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口がきけないから、安心でしょう?

作者: 風谷 華
掲載日:2026/02/18

わたしが公爵家に雇われたのは、冬が終わりかけの頃だった。

雪解け水の音が庭の石畳を細く叩き、ガラス越しの陽はまだ白い。けれど屋敷の中だけは、いつも春の匂いがした。茶葉と砂糖菓子と、わずかな薔薇水。甘くて、胸の奥がくすぐったくなる匂い。


「ご令嬢の家庭教師として。……いや、正確には“お茶会の見守り役”としてです」


執事は言葉を選び、目だけでわたしに“余計なことは訊くな”と告げた。

公爵家のひとり娘――エリセ様は八歳。口がきけない。幼い頃に“ひどい衝撃”があって以来、声を失ったのだという。


それなのに。


「今週だけで、七件の来客がございます。皆さま、エリセ様と二人でお茶会をしたがります」


わたしは思わず聞き返した。「二人で、ですか」


執事は微笑んだ。あまりにも訓練された笑みで、逆に怖かった。


「ええ。奥様も旦那様も同席を望まれません。……もちろん、表向きは“ご令嬢のご負担にならぬよう”という配慮でございますが」


配慮。

その言葉の薄さが、陶器の肌のように冷たかった。


---


初めて会ったエリセ様は、思っていたよりずっと小さかった。

淡い灰金色の髪は丁寧に巻かれ、首元には小さなレース。目は澄んだ琥珀色で、覗き込むと自分の影が落ちるくらい深い。


彼女はわたしを見るなり、にこりと笑った。

それは社交辞令ではなく、花が開くような笑みだった。八歳の子どもの、疑いようもない明るさ。誰もが守りたくなる笑顔。


けれど、その笑顔が――ほんの少しだけ“長い”と感じた。

笑い始めてから、笑い終わるまでの間が。

まるで、誰かに見られていることを知っていて、笑顔を消すと何かが起きると知っているみたいに。


「おはようございます、エリセ様。わたしはミレイ。今日からこちらで…」


挨拶の途中で、彼女は小さく首を傾げ、机の上の石板を指さした。

チョークで書き慣れた字が並んでいる。


――よろしく。おちゃ、すき?


