ゴブリンになってしまった男、好きと言われると嘔吐する女。
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SIDE : Kimika
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目を覚ましたのは、いつもと変わらない朝だった。
キミカはぼんやりと天井を見つめながら、学校に行く準備をしようと体を起こした。しかし、その瞬間、何かが違うと感じた。胸の奥からじわじわと不安が広がり、無意識に手で顔を触った。手に伝わる感触がいつもと違う。
「何だ……?」
キミカは急いで洗面所に駆け込み、鏡を覗き込んだ。そこに映っていたのは、自分とは全く別の顔。緑色の肌にざらついた感触、尖った耳、鋭くなった牙……。
それはまさにゴブリンだった。キミカは息を飲み、鏡の前で硬直した。
「どうして……俺が、こんな姿に……?」
キミカの声は震えていた。何度も目をこすり、これは夢だと願ったが、鏡に映る姿は変わらなかった。
キミカは深く息を吸い、冷静になろうとしたが、心臓の鼓動が速くなっていくのを感じた。なぜ自分がこんな姿になったのか、その理由がまったく分からない。
しかも、見覚えがあるということが、キミカをさらに混乱させた。
この姿は、どこか父の姿に似ていたのだ。
家族に暴力を振るっていた父に、そっくりなのだ。
幼いキミカや母に対して、口で「愛するお前たちのためだ」と言いながら、無慈悲に殴りつけた。小柄で腹だけが出っ張った歪な体型の父は、幼いキミカにはまるで醜いゴブリンのように見えていた。
キミカの心には、幼い頃の記憶が次々とよみがえった。暴力を振るっていた父の姿。怒りに満ちた父の顔。異形の存在に変わっていく父を恐れていた記憶が鮮明によみがえった。
「俺も、あんなふうになってしまうのか……」
キミカは呟き、拳を握りしめた。その手は震えていた。
キミカと母は、暴力的な父から逃げ、今は母と二人で暮らしている。その後の父がどうなったのか、知りたくもない。母は知っているようで、キミカに何か話そうとしたが、それを拒んだのはキミカだ。
キミカは醜い父と同じ運命を辿ることを恐れていた。もしこのまま暴力的な自分に変わってしまえば、愛する人を傷つけてしまうかもしれない――まるで父のように。その思いが、キミカを苦しめた。
「そ、そうだ、学校!」
とにかく、この姿では学校に行くことも、外に出ることもできない。キミカは母に「熱があるので学校を休む、学校には自分で連絡する」とメッセージを送った。すぐに「わかった、薬を飲んで安静にしてて。早く帰るから」と返事が来た。
いつもならありがたい返事だが、今日に限っては、この姿を母に見せたら、母もショックを受けてしまうだろう。もしかしたら父を思い出し、怯えて泣き出すかもしれない。「大丈夫だから、いつも通りで」とメッセージを送り、学校にも休む旨を伝えた。
そして、もう一人、伝えなければならない相手がいた。
「ヒメキに……どう言おう」
ヒメキは付き合って一ヶ月の彼女だ。キミカはヒメキの顔を思い浮かべた。彼女の美しさは言葉では表現しきれないほどで、触れることが許されない彫像のような、完璧でありながらも儚い何かを秘めている。
彼女の黒髪は絹のように滑らかで、陽の光を受けるたびに柔らかな光沢を放つ。その髪が肩から流れ落ちる様子は、まるで時間が止まったかのようだった。
ヒメキの横顔を見るたびに、キミカは胸が高鳴った。彼女の瞳はいつも遠くを見つめているようで、この世のものとは思えない冷たさを感じさせた。その瞳の奥には、誰にも触れさせない深い孤独が潜んでいるように見えた。
キミカは彼女に話しかけることさえできずにいたが、一ヶ月前、彼女が彼氏と別れたという噂を聞き、キミカは勇気を出して告白した。
「一緒にいたい、付き合ってほしい」と伝えたその時、キミカはヒメキの気を引こうとして余計なことを口走った。「好きって言葉は暴力と一緒だ」とか。でも、ヒメキは目を輝かせ「私もそう思う。お付き合いしましょう」と答えてくれた。
ヒメキはキミカにとって唯一の希望であり、心の支えだった。キミカはまだ、ヒメキに「好き」と好意を言葉にして伝えたことがない。「一緒に居たい」「一緒にいると楽しい」そういう言い方をしてきた。
それにも訳がある。
キミカが「好き」という言葉を避けるのは、父の影響だ。父は「好きだから殴るんだ」と言いながら母を殴り、「愛してるぞ」と言いながらキミカを殴っていた。好きなら、何でも許される、そんなことを本気で思ってる人だった。そんな父と同じにはなりたくないという気持ち。
それと、好意を口にしてしまったら、自分もまた、ヒメキを殴りたくなってしまうかもしれない。
キミカはヒメキを傷つけたくなかった。
キミカにとって、それは絶望だ。悪夢だ。見た目だけでなく心まで父のようになり、ヒメキを傷つけてしまう。そんなことをするくらいなら――。
そんな思いが彼を苦しめ、ヒメキに会う決意を固めさせた。
気がつけば夕暮れ時。スマートフォンを見ると、ヒメキから何度かメッセージが届いていた。「熱で休んだと聞いたけど、大丈夫?」と心配する内容だ。キミカは「会いたい」と短く返し、しばらくして「いつもの公園で待ってる」と返信が来た。
キミカは胸が締め付けられる思いを感じながら、家を出る準備をした。念のために鏡を確認すると、やはりゴブリンの顔が映っていた。深くフードを被り、決意を胸に家を出た。冷たい風が頬を撫で、不安が募った。
公園に着くと、ヒメキがベンチに座って待っていた。キミカが近づくと、彼女は小さく手を振って微笑んだが、瞳には不安げな色が浮かんでいた。
