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蘭と法  作者: Makishi
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六階下の奈落

アーニャの「動くな!」という叫び声は、湿気を帯びた大都市の夜気の中、一瞬だけ響き渡ったかのように思えたが、すぐに絶え間ない街の喧騒にかき消された。黒衣の男は、その制止に一瞬たりとも怯まなかった。まるで液体でできた影のように、彼は屋上の縁から滑るように身を躍らせ、すぐ隣にあるブラウンストーンの非常階段へ音もなく着地し、その勢いのまま落下していく。アーニャは舌打ちを一つすると、疲労困憊の体に鞭打つアドレナリンの奔流に身を任せた。彼を追い続けなければならない。応援が到着して包囲するのを待っている時間的猶予はなかった。


錆びつき、雨に濡れて滑る非常階段の梯子に必死でしがみつきながら、彼女はブラウンストーンの屋上へと続くその構造物を見て、苦々しく呻いた。長年の訓練によって、彼女の動きは効率的で切迫感に満ちてはいたが、追跡対象である男が見せる驚くべき流麗さには到底及ばなかった。彼女がこの垂直の迷宮を侵略者のように進むのに対し、彼はまるでそこで生まれ育ったかのように動く。ようやく屋上にたどり着いた彼女が、ナトリウム灯のオレンジ色の光に照らされた換気ユニットやタール、砂利が広がる世界を見渡したとき、彼はすでに二棟先の建物の上で、わずかに明るさを増した夜空を背景にした一瞬のシルエットと化していた。


追跡劇は、さながら危険な屋上でのバレエのように展開した。リースは驚くほどの自信に満ちた動きで、傾斜した天窓を滑り降り、低いパラペットを軽々と飛び越え、突き出たパイプを掴んで体勢を制御する。彼はこの地形を知り尽くしていた。街という巨大な骨格に隠された隙間、弱点、そして秘密の通路のすべてを。そこは彼にとってコンクリートのジャングルジムであり、都市の厳格な秩序が流動的な可能性へと姿を変え、重力の法則さえ交渉の余地があるかのように思える場所だった。背後には、執拗で断固たる追跡者の気配を感じていた。地上から見ただけでは、これほどの粘り強さと速さで追ってくるとは予想していなかった。プロとしての敬意が一瞬胸をよぎったが、すぐにそれを押し殺す。脇道に逸れている余裕はない。彼は歩幅を広げてさらに速度を上げ、彼女を確実に振り切れるであろうルートを目指した。


アーニャの肺は焼けるように熱かった。雨が再び降り始め、冷たい霧雨が屋上の表面を危険なほど滑りやすくし、彼女の髪を顔に貼り付かせた。官給品のブーツはパルクールを想定して作られてはいない。ぬかるんだタールの染みで足を取られ、彼女は転倒寸前でかろうじて体勢を立て直した。前方で、彼が障害物をいともたやすく突破していくのが見える。その一方で、彼女は唸りを上げる発電ユニットを迂回するため、より遅く、慎重なルートを取らざるを得なかった。彼は着実に差を広げている。彼の技術に対する、認めざるを得ない感嘆の念が、焦燥感とない交ぜになって胸に渦巻いた。この環境において、彼は単なる泥棒ではなかった。まるで自然の力そのものだった。それでも、彼女は諦めることを拒んだ。ソーン・タワーには特別な意味があった。この都市の鉄壁と思われた支配に潜むかもしれない弱点、この亡霊を捕らえることは、何としても成し遂げなければならない任務だと感じられた。彼女は体の不快感を意志の力でねじ伏せ、逃走する人影だけに意識を集中させた。


さらに三つの建物を越え、二人の間の距離はわずかに縮まった。リースは振り返った。まだいる。驚嘆すべき執念だ。だが、次の裂け目が彼女を阻むだろう。古いブラウンストーンと、より新しく、今は放棄された商業ビルとの間の隙間は、これまで越えてきたものより格段に広かった。おそらく六階分の高さに相当する路地が、下で陰鬱な顎のように口を開けている。行き交う車がおもちゃのように見えた。リースはこの跳躍を知っていた。練習を重ねた跳躍だ。それには覚悟と、速度と、完璧なタイミングが要求される。そして、追跡者を完全に振り切るための、彼の最良の切り札でもあった。彼は縁まで駆け寄り、ベクトルを計算し、虚空へとその身を投じた。


街の灯りが眼下で渦を巻く中、彼は束の間、世界と世界の狭間に浮遊した。次の瞬間、彼の足が対岸の縁に激しく叩きつけられる。衝撃で脛に鋭い痛みが走ったが、彼はよろめきながらも体勢を立て直し、衝撃を吸収しながら呻き声を漏らした。成功した。盗み出したドライブがまだ無事であることを素早く確認する。息を整えるためにほんの半秒だけ立ち止まり、追跡者がいないことを確かめようと振り返ったとき、彼の胸に苦々しい満足感が芽生え始めていた。


数秒後、アーニャが縁にたどり着き、砂利の上で滑りながら急停止した。彼女は息を呑んだ。隙間はあまりにも広く、まるで街並みにぽっかりと空いた、抜け落ちた歯のようだった。眼下に広がる奈落は、目が眩むほど深い。対岸には、彼がこちらを観察し、そして再び姿を消そうとしているのが見えた。応援のサイレンは、まだ数分はかかるだろう、都会の喧騒という織物の中の、か細い糸にすぎなかった。今彼を行かせれば、永遠に見失う。訓練によって培われた理性が、無謀だと叫んでいた。それは不注意で、ほとんど自殺行為に近い跳躍だ。しかし、滑るように去っていく彼の姿、ソーンの傲慢なまでの鉄壁さ、そしてこの泥棒が見せた大胆不敵さが、彼女の中で反抗的な決意の炎を燃え上がらせた。義務感と、アドレナリンと、そしておそらくは憤りに似た何かに突き動かされ、彼女は三歩助走をつけて、跳んだ。


