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「ア……ナ、ログ……さん??」
「……え?」
つい声に出してしまった。
『アナログ』なんて苗字、見たことも聞いたこともなかったからだ。
「あ……それは初めて呼ばれた「読み間違い」ですね。「聞き間違い」でしたら、『ナグモ』などは良くありますが」
その名を綴っていた綺麗な指先がふと止まる。斜め上から苦笑いを含んだ柔らかな声が降り注ぐ。ワタシはハッと我に返り、その声の主へと顔を上げた。
「ご、ごめんなさいっ。知ってる人に似てたから、ちょっと名前が気になって……」
慌てふためき謝ったワタシの頬は、一瞬にして熱を感じていた。そう、まさしく「顔から火が出る」みたいに。それは読み方を間違えたからではなく、彼の書類を覗き見たことに気付かれてしまったからだ。
見上げた先にある見覚えのある顔が、「いえいえ、お気になさらず」と言うふうに首を傾げて微笑む。細い銀ブチ眼鏡の向こう、優しそうな瞳がほんのりと弧を描いていく。
「お知り合いに似ているのですね? 世界には自分とソックリな人間が、三人はいると言いますからね」
「あ、ううん……似てるんじゃなくて……アナタだったみたい」
「え?」
驚きの眼がかち合って、瞬間空気の流れが止まる。まじまじと見詰めるワタシと、それを受け止める彼。瞬くことさえ忘れて凝視するワタシの瞳に、目を丸くした彼の姿が映り込んだ。
「僕……ですか?」
「そう」
「僕が貴女の知り合いであると?」
「そう……そう!」
小さなハイテーブルの縁を両手で掴んだワタシは、まるで霧に覆われていた視界が晴れていくような、不確実な要素が確信に変わる瞬間を体感していた! そうそう~思い出した!!
「ね、あそこで働いてるでしょ? 図書館の、えーと、何ていうんだっけ? 勤めてる人のこと!」
「司書、ですね。……なるほど。ですがそれでは『知り合い』ではなく、『顔見知り』といったところでしょうか」
納得したように再び笑んだ彼は、ワタシに答えて……そして補足をした。
そうね、確かに。『知り合い』では、ないもんね。
「まあね。アナタと話したことないワケだし。名前も知らなかったし」
「貴女が図書館で僕を見かけたなら、少なくとも本を貸し出す際に、二三の会話は交わしたかも知れませんよ? どちらにせよ僕のことを覚えていてくれたことには感謝しなければいけませんし、貴女のことを覚えていなかったことは……謝らなければ」
そう言って彼はゆっくり頭を下げた。驚くほど丁寧な姿勢に、そんなことに慣れていないワタシは戸惑う。そして少し恥ずかしかったのかもしれない。実のところワタシは本を借りたことなどないからだ。図書館に通っているのは飽くまでも受験勉強の為。静かな場所と時間をご提供いただいているだけ。と言っても余り勉学ってものに興味のないワタシの目と指は、気付けば参考書の影に隠したスマホの画面に向けられているのだけど。
「でもこれで『知り合い』に昇格でしょうか? 以後お見知り置きを……僕はアナログではなく、名黒と申します」
「ナ……グロ、さん??」
再び──見上げた先にある見知った顔が、「どうぞ宜しく」と言うふうに首を傾げて微笑む。細い銀ブチ眼鏡の向こう、優しそうな瞳がほんのりと弧を描いていた──。