02
真新しいドレスに着替え化粧を施され、複雑に髪を結い上げられたクレアは、幾日かぶりに部屋から足を踏み出した。最後にこの景色を見た日は、いつだったかはもう覚えていない。
しかし、歩く廊下の異変にはすぐに気付いた。
(灯りが暗い……前は変な壷とか悪趣味な絵がいっぱいあったのに……なんだこの紙?)
屋敷のところどころに、小さな紙が貼ってある。大きな家具や何らかの台座に貼られたそれには、“差し押さえ”と書かれていた。
(うっそ……この家、ここまで傾いてるの!? 私が教えたノウハウは? お金儲けてるはずじゃないの??)
まさかそんな、とめまいがする。呼び出された理由は想像もつかないが、この際ついでに問いただす必要がありそうだ。
大きなため息をついて、クレアは父の部屋を目指して急ぐ。見れば見るほど悲惨な屋敷の状態に、しくしくと胃が泣いた。
(部屋から出ずに引きこもっていた私にも、責任はある。これからは、家のことも考えなきゃ)
まずは父の用事から聞いてみよう。たどり着いた彼の部屋の前で、クレアは気を引き締めた。
恐らく自分を着飾らせたからには、客人が来ているのだろう。あまり待たせてはいけない。
「……お父様。クレアです。入ってもよろしいでしょうか?」
「おお、クレア。待っていたよ」
来訪を告げると、父自ら部屋へと招き入れられる。珍しいことがあるもんだとクレアは思った。
「クレア。粗相のないように。……お待たせいたしました、レオナルド殿。これが娘のクレアでございます」
ぺこぺこと頭を下げる父の後ろで、クレアも深く礼をした。顔を上げてくれと声がして、そっと姿勢を戻す。
「レオナルド・カーライルだ。初めまして、クレア殿」
父の紹介でソファから立ち上がった男は、入り口から離れていても見上げる程に背が高い。背が高いし、肉が厚い。
破顔する顔は爽やかイケメンで、前世の隣国ポップアイドルみたいだ。
「お初にお目にかかります。クレア・ブランと申します」
「喜べ、クレア! こちらのレオナルド殿が、お前を嫁にしてくれるんだぞ!」
「……はぁ?」
上機嫌にクレアの背をバンバンと叩く父に、しかめ面で生返事をする。
意味が分からない。いや、嫁ぐという意味は分かるが、理解が追い付かない。どういうことだ。
「レオナルド殿が、嫁を探していてな。お前を是非に、と我が家へお越しくださったのだ! 嫁き遅れのお前には、願ったり叶ったりじゃないか!」
(そんな大きな声で、嫁ぐ相手の目の前で、酷いじゃない……)
デリカシーのない父に困惑し、恐る恐るレオナルドの方へ視線を向ける。すると目があったクレアに、にこりと微笑みかけてくれた。
「お噂以上に素敵な人だ。美しい人、私と結婚してくれませんか?」
「はい、ぜひとも! 不甲斐ない娘ではございますが……」
「クレア殿?」
笑顔を浮かべたレオナルドは父を無視して、クレアに首を傾げる。有無を言わさぬ声色に、思わずクレアは頷いていた。
「か、しこまりました……私で良ければ、是非……」
「ありがとう。……では、クレア殿はこのまま連れていきます。先に言いました通り、父が危篤なものですから。何よりもまず、嫁を見せて安心していただきたいのです」
「もちろんです。さぁ、クレア。お前は先に荷物をまとめてこい。俺は、もう少しレオナルド殿と話がある」
「……はい」
退出の挨拶をして、父の部屋から廊下に出る。
どうしてこうなった……クレアの頭はパンクしそうだ。
(というか、驚きすぎてスルーしてしまったけれど……え? 今すぐ嫁に行く?)
初対面の人と結婚する……のは貴族では政略で婚約し、結婚式当日になってやっと互いの顔を知る人達もいるから、一応貴族の端くれであるクレアにも理解はできた。ブラン家にとって良い風が吹くなら、問題はない。
それよりも、レオナルドと結婚のためにこの後すぐ、彼の家に行くことの方が大問題だ。クレアの部屋には、これまでの全てが詰まっている。前世の知識を活用した、研究の全てが。
淑女としてはギリギリアウトな足さばきで、自室へと駆け抜ける。部屋から持てるもの全てを持って行きたいが、多分無理だろう。厳選して、でもできるだけ多くを持ち出したい。成功はもちろん、失敗も、またそれは“失敗”という名の結果だ。
たどり着いた部屋の扉を開ける。
「……ルミエール!」
結い上げられた髪の飾りに隠れていた、光が飛び出してきた。
光だから、ルミエール。安直だが、前世の異国の言葉である。
「あぁーっ! ルミエール、どうしよー。私、今日でこの部屋とお別れなんだって。引っ越すの。嫌だー!」
喋ることはできないルミエールだが、意思の疎通はできる。クレアが問うものには上下に飛んで肯定を、左右で否定を返してくれるのだ。他にもクレアが悲しくて涙を流せば頬にすり寄り、嬉しくて跳ねれば光もぴょんぴょんと飛ぶ。
他人には見えないルミエールに、人の目がある時はクレアも話しかけないようにしていた。何もない空間に話しかける様は、端から見たら怪しい子である。
「資料の殆どは、頭に入っているとして……どれも捨てるに忍びない……あああ、どーしよー」
膝から崩れ落ちたクレアの頭に、ルミエールがちょんちょんと触れる。気付いた彼女の目の前で、ルミエールはパンッと破裂した。