「キミカ、熱は大丈夫?顔色が悪いみたいだけど……」
ヒメキは心配そうに見つめた。キミカはどう返事をすべきか分からず、混乱していた。この姿を見てもヒメキが悲鳴を上げないのはなぜだろう?直視するのも躊躇うほど醜くなっているはずなのに。
「呼び出してごめん。俺の姿、いつもと違って見えない?」
「え?ちょっと元気がないみたいだけど、いつものキミカだよ?イメチェンでもしたの?」
ヒメキには、ゴブリンの姿が見えていないのだろうか?これはキミカの内面が反映され、彼にだけそう見えているのだろうか。
「そっか、ありがとう」
「よくわかんないけど、どういたしまして?」
クスクスと笑うヒメキが愛おしかった。彼女に悲鳴をあげて逃げられていたら、その足でキミカは飛び降りる場所を探しに行っただろう。安心したが、打ち明けるべきことがある。
「……今日は、話があるんだ」
キミカは震える声で言葉を絞り出した。ヒメキはその様子に気づき、表情を曇らせた。
「どうしたの?何かあったの?」
キミカは葛藤していた。彼女を守るためには別れるべきだと分かっていたが、その決断が辛すぎた。自分が父親のような怪物に変わる前に、彼女を遠ざけるべきだという思いが彼を苦しめた。
「ヒメキ……ごめん。一緒にいるのが怖いんだ」
その言葉に、ヒメキは驚きの表情を浮かべた。
「どうして……?」
キミカは目を伏せ、拳を握りしめた。彼女を失う恐怖と彼女を傷つけたくないという思いが交錯し、言葉が続かない。
キミカが黙っていると、ヒメキが意を決して、二人にとって嫌な思い出に触れた。
「怖いって、デートの時のこと?」
「違うよ。そうじゃなくて、俺が化け物に変わってしまい、ヒメキを傷つけてしまうんじゃないかって、怖いんだ」
「化け物?」
「あ、うん、その……化け物みたいに凶暴になって……」
ヒメキはその言葉に動揺し、しばらく黙り込んだ。彼女はキミカの心の奥にある恐怖を感じ取ったが、それが何なのか正確に理解できなかった。彼女は優しくキミカの手を取った。
「私はあなたを信じてる。キミカにだったら何されてもいいよ。だから、一緒にいて?」
その言葉に、キミカは救われる思いがした。しかし、鏡に映る自分の姿が頭をよぎり、心は再び深い闇に引きずり込まれた。
「ごめん。俺にはわからないんだ。自分がどうなってしまうのか」
キミカは彼女の手をそっと離し、立ち去ろうとしたが、ヒメキが彼の腕を引き止めた。彼女の瞳には、不安と悲しみが滲んでいた。
「行かないで!私を一人にしないで!」
その言葉に、キミカは立ち止まった。このまま立ち去ればヒメキを傷つけてしまう。しかし振り返り抱きしめても、いつかヒメキを傷つけてしまうかもしれない。
葛藤の末、キミカは振り返り、ヒメキを抱きしめた。
キミカの心は恐怖と自己嫌悪でいっぱいだったが、ヒメキもまた何か闇を抱えていることを知っているキミカは、一人にしないでという彼女の悲痛な叫びを無視できなかった。自分がゴブリンに変わってしまうという恐怖を、ヒメキを守りたいという使命感が上回った。
「ごめん、今はまだ何も言えない。でも、きっとヒメキを守るから、今は何も聞かないで」
「うん。わかってる。私もキミカに言わなきゃいけないことがあるから。今度、二人で話し合お?」
「わかった。ごめん」
そう呟いて、キミカはその場を立ち去った。
公園を出て、キミカは無意識に街を歩き続けた。冷たい風が彼の頬を撫で、心の中の闇がさらに深くなっていくのを感じた。
「どうしてこんなことになってしまったんだ」
きっかけは、きっと怒りだ。ヒメキも口にしたあの出来事。途方もなく強い怒りが、キミカを父と同じ道に歩ませようとしているのだとしたら――。
ヒメキとデートしている時、ヒメキの元カレと出会ってしまったから。
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SIDE : Himeki
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ヒメキもまた、どうしてこんなことになってしまったのかを考えていた。
突然の別れを告げられて、キミカが思い留まってくれたものの、その辛そうな表情は、彼にとって何か重大な問題が起こっていることを物語っていた。彼は否定していたが、ヒメキにはあのデートが原因としか思えなかった。
数日前、ヒメキはキミカとデートをしていた。
秋の柔らかな陽光が街を包み、木々の葉が赤や黄色に色づいていた。二人は手を繋いで街を歩き、自然と笑顔がこぼれていた。今日は特に良い日になる予感がしていた。
「キミカ、今日はどこに行くの?」
ヒメキが少し顔を傾けて尋ねると、キミカは一瞬考え込んだ後、微笑みながら答えた。
「行きたいカフェがあるんだ。前に通りかかったとき、すごく美味しそうなケーキがあったんだ」
「いいね! 甘いもの得意だもんね、キミカ!」
ヒメキはくすくすと笑いながら、彼の腕に軽く寄り添った。キミカは少し照れくさそうにしながらも、彼女の手をしっかりと握り返した。
二人はカフェに向かって歩き出した。通りを歩く人々のざわめきが心地よく、ヒメキはキミカと一緒にいるだけで幸せを感じていた。
「ヒメキは、どんなケーキが食べたい?」
「んー、チョコレートケーキかな。でも、フルーツタルトも食べたい! 甘酸っぱい感じがたまらないんだよね」
「分かるなぁ。フルーツタルトはさっぱりしてて、何個でも食べられそうだよね。俺も、今度作ってみようかな」
「えっ、キミカってタルト作れるの?」
ヒメキは驚きと喜びが混じった表情でキミカを見つめた。彼は照れ笑いを浮かべて頷いた。
「少しだけね。母さんがよく作ってたから、そのお手伝いをしてたんだ」
