書きたいことがある
案の定、ついた劇場もチケット売り場に長い列ができていた。柔らかい映画館の床を革靴で感じながら、列に並ぶ。巧はこうして並ぶのも久しぶりだなぁと思う。夜桜先輩もこういう時はみんなと同じように並ぶのだと少し安心した。超然とした雰囲気が、賑やかな映画館とミスマッチで面白い。あんまりジロジロ見ているとにらみ返されるが。
「えっと、席、前と後ろどっちがいいですか。私は前がいいです!」
と猫実さんが話題を振ってくれた。
「ネコは、首疲れないの?」
「やっぱり、大きい画面を味わいたいのです。」
「それなら、遠くから見た方が大きく感じるでしょ。」
「へっ、、、。確かに。」
先輩の発想が意外だったらしく猫実さんは目からうろこという顔をする。
「でも、やっぱり、、、。あっ、巧さんはどっち派ですか。」
突然、目をつけられて巧はあわてる。完全に油断していた。「あっ」て何だ。
巧は急いで頭を回す。
「前、ですかね。」
「何で?」
夜桜先輩が問い詰めてきた。
「心なしか、前の方が音が大きい気がするんです。」
「、、、。」
やっぱり気まずくなるじゃないかと巧は、少し後悔した。
「でも、いつも授業は一番前で受けているし、小学校からそうだったんで。」
「申し訳ありません。」カウンターの人が頭を下げた。
先輩と何やら話をしている。
「巧さん、今日、人気で三人続きの席がないんですって。」
猫実さんが、事情がわからない巧に説明してくれる。
「申し訳ありませんが、こちらの席が空いているんですが、どうされますか。」
パッと、ディスプレイに表示された図を見て、巧は目を疑いそうになった。
前から三列目のところに二席空いていて、後ろの方に一つ空いている席があった。
「いいよね、これでも。」夜桜先輩が判決を下した。
このせいで、巧は何だか落ち着かない気持ちで昼食のスパゲッティを食べることになった。
二人で座って会話が途切れたりしないだろうか。
巧は、映画が始まるまでのたった数分の待ち時間を気にする。
ギリギリまで映画館に入らないのもあるか。でもそれは逆に失礼か、、、。
いつものお助け部で依頼人を待っている時間のように過ごせばいいのだ、と自分の心を落ち着かせようとする。しかし、荒ぶった気持ちは一向に言うことを聞くそぶりを見せない。
その間女子二人は、「すごい人気ですねぇ。」「席離れちゃうけど元気でね。」「終わったらカフェ行きません?」などと、めくるましく移り変わる会話を繰り広げている。
「ねえねえ、巧さん。」
「はいっ。」
いきなりの飛び火に心臓が跳ね上がる。
「ペペロンチーノって何語かなぁ。」
昼食を食べ終わって再度、映画館のところに戻ると、ちょうどいい時間になっていた。
「巧さん、ポップコーンとかいりますか。」
「いらないです。」
「あら、ちょうどよかった。私も映画は徒手空拳で集中して見る派です!」
猫実さんの気合に後ずさる。すると次の瞬間には「あ、トイレ行ってきます。」と走り去ってしまった。
「頑張れよ。」
巧の方に、トンと先輩の手が置かれる。そう行って先輩も猫実さんを追いかけていった。
頑張るって何をですか、と逆に聞きたい。
会場とともに通路を歩いて映画館に入っていく。たくさんの人が劇場になだれ込む。
これが、人気映画監督の実力なのだ、と巧は思い知る。自分以外の人々もこの映画をとても楽しみにしている様子がわかる。自分が目指しているところは、こんな風に作品を世に届けることなのかもしれない。見てくれる人が、ワクワクするような作品を作ること。言ってしまえば簡単なことなのだが、それに至るまではどれだけの道のりがあるのか全くわからない。
大きなスクリーンが人々の声を吸い込むように、雑音が少し低くなった。高い天井が広がっている。映画館のこの静けさが落ち着いて、好きだと巧は思う。
「じゃあ、終わったらね。」と言って、夜桜先輩が後ろの方に登っていった。
「えーと、Cの6と7ですね。」
アルファベットをつぶやきながら、猫実さんがスクリーンに近い方の席にトントンと降りていく。巧もそれについてゆく。ほのかな緊張と興奮が段を降りるたびに高まってくる。まるで、劇場の深いところに、それらの感情が溜まっているかのようだ。非日常が体を包んでゆく。
柔らかい席に着くと、思ったよりも大きいスクリーンに驚いた。隣で猫実さんは嬉しそうな表情をしている。なぜだか、それだけで巧も心が安らぐ。
やがて大きな音とともにスクリーンに映像が流れて予告が始まる。巧はこの瞬間にどれだけ映画が「聞こえるか」がわかる。ちらりと、右隣に座る彼女の方を見た。予告編までも楽しいのか、夢中でスクリーンに見入っている。
彼女の真剣で素直な雰囲気を感じると、なぜか眩しいような気持ちになる。
この人は、これからもどんどん先に進んでいくのだろうな。
巧はそう思った。お助け部も、きっといろんな仕事ができるようになるし、猫実さんもきっと小説が書けるようになる。
自分にはない、輝きであふれる彼女のそばにいると、自分の無力感もかえって目についてしまいそうだった。けれど、それに打ちひしがれるつもりはない。自分には何ができるのか。そう問われている気もするからだ。
猫実さんの横顔がスクリーンから反射する光に照らされている。画面の動きにあわせて、彼女の顔立ちが作る影の陰影が変わっていく。そして視線に気が付いたのか、猫実さんがこちらの方を見た。
不思議な沈黙が流れる。
猫実さんが少し微笑むと、巧もそれを真似した。いつもの、猫実さんの笑顔だった。
何か自分が話すのを、待ってくれているのだろう。誰かのこうした細かい気配りに気が付けるようになるまで、ずいぶん時間がかかった。
とりあえず、彼女の名前を呼ぶ。
それから、少し考えて話すべき話題があると気がついた。それがきっかけになって、話したいことがたくさんあふれてきた。あふれてくる感情から、目を背けるように巧は言葉を一つ摘んで猫実さんに差し出す。
「あの、小説、読んでくれましたか。」
消え入りそうな声になってしまった。もし自分がこんな声で話しかけられたら、きっと聞き取れないだろうと思う。
毎日、夜一人きりで書いた文章を人に読んでもらう。自分が、美しいと思っていたもの、自分が素晴らしいと思っていたものが客観視され、冷たい目で批評される。
「あー、、、。」
いつもは打てば響くような彼女なのだが、この時は違った。
「私、巧さんが考えていることが少しわかった気がします。」
それは、答えになっていないと言いたくなったが、呑み込む。落ち着いて言葉に集中する。聞き逃さないように彼女の目を見る。
「あの、間違ってたらごめんなさい。
でも私はこの人は何か書きたいものがあるって、だから小説を書いているんだって、、、。
違いますか。」
「書きたいものがある、、、。」
「ええ、私、こう言う風な視点で巧さんの小説を読んでなかった。今まで面白いかどうかばかり気にして。でもそれって『正しい』読み方なのかなとか、気になります。」
「でも、そうやって考えてくれるのはすごく、嬉しいです。」
巧は、心が軽くなってくるのを感じた。もっと小説が書きたいと、思った。