第八百二十三話 とある士官候補生の覚悟
「そいつが陸軍の士官候補生か。予定とは違うが悪くない人質だな」
定期船から駆逐艦はなかぜに移送された辻谷は、三人の兵に銃を突きつけられていた。そんな彼の前に中佐の階級章を付けた佐官が現れた。
「気に食わん、お前は人質なのだ。もっと怯えへつらわねばならぬ」
「司令、陸軍では銃を採用しておりません。なので銃の怖さを知らぬのでしょう」
海軍士官でもある辻谷は銃の威力を十分に知っていた。しかし、人質である自分が命を落すような真似はしないと確信していたのだ。
「こんな事をして無事で済むと思っているのか?海軍は・・・帝国は地の果てまでも追ってくるぞ」
「我々は皇帝陛下と皇女殿下をお連れして陛下の祖国に凱旋するのだ。そしてロシア帝国海軍の長となる。我らを不当に扱うこの国など愛想が尽きたわ」
「理不尽に降格され、もはや出世も見込めん。ならば正しく評価される新天地に渡るのみ!」
彼等は昨年の事件で降格された者達が集まったものだと口々に溢す愚痴により判明した。そんな彼らの楽天的な思考に辻谷はつい口を挟んでしまった。
「もし皇帝陛下と皇女殿下を連れてロシアに渡った所で、日本帝国から身柄の引き渡し要請が来るのは避けられないだろうに」
「ふん、皇帝陛下と皇女殿下をお救いする我らはロシア帝国により守られる」
「陛下と殿下を手中に収めた段階でお前らは用済みだろ?日本帝国と事を構えてまで守るかな?」
彼等は日本に引き渡され、艦は沈んだ事にして隠匿というのが最も可能性が高い未来だろう。彼らが栄誉を手にする未来はほぼ無いと言っていい。
「少々頭が回る小僧かと思ったが、現実が見えていないようだな。海軍も陸軍も我々には手を出せん。我らの勝ちは揺るがんのだよ」
司令は高笑いし勝利を宣言した。しかし、それに水を差す存在が接近してきた。
「司令、左舷方向より駆逐隊三隻が接近中!」
「来たか、だが民間船が居る以上遠距離からの砲撃は出来まい。念の為こいつを左舷に連れて行け。陸軍の士官候補生を犠牲には出来んだろうからな」
「了解しました。おい、こっちだ。さっさと歩け!」
三名の兵に銃を向けられたまま左舷に移動する辻谷。彼の目に接近しつつある駆逐艦の艦影が見えた。
「民間船への影響を考えれば砲撃も魚雷戦も無理、だろうな。腹を括るしかないか」
「その通りだ。駆逐艦だろうと巡洋艦だろうと俺達に手出しは出来ない。お前は陸軍が素直に陛下と殿下を解放する事を祈るのだな」
銃を向けている兵は自分達の優位性は覆らないと高を括っていた。しかし、彼等は滅びの使者を自ら招いていたのだった。
「俺の命を全て使っても良い、だからこの一時だけ応えてくれ!」
「貴様、何をする気だ・・・う、うわぁ!」
辻谷の魂を込めた絶叫が響いた次の瞬間、駆逐艦はなかぜの甲板上にシロナガスクジラの巨体が伸し掛かっていた。
「ははっ、やれば出来るものだな・・・」
辻谷と三名の兵士は突如現れたクジラの身体に押され海中へと投げ出された。満足そうに微笑む辻谷の姿は水底へと消えていったのだった。