「すごい! 今度、キミカが作ったタルト食べたいな!」
「じゃあ、今度の休日に作ってみるよ。ヒメキに食べてもらえるなら、頑張って作らないと」
その言葉に、ヒメキは嬉しそうに微笑んだ。彼とこうして楽しく話しながら歩く時間は、彼女にとってかけがえのないものだった。
カフェに到着すると、木の温もりが感じられる落ち着いた雰囲気が二人を迎え入れた。店内には甘い香りが漂い、ヒメキは思わず深呼吸した。
「ここ、素敵なところだね。キミカ、こんなところ見つけてくれてありがとう」
「気に入ってくれてよかった。さぁ、何を頼もうか?」
メニューを手に取り、テーブルの上に広げた。ヒメキに見えるようにしながら、キミカはチーズケーキを注文することにした。ヒメキは結局、チョコレートケーキと紅茶を頼んだ。
「キミカ、チーズケーキも美味しそうだね。少し味見させてもらってもいい?」
「もちろん、ヒメキが食べたいなら。でも、その代わりにチョコレートケーキも味見したいな」
「いいよ、交換しよう!」
二人は笑いながらケーキを交換する約束をした。しばらくして注文したケーキと紅茶が運ばれてくると、二人はその美しいデコレーションに見とれてしまった。
「わぁ、すごく美味しそう!」
ヒメキは目を輝かせながら、フォークを手に取った。キミカも同じようにチーズケーキを一口食べた。
「うん、やっぱりこのケーキは最高だ。ヒメキも食べてみて」
「うん、じゃあ……いただきます!」
ヒメキはチーズケーキを少し味見し、すぐに笑顔になった。
「美味しい! キミカ、やっぱりチョイスが良いね!」
キミカもチョコレートケーキを味見し、満足そうに頷いた。
「ヒメキの選んだケーキもすごく美味しいよ。これなら、何度でも来たくなるね」
二人はしばらくケーキを楽しみながら、他愛のない会話を続けた。ヒメキはキミカの笑顔を見て、心の中で安堵と喜びを感じていた。
カフェを出た後、二人は再び街を歩き始めた。雑貨屋や洋服店を巡りながら、二人は笑顔を絶やさず、楽しいひと時を過ごした。
「今日は本当に楽しかった。ありがとう、キミカ」
帰り道、ヒメキはそっとキミカの腕に寄り添いながら呟いた。キミカは微笑みながら彼女の手をしっかりと握り返した。
「俺も、ヒメキと一緒に過ごせてすごく楽しかったよ。またこんな日を一緒に過ごそう」
「ヒメキじゃねえか。こんなところで会うなんてな」
耳に届いたその声が、ヒメキの体を一瞬にして凍りつかせた。
驚きと恐怖で立ち止まり、ゆっくりと振り返ると、そこには元カレが数人の仲間と共に立っていた。彼の顔には嘲笑が浮かび、その姿はまるでヒメキの過去の傷を抉り出すかのようだった。
キミカはヒメキの隣で、彼女が震えていることに気づいた。彼の手は、彼女を守るように強く握り返したが、ヒメキの心は過去の恐怖に囚われていた。
「男と一緒かよ、ヒメキ。俺のこと、忘れたとは言わせねえよ」
元カレはさらにヒメキに近づき、冷たい笑みを浮かべた。その瞬間、ヒメキの胸に激しい嘔吐感が押し寄せた。彼の声が、彼女の中で母親の言葉と重なり、心の中で響き続けた。
『あなたを愛してる。でも、気持ち悪い』
母親の言葉が、まるで元カレの口から発せられたかのように、ヒメキの頭の中でこだました。
ヒメキは顔を背け、キミカからも元カレからも逃げ出したくなる衝動に駆られた。
「ヒメキ? 大丈夫?」
キミカの心配そうな声がヒメキを現実に引き戻したが、元カレの言葉は止まらなかった。
「そういえば、お前、あれはもう治ったのか?『好きだ、ヒメキ』」
その言葉を聞いた瞬間、ヒメキの体が反応してしまった。胸の奥からこみ上げる嘔吐感に耐えきれず、彼女はその場でしゃがみ込み、吐き出してしまった。
元カレとその仲間たちは大笑いしながらヒメキを見下した。
「おいおい、まだ治ってねえのかよ。こんな奴と付き合ってるなんて、お前も可哀想にな」
しゃがみ込むヒメキの背中を優しく撫でてくれているキミカに、元カレは挑発するように話しかけたが、キミカは全く相手にしなかった。
ヒメキは涙を流しながら、キミカに見られてしまったことに強い自己嫌悪を感じた。自分がみじめで、恥ずかしくてたまらなかった。キミカもまた、自分を軽蔑するのではないかという恐怖が広がった。
「ヒメキ、気にしなくていい」
キミカは慰めようとしたが、ヒメキはそれすらも受け入れることができなかった。彼女は涙を拭いながら、震える声で言った。
「ごめん、キミカ……でも、私は……」
言葉が続かない。
母親からの拒絶が、ヒメキのすべてを支配していた。その支配から逃れられない自分が、キミカを失ってしまうかもしれないという恐怖に囚われていた。
元カレはヒメキの様子を見てさらに嘲笑を浮かべ、キミカに向かって挑発した。
「お前みたいな奴がヒメキを守れるのか? びびって震えてるじゃねえか!」
キミカの肩が震えていた。ヒメキはキミカの表情を見ることができなかった。キミカが自分をどんな目で見ているのか、それを見るのが恐ろしかった。
「行こう、ヒメキ」
キミカは震える声でそう言い、ヒメキの手を取り、その場を離れた。ヒメキは何も言わず、ただ彼に従ったが、心の中では自分がどれだけ弱いかを痛感していた。キミカに対して申し訳なさでいっぱいだった。
二人はそのまま歩き続け、やがてヒメキが静かに口を開いた。
「キミカ……ごめんね」
キミカは彼女の言葉に首を横に振ったが、ヒメキの目には深い悲しみが浮かんでいた。
楽しかったデートの思い出は、もう遠い昔のことのように感じられた。家に送ってもらい、自室に篭ったヒメキは、涙を流しながら自分を責め続けた。
「私は、愛される資格なんてないんだ」
ヒメキには、どうしても拭い去ることのできない影があった。
