死の淵で
「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ…………」
足を踏み出し、一歩ずつ通路の奥に進む度に、幸仁の吐き出す吐息には濃厚な死の気配が混じり始めていた。
「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ…………っごほ、ごほっ!」
息を吸い込もうにも満足に息が吸えず、空気が毒ガスに変わったかのようにじわじわと息苦しさが強くなっていく。それでも無理やりに息を吸い込もうとすれば激しく咽込み、幸仁は唇の端に血の泡を作り出した。
「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ…………」
遠くから聞こえてくる殺し合いの喧噪が子守歌のように心地よい。
しばらく足を進めてはふいに意識が途切れて、全身を襲う激痛に再び意識を取り戻してはまた歩き出す。
指輪を手にしてからもう、どのくらいの時間が経ったのかが分からない。
あれから数十分、いや数時間。もしくは、まだたったの数分だけなのかもしれない。
変化のない迷路の通路はどこまでも続き、いくら歩いてもその終わりは見えなかった。
「っ、ぁ、――――っ」
それでも、幸仁は前を向き歩き続ける。
満身創痍のその身体を隠すために。
一歩でも他の参加者から離れて、生き残りの可能性を繋ぐために。
〝死にたくない〟というその強い思いだけが、ボロボロになった幸仁の身体を動かす原動力だった。
何度も、何度も。意識を失いながらも幸仁はまた立ち上がり、足を動かし続ける。
――――しかし、それももう限界だった。
「――――――――」
ふらりと身体が揺れて、幸仁は壁にぶつかった。力の入らない身体はそのままずるりと床に落ちて、幸仁は壁を背中にして座り込む。
「ぜぇ……、ぜぇ……、ぜぇ……」
もう、立ち上がる気力さえも無かった。
息を吸い込むのさえも苦しい。心臓が動くたびに耐えがたい胸痛が襲っている。指先のからは血の気が引いて、体温と皮膚の色が奪われていた。
――こんなことになるなら、あのゾンビの能力を取っておくべきだった。
幸仁はそんなことを考えて、細い息をゆるゆると吐き出す。
「…………い、や。あの時にゾンビの能力を取っていたら、それこそ消耗戦、だ」
身に付けた腕時計が常に参加者の心拍数を見ている以上、戦闘になり身体を動かせば必然的に鼓動は早くなる。そしてその鼓動は、戦いが長引けば長引くほどより早くなっていく。
短期決戦ならまだしも、消耗戦はあまりにも危険だ。
そもそも、あの場で誰も頭が吹き飛ばなかったのが奇跡に等しい。
あの場で理沙の能力ではなく、男の能力をコピーしたからこそ決着が長引かず、結果としては『シークレット・リヴァイヴ』というゲームに殺されずに済んだのだ。
「って、言っても……。ここで死んじゃえば意味がない、よな」
幸仁は、唇を噛んで暗闇の中に溶けゆく意識を保とうと必死に抗った。鉛のように重たくなった瞼がもう十分だと囁いているようだった。
幸仁はぼんやりと宙に視線を彷徨わせる。あと、どれだけ時間が経てばこの地獄から抜け出すことが出来るのかと思いを馳せる。
――聞き覚えのある声が幸仁の耳に届いたのはその時だ。
「……広野、くん?」
幸仁はその声に反応して、ゆっくりと視線を向けた。
気が付けば、幸仁の正面には一人の少女が立っていた。
愛嬌のある顔に返り血をこびり付かせ、幸仁にとって見覚えのあるセーラー服を返り血で汚していたその少女は、幸仁にとって忘れられるはずのない少女だった。
「…………鹿野」
小さな声で幸仁は呟く。