「はい。好きです」


そう答えると、彼女はまたにこりとした。

今度の笑顔は、先ほどよりさらに“長く”見えた。


---


お茶会は「小さな温室」で行われた。

ガラス張りの部屋に蔦が絡み、冬でも花が咲く。中央には丸いテーブル。白いクロス。

そして、ひと揃いの茶器――薄い磁器に、金の縁取り。絵柄は…口の形をした花。


わたしはその絵柄がどうしても気になった。花弁が唇のように重なり、中心が暗い。覗けば吸い込まれそうな黒さ。


最初の客は、若い伯爵夫人だった。

彼女は扇で口元を隠し、温室へ入るとすぐ、わたしと執事を見た。


「二人きりでお願い」


その声は、軽いのに、どこか切迫していた。

わたしが「規則ですので、扉の外で控えます」と答えると、夫人は安堵したように息を吐いた。


扉を閉める直前、エリセ様が夫人に微笑みかけた。

夫人はその笑顔を見て、肩の力を抜いた。――まるで、赦されると確信した人の顔。


扉の外で待つ間、わたしは聞こえてくるものに耳を澄ませた。

お茶を注ぐ音。砂糖壺の蓋。

それから――夫人の声。


「ねえ、エリセちゃん。誰にも言わないわよね。言えないものね。あなたは口がきけないんだもの」


笑い声。夫人の。乾いた笑い。

そして、途切れ途切れの告白が始まった。


盗み。裏切り。夫への嘘。親友の不幸を願った夜。

子どもを抱き上げたとき一瞬よぎった、あってはならない感情。


どんな話をしても、エリセ様はにこにこしているのだろう。

伯爵夫人は安心して、どんどん言葉を吐き出す。

吐き出して、吐き出して、最後には嗚咽まじりになった。


「ねえ…わたし、ひどい人間なの。…それでも、生きていていいの?」


その時――温室の中から、エリセ様の声が聞こえた気がした。

ほんの一瞬。鈴みたいに小さく。

でも、すぐに消えた。


伯爵夫人はそれから急に静かになり、しばらくして扉が開いた。

出てきた彼女は、泣いていた。

けれどその涙は悲しみではなく、…解放の涙に見えた。


「ありがとう」と夫人は言った。誰に向けてか分からないまま。

「本当に、ありがとう。もう、だいじょうぶ」


そして彼女は、わたしの顔を見た途端、ぎくりとした。

まるで“ここに第三者がいること”が急に怖くなったように。

慌てて扇を持ち直し、何事もなかったように帰っていった。


その夜、屋敷中の使用人が噂した。

伯爵夫人は帰宅後、夫の前で一言も喋らなくなった、と。


---


次の客も、次の客も、皆同じだった。

貴族も、聖職者も、軍人も。肩書の違いはあっても、温室で二人きりになると決まって言う。


「あなたは話せない。だから安心」


そして、吐く。

胸の底に沈めて腐らせてきた言葉を、吐く。


わたしは扉の外で聞いてはいけないものを聞き、知らなくていいものを知った。

けれどおかしいのは、その告白のあとだ。


彼らは軽くなる。

救われた顔で去っていく。

そして数日後、彼らは“声”を失う。


完全に喋れなくなる者もいれば、言葉だけが抜け落ち、喉から息だけ漏れる者もいる。

中には、まるで別人みたいに穏やかになって、元の性格の角が削れたようになる者もいた。


「治療師を呼ぶべきでは」とわたしが奥様に進言すると、奥様は紅茶のカップを置き、微笑んだ。


「エリセは何もしていません。だって、あの子は口がきけないのよ」


それは庇い立てではなく、呪文だった。

“口がきけない”という事実を盾にすれば、何も疑わなくて済む。

誰も、責任を問われない。


「それに」と奥様は続けた。「皆さま、自分から望んで来ているの。あの子の笑顔が、心を癒やすのよ」


癒やす。

その言葉の下に、別の匂いがした。

甘い匂いの奥に、鉄の匂いが。


---


ある夜、わたしは温室に忍び込んだ。

月の光がガラスを冷たく照らし、花の影が床に伸びる。テーブルの上に、茶器は整然と並んでいた。昼間と同じ配置。

なのに、空気が違う。

部屋全体が、息を潜めている。


近づいて、ポットの蓋を持ち上げた。

中は空だった。茶葉の欠片もない。

なのに、匂いがした。春の匂いではない。

――湿った紙と、古い本と、…口の中の匂い。


ぞくり、と背筋が冷え、反射的に蓋を戻したその瞬間。


カップの底に、何かが“溜まっている”のが見えた。

透明なはずの底に、薄い膜みたいな文字が浮いている。

書きかけの手紙のような、細い線。


わたしは息を止めて覗き込んだ。


そこにあったのは、言葉だった。


――わたしは、妹を井戸に落とした。

――神は見ていない。なら誰が裁く。

――夫の眠る顔を見るたび、手を伸ばしたくなる。


文字は水面のように揺れ、次の瞬間、すうっと消えた。

消えた代わりに、カップの縁がわずかに濡れた。

まるで誰かが唇をつけたみたいに。


「ミレイ」


背後から声がした。

振り返ると、エリセ様が立っていた。裸足で、寝間着のまま。

笑っていない。

その顔は、八歳の子どもがしてはいけないほど、静かだった。


彼女は石板を抱えていた。チョークで書かれた字は震えている。


――だめ。みないで。


「…これは、何ですか」


エリセ様は答えられない。代わりに、唇をぎゅっと結んだ。

その喉が、ごくりと動いた。

まるで中に何かがいて、内側から押しているような動きだった。


わたしは思わず一歩近づいた。

すると、彼女はにこりと笑った。

いつもの笑顔。

その瞬間、温室の空気がふわりと緩み、花の影が揺れた。


そして、わたしの耳元でささやき声がした。


――しゃべらせて。


わたしは飛び退いた。

声は、エリセ様のものじゃない。

もっと低く、湿っていて、喉の奥に張りつくような声。


エリセ様は笑顔のまま、石板を裏返した。裏面には、別の言葉。


――わたしがわらわないと、でてくる。


胸が痛くなった。

“昔ショックなことがあって”――そのショックとは、ただ声を失うほどの恐怖じゃない。

何かを、喉に入れられたのだ。


「…誰が、あなたに」


エリセ様は小さく首を振った。

そしてまた裏返す。


――おちゃ。のむ?