幼い頃、母親から愛情を感じなかった。母はとても美しかったが、内面は冷たく、ヒメキが愛情を求めるたびに、母は「愛している」と言いながらも、実際には突き放していた。時には「臭い、汚い、気持ち悪い」とまで言われ、その言葉がヒメキの心に深い傷を残した。
ある日、母は家を出ていった。残されたヒメキは、一人で静かに暮らしている。仕事でほとんど家を空けている父は、お金を入れるだけの存在だった。
ヒメキは、誰かに愛を求めることは不快であり、受け入れられるはずがないと思い込んでいた。そして、「好き」と言われるたびに、母親の冷たい言葉が反響し、その度に彼女の胸には嘔吐感がこみ上げてきた。
ヒメキは、人一倍に人恋しく、誰かを愛したい、愛されたいと思うのに、ヒメキの体は、その感情を拒絶してしまう。
その矛盾に耐えられず、他人との接し方がわからなくなってしまった。
キミカと手を繋いでいながらも、心の中で自分との戦いを続けていた。キミカがいつも優しく、ヒメキの闇を知らないままでいてくれることが唯一の救いだった。
付き合っていたときも、今も、元カレには何の感情も抱いていなかった。ただ寂しさを紛らわすために、母譲りの美しい容姿だけを目当てに近づいてきた彼に、魔が差して付き合うことにした。
それだけだった。
今では後悔している。
付き合ってすぐに彼の所有物のように扱われたことが嫌だったが、彼が大事にしてくれるので、言われるがままに連れ回されていた。
しかし、嘔吐するたびに突き放され、貶され、彼にはそんなヒメキへの執着すらなかった。ただアクセサリーのように飾って見せびらかすだけの関係で、曇ってしまった宝石に興味はなくなったのだろう。
彼からの連絡が途絶え、ヒメキは捨てられたと思った。その時に出会ったのがキミカだった。
学校の廊下でキミカに呼び止められたとき、元カレから言い寄られた事を思い出し、正直、またか、と嫌な気持ちになった。
でも、キミカは他の言い寄ってきた男たちとは、一目見てわかるほど、明らかに違っていた。ヒメキの目には、今にも引火しそうな火薬のように、危険な存在に見えた。
キミカは言った。
「好きだから付き合って欲しいとは言わない。“好き”って言葉が嫌いなんだ。好きだからって、何でも許してもらえるなんて、そんなの暴力と同じだよ。俺は君と一緒にいたいと思ってる。二人で過ごす楽しい時間を大切にしたい。だから、俺と付き合ってほしい」
ヒメキにはわかった。キミカもまた、ヒメキと同じく“好き”という言葉に呪いをかけられた被害者だった。キミカの事情はわからないが、彼となら、一緒に乗り越えられる気がした。
だから、彼と付き合うことにした。付き合ってまだ一ヶ月だが、キミカの優しさや強さ、時折感じる危うさの全てが、ヒメキをドキドキさせる。
こんな自分でも、キミカならきっと受け入れてくれる。だからおまじないをかけた。
そう思っていたのに――まさか熱で休んだはずのキミカから、会いたいと言われて行くと、彼はもう一緒にいられないと言った。
「化け物に見える、かーー」
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SIDE : Kimika
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学校に着くと、キミカは自分の姿を隠すようにそっと校舎に入った。クラスメートたちはいつも通りに彼に挨拶をしてくる。誰もキミカの姿がゴブリンには見えてないようだ。
キミカは心の中でほっとしたが、それでも完全に安心することはできなかった。
「やっぱり……俺だけが見えてるんだ」
キミカは自分の席に座り、周囲の様子を窺いながら、何とか平静を保とうとした。授業が始まっても、誰も変わった様子を見せることはなく、キミカの心の中の不安が少しずつ和らいでいった。
授業が終わると、キミカはそっと振り返ってヒメキの方を見た。ヒメキは普段通りの姿で席についていたが、その表情にはどこか影が差しているように見えた。
キミカが振り返って見ている事にも気づいていない。いつもなら、すぐに気がついて、微笑み返してくれるのに。
キミカはモヤモヤとしながら、その後の授業を受けていた。
昼休みになり、キミカがそっとヒメキを見つめていると、ヒメキが急に立ち上がり、教室を出て行った。キミカは驚き、何が起きたのか気になったが、ヒメキに声をかけることはできなかった。
ヒメキの後を追うかどうか迷ったが、結局キミカは立ち上がり、教室を抜け出してヒメキを追うことにした。
ヒメキは校舎の裏に向かって歩いていく。キミカは後をつけ、こっそりと追いかけた。ヒメキがどこに向かっているのか、何をしようとしているのか。
やがて、ヒメキは校舎裏の人気のない場所にたどり着き、そこで誰かと話している姿が見えた。キミカは物陰に隠れ、じっとその様子を見つめた。
「どうして……」
キミカの目に飛び込んできたのは、ヒメキが誰かと向かい合って立っている姿だった。ヒメキは苦しそうな表情を浮かべ、何かを言い返そうとしているようだった。キミカはその光景に息を呑んだが、その場から動くことができなかった。
ヒメキが話していた相手は、巨大なオークの姿をしていた。
豚のように太く突き出た鼻と、緑がかった粗い肌が特徴的で、太い筋肉が隆起し、鋭い牙が口元から露出している。目は赤く光り、狡猾な笑みを浮かべていた。
その姿はまるで悪意そのものが形を取ったようだと、キミカには思えた。
奇妙なことに、そのオークは男子の制服を着ていた。聞こえてくる会話の内容から、それがキミカもデートの時に会った、ヒメキの元カレだとわかり、キミカは二重の驚きに包まれた。
