第6話 名のない影
鍛冶場の外側を、ぼやけた影がゆっくりと囲んでいた。
木々の間。
崩れた壁の隙間。
倒れた石組みの向こう。
そこにいるはずなのに、視線を定めると輪郭が滑る。
人の形に近い。
だが、人ではない。
獣にも見える。
だが、獣でもない。
名前をつけようとした瞬間に、認識が逃げる。
ひどく嫌な存在だった。
「魔神の滓だ」
ヴァルグレンが低く言う。
炉床の火は小さいままなのに、その一帯だけ妙に空気が張りつめている。
「ネムノアのか」
レイナは自分でも驚くほど自然に、その名を口にしていた。
ヴァルグレンの目が、僅かに動く。
「その名まで喉に乗るか」
「知らないはずだ」
「だが言った」
レイナは舌打ちしたい気分になった。
知らない名ばかりが、自分の知らない場所から浮かんでくる。
気分のいいものではない。
だが今は、それを気にしている場合ではなかった。
影が一歩、近づいた。
近づいたはずなのに、距離感が妙に曖昧になる。
十歩先か。
五歩先か。
それすら掴みにくい。
「斬れるのか」
レイナが問う。
「斬れる」
ヴァルグレンは短く答えた。
「ただし、名を見失うな」
「何だそれは」
「こやつらは削る」
「輪郭を」
「認識を」
「名を」
レイナは剣を握り直した。
指の感覚はある。
足場も分かる。
呼吸も乱れていない。
なら、まだ大丈夫だ。
「お前は」
ヴァルグレンが言う。
「お前の名を言えるか」
レイナは眉を寄せた。
「……レイナ」
即答した。
問題ない。
だが、その直後。
胸の奥で別の音が微かに触れた。
レイナス。
それに引きずられそうになる前に、レイナは強く息を吐いた。
「十分だ」
ヴァルグレンが言う。
「今はそれで保つ」
今は、という言い方が気に入らなかった。
だが反論の前に、影が動いた。
音がない。
風もない。
ただ、気づいた時には目の前にいた。
レイナは反射で剣を振るう。
感触は浅い。
霧を裂いたような手応えの向こうで、遅れて何かが断たれる。
影が二つに割れた。
だが、地に落ちない。
崩れながら、文字みたいにほどけて消えた。
「気持ち悪いな」
レイナが吐き捨てる。
「気持ち悪いで済ませるな」
ヴァルグレンの声と同時に、左から別の影が迫る。
レイナは半身でかわし、返しで斬る。
今度は手応えが少しだけ深い。
だが斬った瞬間、耳の奥で何かが擦れた。
誰かの名前だ。
聞いたことのある名前だったはずなのに、意味だけが抜けていく。
レイナは顔をしかめた。
「……面倒だ」
「だから言った」
ヴァルグレンは炉床の前から動かない。
だが、ただ立っているわけではなかった。
金床に片手を置き、低く何かを呟いている。
神代語だと、なぜか分かった。
意味は取れない。
けれど、炉の火が少しずつ強くなっていく。
「何をしてる」
レイナが問う。
「残り火を起こしている」
「それで?」
「ここは鍛冶場だ」
「火床の神域でもある」
「名を削るものは、火床を嫌う」
その瞬間、影が三つ、同時に動いた。
レイナは一歩退く。
正面の一体へ剣を振り下ろす。
横の一体には蹴りを入れる。
最後の一体が首元へ滑り込んでくる。
身を捻る。
遅い。
間に合わない。
そう思った瞬間、火花が走った。
ヴァルグレンが投げた鉄屑が、影の顔に当たって弾けたのだ。
影がわずかに揺らぐ。
その隙に、レイナは首筋を横薙ぎに払った。
今度ははっきり断てた。
影は細い線になって裂け、そのまま空気に溶けた。
「助かった」
「貸しだ」
「高くつきそうだな」
「覚えていればな」
その返答が、妙に引っかかった。
覚えていれば。
ネムノアの滓。
名喪失の魔神。
そうだ。
こいつらは、名前を削る。
レイナは息を整えた。
自分の名前。
灰灯院。
ルミエラ。
ユノ。
ひとつずつ、胸の中で確かめる。
そうしていないと、足元が少しだけ危うい。
ひどく不愉快だった。
「数が増えている」
ヴァルグレンが言う。
確かに。
さっきまで六か七だったはずが、いつの間にかもっと多い。
木々の間に、ぼやけた影が増えている。
これはまずい。
「本体か」
「違う」
「ただの滲みだ」
「だが、源は近い」
レイナは剣先をわずかに下げた。
「北方大陸に封じられているはずじゃないのか」
ヴァルグレンが初めて、はっきりとレイナを見た。
「そこまで言葉になるか」
「答えろ」
「封印されたものは、揺らげば滓を落とす」
「遠く離れていてもだ」
「名を持つ者が集まる場所には、なおさら」
灰灯院。
レイナの頭に真っ先にそれが浮かんだ。
名を与える場所。
名を呼ぶ場所。
名を残す場所。
レイナの顔つきが変わったのを見て、ヴァルグレンが低く言う。
「今すぐあそこへは向かわぬ方がいい」
「何だと」
「お前がこの滓を引いている可能性がある」
レイナの喉がひどく冷えた。
自分が。
あれを。
灰灯院へ。
その想像だけで、血の気が引く。
「……ふざけるな」
「ふざけてはいない」
