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夏休みは思う存分ゲーム三昧だった。去年は受験生だったから、その反動もあるのかもしれない。
母さんは呆れてたけど、父さんは自分がはまっていたゲームを娘がやってくれるのが嬉しいらしくて、家にいる時は、ニコニコ横で見て時々アドバイスしてくるだけだ。
父さんが、時折私に似合うと思って、と買ってくる洋服は迷惑だけど、それ以外はまあいい父さんだ。母さんの連れ子の私を、父さんと母さんの子供である妹と同じように扱ってくれている。それだけでも、母さんが父さんを選んだのは、見る目があると思っている。
母さんが父さんと再婚するまで、私は佐藤香奈枝だった。
小学3年生の冬までは、私と母さんはU県のお城のそばに住んでいたのだけど、母さんが地元に帰ると言って、O県に引っ越した。そこで、父さんに出会って、熱烈なアプローチをされ、結婚するに至ったのは、びっくりするぐらい短い期間の出来事だった。というのも、父さんの転勤が決まっていたせいで、それについて、私たちは別の県に引っ越すことになったからだ。父さんは転勤族で、何年かに一回転勤があるので、この9年の中で2回転勤したことになる。
父さんも母さんも、良い人たちではあるんだけど、心配性なのだけが玉に瑕で、私が家を出て一人暮らしするのも反対していた。でも、あと4年もここにいるとは限らない、と言うことと、大学のあるO県が母の地元って言うことで、OKが出た。
U県に住んでいる時、小学3年生のもうすぐ夏休みになろうという頃に、私はいじめられるようになっていた。きっかけは、“さとうかずま”だった。同じ佐藤同士で、出席番号が一緒だったから、日直とかを一緒にしたりしていたんだけど、何がきっかけだったのかも思い出せないけど、“さとうかずま”が、私をからかうようになった。
あの、『のぞみかなえたまえ』だ。
最初はただ、からかわれてるだけだったんだけど、わたしが過剰に反応したためか、“さとうかずま”はだんだん、エスカレートしてきた。そのからかいに、他の男子を巻き込むようになり、女子にもそれをするように言いだした。“さとうかずま”は明るくてクラスの中心みたいな男の子だったから、クラスのみんなは従った。夏休みになるまで、私は過剰に反応しては、クラスのみんなを沸かせる立ち位置になっていた。
でも、私は楽しくとも何ともない。
それから夏休みに入って、私は頭を振り絞って、対処法を考え出した。きっと、私が過剰に反応するからいけないんだと思った。だから、皆のからかいに、反応しないようにしたのだ。
それからが、本当に辛い日々の始まりだった。
私が反応しなくなったのを見て、“さとうかずま”はつまらない、と私を見なしたらしい。夏休み前まで皆に私をかまうように言っていたのが、手のひらを返したように、関わらないように言いだした。関わらない、つまりは無視だ。
“さとうかずま”は、先生の前ではいい子だ。だから、先生の前では、絶対に私は無視されない。でも、授業が終わって先生がいなくなると、とたんに私は孤独になる。誰も、話しかけてくれないのだ。
昼休みの間は、図書室に逃げ込んでしまえば、気が紛らわせる。でも、授業の合間の休み時間とか、何かの班を決める時とかには、すごく辛かった。皆、班決めの時には先生がいるから何も言わずに、大人しい子の班に組み入れてはくれる。でも、その班の子も、自分へ無視が飛び火するのを恐れて、ほとんど話しかけられることはない。
それでも、学校を休もうとは思わなかった。それは母さんが女手一つで、私を頑張って育ててくれていることを分かっていたからだ。死んでしまった父さんの分も、私を育てなきゃ、と頑張ってくれていた。看護婦の資格を持っているから、昼間だけのクリニックに勤めて、できる限り、わたしとの時間を作ってくれるようにしていた。
そんな母さんに、心配を掛けたくはなかったから。
それでも、母さんには私の変化が良く分かっていたようだった。時折、何か学校であった? と聞かれる。私はもちろん、何もないよ、と笑って答えている…つもりだった。
2学期が始まってから、私は2か月もたたないうちに、表情をなくしてしまっていたらしい。それは、私が高校生になった頃に、母さんから聞かされた話なんだけど。
流石に無表情になった私に、担任の先生も心配してくれるようになった。でも、自分がそんな目にあっているってことを、母さんには知られたくなかったし、“さとうかずま”のいい子ぶりに騙されている担任の先生に心の内を説明するのなんて、嫌だった。私が何も答えないのを見て、先生も私を追及するのはやめてはくれた。
でも、道徳の授業の時に、いじめの問題を扱うことが多くなって、皆がきれいごとを言うのを聞いて、本当に、何とも言えない気持ちになった。本当にそうだったら、私は無視なんてされてるわけがない。