自分だけではなく、他の誰かも異形に見えてしまうということ。そして、ヒメキが隠れて元カレと会っているという事実を知ってしまったこと。
「どうして、あいつと……」
キミカの胸に嫉妬と不安が入り混じった感情が渦巻いた。
ひと際大きな声で元カレがヒメキを恫喝した。
「お前、やっぱり俺のことが忘れられないんだろ?!」
元カレの言葉がキミカの耳に届いた。ヒメキはそれに反応し、苦しそうに顔を歪めた。ヒメキがどれだけこの状況に耐えられないかが痛いほど伝わってきた。
その場に踏み出したいという衝動に駆られたが、必死に抑え込み、じっとその場に留まった。
キミカの心の中で、ヒメキを助けに行きたいという気持ちと、自分が動いてしまえば何かが壊れてしまうのではないかという恐れが激しくぶつかり合っていた。
元カレは執拗にヒメキに言い寄っていた。
「お前みたいな汚い奴が、俺以外と付き合えるわけがないだろう。この間の男にも棄てられたんじゃないのか?なあ、許してやるから、また楽しくやろうぜ?」
元カレはヒメキの腕を掴み、さらに詰め寄った。ヒメキは震えながらも、何とかその手を振り払おうとしていたが、元カレが力で抑え込んでいた。
キミカはその光景を見て、心臓が張り裂けそうなほどの痛みを感じた。
拳を握りしめ、ヒメキを苦しめる男に殴りかかりたい、その衝動のままに足を踏み出そうとした。
しかし、怒りで真っ赤に染まった視界の中に、自分の握りしめた拳を見て、氷水をかけられたかのように、急激に冷めていった。
それは、異形だった。
腕は蒼白く、まるで冷たく凍りついた石のように硬く変質していく。筋肉が不自然に膨れ上がり、骨が歪みながら飛び出し、異様な形状を形成していく。
「俺はいったい!?」
キミカはその場で動けず、恐怖に駆られ、自分の体の変化に戸惑っていた。
「もうやめて!」
悲鳴に近い叫び声がキミカを現実に引き戻した。
ヒメキは苦しみながらも、何とか元カレの手を振り払うと、そのまま駆け足でその場を去った。元カレはその背中を見つめながら嘲笑を浮かべ、キミカには気づかずにその場を去っていった。
キミカはヒメキが去った後も、しばらくその場に立ち尽くしていた。自分が化け物になっていく様に恐怖を感じた。しかしそれ以上に、ヒメキの苦しみを見ながら、何もできなかった自分が許せなかった。
キミカが思ったように、怒りがトリガーとなり、キミカを化け物に変えていくようだ。気が付くと、体は再びゴブリンに戻っていた。
「俺は、どうすれば彼女を守れるんだ……」
キミカの胸には、重い疑念と共に、ヒメキを守るための強い決意が生まれていた。しかし、その答えを見つけるには、キミカはまだ多くの葛藤と向き合わなければならないことを感じていた。
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ヒメキは、自分の部屋でベッドの上にうずくまり、キミカとのデートでの出来事が心に重くのしかかっていた。
キミカと楽しくデートしてる間だけは、普通の女の子のように恋する幸せを享受できる悦びに満ちていたのに、元カレに声をかけられた瞬間に、それはただの錯覚だったのかもしれないという不安に押しつぶされそうだった。
キミカは、愛し愛されることの喜びをヒメキに教えてくれた。
なのに、過去の自分が犯した気の迷いが、ヒメキを暗い沼に引きずり込もうとしている。
元カレから再び連絡が来るようになり、どうにか終止符を打とうと学校で会って話をつけたが、彼の言葉は「許してやる」というもので、何様のつもりなのかと憤りを感じた。
しつこく付き纏われ、キミカと一緒にいるときに余計なことを言われるのも耐え難い。
どうにかしたいが、一人では何もできない無力さを痛感し、キミカにどう顔を向ければ良いのか分からなくなっていた。
それでも、キミカが自分を大切に思ってくれていることは、ヒメキにとって唯一の救いだった。
ヒメキはキミカとの楽しかった時間を思い返し、名前を呟く。
「キミカ……」
そうすることで、心の中に暖かなものが広がって行く。そして、決意が少しずつ固まっていくのを感じた。
キミカがいる限り、過去の恐怖に立ち向かえるかもしれない――そう信じたかった。勇気を出してスマートフォンを手に取り、キミカにメッセージを送った。
『今日、少し話せる?』
すぐにキミカからの返信が届いた。
『電話で良いかな?』
ヒメキにとってもその方がありがたかった。正直、どんな顔をして会えば良いのかもわからない。
返事を返すよりも早く、ヒメキは反射的にキミカに電話をかけた。コール音がする間もないほど早く、キミカが電話に出た。
「キミカ!」
「ヒメキ……。先に謝らせてほしい」
「え、なに?」
「昨日のこと。俺、自分のことばかりで頭がいっぱいで、ヒメキの話を聞くどころじゃなかった。ごめん。ヒメキも話したいことがあるって言ってたのに、ちょっと俺、おかしなことになってて」
「おかしなことって何?」
「ごめん、まだ誰かに相談できるほど、自分でもよくわかってないんだ」
「そっか。でも、話せるようになったら話してね。何があっても私はキミカの味方だから」
「うん、ありがとう。それで、ヒメキの話を聞くよ」
「話は、この間のデートの時のことなんだ」
ヒメキは自分の声が震えるのを感じながら、言葉を紡ぎ出した。自分の中にある恐怖を、キミカに伝えるべきだと感じていた。
「うん、そうじゃないかと思ってた」
「キミカ、デートの時はごめん……」
「ううん、俺こそごめん。ヒメキの様子がおかしいのに気づいてたのに、すぐに手を引いて立ち去ればよかった」
「ううん、キミカは何も悪くないよ。……わかってると思うけど、あれ元カレなの。でも!もう別れたし、なんとも思ってないわ!……本当は忘れたいの」
