算され尽くしたもののように思われて、僕はいつも落ち着かなかった。


 ネスト様は第五王子。

 つまり、ネスト様の上には四人の王子がいる。一族が選んだネスト様を王座に押し上げるには、その四人の障害を排除しなければならない。


 そのための戦いをするのなら、国は一時いっときであろうとも混乱に陥る。その隙に、他国をどう抑えるか対策を練っておかなければ、よしんばネスト様が王座に就いたところで、疲弊したレイヤーナは他国に攻め入られてしまうだろう。ブルーテ諸島の中での立ち位置は劣位になり、国土は蹂躙されることになるかも知れない。

 だからこそ、ネスト様は近隣諸島の調査が必要だと決断された。そう考えるのが自然だ。


 けれど、本当は……。

 本当は、自国の王となることを諦め、あの不安定なシェーブルを乗っ取り、その王となるつもりなのではないだろうか?

 ふと、そんな考えが頭をよぎる。


 どこの国であろうと、王は王なのだから。

 その方が、格段に楽な道のりなのではないかと思う。

 そのための調査なのではないだろうか。


「他の隣接国ペルシやアリュルージも気がかりだが、まずはシェーブルからだ。頼めるな?」


 僕に?

 この、落ちこぼれの僕に?


 重要な任務を与えられる意図はなんなのだろう?

 僕がそれをやり遂げると信じてくださってのことなのか。

 僕にネスト様の真意を知ることはできなかった。

 ただ、一族の末端である僕に、真の王であるネスト様の勅命を撥ね付けることなどありえない。

 だから、言葉はひとつ。


「御意のままに」


 それだけだ。



         ※※※   ※※※   ※※※



 ネスト様が僕を調査に任命したことが気に入らない人たちもいた。

 リンは特にそうだ。自分の方が役に立てるはずだと怒っていた。それを直接ネスト様に抗議することはなかったようだけれど。


 そうして、僕は海を渡る。

 もちろん、王家御用達の船などではなく、一般の旅船だ。けれど、僕にはネスト様の威光が付いて回り、入国の際には軍人と同じような扱いになる。

 シェーブルで実施されている入国手形代わりの腕輪をはめられることはなかった。あんなものを施されては、調査に差し障る。ネスト様はそう判断されたのだろう。



 降り立ったシェーブルの地は、風が乾いて感じられた。

 波のぶつかる音も、どこかぎこちない。人の声は甲高く、どこか粗野に聞こえた。

 ただ、それだけ。

 たかだか隣国だ。そう遠く離れたわけでもない。


 ただ、シェーブル王国はもちろんのこと、僕が国外に出たことは一度もなかった。

 けれど、そのことに対する不安はなかった。

 あの一族の中で育ったのだ。あれ以上の地獄が他にあるとは思えない。

 むしろ、国外に出ることで、ほんの少し心が軽くなるような感覚だった。そこには、一族の誰もいない。

ルオもリンも。それから、ネスト様も――。

 誰と比べられることもなく、縛られるものもない。

 普段とはまた違った開放感だった。

 心が、軽い。



 そうして、僕は港町エトルナを歩く。

 やはり、この国はレイヤーナと比べてどこか古臭い。けれど、それが僕には不思議と馴染んだ。懐かしいような気分になるのは何故だろうか。

 そんなことを考えておかしくなる。


 フラフラと僕が歩いていても、僕のことを気に留める人はいない。

 誰も僕を知らない。僕がどんな人間で、どんな目的を持ってここにいるのかを知らない。

 落ちこぼれと蔑まれた僕を――知らない。


 この場所で、僕は特別なことなど何もない、ただの人だった。

 笑顔を貼り付け、話しかけても、特に嫌な顔をされることもない。ごく普通に返事をしてくれる。

 僕には、そんな当たり前のことさえも新鮮だったのだ。



 この国の国王は、いつ死んでもおかしくない。

 そこまで逼迫した状況なのだということがわかった。皆、口々に不安を訴える。

 僕が水を向けると、吐き出したがっていた思いをさらける。

 僕は、この民衆の不安を当然だと思う。

 指導者が指導者として機能しておらず、次なる王も定まらない。そんな状況で国が存在していること自体があり得ない。


 国とは、そう簡単なものではない。

 代理が支えて行けるわけがないのだから、この国が荒れて行くのは当然だ。

 すべては、『偽りの王』のせい。


 僕らが王座に相応しいお方を『真なる王』と呼ぶように、相応しくないものを『偽りの王』と呼ぶ。

 まさに、このシェーブルの王は『偽りの王』そのものだ。

 この国の国民は、哀れだ。



 とりあえず、調査が目的なのだ。僕は国内をぶらりと旅する。

 確かに、レジスタンスの活動は頻繁だった。あちこちで暴動が起こっている。

 けれど、とてもじゃないが、何かを成し遂げられるような傑物は見当たらなかった。

 不安、不満、そうしたものの発露が暴動であるだけ。何かを変えよう、国を救おうとする意志は、吹けば飛ぶほどしかない。あれは、憂国の士ではない。自分たちの境遇、行動に陶酔しているだけ。