一向に表情が出てこない娘を見て、母さんは学期末までにO県での職場を見つけてきて、地元に戻る、と宣言した。母さんが、U県から離れなかったのは、亡くなった父さんとの思い出があったからで、それは私も良く分かっていた。
「どうして?」
と尋ねる私に、
「香奈枝が楽しく過ごせる場所に行きましょ。」
とだけ言われた。
私はその時初めて、母さんが私がいじめられていることに気付いていたことに、気付いた。
その時、私はいじめられるようになってから初めて、母さんの前で泣いた。思い出しても、あんなに母さんの前で泣いたのは、あの時だけだ。
その時に、私は決意した。母さんがいつまでも、私を守ってくれるわけではない。だから、自分を変えるしかないんだ。次の所では、もっと、強くなろう。…今の学校で転校の挨拶をする時に、一言、言おう。それを、新しい私の始まりにしよう、と思った。
終業式の日。私の転校の話が伝えられた。担任の先生は、ほっとしているように見える。先生って、最低だ。自分さえよければいいんだな、と、子ども心に思ってしまった。
でも、そんな大人ばかりじゃないことは、母さんを見ていればわかる。でも、苛められたことにしろ、人間を嫌いになるには十分な理由だ。
「じゃあ、転校の挨拶を。」
誰も聞く気がない事は、もうとっくに気付いているだろうに、先生は私に挨拶を促す。
壇上に登って、教室中を見渡す。夏休みの後からは、ほとんど俯いた生活をしていたから、皆の顔をまじまじ見るのは久しぶりだった。中には、後悔したような顔をした子もいる。すごく気まずげに私から目をそらす子もいる。自分は関係ないとでも言いたそうな顔をしている子もいる。ニヤニヤしてる子だって、いないわけじゃない。
どうして、私はこんな子たちを恐れてしまったんだろう。いじめるとか本当にくだらないことしてる子たちなのに。
私は最後に、“さとうかずま”を見た。“さとうかずま”は、私をじっと見ていた。…何か言いたいことでもあるんだろうか。もう、どうでもいいけど。
「佐藤君、嫌な思いをさせたみたいで、ごめんなさい。」
きっかけが何だったのかは思い出せないけど、わたしにも非はあったのかもしれない。だから、謝るのは佐藤君だけでいいはずだ。皆には何も関係ない。
“さとうかずま”は驚いたように私を見る。これで、もう満足した。私の悪かったかもしれないところは謝ったし、もう、これでこの話はおしまいだ。
私がそれだけ言って壇上を降りると、先生が、挙動不審になる。
「先生。母が待っているので、行きます。通知表、下さい。」
先生が慌てて通知表の束から私の分を出す。
「佐藤さん、体に気を付けてね。」
「はい。ありがとうございます。」
他の転校する子の時とは違った、しーんと静まり返った雰囲気の教室を後にする。
皆がびっくりしてて、ちょっと面白かった。
私は、久しぶりに、面白いと言う感情を味わえたことに気付いた。
だから、両親が私を心配しすぎるのは、そんなことがあったから、と言うこともあるのかもしれない。
後期の授業では、ボランティア論は取らなかった。佐藤君がいるからではなくて、元々とる気はなかったし、後期は同じ時間の違う授業を取ることに決めていた。今日は金曜日で、1時限目が終わった頃に、どちらからかメールが来るかもな、と思ったけど、連絡はなかった。それにほっとする。きっと、2人とも夏休み前のことは忘れてしまっているはず。
そもそも、ボランティア論を取ったのは、私が見ず知らずの誰かのために、と言う気持ちになることはないだろうな、という視点で、ああいうのをやろうと思う人の心理をちょっと知りたかっただけだ。自分がしないことだから、覗いてみたかっただけのことだ。
二限目も、今回は教養の授業を取ることにしていた。先輩から、面白いよ、と教えられた美術鑑賞の授業で、もうおじいちゃん先生だからやらないかもしれないけど、と言われてたのだけど、今年も無事に開講されていたので、取ってみることにした。
人間が好きじゃないからって、誰ともしゃべらないわけじゃないし、友達と呼べる人がいないわけじゃない。ただ、あまり深くは付き合わないようにしてるだけで。でも、親友だっている。その親友は、信頼している。
人気のある授業の様で、ちょっと広めの講義室は、結構いっぱいになっていた。講義室の中を見回して、空いている席で座りやすそうなところを探す。端っこはもう一杯だ。
「すいません。」
端の人に声をかけて、中に入れてもらおうとする。
「栗田さん。」
私の左側から名前を呼ばれて、見ると、理人君だった。こんなところで会うとは。
「僕の横空いてるよ。どうぞ。」
理人君が立ちあがる。…流石に動かれると、断れない。
「ありがとう。」
とりあえずお礼を言って、横の席に滑り込む。一つ開けて座りたかったけど、そうすると私の左隣の人とくっつくことになって、違和感ありまくりなので、理人君の隣に座った。
「栗田さん、ボランティア論取らないの?」
やっぱり、聞かれたか。メールで聞くほどではなくても、会えば気になるよね。