ヴァルグレンの声音は重かった。
「だから先にここで断つ」
その言葉と同時に、炉床の火が一気に強くなる。
赤から白へ近づくような、密度のある光。
崩れていたはずの炉床に、ほんの一瞬だけ神代の形が重なった。
完全な幻ではない。
ここが、かつて本当に神の火を扱った場所だったと分かる景色。
影たちが、初めてはっきり後ずさった。
「今だ」
ヴァルグレンが言う。
「炉の前へ引きずれ」
「どれを」
「全部だ」
「無茶を言うな」
「お前ならできる」
レイナは返事の代わりに踏み込んだ。
一体。
二体。
三体。
斬る。
払う。
蹴る。
誘う。
影は曖昧だ。
だが、曖昧なら曖昧なものなりの癖がある。
名を持たぬものは、意志の薄い方へ流れる。
つまり、火を恐れて退く。
なら逆に、火の方へ追えばいい。
レイナは剣で影の進路を削り、炉床の前へ寄せていく。
剣筋に、妙な冴えがあった。
ただの対人の剣ではない。
神代の何かが、薄く蘇っている感じがする。
正直、気味は悪い。
だが、今はそれを使う。
最後の一体を炉床の正面へ追い込んだ瞬間、ヴァルグレンが金床を打った。
槌は持っていない。
素手だ。
なのに、轟音が鳴った。
空気そのものが打ち鳴らされたような音だった。
火が跳ね上がる。
白い火花が影を貫く。
ぼやけた輪郭が一気に裂け、霧のようにほどけ、文字の形を取る前に燃え尽きた。
静寂が落ちる。
風だけが戻る。
レイナはしばらく剣を構えたまま動かなかった。
やがて本当に終わったと確認してから、ようやく刃を下ろす。
「……今のは何だ」
「鍛ち火だ」
ヴァルグレンが言う。
「名を刻む火」
その言葉は妙に胸に残った。
名を刻む火。
名を削る影。
真逆だ。
「ネムノアと反するのか」
「反する」
「だからこやつらは、火床の近くを嫌う」
レイナは剣を鞘へ戻した。
腕は重い。
だが怪我はない。
呼吸もすぐ戻る。
「灰灯院は大丈夫か」
「今すぐ崩れはせん」
ヴァルグレンの答えは、安心させるには少し足りなかった。
「だが、何かが揺れ始めている」
「北方か」
「おそらくな」
ヴァルグレンは炉床へ視線を落とした。
「まだ先の話だ」
「だが、遠くはない」
レイナは少しだけ目を伏せた。
北方大陸。
碑冠遺跡。
忘名宮。
知らないはずの単語が、意味を持った輪郭として胸の内側を撫でていく。
嫌な感じだ。
だが、無視できるものでもない。
「お前」
レイナが言う。
「どこまで知っている」
ヴァルグレンは答えない。
代わりに、炉床の火を見つめる。
その横顔は、無骨な岩のようでいて、どこか疲れていた。
「知っていても、言えぬことはある」
ようやく出てきた言葉は、それだった。
「またそれか」
「気に入らぬか」
「嫌いだ」
「だろうな」
少しだけ。
ほんの少しだけ。
ヴァルグレンの口元が緩んだ気がした。
「一つだけなら言える」
レイナは顔を上げる。
鍛冶神は、まっすぐレイナを見た。
「お前は壊れていない」
短い言葉だった。
だが、胸に落ちた重さは大きかった。
神の身体。
失った記憶。
零れる真名。
姉の名に痛む胸。
その全部を抱えたまま、壊れていないと。
この神はそう言った。
レイナは言い返せなかった。
上手く呼吸ができない。
認めたいわけではない。
だが、否定する言葉も出てこない。
「……帰る」
しばらくしてから、レイナはそう言った。
「そうしろ」
「また来るかもしれない」
「来たければ来い」
「嫌な言い方だな」
「好かれる必要はない」
レイナは鼻を鳴らした。
それから、ふと立ち止まる。
「イグニスのことだが」
ヴァルグレンの目が細くなる。
「今は聞くな」
「そう言うと思った」
「その代わり」
鍛冶神は、炉床の灰の中から小さな黒い石を取り出した。
握り拳にも満たない、焼けた鉱石のようなものだ。
「それを持っていけ」
「何だ」
「火床の石だ」
「お前の鍛冶場の?」
「残り火を覚えている」
「ネムノアの滓程度なら、少しは遠ざける」
レイナは受け取った。
石は意外と軽い。
だが、中に熱を閉じ込めている感じがする。
「借りるぞ」
「返しに来い」
「貸しなのか」
「当たり前だ」
その答えに、レイナは少しだけ笑った。
今日二度目の笑いだった。
自分でも珍しいと思う。
「分かった」
「返しに来る」
ヴァルグレンはそれに何も言わなかった。
ただ炉床の火を見つめたまま、小さく顎を引く。
それだけで十分だと、なぜか分かった。
レイナは鍛冶場を出る。
尾根の向こうへ戻る道は、来た時より少しだけ見えやすかった。
懐には鉄片。
手には火床の石。
胸の奥には、まだ曖昧なままの名。
レイナス。
ヴェルセリア。
イグニス。
ヴァルグレン。
知らないはずのものばかりだ。
それでも今は、帰る場所が先だった。
灰灯院。
ルミエラ。
待っている子どもたち。
それらの名を、レイナはひとつずつ心の中で確かめながら、山道を下っていった。




