第一話
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『君との婚約を破棄する!』
最近有名になった物語はどれもこれもこのフレーズばかりが記載されている気がする。
長く息を吐くと女は読んでいた本を閉じて机の上に無造作に積み上げ、机のすぐそばに設けられた窓から外を見た。
朝靄立ち込める空に澄んだ空気、その中を小さな鳥たちが飛び交う。
女はそんな彼らを眺めながらふと思った。
自分も近いうちに物語の主人公たちのように別れを切り出されるのだろうかと。
尤も、自らが言われるとするならば離縁だろうけれども。
そんなことを考えながら物思いに耽っていると部屋の扉が三回、入室の許可を求める音を響かせた。
女はそちらに目を向けた、そのまま無言で待つ。
すると入室の許可を待ちきれなかったのか、はたまた待っても意味がないことを知っているからか、訪ね人が部屋の外から声をかけてきた。
「奥様、旦那様がお呼びです」
ちらりと卓上の置き時計を見る、時刻は朝の七時を示していた。
いつもの時間だ。
「食堂にてお待ちしております」
訪ね人、侍女はそう言うと部屋から離れていった。
足音が遠ざかり、やがて何も聞こえなくなったところで女はするりと夜着を脱ぐ。
そして陽の下に晒されることのない肌をそのままに、三面鏡の前に座った。
鏡の中には真っ白の髪を床につくほど長く伸ばした女がいた。
どこかきつい印象を与える赤い両目は、この女に何の感情も持ち合わせていないことを表していた。
面倒くさいと思いながら、届く範囲の髪を櫛でゆっくり梳いていく。
それを続けることほんの数分間、納得したところで女は引き出しから二つの瓶を取り出した。
女にとって必要なのはこれだけ。
透明な液体を手に取り、顔に押しつける、液体が消えた頃に今度は白い液体を同様に。
そして最後に服を着るのだ。
悩むことなく女がクローゼットから取り出したのは漆黒と言われてもおかしくないような質素なワンピースだった。
クローゼットの中には他にも色様々な服やドレスが入っているが、それらは袖に手を通したことすらない。
興味もない。
女はこれでいいと一人呟くと、部屋の鍵を開けた。
新たな一日に深いため息をつく。
ようやく見慣れた広い階段を履き慣れない靴で転けないようゆっくり降りていくと、目的地の方向から温かい匂いが流れてきた。
今日は魚料理が待っているらしい。
先程女を呼んだ黒髪の侍女が扉を開ける、視線で促され室内に入るとそこには既に短髪の若い男が座っていた。
丁寧に梳かれた髪は侍女に梳いてもらったものかもしれないし、梳く必要すらないのかもしれない。
女の存在に気づいたらしい彼は髪と同じ茶色の目を細めて出迎える。
「おはようメイリー、いい朝だね」
「おはようございます」
この屋敷の主であり、女の夫だという青年が椅子に腰掛けたまま隣の椅子を引いた。
「ここにおいで、一緒に食べよう」
「…」
広い机を無駄だなと思いながら、女は何も言わずにそこへ座った。
使用人たちにより次々と料理が運ばれてくる中、青年の語る世間話を「そうですか」と聞き流して食事を進める。
女には青年の発する甘い音がこの上なくどうでもよかった。
「メイリー」
焼いた魚を食べようとしたところで声をかけられた。
フォークを抜き、皿の横に戻す。
まだパンとスープしか食べていない。
「昨日は何をしていたの?教えてほしいな」
「部屋におりました」
「…そっか」
青年は困ったように笑うと、女の手を握りしめた。
女と比べると随分日焼けした肌であるものの、その色は生まれながらの貴族そのものであった。
彼の手はとても温かい。
「君が屋敷に籠もりっきりで、…心配してるんだ。たまには庭に出てみてはどうかな。君のためにいっぱい花を植えているから…、ああそうだ、昨日新しく花を購入して…」
「……」
よく喋る男だ。
女はため息とともに立ち上がった。
ここにいたら疲れてしまう。
「ご馳走様でした」
「メイリーっ…」
青年の声を無視し、メイリーは食堂を出た。
後ろで青年の慌てる声が聞こえる、おそらく傍に侍る老執事が引き止めているのだろう。
いつものことながら騒々しい。
女は自室に辿り着いたところでその喧騒から逃げるように内側から鍵をかけた。
すると間もなく扉の向こうに人の気配を感じ取る。
その声はとてもか細い。
「メイリー、ごめん…、君の気持ちを考えていなかった…。お願いだから開けてほしい、一緒に朝食をとろう?」
女には理解できなかった。
青年はどうして自分に謝罪をしているのだろう。
なぜ自分と食事をしたがるのか。
分からない。
けれどその後も青年はずっと、ただひたすら謝り続けた。
そして「メイリー、開けてくれ」と。
女はその願いを無視した。
青年はどのくらいそうしていただろうか、不意に老執事の声が聞こえたかと思うと、二人して扉の前から離れていった。
少し遅れて窓の外から馬の嘶きが聞こえたことで、仕事に出かけたのだと気づいた。
ほう、と息を洩らす。
女は扉から離れ、窓際の椅子に座ると、先程読んでいた本を手に取った。
しかし開いてはみたものの、どうもそんな気分にはなれない。
悩みに悩み、女は結局その本をそれ以上読むことを止めた。
元々読書の習慣がなかった女にとって、この本の山はただの風景でしかなかった。
空を見る。
白けた青を鳥たちが縦横無尽に謳歌していた。
そんな彼らを眺めて思った。