「もともと後期は違う授業取ることにしてたから。」
「いないから、佐藤が、栗田め! って言ってたよ。」
…言われる理由は思い当たらないけど。
「一応聞くけど、何で?」
私の言葉に、理人君がクスクス笑う。
「一応って言うところが、栗田さんらしいね。ほら、後期の授業は実践編でしょ。だから、グループ分けしたんだけど、男3人で組もうとしたら、もう一人が、女の子2人がグループに入りたいって言ってきたら、いいよって、軽く返事しちゃって。」
…ああ、そういうこと。
「この授業って、人気あるんだね?」
もう興味はない。話題を変える。
「そうだと思うよ。話してると面白いし。」
…先生と話したことのあるような口ぶりだ。
「先生と知り合いか何か?」
もう、退官した先生だと聞いてる。
「母のゼミの先生で。何度か会ったことがあって。」
「母のゼミって、お母さん、ここの卒業生なの?」
「そう。教育学部の美術専攻で。」
「お母さん、絵を描く人なの?」
自分に絵の才能がない事は知ってるから、純粋に尊敬する。
「まあ、描くけど、趣味に走りすぎてるからね。」
理人君が苦笑する。
「どんな絵なの?」
理人君はしばらく逡巡した後、
「人物画。」
それだけ言って、口をつぐんだ。
言いにくい絵なわけだ。何となく、分かったかも。
「ねえ、さっきから、あそこに座ってるのって、先生じゃないかな、と思ってるんだけど。」
さっき入ってきたおじいちゃんが、ざわざわしてる教室を眺めていた。
理人君が、教室の一番前に視線を向けて、苦笑する。
「当たり。もう声が小さいからって言ってたから、静かになるまで、きっと待つつもりなんだよ。」
理人君はそれだけ言うと、前に視線を向けた。マイクあるのに、と思いつつ、私もそれに倣った。
「あの先生、面白いね。」
講義の時間はあっという間だった。
「そうだね。だから、毎年多いって聞いてる。」
さて、帰ろう。私は立ち上がったけど、理人君が出てくれないことには、出れない。
「理人君、帰らないの?」
「栗田さん。ゲーム、終わった?」
…あの話、まだ覚えてたのか。私もそんな約束すら忘れていた。
「夏休みは、あればっかりやってたからね。貸すよ。携帯ゲームの方で良い?」
知り合いくらいの相手なら、物の貸し借りぐらいは、普通にできる。この間は、顔を知ってる、くらいだったから、貸す気が起きなかったのもある。
「いいよ。いつなら、持ってこれそう?」
「明日でも、良いけど。教養棟くることある?」
「明日は、教養棟は来ないかな。学食とかでは?」
「じゃあ、それで。2限目終わった時間でいい?」
「じゃあ、明日、学食の入り口で待ってる。」
それだけ言うと、理人君が立ちあがった。
「良く、覚えてたね。」
「まあね。」
理人君はなんでもない事のように言って、歩き出す。記憶力が良いからか。
「栗田さん、この後学食行く?」
「ううん。家に一旦帰る。」
この後の授業は4限目で、しばらく何もすることはない。
「家に帰って、こっちに戻って来るのって、面倒じゃない?」
「今やってるゲーム、ちょっと進めたい。」
私の言葉に、理人君が笑う。
「本当にゲーム好きなんだね。」
「まあね。こんなにゲーム三昧できるのも、2年生くらいまででしょ。3年になったら、ゼミとか就職活動とか考えないといけないし。」
1年のうちから就職活動を考えている人もいるって言うけど、個人的に今は勉強と遊びだけでいいんじゃないかな、と思っている。
「理人君も、ゲームにはまってみたらいいよ。」
「栗田さんの話聞くと、楽しそうだったからね。」
「あ、そうそう。注意点が一つ。寝る前にやるのはやめた方が良いよ。」
私はいつも自分が後悔する点を、理人君に注意する。
「何で?」
「貸すゲームは、セーブっていう、どこまで進んだかを記録する場所が限られてて、寝る前にやると、いいところまで進んだのにセーブし損ねた状態で、気がついたら寝こけてて、全滅していることがあるから。あれは、本当に後悔するから、寝る前にやらない方が良いと思う。」
「へぇ。栗田さんは、じゃあ、それ気を付けてるの?」
…きっと理人君、あんまり良く分かってない。返事がなんだかあいまいだ。まあ、貸すときにもう一度教えればいいか。
「それが出来てたら、この注意点は言わないと思うよ。」
私の言葉に、理人君が笑う。
「セーブって、重要なんだね。」
やっぱり、分かってなさそう。
「貸すとき、説明するから。」
「よろしく。」
もう、教養棟の玄関は出て、学食の方向に向かっていた。私の家は、学食の方向から帰る方向にある。
「栗田さんちって、こっちなの?」
「そう。セキュリティーバッチリの家を探してたら、こっちの方向になった。」
両親の意向で。
「経済学部から遠いよね。」
「まあ、そうでもないよ。」
「じゃあ、僕、学食行くから。明日はよろしくお願いします。」
「了解です。」
ひらひらと手を振って、理人君と別れる。