 レジスタンスなど、所詮はその程度だ。


 この国の人々が二言目には口にする、『レブレム=カーマイン』なる人物さえ、そうした程度だったのではないだろうか。現に彼は生きていない。すでに討たれた身だ。

 天に見放され、志半ばで散ったのならば、所詮はその程度の器だったということ。

 間違っても、王になどなれなかったのだ。



 ただひとつ、気になる情報があった。

 それは、とある活動家の噂だった。

 まだまだ組織は大きいとは言えない。けれど、彼を慕い集まる者が増え続けているという。

 今に最大の勢力となるのではないかと。


 彼の名は、『ロイズ=パスティーク』。


 その者は、王に相応しいのだろうか。

 そんなこと、僕には関係がない。

 ただ、ネスト様の覇業の邪魔にならないとわかりさえすれば、それでいい。

 とりあえず、僕はその人物に近付いてみることにした。それが済んだら、この崩壊寸前の王城へ調査に行こうと思う。

 まずは、こちらからだ。



 ロイズ=パスティークと出会うために、彼の居場所を探ることは、僕にとってはたやすいことだった。

 手段なんてどうだっていい。手当たり次第に情報をかき集める。

 いくら落ちこぼれであろうとも、その辺の民間人に劣る力量ではない。鋭い刃を見れば、誰もが簡単に口を割った。

 彼は今、港町ウステリアにいるという。

 この時、僕が滞在していたのは王都ネザリムだ。ウステリアはすぐそばで、今から向かえば会えるだろう。

 僕はまず、どのように接近するかを考えながらウステリアに向かった。



 レジスタンスなんていう後ろ暗い連中なら、表の道は使わないだろう。僕はとにかく裏道を通る。

 僕自身にも、それは同じことが言えたのかも知れないけれど。

 ロイズ=パスティークは、穏やかそうな面持ちの細身の中年男性だという。

 確実にこれといった特徴があるわけではない。それでもまあ、手当たり次第に探ればいい。

 僕は、闇夜の中でも、夜目の利く方だ。

 ほろ酔いで歩く男たちを吟味する。暴動を前に、慎重になって隠れているか、景気付けに酒を煽るか、どちらかだと思う。


 「――そう、だな。私もそう思うよ」


 がさつに笑う男たちの中、そんな理知的な声があった。

 穏やかに、すべてを見守るような声。

 僕は不思議と、その響きに気を取られた。

 穏やかそうな面持ちの細身の中年男性。確かに、その人物はそれだった。


 確信など何もないのに、僕は妙にその人物が気になった。

 まあいい。彼がロイズ=パスティークであるのかないのか、確かめれば済むこと。

 僕はすぐに回り道をして、彼らの進行方向からうつむいて歩いた。ぽうっと灯ったカンテラの明かりが先に見える。


 そうして、僕は前を見ないまま、その男性にわざとぶつかって見せた。そして、その懐から財布を抜き取る。ただし、本気ではない。咎められるように速度を落とす。真剣にやれば、多分気付かれずに終わってしまうから。

 彼の隣にいた男が、僕の手を力強くつかむ。


「おい! 何してる!」


 僕は意識して驚いた表情を作った。それから、怯えた目をしてみせる。


「あ……」


 その途端に、やはり穏やかそうな中年男性は仲間を止めた。すべての人間に等しく接することができるかのような、優しい瞳が僕に向く。僕は、その色に真剣に怯えていたのかも知れない。


 知らないものだから。

 落ちこぼれと蔑まれた僕は、その心が理解できない。何故、行き逢っただけの僕にそんな目を向けることができるのか、理解できないからこそ怖いと思った。何を考えているのかがわからない相手ほど、恐ろしいものはない。


「怖がらせてすまない。君にも、止むに止まれぬ事情があるのだろう。ただ、申し訳ないのだが、その財布には大した金額は入っていないのだよ」


 そう、穏やかに笑った。

 確かに、財布は薄くて軽かった。当の本人も、決して裕福そうではない。それでも、瞳は優しいから不思議だ。


「ごめんなさい。……お返しします」


 僕は年相応の子供らしさを彼に向け、殊勝に謝ってみせた。周囲の男たちもそれで納得したのか、僕の手を離す。

 すると、彼は言った。


「……私は、ロイズ=パスティークという。君は?」


 やはり、彼だ。

 僕は、自分の読みの正しさにほっとした。

 落ちこぼれ?

