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3 描きかけの絵

 奏斗はむすっと黙り込んだまま、渡り廊下を進んでいた。


 その先にあるのは、新校舎とはL字の位置関係に建つ旧校舎だ。いまでは授業に使われている教室はほとんどなく、その一部が、教科準備室や文化部等の部室に割り当てられているのだった。


 なんで自分が転入生の案内などしなければならないのだ、と、思う。


 朝の一件がなければもっとにこやかに対応してやったかもしれないが、なにしろ、もう二度と話しかけるものか、と、決意した後なのである。


 奏斗は意地をはるように無言だったし、そんな奏斗の後を――微妙な距離をおいて――ついて歩いている俊も俊で、こちらに話しかけてくるようなことはなかった。


 こうなったら、一刻も早く、案内の義務を終えてしまいたい。渡り廊下を進む奏斗の足取りは、自然、早くなっていた。


 旧校舎に入ると、そのまま手前から二番目の教室まで歩を進める。


「ほら、ここだぜ」


 ここが教科準備室だ、と、親指でその教室の扉のあたりを指して言う。


「わかった」


 俊が素っ気なく言って、カララ、と、木製の引き戸を開けた。


 なんだよ、礼のひと言もなしか、と、奏斗はくちびるを引き結ぶ。眉を寄せる。


 文句のひとつも言ってやりたかったが、うらはらに、そんなことにこだわるのも、馬鹿にされそうな気がした。


 ち、と、ちいさく舌打ちする。


「中、入んの?」


 文句を言う代わりに――自分の内に生じているもやもやを誤魔化すかのように――別にたいした意味などありはしない問いを投げかけた。


 そうしてしまってから、なんでオレ、こいつに無駄にしゃべりかけたりしてるんだ、と、奏斗は自分自身に腹を立てた。


「先生に、教材運んでくれって言われてるから」


 俊は、ちら、と、奏斗を見ると、そのまま教室の中へ入っていく。無視されてもおかしくなかった質問に答えが返ってきたので、奏斗は一瞬、ぽかんとした。


「あ、そ」


 おかげで、返事が、一拍遅れた。


 けれどもそこで、ふたりの会話は途切れた。


 教室から、ほこりっぽい匂いが漂ってくる。教科準備室とは名ばかりで、どうせ、半ば物置みたいに使われているのだろう。


 慣れない匂いに眉を寄せて、奏斗は扉の向こうに視線をやった。


 こんなところから何か運び出さなければならないなんてかわいそうに。どうしてもって言うなら手伝ってやってもいいけど。そう嫌味っぽく言ってやったら、すこしは溜飲が下がるのだろうか。


 そんな埒もないことを考えながら、俊の後姿を見たときだった。


 奏斗は、俊がなぜか入り口から数歩進んだところで、まるで立ち尽くすかのように立ち止まっていることに気がついた。


 なんなんだ、と、刹那、奏斗はいぶかった。が、その怪訝の想いは、すぐにどこかに消え失せてしまった。


 奏斗の視線が、俊のすっと伸びた背中を通り越して、窓辺に置かれたものへと吸い寄せられたからだ。


 教室の中はがらんとしている。机やいすがほとんどなく、あっても、教室の隅にかためて置かれているせいだった。


 いくつかの机や、あるいは教室の後ろの棚などの上には、使わなくなったものなのだろう、古い教材類が山積みにされている。そのどれもが、一見して、分厚くほこりがつもっていた。


 教室に特有の大きな窓。そこから差し込む陽脚は、もう、オレンジ味が強くなっている。


 空中を舞うほこりが光を散乱させて、そこはまるで、スポットライトを浴びた舞台のように見えた。


 絵がある。


 木製のイーゼルに立てかけられた、古びた絵。


 水彩よりもやや色合いが濃く見えるから、たぶん、アクリル画だ。


 学校を囲むフェンス、校庭、新校舎の壁。植え込み、花壇、青々と葉を繁らせた、たぶん桜の古木。


 この教室の窓の向こうに広がる景色とよく似た構図は、絵が、この旧校舎のどこかの教室の窓から校庭を望んでえがかれたいたことを想像させた。


 その絵に、なぜか、視線を奪われていた。


 気付くと奏斗は、ふら、と、その絵のほうに近付いていた。無意識に、こちらも立ち止って絵のほうを見詰めている俊の隣に並ぶかたちになっている。


 そういえば、教科準備室の場所は知っていても、教室の中へ入ったことはなかった。教師たちは多少出入りするのかもしれないが、生徒はほとんど――それこそ、教師に何か頼まれて運び込んだり、運び出したりする用でもなければ――足を踏み入れる場所ではないのだ。


 そんな場所に、なぜ、こんなふうに絵が置いてあるのだろうか。


 飾ってあるというのではなさそうだった。だって、絵は額に入れられるでもなく、無造作にイーゼルに立てかけてある。


 古い絵に見えたのは、遠目にも、その絵の色が褪せているようだったからだ。近づいて見ると、それがさらに明白にわかった。紙の色の褪色も顕著だった。


 なによりもその絵は――……描きかけ、だった。


 えんぴつによるらしき下書きが、そのまま見えているところがある。白いままに、放置された箇所がある。途中まで色をのせて、でも、完成まで着色されきることのなかった絵。


 いったい、何があったのだろう。


 一瞬、絵筆を持った誰かがイーゼルの前に座っている姿が見えた気がした。窓の外と画面とを交互に見ながら、懸命に、紙に絵の具をのせていく後姿を見た気がした。


 それなのに――途中で投げ出したかのように――この絵は、えがきあげられることを放棄されたたままになっている。


「――ねえ、ここ……美術部の部室かなんかなの?」


 不意にそんな声が聞こえて、奏斗ははっと我に返った。


 もちろん、発言主は俊である。俊は奏斗のほうを見るでもなく、真っ直ぐに絵のほうへと視線を向けていた。


「いや、ちゃんと、教科準備室……」


 間違って違う教室に案内したのではないかと疑われたのかと思って、奏斗は慌てて首を振った。たしかにここは教科準備室で間違いないし、美術部の部室は別にあるのだ。


「……そう」


 俊は短く答え、顎のあたりに指を当てて、なにやら思案するふうだった。


 奏斗は、目を細めて絵を眺める俊を、ちら、と、うかがい見る。彼はなにを考えているんだろう、と、そう思ったとき、ふいに、俊がこちらを見た。


「なに?」


 不快そうに眉をひそめる。


「べ、べつに! ――ってか、あ、そうだ。荷物運び、なんなら、手伝ってやろうか?」


 誤魔化すように、恩着せがましい言い方をした。しかし相手は、いい、と、またしても素っ気なかった。


「たぶんあれだし。たいした量じゃない」


 俊は部屋の片隅にある紙袋を指さした。たしかにそれは、片手で十分に運べる分量に見えた。


「そ、そうかよ。じゃあ、オレ、もう行くからな!」


 なぜか慌てたように言った奏斗は、逃げるように(きびす)を返し、そのままひとり俊を置いて部屋を出た。

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