第148話 優しい一日
迎えた土曜日。僕とアルフェは寮の調理場に入り、朝からクッキーを焼いた。
「あっ、少し膨らんできてる。かわいいっ」
天火魔導器に入れた型抜きクッキーを熱心に眺めていたアルフェが、僕を手招きする。言われて見てみると、上手い具合にクリーパー粉が膨張剤の役割を果たしてくれていた。
「ケーキみたいに膨らむのかなって思ってたけど、見た目はクッキーなんだね」
「そうならないか心配だったけど、どうやら上手く行きそうだよ」
初めて使う材料なので、小麦粉二〇〇グラムに対して十グラムとあたりをつけたのだが、我ながら良い感じだ。焼き上がった後の食感が楽しみだな。僕の想定が合っているならば、空気を含んだサクサクの仕上がりになっているはずだ。
アルフェと天火魔導器の窓を眺めているうちに、だんだんと良い匂いが調理室を満たして行く。バターと砂糖が融け合う甘い香りをこうして間近で嗅ぐのは、懐かしいと思えるくらいには久しぶりだ。
「美味しい匂いでいっぱいだね。幸せの匂いがする」
アルフェが僕に身体を寄せながらにこにこと笑っている。
「そうだね」
相槌を打ちながら、こういうのも幸せなんだなと改めて思った。何気ない穏やかな日常をこうして感じること自体、カナルフォード学園に来てから少なくなっていたようだ。そうでなくても、入学前は母の黒石病のこともあって、ずっと気を張っていたのもあるだろうな。
そんな母も黒竜灯火診療院のルドセフ院長の最新の手紙では、黒石病抑制剤が良く効いているようで日常生活に何らの支障が見られないほど回復しているようだ。とはいえ、そう見えるだけであって、実際にはどこでどう黒石病が進行しているかはわからないので油断はできない。
また近いうちに、両親とルドセフ院長に手紙をしたためておいた方が良いだろうな。工学科の選択授業が始まれば、これまでとは違う苦労をするかもしれないし、まだ何があるかわからない。とはいえ、現役の学生が特級錬金術師の資格を持っていることを考えると、実力を隠す必要があまりなさそうなのは有り難いな。
「……リーフ、もうそろそろいいかな?」
香ばしい匂いを漂わせながら焼き上がっていくクッキーを前に、とりとめもなく考えていた僕は、アルフェの声で我に返った。
小麦に近い生成り色の生地の表面には、こんがりとした焼き目がついている。充分に火が通ったそれをミトンを嵌めた手で取り出していると、調理室の外でドタバタと賑やかな足音が聞こえて来た。
「おっ、ここだ、ここ!」
「ベル~、勝手に入っちゃダメだよぉ~」
どうやらヴァナベルとヌメリンらしい。
「匂いにつられて来ちゃったのかな?」
「かもね」
話し方と声の感じで気がついた僕とアルフェは、顔を見合わせて笑った。
「せっかくだから、味見してもらおうか。少し冷めた方が味が落ち着いて美味しいんだけど」
「焼きたて、アルフェも食べたぁい♪」
焼き上がったクッキーを網の上に置いて冷まし、型抜き済みの生地をオーブンに入れる。アルフェは焼きたてのクッキーを嬉しそうに眺め、にこにこと味見用にと丸めておいた端っこをつまみ食いしている。
「ふふっ、美味しい~。ふわっとほどける感じがするよ」
「それはなにより」
アルフェの感想を聞く限り、味も食感もかなり期待出来そうだな。きちんと冷ませば僕が期待しているサクサクとした食感に近づくはずだ。
「離せよ、ヌメ! 寮の設備なんだし、勝手もなにもねぇだろ!」
扉の外では、ヴァナベルとヌメリンが言い合っている。そろそろ食べ頃にはなっただろうから、試食してもらうとしよう。
「だってぇ~、もし、上級生とかだったらぁ~」
「堂々としてりゃいいんだよ! うぉっ!?」
扉を開けると、中の様子を窺おうとしていたのかヴァナベルが前のめりに転がり込んできた。
「誰かと思えば、ヴァナベルとヌメリンじゃないか」