 ちゃんと仕事をこなしている。僕は本当に落ちこぼれなのだろうか。

 そんな疑問がふと、胸にわいた。


「僕は――」


 そこで言葉を切る。

 素直に名乗るつもりなどない。

 それでも、彼は微笑を絶やさなかった。


「君に家族はいるのか?」


 そんなことを訊ねて来る。

 家族?

 一族の者は皆、家族といえるかも知れない。もちろん、産みの親はちゃんといるけれど、一般的な家庭という形ではない。一族の子供は皆のもの。共有する形であり、親子といっても血の繋がりがあるだけで、他となんら変わりない。

 いる、というのは違うような気がした。


「いません」


 彼は、少しだけ眉尻を下げた。


「そうか。行く当てはあるのか?」

「ありません」


 すると、彼は困惑しつつもそっと僕に声をかけた。


「私たちは、少々危険が伴うことをしなければならない。だから、子供の君と常にそばにいることはできない。けれど、それでも、一緒に食事を摂ることくらいはできる。独りでいるくらいならば、共に来るといい」

「え?」


 思わず、耳を疑った。

 仲間の男たちも驚いて声を上げる。


「ロ、ロイズさん!?」


 彼はそんな仲間たちに柔らかな笑みを見せた。


「私は、このように寂しい思いをする子供のいない国を作りたい。この考えは間違っているのかい?」

「それは……」

「わかっているよ。一人ずつ救うなんてできないことくらい。ただ、だからといって、目の前の彼を見捨ててしまう私ならば、誰も私の言葉に耳を傾けてはくれないだろう」


 あたたかな言葉。

 自然と耳に触れるその声に、僕の頭の芯が痺れるような感覚がした。


 わからない。この人は、本心からそれを言う。だから、わからない。

 何故、よく知りもしない他人に対し、そのような優しさを向けることができるのか。

 僕は混乱してしまっていたのだと思う。

 上手く返事もできないまま、彼らと共にいることになった。

 離れがたいと感じてしまった自分を、この時はまだ認められなかった。



 そうして、ロイズさんは言葉通り、僕と共に食事を摂った。

 気遣うような言葉をたくさんくれた。

 あの殺伐とした環境にいた僕には、それはまるで別世界での出来事のようだった。


 そんなロイズさんたちが次に起こそうとしていた行動は、王家の船の襲撃だった。人を傷付けるのではない。ただその王家御用達である証として掲げられている旗を落とす。王家の失墜を示すために。


「君はちゃんと隠れて待っていてくれ。すぐに戻るから」


 ロイズさんは、優しくそう言って僕の頭を撫でた。さすがに、そこまで子供のつもりはなかったのに、それを嬉しく思ってしまった僕はどうかしてしまったのだろう。

 この時の僕は、すでにロイズさんの身を案じていた。無事に、戻って来られるだろうか、と。



 ロイズさんたちが港に向けて出発したのを見計らい、僕も後を付けるようにして隠れアジトの外へ出た。わあわあと、争う声が潮風に乗って僕のところにも届く。

 裏路地を抜け、僕の目に光が飛び込んだ時、レジスタンスの面々が矢を番える姿が見えた。


 けれど、襲撃を受けている船員たちは、さすがに王家の船だけあって、優秀だ。守りが堅い。船に乗り移ることさえあれではできそうもない。

 ああ、弓術の腕前の粗末な連中ばかりだ。あれでは、どこにも当たらない。こんなことをしていては、今に騒ぎを聞き付けた兵士に取り押さえられてしまう。


 僕は自らの胸を押さえ、はやる気持ちを落ち着けた。

 僕は、この国に何をしに来た?

 我が主、ネスト様の勅命により、この国の調査に来た。

 今、僕がすべきことは――。


 わかっているくせに、心は従おうとしない。

 そう、僕は、一族の決めた道筋を歩くだけの存在でありながら、その道の先を一度も信じていなかった。

 他の道はないと自分に言い聞かせて、そうして納得していただけだ。


 もし、ここで違う道を自分で選び取れるのだとしたら?


