第八百二十八話 とある定期船にて
時は辻谷候補生が定期船から駆逐艦はなかぜに移送された時まで遡る。自称世界平和維持艦隊の艦隊員が駆逐艦はなかぜに戻った後、船内に漂っていた張りつめた空気が緩んでいた。
「やれやれ、一時はどうなる事かと思ったぜ」
「おいおっさん、娘さんが無事で良かったな」
賊が居なくなり直接的な脅威が去った事で乗り合わせた人々は安堵していた。そして人質に取られそうだった幼女が連れ去られなかった事を喜ぶ人も居た。
「お父さん、あのお兄ちゃん大丈夫かな?大丈夫だよね?」
「・・・ああ、大丈夫だよ。あのお兄ちゃんはね、陸軍の軍人さんになる為の学校の生徒さんなんだって。だからとても強いんだよ」
少年が残した猫を抱いて父親に問う幼女。父親は言い聞かせながら頭を撫でて愛娘の心を落ち着けさせる。
陸軍士官学校の生徒が普通の大人より強いかどうかなんて父親は知らなかった。しかし、そう言い聞かせる事で愛娘の心を守るしかなかった。
そして、身代わりとなった少年の身を案じながらも愛娘が無事で良かったと安心してしまった自分の罪悪感を薄める為に自身にも言い聞かせるのだった。
「おい、あれを見ろ。新手の駆逐艦だ!」
「三隻も居る。一隻の奴らに勝ち目は無いな!」
接近してきた駆逐艦三隻を見たマスコミや乗客が騒ぎだした。新手の駆逐艦が賊の増援という可能性を無視した楽観的な発言だが、人は危機に晒されている時は希望的観測に縋るものなのだ。
「おいおい、三隻も居て手も足も出ないのかよ!」
「とっとと賊の駆逐艦を沈めて助けてくれよ!」
救いの神に見えた駆逐艦三隻が賊の脅迫により手出し出来ないと知ると、マスコミ達は救いに来た駆逐艦三隻を罵りだした。
もし陸軍と宮内省がロシア皇帝陛下と皇女殿下を差し出さなければ、自分達が乗る船が撃沈される。乗客達にそんな恐怖が現実味を帯びた時、状況を打破する奇跡が起こる。
「な、なんだ!」
「クジラ、なのか?おおっ、賊艦が転覆した・・・うわあっ!」
賊艦の艦橋の向こうに、突如としてクジラの巨体が現れた。そしてクジラは重力に引かれて駆逐艦はなかぜの甲板に直撃、はなかぜを転覆させた。
「お父さん、怖い!」
「しっかり掴まっていろ!」
はなかぜが転覆した余波で定期船は揺れに揺れた。幸いな事に転覆は免れたものの、船室内の乗客は負傷し甲板に居た者は海へと投げ出されてしまった。
「痛たたた、痛い所は無いか?」
「うん、痛くない。でも、猫ちゃんが居なくなっちゃった」
あちこちに体をぶつけながらも娘を庇った父親が確認すると、娘は怪我をしている様子はなかった。しかし、しっかりと抱いていた筈の子猫のヌイグルミが居なくなっている。
「あの子猫は少年のスキルで出た物だった。もしかしてあのクジラも・・・」
子猫が消えた事で父親は事の真相に気付いたようだった。しかし、父親には娘を庇ってくれた恩人の安否を知る術を持っていない。
「猫さんは多分お兄ちゃんの所に帰ったんだよ。もしまたあのお兄ちゃんに会えたら、猫さんにも会わせてもらおうな」
痛みに呻く負傷者の声や怒号が響く船内で、父親は果たせる可能性が低い約束を愛娘と結ぶのだった。