青年と結婚してから、もうひと月が経ったのだなと。
メイリーが窓の向こうを眺め始めて暫く経った頃、この部屋に足音が近づいてきた。
「奥様」
黒髪の侍女の声だった。
ちらりと時計を見るとあの騒動から一時間近くが経過していた。
これもいつもどおりの時間だ。
「掃除いたします、鍵を開けてくださいませ」
聞き慣れた侍女の声、年季故か落ち着いた物言いの彼女にメイリーは気がつけばこの屋敷で一番心を開いていた。
扉に近づくとメイリーは鍵を外した。
「失礼いたします」
開けてすぐ侍女の黒い目と視線がぶつかった。
次に目に入ったのは侍女の後ろに立つ別の侍女だ。
「し、失礼します…」
「…」
茶色の髪の少女は暗緑色の目でメイリーを見つめていた。
彼女も黒髪の侍女同様、一ヶ月前から面識のある使用人の一人である。
メイリーは酷く不安げな侍女を一瞥すると、何も言わずに窓際の椅子まで歩いていく。
それは勿論先程まで座っていた、メイリーの定位置となっている場所だ。
空を見上げると、先刻よりも空はうんと高くなっており、一面の青空が広がっていた。
鳥はもう飛んでいない。
「あの、奥様…」
いつもならそのまま掃除を始める侍女たち、しかし茶色の侍女が珍しく声をかけてきた。
首だけで振り向くと彼女は封筒を二つ持っていた。
「お手紙が届いてます」
「…誰ですか?」
「お、王室からです、両方とも」
「…」
一つはパーティーへの招待状だろう。
中身を見なくても同様のデザインの封筒に見覚えがある。
もう一つが何か分からない。
白い封筒に金の縁取り、招待状とはまた別のものだと思うのだが。
「開けてください」
「あ、えっと…」
「…これを使いなさい」
言われることを見通していたらしき黒髪の侍女がエプロンのポケットからペーパーナイフを取り出す。
茶髪の侍女はそれを受け取ると恐る恐る封蝋を外した。
「どうぞ」
差し出されたのは二枚の便箋。
受け取ったメイリーは一番手前の紙に目を運んだ。
『ルーエル・ウエルッカ伯爵ならびにメイリー・ウエルッカ夫人
カンカル・リーエル侯爵及びカインザー・リーエル氏の処刑日時が確定した。翌明日の昼三時執行につき、貴殿らも参加するように』
二枚目を見てみると、そこには処刑の確証となる事象がつらつらと述べてあった。
難しい言葉がずらずらと並べられているが、要略すれば『二人は反国王軍の首謀者であり、謀反を計画していたが実行に移す前に計画がバレて捕まり今に至る』ということが事細かく書かれている。
メイリーは手紙を侍女に差し戻した。
「先程の封筒と一緒に燃やしてください」
「奥様!」
茶髪の侍女が悲鳴のような声をあげた。
掃除を中断した黒髪の侍女が冷静にメイリーを咎める。
「こちらは全家門への招集通知でございます、それを燃やすことは出来ません。また、指名されている以上、奥様は参加しなければなりません」
茶髪の侍女がいつもよりびくびくとしていたのはこれが原因なのだろうか。
だとしても。
「関係ありません」
そう言い切ると、メイリーは窓の外に視線を移した。
「いつものようにお願いします」
侍女二人は何か言おうとしたようだったが、結局それらが音になることはなかった。
仕事に戻る彼女たちをちらっと確認し、窓の向こうに思いを馳せる。
名前を見たからだろうか。
掃除の音に包まれる室内で、メイリーの心はここに来る数ヶ月前のことを思い出していた。
それは春の、寒さが和らいだ午後のことだった。
「エイシャン、いらっしゃい。あなたに夜会のお誘いが来たわよ」
母親らしき女の声が扉の向こうから聞こえてくる。
興奮した声で少女が声をあげた。
「嘘、本当に!行ってもいいの、お母様!?」
「勿論よ、ああ可愛いエイシャン、貴女もついに社交界デビューなのね」
「おお、ついにか」
これが父親だろうか、当たり前のように語りかけている男の声も聞こえてきた。
「カインザーにエスコートしてもらいなさい、きっと二人とも良いパートナーと出会えるだろう」
「ちょっとあなた!私はまだエイシャンを嫁に出すつもりなんてないわよ」
冗談だ、と豪快に笑う父。
拗ねている母。
抱きしめられて苦しいと照れる娘。
そしてそれを微笑ましそうに眺める使用人たち。
屋敷は幸せに包まれていた。
だがそれを少女のある一言が壊す。
「お姉さまと一緒に出たいな…」
「…は…?」
その瞬間、優しそうだった女の声色が変わった。
「エイシャン何を言っているの、貴女に姉なんていないでしょう?」
「そんなこと言わないでお母さま、お姉さまは…」
「ふざけないで!」
狂ったように泣き叫ぶ母親。
「なんで『あれ』を娘だなんて思わなくてはならないの?私のせい?違う、私じゃない?なら誰のせい…」
「落ち着きなさいミーリィ、エイシャンにあたってどうする」
どうやら父親はまだ冷静だったらしい。
母親である妻を宥めながら、娘に優しく語りかけた。
「言葉に気をつけなさい」
「ご、ごめんなさい…」
「ああ違う、エイシャンは悪くないんだ。おまえは本当に優しい子だな」
「お父さま…」
「…でもね、忘れないように。うちの子どもはカインザーとエイシャン、『二人だけ』だ。いいね?」
「…はい」
いつもなら聞くだけだったのに。
メイリーはこの時『初めて』自分の意思で扉を開けた。
そこにいたのは。
廊下で家族の愛を確かめている、寄り添う金髪の親子三人だった。
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