第一章 聖域の帳簿
小章① 腐った白衣
十二月、寒風吹きすさぶ北関東の地方都市・緋城市。 その郊外の丘の上に、威圧的な白亜の巨塔がそびえ立っていた。 『医療法人社団 徳善NIBUSU会 緋城総合病院』。 病床数五百、地域の救急医療を一手に担う中核病院だが、その内実は末期癌のように腐食していた。
氷室透は、ジャガーを正面玄関に横付けした。 助手席には、相棒の葛城が座っている。 氷室の肩書きは、今回は「M&Aアドバイザー」ではない。「経営再建コンサルタント」だ。 メインバンクからの依頼だった。 『徳善NIBUSU会の負債総額は百億円を超えている。理事長を説得し、再建計画をまとめ上げてくれ。……あるいは、引導を渡してくれ』
最上階の理事長室。 厚い絨毯と、壁一面に飾られた勲章や感謝状。医療というよりは、権力の展示室だ。 革張りの椅子に深々と座っていたのは、理事長の徳永 善造。七十代半ば。恰幅が良く、銀縁眼鏡の奥の目は、他人を見下すことに慣れきっていた。
「……銀行の使いっ走りか。何の用だ」
徳永は葉巻をくゆらせながら言った。
「単刀直入に言います。御会の資金繰りは限界です。来月の職員給与も払えないでしょう」
氷室は冷ややかに告げた。
「民事再生法の適用を申請すべきです。経営陣は総退陣し、スポンサーを探す。それしか病院を残す道はありません」
「馬鹿な!」
徳永が机を叩いた。
「ここはワシの病院だ! 地域医療の砦だぞ! 銀行ごときが指図するな。金がないなら貸せばいい。それがお前らの仕事だろうが!」
「貸せませんよ。粉飾決算をしている病院には」
氷室は鞄から決算書のコピーを取り出した。
「薬剤購入費が異常に膨らんでいますね。対前年比で150%増。患者数は減っているのに、薬だけが増えている。……在庫の水増しか、あるいは架空発注か」
徳永の顔色がわずかに変わった。
「……高度医療には金がかかるんだ。最新の抗がん剤は高い。素人が口を出すな」
「素人? ええ、私は医療の素人です。ですが、腐肉の臭いには敏感でしてね」
氷室は立ち上がった。
「一週間時間をあげます。その間に正確な資産査定をさせていただきます。……隠し事はなさらぬよう」
部屋を出ると、廊下で白衣の男とすれ違った。 四十代前半、神経質そうな細身の医師だ。名札には『副院長 相良 淳一』とある。 彼は氷室を一瞥し、怯えたような目で視線を逸らした。 何かを知っている目だ。
「葛城。あの副院長をマークしろ。口が堅いのはトップ(徳永)だけだ。下の人間は、揺さぶればボロが出る」
「了解だ。……この病院、消毒液の臭いに混じって、妙な臭いがするな」
葛城が鼻を鳴らした。 血と、金と、嘘の臭いだ。
小章② 消えた抗がん剤
翌日。氷室は病院の地下にある薬剤部を訪れた。 薄暗い廊下には、段ボール箱が無造作に積み上げられている。 薬剤部長の男は、氷室の姿を見るなり露骨に嫌な顔をした。
「在庫確認? 忙しいんだよ。邪魔しないでくれ」
「銀行からの指示です。数億円分の薬剤在庫があるはずですが、現物を見せていただけますか」
氷室は強引に保管庫に入った。 棚には、高価な抗がん剤の箱が整然と並んでいる。 『オプジーボ』『キイトルーダ』……。一本数十万円もする劇薬だ。
氷室は、棚の一つから箱を手に取った。 軽い。 振ってみる。音がしない。
「……空か」
氷室は箱を開けた。中身は空っぽだった。 隣の箱も、その隣も。 棚に並んでいるのは、すべて使用済みの「空箱」だった。
「どういうことですか、部長。帳簿上は『新品在庫』になっているはずですが」
薬剤部長は脂汗を流し、震え出した。
「そ、それは……使用済みの箱を捨てずに取っておいただけで……中身は、病棟で使ったんだ!」
「使ったのなら、診療報酬として請求されているはずです。ですが、医事課のデータと突き合わせると、請求額と仕入れ額が合わない。……年間三億円分の薬が、請求されずに消えている」
氷室は部長を壁際に追い詰めた。
「中身をどこへやった? 横流しか?」
「し、知らない! 私は指示された通りに発注しただけだ!」
「誰の指示だ? 徳永理事長か?」
その時、保管庫の奥から低い声が響いた。
「そこまでにしていただこうか」
現れたのは、黒いスーツの男たちだった。三人。 胸元には代紋のバッジこそないが、その雰囲気はカタギではない。 先頭に立つ男の顔に見覚えがあった。 以前、別の案件で潰したはずの『東雲興業』の残党だ。
「おやおや、死神さんじゃないですか。またお会いするとはねえ」
男がニヤリと笑った。
「……お前ら、こんな田舎の病院まで食い物にしていたのか」
「食い物? 人聞きが悪い。俺たちは『指定納入業者』ですよ。正当な商売だ」
男は懐からバタフライナイフを取り出し、弄び始めた。
「ここは関係者以外立ち入り禁止だ。怪我をしたくなければ、さっさと帰んな」
氷室は状況を理解した。 病院は、正規のルートで高額な薬剤を仕入れるふりをして、中身を横流ししている。 その転売先が、このヤクザたちだ。彼らは薬を安く買い叩き、闇ルートで海外や無認可クリニックに流しているのだろう。 そして病院側は、空箱を在庫として計上し、資産を水増しする(粉飾)。同時に、仕入れ代金の一部をキックバックとして裏金にする。 病院と反社が組んだ、組織的な横領スキームだ。
「葛城」
氷室が呼ぶと、背後の影から葛城が現れた。 手には、先ほど廊下で拾った点滴スタンドを握っている。
「掃除の時間だ」
葛城が無言で踏み込んだ。 ナイフを持った男の手首を点滴スタンドで打ち砕き、悲鳴を上げる間もなく鳩尾に膝を入れる。 残りの二人も、数秒で床に転がった。
「……さて、部長」
氷室は腰を抜かした薬剤部長の胸ポケットに、ボイスレコーダーをねじ込んだ。
「これを持っていろ。次にヤクザや理事長と話すときは、スイッチを入れるんだ。……さもなくば、この横領の全責任はあんた一人が被ることになるぞ」