先ほどまでの言動には見て見ぬふりをして、二人を招き入れる。
「リーフとアルフェ!? そこでなにしてんだ?」
「リーフの特製クッキーを焼いてるんだよ」
僕の代わりにアルフェが応え、焼き上がったクッキーを嬉しそうに示す。ヴァナベルは飛びつきそうな勢いでアルフェに――というよりもクッキーに突進し、興奮した様子で僕を振り返った。
「すげぇ! これ、お前が作ったのか!? はぁああ~、滅茶苦茶旨そうだな。なあ、味見させてくれよ」
「もちろん」
二人が来たことに気づいてから元々そのつもりでいたので、快諾してクッキーを渡す。ヴァナベルとヌメリンは大喜びでおかわりして、最初に焼き上がった分の半分を食べてしまった。
「すげーよ、お前、これで学園祭の時に店をやれよ」
そう言えば、学園祭というものがあったんだな。単なるお祭りというわけではなさそうだが、どうせなら楽しいものにしたいものだ。クラス委員長としてなにか役割も与えられるだろうし、これも早めになにか考えておいたほうが良いのかもしれない。
「気に入ってくれたのは嬉しいけど、僕たちの独断で決められることじゃないよ」
「いや、ぜってー、これは売れる!」
「じゃあ、ヌメが買う~」
さすがに半分も食べてしまったことにヌメリンは遠慮してか、名残惜しそうにクッキーを見つめている。
「気が向いたらまた作るよ」
「っしゃぁ! じゃあさ、今度材料を用意しとくぜ! なあ、ヌメ!」
「お任せあれ~」
ヴァナベルだけでなくヌメリンもここまで気に入っているところを見るに、かなり上出来なようだな。そろそろ僕も味見をさせてもらおうか。
「アルフェ、僕にもひとつもらえるかな?」
「うん! はい、あーん♡」
アルフェがにこにこと僕にハート型のクッキーを差し出し、つられて口を開けたその刹那。
「「アルフェの人、それはなんだ?」」
開けっぱなしになっていた調理室の扉の左右から、リリルルが顔を覗かせた。慌ててクッキーを唇で受け取って食べたので、味はよくわからなかったが、食感はサクサクとして思い通りに出来ていたので多分美味しいはずだ。
「リーフ特製のクッキーだよ、リリルルちゃん」
アルフェは特に動じた様子もなく、笑顔で応じている。
「「都会の菓子はこんなに良い匂いなのか……」」
リリルルが物欲しそうに匂いを嗅ぎながら、調理室に入ってくる。ちょうど天火魔導器に入れた生地が焼き上がったので、先ほどと同じように取り出し、網の上に並べて冷ます作業に移った。
「「これが『くっきー』……」」
焼き上がったクッキーをリリルルが凝視している。焼きたての柔らかな湯気に混じるバターと砂糖の香りに、口許がだらしなく開いているのが窺えた。かなり食べたそうだ。
「もしかして、クッキー、見たことない?」
「「リリルルの住まう森は、世間から隔絶された森……。都会からはほど遠いのだ」」
「そんなに……。じゃあ、リリルルちゃんにもあげるね」
アルフェが先に焼き上がった方のクッキーをリリルルに差し出す。
「「ありがとう。親切なアルフェの人」」
リリルルは飛び上がらんばかりに喜び、ステップを踏みながらクッキーを頬張った。
「「おいしい!!」」
普段は大人っぽい格好をしているけれど、目をキラキラさせて喜んでいる姿は、無邪気な子供そのものだ。黙っていれば大人びて見えるリリルルの意外な一面を見た気がするな。
「……そういえば、食堂の食べ物も珍しいものばかりなのかい? 大人しく食べていると思うけど」
少し落ち着いたので、僕も改めてクッキーの味見をしながらリリルルに訊ねる。リリルルは美味しさに目を丸くしながらクッキーを大事そうにほおばると、ゆっくりと咀嚼してから真顔で応えた。
「「リリルルは食べるのに忙しい。おかわり争奪戦に負けるわけにはいかない」」
ああ、なるほど大人しく食べているのはそういう理由だったのか。