ヒメキは涙がこぼれそうになるのを堪えながら、必死にキミカに訴えた。
「……聞いてもいいかな、あいつが言った一言で、ヒメキは――」
「そう。吐いちゃった。キミカ、幻滅したよね?」
「いや、幻滅なんかしないよ!ヒメキの心配しか頭になかったよ」
キミカの優しい声がヒメキの心に染み渡り、ヒメキは普通の女の子として彼氏に優しくされる幸せを感じた。あの男のように、貶すことしかしない存在は、まがい物だと改めて思った。
「ありがと、キミカ。私ね、好意を言葉にされると、すごく気持ち悪くなるの」
「……ヒメキ、俺もその気持ち、すごくわかる、かも」
「うん、キミカならわかってもらえる気がしたの。言ってくれたもんね、一方的な好意は、暴力と一緒だって」
「俺の場合は、父のせいなんだ。父は好意を口にしながら、俺や母をずっと殴ってた。愛があれば、殴っても許されると、本気で思ってる人だった」
「そうなんだ、キミカ、痛かったよね」
「……ヒメキ、聞いてもいいかな。つらいなら無理には聞かないから」
「ううん、聞いてほしい。私もキミカと同じだよ。私はね、ママのせい。ママは、私が邪魔だったみたい。いつも私は家に一人だった。ママが言うの、いい子に待ってないと、帰ってくるのやめるって。だから、いい子に待ってたのに、帰ってきたママに「いい子にしてたよ」っていうと、ママは「いい子ね、愛してるわ、でも臭くて気持ち悪いから近づかないで」って――」
その記憶に触れた瞬間、ヒメキは耐えきれずベッドの横に置いてあるゴミ箱に向かって嘔吐した。キミカには聞かれたくなくて、咄嗟にスマートフォンを枕の下に押し込んだが、それでも聞こえるほど大きな声で、キミカの声が聞こえてくる。「ヒメキ!大丈夫か!」と必死に叫んでくれている。
口元を拭いながら、スマートフォンに手を伸ばして、一言だけキミカに返事した。
「だいじょうぶ、だから、待ってて」
「うん。待ってる」
キミカの声が、今まで感じたことのないほど、心に優しく響いた。
慌てて洗面所に行き、口をすすいで深呼吸し、再び自室に戻った。今更ながら、電話で話すことにして良かったと痛感していた。こんな姿をキミカには絶対に見せられない。
呼吸を整えて、スマートフォンを手にし、キミカに答えた。
「ごめんね。もう大丈夫」
「ヒメキ!ごめん、俺がつらいことを聞いてしまったから」
「ううん、違う!私が聞いてほしかったの。私、ずっと怖かったの。母のこと……そして、誰かに愛されることが。あなたが優しくしてくれるたびに、嬉しい反面、どうしても……怖くなるの」
「ヒメキ……」
「でも、怖いままは嫌。私は恋がしたいの!だから、キミカとなら、乗り越えられるんじゃないかと思うの」
「ヒメキ、すごいね。改めて、ヒメキを尊敬するよ。俺はそんなヒメキがすごいと思う。怯えてるだけの俺とは違う。俺はそんな君を守りたい。一緒に乗り越えたいって思った」
キミカの言葉に、ヒメキは胸が温かくなるのを感じた。キミカの真剣な気持ちに触れるたびに、ヒメキは自分の心の奥にある不安が少しずつ和らいでいくのを感じた。
ヒメキはしっかり自分の気持ちを伝えようと、意を決して言葉を紡いだ。
「キミカ、私……あなたのことが――」
その時、玄関フォンが鳴り、来訪者を知らせた。それと同時に、ドアをドンドンと叩く音まで聞こえてきた。何事かと耳を澄ませると、聞こえてくるのは、あの男の声だった。
「ヒメキ?」
「キミカ、ごめん。誰か来たみたい。一度、電話を切るね。また後で電話するから」
ヒメキは、近所に響く大きな声に羞恥心を感じ、キミカよりも突然の来訪者を優先せざるを得なかった。ひどく迷惑だ。住んでいる場所を教えたことなどなかったのに、どうやって調べたのだろう。
「わかった。待ってるよ」
「うん、またあとで」
そう言って電話を切り、目についたカーディガンを羽織ってから、リビングに向かった。
「やめて!近所迷惑でしょ!」
玄関フォン越しに文句を言った。
「おう!やっとかよ!ずっと電話してたのに出やがらないから、わざわざ来てやったんだ!さっさと玄関をあけろ!」
元カレである男が一人だけでなく、数人の男たちが後ろでにやにやしているのが見えた。玄関を開けろと言われたが、開けるわけがない。警察に通報しようとスマートフォンを手にしたが、それを男は許さなかった。
「次は、キミカのところに行くぜ?」
「え――。なんで彼のことを」
「調べたんだよ。聞いて回ったら簡単に分かったぞ。住んでる場所も、あいつのこともな」
「どうしてそんなことをするの?」
「ヒメキ、知ってるのか?あいつの親のこと」
「何を言って――」
「あいつの父親は刑務所だ。母親が働いているのは――」
「やめて!」
ヒメキを悪く言うのも耐え難いが、キミカや彼の家族のことを大声で話し始めた男が許せなかった。何のつもりでそんなことを言い始めたのか。
「ヒメキ、一緒に来い。話がある。今すぐ来い。来ないなら、キミカのところに行って――」
「行くわ!黙って待って!」
自室に戻り着替えたら、すぐに玄関に向かう。途中、スマートフォンに視線を落とし、キミカに連絡するか迷ったが、何と言えばよいのかわからなかった。
玄関を出ると、男たちはにやにやと待っていた。
「やっと来たな、ヒメキ。いい子だ」
元カレは冷笑を浮かべながら彼女に近づき、鋭い目で彼女を見つめた。ヒメキはその視線に震えたが、逃げ出すことはできなかった。
「何が目的なの……?」
ヒメキは震える声で問いかけた。元カレはその言葉に笑みを深め、彼女の肩に手を置いた。
「簡単なことだ。キミカを呼び出せ。そして、あいつに別れを告げるんだ」
その言葉を聞いた瞬間、ヒメキの心に冷たい恐怖が走った。ヒメキは元カレの手を振り払おうとしたが、その手は強く押さえつけられた。
