第二章 悪魔の治験
小章① 告発者
その夜。氷室は病院近くのビジネスホテルにいた。 薬剤横領の証拠は掴んだ。だが、徳永理事長を追い詰めるにはまだ弱い。彼は「部下の独断だ」と言って逃げるだろう。 もっと致命的な、病院の存続に関わるような「毒」が必要だ。
部屋のドアがノックされた。 葛城が警戒しながらドアを開ける。 立っていたのは、昼間にすれ違った副院長、相良淳一だった。 彼は深く帽子を被り、周囲を気にしながら部屋に入ってきた。
「……あなたが、銀行から来た調査員の方ですね」
相良の声は震えていた。
「話があります。この病院の、本当の闇について」
氷室は缶ビールを差し出した。 相良はそれを一気に飲み干し、決心したように口を開いた。
「薬剤の横流しなんて、可愛いものです。……理事長がやっていることは、もっと恐ろしい。殺人です」
「殺人?」
「未認可薬の、人体実験です」
相良は一枚のSDカードをテーブルに置いた。
「この病院には、『特別病棟』と呼ばれる区画があります。末期癌の患者さんたちが入院しているのですが、彼らのカルテは電子化されておらず、すべて紙で、理事長室の金庫で管理されています」
「そこで何が行われている?」
「海外の製薬ベンチャーから持ち込まれた、開発中の抗がん剤を投与しています。治験(臨床試験)のプロセスを無視して、同意書も取らずに」
氷室は目を細めた。 正規の治験には、膨大なコストと時間がかかる。それをすっ飛ばしてデータを取りたい製薬会社と、金が欲しい病院の利害が一致したのか。
「患者たちは?」
「……多くが、副作用で亡くなっています。でも、死因はすべて『癌の進行による病死』として処理されています。遺族には『最善を尽くしましたが』と説明して……」
相良は顔を覆って泣き出した。
「私も加担させられました。死亡診断書の偽造を。……逆らえば、医師免許を剥奪すると脅されて」
「報酬は?」
「一症例につき、五百万円が病院に支払われています。その金はすべて理事長の個人口座へ……」
人の命を金に変える錬金術。 しかも、最も弱い立場にある患者を利用して。 腐肉を喰らうハイエナ以下の所業だ。
「相良先生。その『特別病棟』へ案内できますか?」
「……無理です。入り口は生体認証でロックされていて、理事長と、一部の看護師長しか入れません」
「ならば、こじ開けるまでだ」
氷室は葛城を見た。 葛城はニヤリと笑い、バッグから愛用のピッキングツールと、小型爆薬を取り出した。
小章② 深夜の回診
午前二時。 病院は静寂に包まれていた。 氷室と葛城は、白衣を着て医師に変装し、相良の手引きで院内へ潜入した。 目指すは最上階の奥にある『特別病棟』。
エレベーターホールには監視カメラがある。 葛城が手元のタブレットを操作し、カメラの映像をループ画像に切り替える。ハッキングもお手の物だ。
重厚な扉の前。 『関係者以外立入禁止』の札。 電子ロックのパネルが赤く光っている。 葛城はパネルの下に端子を接続し、解読ツールを走らせた。 数秒後。 ピッ、という電子音と共に、ロックが解除された。
扉が開く。 中の空気は、異様に冷たかった。 薄暗い廊下の両側に、個室が並んでいる。 静かだ。あまりにも静かすぎる。
氷室は手近な個室のドアを開けた。 ベッドには、痩せ細った老人が横たわっていた。 腕には無数の点滴の跡。そして、モニターには微弱な心拍数が表示されている。 枕元には、英語のラベルが貼られた点滴パックが吊るされていた。 『Exp-Agent Z-09(試薬Z-09)』。
「……こいつら、人間じゃない」
葛城が低く呻いた。 その時、廊下の奥から足音が聞こえた。 巡回中の看護師か? いや、足音が重い。男だ。
氷室たちはとっさに空き病室に隠れた。 ドアの隙間から覗く。 現れたのは、東雲興業の男たちだった。白衣ではなく、黒いスーツを着ている。 彼らはストレッチャーを押していた。 その上には、白い布を被せられた遺体が乗っている。
「……また一匹死んだか。処理が面倒だな」 「焼却炉へ運べ。骨も残すなよ」
男たちの会話が聞こえる。 証拠隠滅だ。医療過誤の証拠となる遺体を、院内の焼却炉で闇に葬ろうとしているのだ。
氷室の中で、何かが切れる音がした。 金のための犯罪なら、まだ理解できる。 だが、これは尊厳の冒涜だ。 死神と呼ばれる自分でも、吐き気を催すほどの外道。
「葛城。……派手にやるぞ」
氷室は懐から、護身用の警棒(特殊警棒)を取り出した。 葛城も無言で頷き、拳を鳴らした。
二人は廊下へと飛び出した。 男たちが驚いて振り返る。
「回診の時間だ。……地獄へのな」
氷室の冷酷な声が、死の病棟に響き渡った。