――鹿野葉月。あの、ルール説明がされたホールで幸仁が最初に切り捨てたその少女が、感情のない瞳で幸仁を見下ろしていた。
◇ ◇ ◇
「ふーん……」
葉月は、瀕死の状態となっている幸仁を見て興味の薄そうな言葉を吐き出した。
これまでに何人かの参加者と戦ってきたのだろう。彼女の右手には宝箱で見つけ出したと思われる刀が握られていて、その刃は血に濡れてシャンデリアの灯りをぬらりと反射した。
身に付けたセーラー服は血に汚れていて、細かな切り傷がスカートやシャツに付けられてはいるが、引き裂かれた衣服の合間から見える白い肌を見る限り葉月本人には傷がないようだった。
「――――――――」
その姿を見て、幸仁の心にはある種の安堵感が湧き上がった。
――葉月が生きていた。
その事実を確認して、幸仁の心に刺さっていた小さな棘とでも言うべき彼女への罪悪感が少しだけ薄れたような気がした。
「……生きて、たんだな」
幸仁は彼女に向けて弱弱しく笑う。
そんな幸仁の笑みに、葉月は反応を示さずに無言で見つめて、口を開いた。
「死にそうだね」
と葉月が事実を伝えるかのように言った。
「…………まあ、な」
と、幸仁は小さな声で返す。
「肺が、片方……潰れてる。このままだと…………間違い、なく死ぬ、だろうな」
か細い息を漏らした幸仁を葉月は無言で見下ろした。
どこまでも冷たく、どこまでも感情の抜けた瞳だ。死にゆく幸仁の様子を見ても感情は揺れず、まるでそれが当たり前だとでも言うかのように、彼女は淡々とした表情で幸仁を見つめていた。
「ねえ、今どんな気持ちなの?」
と、葉月は短く幸仁に問いかけた。
その言葉に答える必要は無かったが、死が間近に迫っていたからだろう。これが最期だと思うと、幸仁は無性に誰かと話していたかった。
「……最悪、だな」
と、幸仁は葉月の言葉に答えた。
「死ぬのって、怖い?」
再度、葉月は幸仁に問いかける。
その言葉に、幸仁は口の端に血の泡を作りながら笑った。
「そりゃあ、な……。誰だって死にたくないだろ」
言って、幸仁は息を吐き、痛みと呼吸苦に耐えるように顔を歪めて唇を噛みしめる。
それから、幸仁はまたゆっくりと息を吐くと、重たくなった口を開いた。
「……悪かった、な」
「何が?」
「……あの時、鹿野――お前を見捨てて。死にたく……なかったんだ。『シークレット・リヴァイヴ』の説明を聞いて、誰も、信じられなかったんだ」
荒い呼吸の中で、幸仁はぽつぽつと懺悔の言葉を絞り出した。
「……………………」
葉月は何も言わなかった。ただただ、無表情で幸仁のことを見つめていた。
彼女の中に、どんな感情が渦巻いているのか分からない。
けれど、それはおそらくきっと。決して好ましいものではないだろうと、幸仁はそう思っていた。
しばらくの間、二人の間で沈黙が続いた。
その沈黙を、最初に破ったのは葉月だった。
「この先の通路、しばらく進むと下に続く階段があるんだ」
ふいに、彼女がそんな言葉を吐き出した。
葉月は、幸仁の相槌の言葉を聞く間でもなく、一方的に言葉を続ける。
「私のスタート地点は、この館の下に広がる迷路だった。この館に入って、しばらくしてからかな。他の参加者に襲われたの。五十歳ぐらいの、オジサンだったかな。頭の中でイメージした武器を創り出すっていう能力の持ち主だった。…………あの時は、怖かったなぁ。殺されたくなければ、大人しく身体を渡せって言ってくるんだもん」
その言葉の意味は、考えるまでも無かった。
ここは極限の閉鎖された空間だ。加えて、閉じ込められた参加者には力が与えられている。その力を、自らの欲求を満たすために使う者が居たとしても不思議じゃなかった。