「無理よ……そんなこと、できない」
ヒメキは必死に拒否しようとしたが、元カレはヒメキの耳元で囁いた。
「お前がここで拒否すれば、あいつはもっとひどい目に遭うことになるんだぞ」
その言葉に、ヒメキは絶望的な気持ちに押し潰されそうになった。頭の中で、キミカの優しい顔が浮かんだ。キミカが自分のためにどれだけ尽くしてくれたか、それを思い出すたびに、胸が締め付けられた。
「どうすれば……」
ヒメキは泣きそうな声で呟いたが、元カレは冷酷な笑みを浮かべたままだった。
「お前がキミカを呼び出し、俺たちの言う通りにすれば、何も問題ない。場所は――」
ヒメキは目を閉じ、震える手でスマートフォンを取り出した。彼女の指が震えながらも、キミカにメッセージを送る。男が示した場所を入力しながら。
「キミカ、お願い……助けて」
ヒメキの心は張り裂けそうだった。自分がキミカを裏切るような気がして、胸が痛んだ。しかし、彼を守るためには、今はこれしか方法がないと思い込んでいた。彼女の心は再び恐怖と絶望に包まれ、暗闇の中で揺れ動いていた。
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SIDE : Kimika
┗━━━━━━┛
指定された場所に着いた。
キミカは、スマートフォンを手に取り、ヒメキからのメッセージを改めて確認した。表示された短いメッセージと位置情報が、彼をこの場所へと導いていた。
学校の近くにある、かつての倉庫街の一角。今はもう使われていない建物が多く、昼間はカフェや美術商が個展を開くなどして、再利用が進んでいる。とても静かな場所だが、夜になると治安が悪くなることで知られていた。
『お願い、来て』
その一言が、キミカの心を大きく揺さぶった。ヒメキがこんな場所に自分を呼び出すのには、何かただならぬ事情があると直感した。
「ヒメキ……何があったんだ?」
ヒメキが助けを求めているのなら、ためらう理由はなかった。今度こそヒメキを守らなければならないという強い決意がキミカの心に湧き上がった。
少しだけ開いていた倉庫の重い扉の隙間から、キミカはそっと中に入った。倉庫の中は暗く、唯一の明かりはキャンプ用のLEDランタンだけだった。その奥に、数人の人影が浮かび上がる。
そこにいるのは、ヒメキと彼女を取り囲む元カレとその取り巻きたち。ヒメキはうなだれたまま、無力感に満ちた姿を見せていた。
「やっと来たか、キミカ」
元カレが冷ややかに言った。その声には挑発が込められており、キミカの目には彼の姿がオークのように見えていた。キミカは深く息を吸い、平静を保とうとしたが、胸の中の怒りが激しく燃え上がっていくのを感じた。
「ヒメキ、大丈夫か?」
キミカはヒメキの方へ駆け寄ろうとしたが、元カレがヒメキの肩を強く抱き寄せ、キミカを制止した。前カレがヒメキの耳元に顔を近づけ、冷たい声で囁く。
「言え、ヒメキ」
「……」
「言えよ、言わないなら、あの動画をキミカに見せてやろうか?」
「いったい何のこと――」
元カレが手でヒメキの口をふさぎ、さらに囁いた。キミカは駆け寄ってヒメキを助けたかったが、取り巻きの男たちがキミカを囲んで邪魔をしていた。
キミカは彼らを殴り倒して近づくことも容易だと感じ、拳を強く握った。その瞬間、キミカの腕は筋肉が大きく肥大し、獣のような爪が伸び、肌の色がどんどん黒く染まっていく。異形――人間らしさを失った化け物のような腕がそこにあった。
「キミカ!」
ようやく元カレがヒメキの口を解放し、彼女が叫んだ。
「ヒメキ!」
「キミカ!助けて!」
「おい!違うだろうが!俺は別れろって言ってんだ!」
ヒメキは気丈にも元カレをにらみつけ、そして気高く言い放った。
「バカじゃないの?別れるわけない!あんたが私をどんなに脅したとしても!潔癖のあんたは私に触れるのも嫌なくせに!私を好きって言ってみなよ!あんたの顔に吐きかけてやるわ!私たちの邪魔をするな!私はキミカと一緒に乗り越えるって決めたんだ!」
「クソが!」
キミカの目にはオークにしか見えないその男の体もまた、変わっていった。
筋肉が異常に膨れ上がり、体全体が不自然に巨大化していく。彼の顔は恐ろしい形相に歪み、額からはねじれた角が生え、鋭く伸びた。肩や背中には巨大なコブが隆起し、手足には獰猛な爪が生え揃う。
その獰猛な爪が、ヒメキの華奢な体を捕らえ、今にも握りつぶさんとしたとき、キミカは咄嗟に動いた。
「ヒメキを放せ!」
キミカが怒りを込めて叫び、ヒメキと元カレに向かって駆け寄ろうとしたが、取り巻きたちがキミカを取り囲み、立ちはだかった。
キミカは、虫を払うようなしぐさで、彼らを容易に吹き飛ばせるだけのチカラを、自分の異形の腕に感じていた。
しかし、そうは出来なかった。脳裏に父の姿が浮かび、自分の姿と重なって見えたから。
とたんに、キミカの腕が止まった。
気が狂いそうな強烈な暴力衝動にかられながらも、キミカの魂は必死に抗っていた。絶対に父のようにはならないという誓いは、決して揺るがない。キミカに最後の一線を超えさせなかった。
それを怯えと見た元カレは、獰猛な笑みを浮かべ、ヒメキに言う。
「人も殴れないビビリが!お前が素直に言うことを聞かないから、今からあいつはボロボロになるぜ?」
「あんたらにできるわけない!」
「そいつを痛めつけろ!終わったらこいつを好きにしていいぞ!」
取り巻きたちは下品な笑いを浮かべ、キミカに近づいてくる。手には角材や鉄パイプが握られていた。キミカがこれからどうなってしまうのかなんて、映画やドラマでなくても、誰でも容易に想像できた。彼らの表情に人を傷つけることへの躊躇いなど感じられない。ただ欲望に満ちていた。
悲劇のヒロインであるヒメキが叫ぶ言葉も「逃げて!」だと思われたが。