宙に躍り出た瞬間、彼女は悟った。飛距離が足りない、と。対岸の縁が目前に迫ってくるが、あまりにも遠く、彼女の勢いは急速に衰えていく。必死に伸ばした指が、湿って冷たい煉瓦の壁を虚しく掻くが、そこにあるのは滑らかな表面と、もろく崩れるモルタルだけだった。重力が無慈悲にその身を捕らえ、奈落へと引きずり込んでいく中、彼女の喉から押し殺した呻きが漏れた。街の灯りが乱暴に回転する。冷たく、絶対的な恐怖が彼女を支配した。


リースはそれを見ていた。彼女の絶望的な跳躍に気づいたとき、彼は商業ビルの影に消えようと背を向けていた。彼はその判断の誤り、必死の足掻き、そして落下の始まりを目撃した。逃げ道は確保してある。自己保存の本能が、彼の内側でけたたましく警鐘を鳴らした。彼女を助けるなど狂気の沙汰だ。露見、捕縛、任務の失敗を意味する。彼女は警官だ。見捨てろ。それは冷徹で、合理的な思考だった。しかし、彼は立ち去らなかった。下から点滅するネオンサインの光が、一瞬、彼女の瞳を照らし、そこに浮かんだ恐怖の閃光を彼は見てしまった。制服を着た警官ではなく、虚無へと落ちていく一人の人間を。


逡巡は心臓の鼓動一つ分、されど永遠にも感じられる時間だった。そして、彼がその理由を完全に理解するよりも先に、理性よりも古く、根源的な何かが彼を突き動かした。リースは、今しがた制覇したばかりの屋上の縁へと、再び身を投じるように駆け寄った。彼は身構え、体を低くし、その手を差し伸べた。


彼女の全体重が落下に転じる、まさにその瞬間、彼の指が彼女の手首を掴んだ。凄まじい衝撃が肩を貫き、彼は息を呑んだ。彼のブーツが縁を削る音が、二人を道連れに落下させる危険を告げていた。歯を食いしばり、足を踏ん張り、彼は持てる限りの力と体幹を使って彼女の落下を食い止める。アドレナリンが、一時的に痛みを麻痺させた。風が二人の周りで荒れ狂い、眼下の裂け目が二人を引きずり込もうとしているかのように、彼女は恐ろしい一瞬を宙で揺れた。そして、引き締まった筋肉が悲鳴を上げるほどの渾身の力で、彼は彼女を引き上げた。


彼女は彼の隣の縁に、崩れるように落ちた。ぜいぜいと息を切らし、その瞳は驚愕と完全な不信に見開かれている。リースは、その無理な体勢から片膝をつき、腕は激しく痛み、濡れた髪が額に張り付き、二人の荒い呼吸が白い雲となって混じり合った。彼は彼女を見下ろし、その表情には彼女と同じくらいの当惑が浮かんでいた。捕らえた。追跡していた警官を、泥棒である自分が救ってしまった。そのあまりの馬鹿馬鹿しさ、すぐそこにあった危険、そして生々しいほどの近さが、二人の周りに現実が歪んだ泡のような空間を作り出した。彼女は、瞳孔の開いた暗い瞳で彼を見つめ返した。雨に打たれる空の下、無関心な大都市に囲まれて、その瞬間、何かが砕けた。法と罪、狩る者と狩られる者、彼らの世界を隔てていた厳格な境界線が、曖昧に溶けていく。互いのアドレナリンと、彼の腕の中に彼女の命があるという、避けようのない衝撃的な現実とが燃え上がらせた、唐突で危険な火花が二人の間に散った。


その時、遠くで鳴っていたサイレンが、より大きく、より近くなった。魔法は解けた。リースは迫り来る包囲網、自分たちの立場の危うさ、そして肩に脈打つ痛みを思い出した。彼は硬い動きで後ずさり、彼女を完全に屋上の安全な場所へと引きずり込む。そして彼女の状態を確かめるように、もう一度だけ、感情の読み取れない視線を投げかけてから、背を向けた。彼は既知の脱出ルートである暗い換気シャフトに向かって少しよろめき、そして一言も発することなく、建物の機械的な内部へと姿を消した。


アーニャは縁に一人、残された。恐怖や寒さからだけではない、深く、不協和な響きを伴う混乱から、彼女の体は震えていた。心臓が肋骨を激しく叩いている。頬を濡らすのは、雨か、それとも涙か、あるいはその両方か。彼の視線と交わった瞬間の、焼き付くような記憶。手首に残る、幻のような彼の感触。街中を追いかけていた亡霊、逮捕を誓った男に、彼女は命を救われたのだ。近づいてくるサイレンの音は、まるで別の宇宙から響いてくるかのようだった。その宇宙の法則は、今や脆く、曖昧に感じられた。彼が消えた闇を見つめながら、雨に打たれる屋上に一人佇む彼女にとって、眼下の奈落よりも、今まさに自分の中に開いてしまった亀裂の方が、よほど恐ろしく感じられた。

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