「私ね、必死で逃げたの。でも、そのオジサンは追ってくるんだ。どこまでも、どこまでも、どこまでも――――。能力で創り出した刀を振り回して、私の手足を斬りつけて、わざと私が死なないように攻撃してくるの。『大人しくしてれば、あっという間に終わるから』なんて言いながら。…………おかしいよね。大人しくしてても、どうせ私を殺すつもりだったくせに」
その言葉に、幸仁は違和感を覚えた。
けれどその正体に気が付かないまま、幸仁の思考は続く葉月の言葉に向けられる。
「そこでね、私ようやく分かったの。自分の身は自分で守らなくちゃって。『シークレット・リヴァイヴ』っていうこのゲームで自分が生き残りたいのなら、誰かを殺しちゃった方が早いんだって。――誰も信じられない、信じたくない。広野くんが、あのホールで私を見捨てた意味も今なら分かるよ。確かに、このゲームで勝ち残るなら自分以外の足手まといはいらないよね」
葉月はそう呟くと、唇の端を持ち上げた。
それは、幸仁が葉月と再会してから初めて見る彼女の感情だった。
葉月は嗤っていた。薄く、どこまでも冷たく、どこまでも歪んで。到底まともな人間が見せるようなものではない醜悪な笑みを、彼女はその口元に湛えていた。
「――――――っ」
その笑顔に、幸仁は息を止める。
……知っている。幸仁は、その笑顔を知っている。
葉月が浮かべた笑みは、坂上理沙――――あの、殺し合いをした少女が浮かべていた笑みと全く同じなのだ。
餓鬼畜生に堕ちた鬼の笑みだ、と幸仁はすぐにそう思った。
それと同時に、彼女はもう引き返せない道に足を踏み込んだのだと幸仁は理解した。
「……人を、殺したんだな」
と幸仁は囁いた。
「そういう広野くんも、人を殺したんでしょ?」
と葉月は幸仁の言葉に嗤った。
その笑顔には、あのクラスの人気者で誰にでも優しく笑顔で接していた彼女の姿はもうどこにも無かった。
今や、この館の中には醜い人間の感情が空気に溶けだし渦巻いている。どす黒い感情に支配されたその空気を吸い込み続ければ、誰だって変わる。変わってしまう。むしろ、ある種の平和ボケを抱いたままの人間は今この瞬間にはもう生きてはいないだろう。
――さきほどの違和感の正体はこれだろうか。
幸仁はそんなことを考えてゆっくりと息を吐き出す。
彼女の変化を責めるつもりはない。自分だって、生き残るために餓鬼畜生の道へと転がり落ちた。生き残るためには仕方なかった。
「…………それで、お前はどうするんだ。俺を殺すのか?」
幸仁はか細い声で呟く。
その言葉に、葉月が口元に冷たい笑みを浮かべて見せる。
「最初に会った時はそのつもりだったんだけど……。でも、広野くんはもう死にかけなんだよね。正直に言って、それは私にとって困るんだ。私を見捨てた広野くんが、私以外の人に殺されるなんて許せないの」
葉月は、そう言うと言葉を区切り幸仁の目を見つめた。
そこでようやく、幸仁は葉月の口元に張り付いた感情に気が付いた。
侮蔑、嘲笑、優越感。死にゆく幸仁を見つめる彼女が浮かべていたのはそれらの感情だ。けれど、それよりももっとはっきりと彼女が抱いているものがある。
――それは、憎悪。
あのホールで別れる際に、彼女の提案を幸仁は断った。その結果として彼女がどんな思いでこのゲームを生き残ってきたのかは想像するまでも無いだろう。
その憎しみが逆恨みだとしても、彼女にとって広野幸仁は自分を見捨てた敵なのだ。
葉月は口元を歪める。憎しみと嘲笑が混じった酷い笑みを、彼女は幸仁に向ける。
「だから、助けてあげよっか?」
と、彼女は言った。
「……なに?」
「助けてあげるよ。その傷、私が治してあげる。広野くんは、私の手で殺すの。ゆっくり、じわじわと殺してあげるの。そんな死にかけの広野くんを殺しても面白くないから、治してあげるよ」