「キミカ!戦って!」
その言葉に驚き、キミカはヒメキを見た。元カレだった男もヒメキの言葉に意外そうな表情を浮かべていた。ヒメキは続けて言った。
「キミカが本当は強いの知ってるよ!こんなやつら、あっという間に倒せるでしょ!」
「おまえ、何を言って――」
「キミカはお父さんとは違う!暴力じゃない!戦うの!キミカは化け物なんかじゃない!戦う力は正義の力!私のヒーローだよ!私たちの未来を守るために!」
その言葉がキミカの心を打ち、彼の視界がさっと晴れていった。今まで見えていた風景が変わり、彼の腕は再び人間の手に戻っていた。
ヒメキの腕をつかんでいた男も、オークではなく、矮小な存在に見えた。
もう何も怖くはない。キミカは自然な歩みでヒメキに近づいていく。
慌ててキミカを取り押さえようとした取り巻きたちは、角材や鉄パイプを振り下ろすが、キミカの動きは小さく、そして速く、彼らは次々に宙を舞い、地面に伏した。
その光景に、元カレとヒメキは何が起こったのか理解できなかった。キミカが手を振るっただけで、取り巻きたちが宙に飛び、地面に叩きつけられたかのように見えた。
「ヒメキを、返してもらおうか」
キミカの静かな声に、元カレであった男は震え上がった。キミカの瞳が満月のような黄金色に輝いていた。男は自然と手を緩め、ヒメキは飛びつくようにキミカに抱きついた。
「キミカ!」
「大丈夫か?ヒメキ」
「うん、ありがとう!」
男は怯えた表情を浮かべ、腰を抜かして地面にしりもちをついていた。そしてそのまま後ずさり、情けない声を上げた。
「ば、ばけもの……」
彼の目には何が見えていたのか。焦点の合わない目はどこを見ているのか、キミカにはわからなかったが、ヒメキを見ているように思えた。
ヒメキは冷たい声で言った。
「もう、私たちに関わらないで」
男は何度もうなずき、さらに距離を取ろうと後退していった。
「行こう。俺たち、まだ話の途中だったよ」
「そうね!いきましょ!」
二人は腕を組んで、倉庫を後にした。
◇ ◇ ◇
二人は答え合わせをしました。
「キミカは、私の事、好き?」
「それを言うと、君が苦しくなるから……」
「いいから!言ってみて!(何かを抱えながら)」
「……好きだよ」
「もう一度!名前も一緒に!」
「ヒメキ、好きだよ」
「私も好きだよ!(何かすっきりした顔で拭いながら)」
「ねえ、大丈夫なの?」
「決めたの。大丈夫になるまで繰り返せば――」
「体によくないよ、慣らすにしても、もっと方法を考えないと」
「痩せそうかなって思うの!」
「体によくないよ!」
「キミカのあれ、なんだったの?」
「あれ?……あ、化け物って言ったやつ。実は朝起きたら――」
「いえ、倉庫で馬鹿なやつらを吹き飛ばしてたやつ」
「そっち?」
「こう、キミカが軽く手を触れただけで、馬鹿な奴らが宙がえりしてたよ?」
「そう見えるだけで、実際には巧みに全身を使って、相手の重心を崩してるんだ」
「くずしてる?」
「合気道の言葉。結び・導き・崩しというんだ。俺は祖父に教わった。父から逃げて母の里に保護されてたときに、男なら戦う時が来る、と祖父に言われた」
「おじいさん、かっこいい」
「祖父に、暴力は嫌だって言ったら、殴られるのが嫌なら、それを避ける方法を教えてやる、と合気道を叩き込まれた」
「そうなんだ!やっぱり私の見込み通り、キミカは強かったんだね」
「強くはないよ、避けてるだけで。ヒメキの方がずっと強く、かっこいいよ」
「そうかな?」
「ほら、あいつに言ってやったじゃない。顔に吐きかけてやるわって」
「ああ。あれはあいつが一番嫌がることだったからね」
「動画って――」
「何もないわ」
「キミカは私を傷つけることを怯えていたみたいだけど、気にしないでね」
「いや、無理だよ。傷つけたくないよ」
「誤解しないで聞いてほしいんだけど、私はそれ、嬉しいかも」
「え」
「だから誤解しないで。痛いのが好きとかそういうことじゃなくてね。構ってくれないのが一番嫌なの。それが何であれ、私に向けられたものなら、好意以外なら、私は嬉しくなるの」
「好意以外」
「それは、今は無理だけど、いつか乗り越えるから。でも、それ以外でもキミカなら大歓迎だよ」
「うん、わかった。わかったけど、殴るのはしないよ。殴ってしまったら、君が許しても、俺は許せない」
「キミカ、そこまで自分を追い詰めないで――」
「今度こそ息の根を止める」
「うん?」
「お前のせいで俺は。腕の骨を折ったくらいで泣きわめき――」
「キミカ!」
「あ、えっと。ごめん、何の話だっけ」
「キミカのお父さん、今、どうしてるの?」
「さあ。知りたくないから。でも、母さんが言うには「次は無い」って」
「どういうこと?」
「あ、もう一つ、言ってた。「里が総出で、証拠は消す」って」
「え、ちょっと待って、お母さんの里ってどこ?」
「ごめん、それは言っちゃいけないことらしいんだ。隠れ里らしい」
「お父さん、生きてるよね?」
「さあ。知りたくないかな」
「そう言えば!キミカの作ったタルトが食べたい!」
「わかった、今から作るよ」
「今から!」
「うん、材料は買ってあるんだ、練習しておこうと思ってたから」
「やった!じゃあ、あの、ダイエットーーじゃなくて、好意の練習は今日は無しで!もったいないもの!」
「練習なんだ、あれ」
「私も一緒に作っていい?」
「もちろん、一緒にしよう」
「昔から憧れてたんだよね!お菓子作りってなんか女の子!って感じじゃない?」
「そうかも」
「楽しみ!あ、でも、幻滅しないでね、卵割るの、すっごい下手なんだよ」
「うん、その一言で、よくわかったよ。大丈夫」
「良かった!」
二人は賑やかにキッチンへと向かったのでした。