断れない、と直感が叫んだ。

断れば、笑顔が消える。笑顔が消えたら、“出てくる”。

わたしは震える手でカップを取った。


その時、カップの底に、わたし自身の名前が浮かんだ。


――ミレイ。


文字が浮かんだ瞬間、喉の奥がきゅっと締まった。

咳をしようとしても、息が引っかかる。

言葉が喉まで上がってきて、…そこで止まる。


エリセ様は笑っている。

でもその目は、泣いているみたいに濡れていた。


わたしは、初めて理解した。

このお茶会は“告白を聞く場”じゃない。

告白を――集める場だ。


言葉を。声を。

罪の匂いのする、熱いものを。


「あなたは…助けてほしいの?」


口に出そうとして、出なかった。

出ない代わりに、喉の奥で何かが笑った。

カップの縁が、濡れた。


――もっと。


---


翌日、わたしは屋敷を出ようとした。荷物をまとめ、裏口へ向かう。

しかし廊下の曲がり角に、執事が立っていた。


「どちらへ」


わたしは「用事が」と言おうとして、言えなかった。

声が出ない。

舌があるのに、言葉がない。


執事はわたしの沈黙を見て、満足げに頷いた。


「お茶会の見守り役として、相応しい状態になられましたね」


ぞっとした。

彼は知っている。最初から知っていて、わたしをここへ入れた。

屋敷全体が、この仕組みの一部だ。


逃げようと駆け出した瞬間、廊下の向こうから、エリセ様が現れた。

小さな手で石板を抱え、こちらを見上げている。


彼女は、にこりと笑った。

その笑顔は、いつもよりずっと、ずっと長かった。


その笑顔を見ていると、不思議と――落ち着いてくる。

喉の締め付けが、苦しさではなく“居場所”みたいに感じる。

言葉がないのは、楽だ。

説明しなくていい。言い訳しなくていい。否定されなくていい。

ただ、笑っていればいい。


耳元で、あの声がささやいた。


――みんな、しゃべりすぎる。だから、かわりに、ためてあげる。

――ためたら、きれいになる。

――きれいになったら、わらえる。


エリセ様は笑ったまま、石板を少しだけ傾けた。

そこに書かれていたのは、たった一行。


――いっしょに、おちゃかい。


わたしは頷いた。

嫌だと叫びたかった。逃げたかった。

でも声がない。

そして、笑顔が――わたしの顔に貼りついて離れなかった。


---


それから、わたしは温室の扉の外に立つようになった。

新しい客が来るたび、彼らはわたしを見る。

わたしはにこにこして、案内する。


「二人きりでお願い」と彼らは言う。

「あなたは話せないのね。安心だわ」と囁く。


扉が閉まる。

中から、告白が始まる。

言葉が溢れ、泣き声になり、最後には静寂になる。


しばらくして扉が開き、客は泣き腫らした目で出てくる。

そして、わたしを見る。

わたしの口元を見て、凍りつく。


なぜなら――わたしは、ずっと笑っているからだ。

言葉もなく、ただ、にこにこしているからだ。

エリセ様と同じように。


夜になると、温室の茶器の底に文字が浮かぶ。

罪の言葉。秘密の言葉。名前。

それらは揺れて、消えていく。

消えるたび、カップの縁が濡れる。

まるで誰かが、唇をつけて味わったみたいに。


そして時々、ガラスに映る自分の顔が、誰だか分からなくなる。

わたしの笑顔の奥で、別のものが“息をしている”のが分かる。


――しゃべらせて。

――もっと。


エリセ様は今日も笑っている。

小さな公爵令嬢。口がきけない、八歳の女の子。

どんな話を聞いても、にこにこしている。

話ができないから、誰にも伝えないと思われている。


けれど本当は――


伝えないのではなく、

伝え“られない”のだ。


お茶会で聞いた言葉は、もうその人のものではない。

カップの底に沈み、湯気になり、温室の甘い匂いに混ざる。

そしていつか、誰かの口から、別の声で語られる。


だからみんな、エリセ様と二人でお茶会をしたがる。

誰にも言えないことを、言ってしまいたがる。

言ってしまえば、軽くなると信じている。


…軽くなる。

その代わりに、何かがあなたから剥がれ落ちる。

声。言葉。名前。

あなたをあなたにしていた、いちばん薄くて、いちばん大事なもの。


今日もまた、扉の向こうで誰かが囁く。


「ねえ、あなたは口がきけないんだもの。安心よね」


そして、温室の中で――

小さな笑顔が、ゆっくりと、長く咲く。


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