第54話 終止符を打つ為に
ただでさえ混乱していた観客席がハイドラの姿を見て、完全にパニックになり秩序が崩壊した。皆、悲鳴を上げながら前の者を押しのけて出口に殺到する。二つしかない出口に一気に人が殺到した為に押し合いへし合いになり、人の波に押し潰されて圧死する者まで出始める始末だ。
そんな大混乱を一顧だにせず、シグルドが私達を指差して何かを喋る。すると逃げ惑う暴徒や衛兵、観客達を等しくまとめて餌食にしていたハイドラが、私達にターゲットを変更して向かってきた。
その巨体からは想像もできないような速さで、ハイドラがこちらに這い寄ってくる。進路上にいた人間は皆、小石のように弾き飛ばされていた。それを見たサイラスが歯噛みする。
「く……! 街に侵攻している連合軍の本隊がここまで来るには、もう少し時間が掛かるな……!」
闘技場の外では相変わらず攻城兵器によって岩弾が撃ち込まれており、既にあちこちから煙が上がり始めているのも確認できる。もし本当にコーネリアスお兄様が連合軍を率いているのなら、必ずや街の駐留軍を打ち破ってここまで到達する事だろう。だがその前に確実に私達はハイドラの腹の中だ。
逃げようにも闘技場中混乱していて、出口である二つの門も閉じられたままだ。あれはアリーナ側からは開けられない仕組みなのだ。だがこの大混乱の中、わざわざあの門を開けてくれるようなお人好しはいないだろう。
そうこうしている内に近くまで這い寄ってきたハイドラの首の一つが、私に狙いを定めて一息に呑み込もうと大口を開けて物凄い速度で迫ってきた。
「……ッ!」
せめて全力で抗ってやろうと剣と盾を構えるが、その時……
「――殿下っ!!」
横合いから駆けつけてくる足音。そして鋭い剣振音。
私に襲い掛かってきたハイドラの首の一つが、片目を貫かれて大きく怯む。私は自分の前に、私を庇うように立ちはだかった者を見て目を瞠る。
「エ、エリクソン卿……?」
そこにいたのは、元エレシエル貴族でもある【闘爵】ブロルであった。刺突剣を構えた完全武装だ。暴徒達と同じく塀を乗り越えて入ってきたのだ。
「殿下! こやつは我々にお任せあれ」
「む、無茶です! ……え? 我々……?」
いくらなんでもこのハイドラを1人で相手取るなど無茶だ。そう思って制止しようとした時、ふと彼の言葉の内容に気付いた。そして気付いた時には……
「ぐるるるぅぅぅっ!!」
唸り声と共に蛇の頭の一つに飛びつく影が……
「ミケーレッ!?」
【獣王】ミケーレだ。両手に鉄の爪を装着し、完全な戦闘態勢だ。蛇の頭に鉄爪で殴りつける。ハイドラが煩わし気に首を振ると、かなりの高さがあるにも関わらずミケーレは飛び退いて、一回転しながら綺麗に着地した。相変わらず驚異的な身体能力だ。
更にそれだけではない。別の首が私に対して襲い掛かってくると、その首にやはり長く伸びた紐状の何かが衝突し、ハイドラを怯ませる。
それは鎖で連結された重錘であった。と言う事は……
私が視線を巡らせるとそこには塀の上に立って流星錘を構えた【流星】のヨーンの姿が。
そしてそのヨーンの両脇からいくつもの影が飛び出しアリーナへと降り立った。
「……!! あ、あなた達……!?」
私は呆気に取られた。降り立った者達もまた私がよく見知った人間であった。
「ふん……サイラスに協力するとは約束したが……。まさかハイドラを相手取る事になるとは思わなかったぞ」
「ケッ! 約束の金貨1000枚じゃ割に合わねぇかもな……! こりゃ報酬を上乗せしてもらわねぇとなぁ?」
「ハイドラか……面白い。相手にとって不足はない!」
【氷刃】のジェラール。【毒牙】のレイバン。そして【戦鬼】ヴィクトールの3人がそれぞれの得物を携えて駆け付けてくる。彼等は即座に私を襲おうとするハイドラの首相手に激しい戦闘に突入する。
私が事態に付いていけず目を見開いていると、更に乱入してくる者が……
閉じられていた『赤の門』が、物凄い力で反対側からぶち破られる。
「な……」
驚いて見やると、扉をぶち破った勢いでそのまま大楯を構えて走ってくる巨大な金属鎧の塊が……
【鉄壁】のアンゼルムだ!
