3.何もおかしくない
キョウの後に続く形で武器庫に入ったルナは、ゆっくりと扉を閉めた。
「これを見てくれるか?」
差し出された木剣を見て、ルナは目を丸くした。
刃の先端がごっそりと無くなっているので、思わずキョウの方を見てしまう。
「これ、どうしたんですか?」
「……俺がやりすぎて、壊した」
「お怪我はありませんでしたか?」
ルナが尋ねると、キョウはぱちぱちと瞬いた。
その仕草が強そうな見た目に反して妙に幼く見えてしまい、可愛いなんて思ってしまった。
獣人は、どこか荒々しく見られがちだ。
けれど前世で、動物と共にある文化に慣れ親しんでいたルナにとって、彼の耳や尾は恐怖の象徴ではなかった。
むしろ、不思議なほど自然で。気づけば、最初から彼を一人の人として見ていた。
こんな時に、何を考えているの。
ルナは大人の男性を捕まえて、可愛いと思ってしまったことを反省する。
「大丈夫だ、怪我はない。……つーか、怒らないんだな」
「え、何を怒るんですか?」
「『また壊したんですか? これで何度目ですか!』……って」
言いながら、彼は尻尾を下げた。
大きな身体を持つオオカミ族のキョウが、叱られた子犬のように小さくなっている姿に、ルナは張り詰めていた緊張が解け、頬が緩みそうになるのを必死にこらえた。
「んだよ。俺がよく壊すのなんて、みんな知ってることだろ。そんな風に確認すんなよ」
「すみません。私、今日から配属されたばかりで……」
つい笑みをこぼしてしまったことを謝りながら、自分が今日入ったばかりの新人であることを、ようやく彼に伝えることが出来た。
これを聞いた彼は驚いたように目を見開き、それから耳と尻尾をピンと伸ばした。
「そうだったのか。ああ、だからなんか、事務所で居心地悪そうにしてたのか」
「……はい。先輩たちの役に立ちたいのに、何を触っていいのかも分からなくて」
忙殺されている先輩たちに声をかけても、『ちょっと待っててね』と言われるばかり。
邪魔にならないように立っているだけの時間は、永遠のように長く感じられた。
「資料を見ただけで仕事ができるような、優秀な人間だったら良かったんですけど」
子どもみたいな言い訳だ。
自己嫌悪でうつむくルナの頭上から、ぶっきらぼうだけど、温かい声が降ってきた。
「そりゃあ、普通だろ」
「そう、ですよね。騎士団の事務なんですから、それくらい出来ないと――」
「そっちじゃなくて。出来ないのは当たり前だ、って言ってんだよ」
否定する言葉なのに、不思議と優しかった。
顔を上げると、吸い込まれるような濃い青色の瞳が、真っ直ぐにルナを映していた。
どくりと、胸の奥が大きく跳ねた。
「俺なんて、初日は剣の持ち方ひとつ知らなかったぞ? 正しい持ち方を覚えるまで、一日中ただ剣を持たされ続けた」
「一日中、ですか?」
「ああ。剣の持ち方なんて、一回教えてくれりゃ十分だって思わねえか?」
初めての鍛錬を、彼は無駄だと思ったそうだ。
それよりももっと、派手に剣を振り回したりしたかったらしい。
「つまんねえことを一日やらされたと思ってたら、次の日には筋肉痛になっててよ。なのに、その日も剣の持ち方からって言われた」
「筋肉痛の状態で、また同じ姿勢をすることになったんですね?」
それはさぞ辛かっただろう。
ルナが彼の言いたいことをきちんと理解したからか、キョウは嬉しそうに尻尾を大きく振り、うんうんと頷いていた。
当時のことを思い出し、鼻先を人差し指で掻いている彼を見れば、彼自身が必要じゃないと思っていたことが、実際は大事だったことに気づいたことが伝わってくる。
「だから、その……つまりだな。初めての場所じゃ、簡単そうに見えることでも経験が必要なんだ」
キョウはルナを励まそうと思ってこの話をしたのに、自分の格好悪い話をしたことに気づき、先端の欠けた木剣の持ち手を意味もなく撫でていた。
「俺の話はいい! とにかく、君が今日仕事を上手くできないのは、何もおかしいことじゃない」
これが、キョウとの出会いだった。
不安で押しつぶされそうだった心細い新人を、彼はその不器用な優しさで救い上げてくれた。
あの日見た、綺麗な青い瞳。自分に向けられた、安心させるような笑顔。
思えば、この時からだったのかもしれない。
自分の心が、少しずつ彼の方へ傾いていったのは。