 わぁ、とレジスタンスの男の悲鳴が上がった。

 やはり、船員の方が上手だ。マストの上から狙い打たれた男は、肩を射抜かれて倒れた。そのやじりが、いつロイズさんに向かってもおかしくはないのだ。

 そう考えた瞬間、僕は動いていた。

 するりと物陰から抜け出し、レジスタンスも船員も無視し、矢の雨を掻い潜る。


「おい! 君!!」


 どこかからロイズさんの声がした。けれど、僕は止まらなかった。

 軽く跳躍する。波止場から船へと飛び乗っただけだ。けれど、ただの子供である僕がこの場で怯みもせず、そうした行動に出たことがすでに異常だったのだろう。

 船員たちが突然現れた僕に驚いている隙に、僕は数多のロープを両手足で捕らえ、それを利用してマストを駆け上る。大きな悲鳴のような声が敵味方の区別なく発せられる。


 僕はふわりと体を浮かせ、登ったマストの上から船兵を一蹴して叩き落した。ただ、そのあまりの呆気なさに、僕自身が驚いてしまった。

 外の人間は、こうも弱いものなのか、と。

 戸惑いつつも、僕は更に上に上り、掲げられていた旗を抜き取った。それを手にし、大きく振ってみせると、レジスタンスの面々が、割れんばかりの歓声を上げて僕を見上げていた。


 過酷な修行を続けていた僕にとっては、ごく簡単なことだった。例えばリンなら、もっと鮮やかに素早く決められたと思う。

 けれど、ここにリンはいない。ネスト様もいない。

 ここにいるのは、僕だけ。


 僕だけならば、僕は、落ちこぼれなんかじゃない。

 僕は、一族とは関係のない、ただの一個人として存在できる。

 その時に、思った。

 僕の人生は、ここから、この日から始まるのではないかと――。



「助かったよ、ありがとう」


 皆の撤退を終え、その後になってロイズさんが僕にそう告げた。

 けれど、そう言う割に、嬉しそうではなかった。厳しい顔をしている。

 その理由は、すぐにわかった。


「ただ、ああした危ない真似はよくない。君は身軽で特出した能力があるようだけれど、やはりまだ守られるべき子供だからね。君に何かあっては、私は後悔するだけでは済まされないから……」


 優しい、あたたかな人。

 こんな風に、包み込まれる幸せがあるのなら、そのあたたかさで国さえも包むことができるのだろうか。

 ロイズさんなら、国中をあたたかく包んでくれる。そんな場所を作ってくれる。

 そんな予感、いや、希望が、僕の中にあった。


「僕は、お手伝いしたいと思ったんですよ。ロイズさん、あなたを」


 それは、僕の本心だった。

 この時、僕は選んだのだ。

 ネスト様ではなく、ロイズさんを。

 自らの王として。


「あなたが王として目指す国を、僕は見てみたいのです」


 ロイズさんは、僕を驚いた顔をして見ていた。けれど、しばらくしてようやく、困ったようにして笑った。


「私が王となる日を、その夢を信じて共に歩んでくれるというのか?」

「はい」

「困難と危険が付きまとう。それでもか?」

「ええ。僕はすでに決意しました」


 ロイズさんが思うよりもずっと、重たい決意を。

 すると、ロイズさんは嘆息した。


「そう、か。では、ひとつだけ言っておこう」

「はい?」

「決して死なないこと。それだけは約束してくれ」


 ああ、そんなことかと。

 僕は、ロイズさんと共に在り、支えると決めた。そう簡単に死ねやしない。

 もし、一族から僕に抹殺指令が下されたとしても、生き延びてやろうと思うくらいだ。

 ロイズさんは、どこか憂いのある笑顔のまま、僕に言った。


「そろそろ、名前を教えてくれるか? ……ああ、そんなことを言いつつ、私こそ、名乗っていなかったね」

「え?」

「ラダト=メデューズ。それが私の本当の名だ。さて、君の名は?」


 偽名を名乗っているからには、本名を出したくない理由があったはずなのだ。

 それを、僕に明かしてくれた。

 それは、信頼の証なのだと、僕はその誠実さに心から感謝した。

 そんな僕が名乗る名は――。



「リッジ」



 僕ははっきりとそう答えた。


「リッジ=ノートンです」


 ロイズさんは、小さな皺のある目もとをゆるませた。


「そうか。よろしく、リッジ」

「はい!」



 そうして、僕は使命を、ネスト様を忘れた。

 かごを抜け、自由に羽ばたく僕は、いつ打ち落とされても不思議じゃない。

 それでも、そうなったとしても、自分が信じたいと思ったものを見付け、一時でもそれに寄り添えたのだから、幸せだと思える。

 あのまま、一族の中に埋もれて、生きていると言いたくもないような思いをし続けるよりはずっと。


 レン=ノートリッジ。


 この名を、僕は捨てる。

 過去と一緒に。

 未練なんて、どこにもない。

 選び取った未来を、僕は信じて生きて行く。

 私が思っていたよりもリッジを好きだと仰って下さった方が多かったので、感謝の意味も込めて追加で書きました!

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