同時に反対側の『青の門』が上にスライドして開く。
「ふん、せっかちな奴らだ。こんなまたとない大一番、堂々と花道を通ってこんでどうする?」
巨大な狼牙棒を担いだ【暴君】ルーベンスが、悠々とアリーナに入ってきた。
「カサンドラ。これは貸しだぞ?」
「あ……」
私が何か言う前に、ルーベンスは狼牙棒を構えてハイドラに突撃していく。勿論アンゼルムも既にハイドラ相手に大楯やハンマーを振り回していた。塀から降り立ったヨーンも、後方から巧みに前衛の闘士達の間を縫って攻撃に参加している。
二つの出口が開いた事で、アリーナに居た他の衛兵や暴徒達が叫びながら我先にと出口に殺到する。彼等はハイドラと戦おうという意思は微塵もないようだった。いや、本来それが普通だ。
「サ、サイラス! どういう事ですか!? ジェラール達は何故……!」
いかに腕利きの精鋭闘士とて、流石にハイドラは手に余るはずだ。彼等は何故命を賭して強大な魔物に立ち向かってくれているのだろう。
「……私が事前に彼等に頼んでいたんだ。これから街を揺るがす大事件が起きる。その時出来ればカサンドラの力になってやってくれないか、とね」
「……!!」
「事は彼等の生活にも関わる重要な問題だ。巻き込む以上……黙っている事はどうしても出来なかった」
ジェラール達は皆この街に邸宅を持ち、裕福な生活をしている街の『名士』でもあったのだ。連合軍のこの奇襲作戦で少なくない被害を被る事になる。いや、もしシグルドの抹殺に成功すれば、この闘技場自体が無くなるかも知れないのだ。
「勿論、反対や密告のリスクはあった。だから私もあらゆる流れを想定して説得の言葉を用意していたのだが……実際には説得の必要もなく、殆どの者が君の力になる事をその場で約束してくれたんだ」
「……!」
「ミケーレとブロルは勿論、ジェラールを含めて他の者達も君との交流で何か感ずるものがあったようだね。皆、君を死なせたくないと思ってくれたんだ。尤もレイバンだけは多額の報酬を要求してきたがね」
「そ、そんな……私、彼等にどう報いたら……」
私を助ける為に、自分達がこれまで築き上げてきた物を失う事になりかねないのだ。そして今現在、レベル8の凶悪な魔物と命がけで戦ってくれている。これは余りにも……心苦し過ぎる。
「そう思うなら、君は何としてでもこの戦争に勝利するんだ。本当にエレシエルを復興させる事が出来たら、どんな恩賞も思いのままだ。そうだろう?」
「……!」
「それに己の身体が唯一の資本である剣闘士自体、いつまでも続けられる商売ではない。もし君が王族に返り咲いて、彼等の働きや実力に見合った地位なりを与える事が出来れば……それが彼等にとっては何よりの報酬となるやも知れないな。レイバンなどはあからさまにそれを期待している様子だったよ」
「…………」
どうやら私にシグルドを斃して王国を復興させねばならない新たな動機が出来たようだ。
とその時、出口に殺到していた人々がようやく掃けた。同時にこちらに向かって駆けてくる新たな人影が二つ……
「ふぅ! ったく、物凄いラッシュだったな! お陰で出遅れちまったぜ」
「兄さんがルーベンスの真似して、変にカッコつけようとするからだろ……」
それは【紅】のエグバートと【蒼】のギャビンのデービス兄弟であった。彼等もまた完全武装していた。
「エグバート、ギャビン……。あ、あなた達も私を助けてくれるの……?」
2人が頷いた。
「ああ。俺達は【ウォリアー】ランクだが、兄弟2人揃えばあいつら【グラディエーター】1人分よりも戦力になるぜ?」
「それにあの化け物を野放しにしておいたら、このアリーナを乗り越えて街に出てしまうかも知れないしね。そうなったら街の人々にも連合軍にも甚大な被害が出てしまう。何としてもここで仕留めないと」
それは確かに懸念であった。あの巨体なら楽に闘技場の外に出てしまえるだろう。デービス兄弟も参加してくれるなら味方側の戦力も増え、ハイドラへの勝率も上がるかも知れない。
「行くぜ、ギャビン!」
「ああ。【グラディエーター】の連中に僕等の力を見せてやろう、兄さん!」
兄弟は勇んで、ハイドラと闘士達が戦う戦場へと突撃していった。
それを見て取ったサイラスが私を促す。
「さあ、行こう! ここは彼等に任せて、君は君の為すべき事をするんだ!」
「……ッ! は、はい!」
私は頷き強大な魔物と精鋭闘士達が死闘を繰り広げる音を背に、開かれた出口へと走った。一度だけ主賓席の方を見上げると、そこには既にシグルドの姿もクリームヒルトの姿も無かった。
私は奥歯を噛み締めた。剣と盾を握る手に力が籠る。
思ってもみなかった展開だが、自分の使命を自覚した今の私には不思議とシグルドを恐れる感情は無かった。同時に胸の内で渦巻いていたシグルドへのどす黒い憎悪の感情も無くなっていた。
これは……戦争なのだ。ただ自分が死にたくない、相手が憎いという個人の感情ではなく、もっと根本的な、大局的な部分に於いて、私とシグルドは相容れない存在なのだ。
お互いにどちらかを滅ぼすまで戦いは終わらない。だから、これは戦争なのだ。
そうして私はこの戦争に終止符を打つ為、サイラスと共に出口を潜り抜け建物内へと突入していった……
次回は第55話 英雄の泣き所
クリームヒルトを庇いながらで思うように戦えず苛立つシグルドは、
とりあえず彼女を帝都まで送り届けようとするが――!?




