ささやき
猫実さんがふと顔を上げて、周りを見る。夜桜先輩はドアの方に注目した。
「よっ、勉強頑張ってるね」
ひらりと、白い白衣と、黄色いフレアスカートが揺れた。顧問の、金子 瞳。金子先生である。
「そろそろ帰ろうか。」
金子先生は、今風に切ったショートヘアーを揺らして、大人の顔を綻ばした。
1日も終わりが近い。
金子先生の愛車「シエン太」に乗せてもらい駅に向かう。なんだか、一仕事終えた後のご褒美みたいだ。巧は誇らしい気持ちで景色を眺める。
「巧さん、シートベルトしました?」と心配かけてくれる猫実さんの声も、どこか弾んでいる。
まだ日の入りから間もない頃で、遅くなってもまだオレンジ色の層が空に残っている。雲は、空の色と影を染み込ませて、ビルに切り取られた空に横たわっている。
ふと、巧が猫実さんの気配を感じた瞬間、彼女がなにかをつぶやいた。
それは、それは届かずに消えた。
彼女の声が小さかったからではない、そう瞬時に察した。
巧は、猫実さんの顔を見返した。そんな時、自分はどんな表情をしているのだろうか。解るはずもない問いがよぎる。もし、顔に心情がでてしまっているのなら、なるべく悲しい顔をしないように巧は努力した。怒らないように、気を沈めた。何度もくり返してきたように、自分を抑えることに専念した。
皮肉なものだと、思った。どうして、隠さなくてはいけないのだろう。自分が本当に知ってほしいことなのに。
車が少し揺れる。夜桜先輩と金子先生が話す声だけが聞こえた。
まるで、ちゃんと流れていた糸が突然絡まってしまったかのようだ。ほぐそうとしても、巧をあざ笑うかのように事態は複雑に、しかし確実に違和感を残していく。
「ご、ごめん、聞こえなかった。」
巧は申し訳なさそうに、うつむいた。
しかし完全に忘れていたわけではなかった。
耳元でも、ささやき声は聞こえない。そう説明する余裕がなかった。
「あのー、うれしいですねって、言ったんです。」
「あ、はい。うれしい、、、ですね」
巧が、何かを紛らわすかのように猫実さんにグーサインを返す。
伝えようとしてくれれば、声も大きくなるし念も押されるからわかりやすい。
何気なく発された言葉の方が、巧にとっては相対的に受け取りにくくなってしまうのだ。
ただ、うれしいと言い合うことは、なんでもないことかもしれない。でも、その「なんでもない」ことがきつく巧の心を苦しめた。
「猫実さんも、お疲れ様です」
何気なく、繋げた台詞はぎこちなくて後で思い返すと恥ずかしさや惨めさで汚れていた。




